「お凜さん」
尊はいてもたってもいられず、ハイライトをもみ消しているお凜さんを呼んだ。
「ん?」
「あの、ここのオーナーって誰なんですか? もしかして、お凜さんですか?」
「馬鹿言うんじゃないよ。あたしはバイオリン教師だと言ったじゃないか」
お凜さんが呆れたように笑う。
「ここのオーナーはね、そこにいる真輝だよ。あの子一人でこの店を切り盛りしているんだ」
「え?」
思わず真輝を見ると、彼女は詩織となにやら楽しげに会話しているところだった。どう見ても二十代という若さで、しかもたった一人で店を経営しているのが、尊には驚きだった。
「昔は何人かバーテンダーがいたが、みんなそれぞれ事情があって今はいない。一人で大変だろうとは思うけど」
そんな言葉を聞きながら、尊はある決心を胸に、カウンターの下で拳を握りしめていた。
詩織はカクテルを一杯だけ飲み干し、会計を済ませた。
「それじゃ、またね」
「えぇ。あとで結婚式の打ち合わせをしましょう。ありがとうございました」
扉の向こうまで詩織を見送った真輝がバーに戻ってくるのを見計らって、尊は勢いよく席から立ち上がった。
「真輝さん!」
声が上擦っているし、お凜さんも真輝も目を丸くしている。
「どうしました?」
尊の握りしめた拳が緊張で震えた。だが、思い切って、大声を張り上げた。
「真輝さん、俺をここにおいてください!」
「えっ?」
真輝さんの口がぽかんと開いた。隣ではお凜さんが煙草の灰が落ちるのも気づかず、呆気にとられていた。
『怯むなよ、俺』と、尊は自分に言い聞かせる。
琥珀亭は今まで彼が知らなかったもので溢れていた。昂揚感も憧れも、いてもたってもいられない興奮も、そして誰かに見惚れるというのがどういうことかも、すべて真輝が教えてくれた。どうにかして、この場所に立ちたかった。
「俺、今までこんな風にこの仕事がしたいなんて思えたことないんです。俺にとっては最初で最後の出会いかもしれないんです」
頭で考えなくても、口から勝手に言葉が滑り出る。心のまま行動する自分に自分で驚きながら、それでも想いが溢れて止まらなかった。
「真輝さんみたいに、お客さんを笑顔にできるバーテンダーになりたいんです。いえ、なってみせます」
あんぐりと口を開けたまま、真輝は「はぁ」と呆けたような声を漏らした。
そのときだ。
「はっはっは! 面白いことになった」
小気味よい笑いを飛ばしたのは、お凜さんだった。彼女は目を輝かせて、火のついたハイライトをゆらゆら揺らしている。
「さて、オーナーはどうでるのかな?」
尊とお凜さんの視線が真輝に集まった。彼女は困ったように、眉を下げている。
「あの、後日連絡する形でもいいですか?」
彼女を困らせていると気づき、尊はいたたまれなくなってきた。
「はい、それでお願いします! あの、会計いくらでしたっけ?」
「え? あぁ、今日は千円になります」
ますます困惑する真輝を尻目に、尊はあたふたと財布から抜き出した千円札をカウンターに置く。そして足早に、彼女の横をすり抜けるようにして扉に向かった。
「じゃ、あの、すみません、困らせて。よろしくお願いします!」
上擦る声でそれだけ言うと、脱兎のごとく店を出た。
そのまま家まで駆け足で帰りながら、自分で自分に驚き呆れる。募集してもいない店に雇ってくれなどと突然申し出て、あげく逃げるように出てきてしまうなんて、普段の自分では考えられなかった。
「あぁ!」
思わず足を止め、尊は頭を抱える。自分の連絡先を教えていないことに気がついたのだ。
「はぁ……こりゃ駄目だ。俺、何してんだろう」
絶望感にさいなまれ、背中を丸めながら家に帰ると、風呂にも入らず布団になだれ込んだ。
だが、尊に悔いはなかった。自分の情けない事情はお凜さんから聞くだろうし、それで駄目なら観念できる気がした。
あそこで働きたいのは、自分が変わりたいからという理由だけではなかった。彼はすっかり琥珀亭が好きになっていたのだ。
店に入るだけでほっとできる場所なんて、彼は他に知らなかった。もし、自分がカウンターに立つことで、誰かが同じように思ってくれたなら、それはとても嬉しいことじゃないかと思えた。
目を閉じると、シェイカーを振る真輝の凛々しい姿が浮かぶ。詩織の笑みに目を細める優しい顔も。
「俺……あの人が見ているものを見たいんだな」
思わずそう漏らすと、彼の胸が締めつけられた。
バーテンダーの仕事に感動したのは事実だ。だが、なにより『赤い月が綺麗だ』と評する真輝のことをもっと知りたかった。仕事のためにどんな努力をしてきたのだろう。あのバーテンダーの服を脱ぎ捨てたとき、彼女はどんな人間なんだろう。
彼女の隣に立って、同じ場所からいろんな物を見たい。そして、彼女がどんな風に感じて動くのか、知りたい。赤い月のように、きっと自分とは違うものが見えているはずだ。
そこまで考えると、彼は枕に顔を埋めた。
「……参ったな」
惚れやすい性分ではなかったはずだが、いつの間にか心の中が真輝で溢れている。
絶望的なのは、採用を拒否されたら、もう会えなくなるということだった。あれだけ無茶を言い出したのをなかったことにして店に通い続けるなんて、到底できそうにもない。会わせる顔がないんだから、失恋も確定だ。
もっとも、採用されたところで、彼女がこんな自分を相手にするかもわからないし、フリーなのかもわからないのだ。
そのまま一睡も出来ず、長い夜になった。
尊はいてもたってもいられず、ハイライトをもみ消しているお凜さんを呼んだ。
「ん?」
「あの、ここのオーナーって誰なんですか? もしかして、お凜さんですか?」
「馬鹿言うんじゃないよ。あたしはバイオリン教師だと言ったじゃないか」
お凜さんが呆れたように笑う。
「ここのオーナーはね、そこにいる真輝だよ。あの子一人でこの店を切り盛りしているんだ」
「え?」
思わず真輝を見ると、彼女は詩織となにやら楽しげに会話しているところだった。どう見ても二十代という若さで、しかもたった一人で店を経営しているのが、尊には驚きだった。
「昔は何人かバーテンダーがいたが、みんなそれぞれ事情があって今はいない。一人で大変だろうとは思うけど」
そんな言葉を聞きながら、尊はある決心を胸に、カウンターの下で拳を握りしめていた。
詩織はカクテルを一杯だけ飲み干し、会計を済ませた。
「それじゃ、またね」
「えぇ。あとで結婚式の打ち合わせをしましょう。ありがとうございました」
扉の向こうまで詩織を見送った真輝がバーに戻ってくるのを見計らって、尊は勢いよく席から立ち上がった。
「真輝さん!」
声が上擦っているし、お凜さんも真輝も目を丸くしている。
「どうしました?」
尊の握りしめた拳が緊張で震えた。だが、思い切って、大声を張り上げた。
「真輝さん、俺をここにおいてください!」
「えっ?」
真輝さんの口がぽかんと開いた。隣ではお凜さんが煙草の灰が落ちるのも気づかず、呆気にとられていた。
『怯むなよ、俺』と、尊は自分に言い聞かせる。
琥珀亭は今まで彼が知らなかったもので溢れていた。昂揚感も憧れも、いてもたってもいられない興奮も、そして誰かに見惚れるというのがどういうことかも、すべて真輝が教えてくれた。どうにかして、この場所に立ちたかった。
「俺、今までこんな風にこの仕事がしたいなんて思えたことないんです。俺にとっては最初で最後の出会いかもしれないんです」
頭で考えなくても、口から勝手に言葉が滑り出る。心のまま行動する自分に自分で驚きながら、それでも想いが溢れて止まらなかった。
「真輝さんみたいに、お客さんを笑顔にできるバーテンダーになりたいんです。いえ、なってみせます」
あんぐりと口を開けたまま、真輝は「はぁ」と呆けたような声を漏らした。
そのときだ。
「はっはっは! 面白いことになった」
小気味よい笑いを飛ばしたのは、お凜さんだった。彼女は目を輝かせて、火のついたハイライトをゆらゆら揺らしている。
「さて、オーナーはどうでるのかな?」
尊とお凜さんの視線が真輝に集まった。彼女は困ったように、眉を下げている。
「あの、後日連絡する形でもいいですか?」
彼女を困らせていると気づき、尊はいたたまれなくなってきた。
「はい、それでお願いします! あの、会計いくらでしたっけ?」
「え? あぁ、今日は千円になります」
ますます困惑する真輝を尻目に、尊はあたふたと財布から抜き出した千円札をカウンターに置く。そして足早に、彼女の横をすり抜けるようにして扉に向かった。
「じゃ、あの、すみません、困らせて。よろしくお願いします!」
上擦る声でそれだけ言うと、脱兎のごとく店を出た。
そのまま家まで駆け足で帰りながら、自分で自分に驚き呆れる。募集してもいない店に雇ってくれなどと突然申し出て、あげく逃げるように出てきてしまうなんて、普段の自分では考えられなかった。
「あぁ!」
思わず足を止め、尊は頭を抱える。自分の連絡先を教えていないことに気がついたのだ。
「はぁ……こりゃ駄目だ。俺、何してんだろう」
絶望感にさいなまれ、背中を丸めながら家に帰ると、風呂にも入らず布団になだれ込んだ。
だが、尊に悔いはなかった。自分の情けない事情はお凜さんから聞くだろうし、それで駄目なら観念できる気がした。
あそこで働きたいのは、自分が変わりたいからという理由だけではなかった。彼はすっかり琥珀亭が好きになっていたのだ。
店に入るだけでほっとできる場所なんて、彼は他に知らなかった。もし、自分がカウンターに立つことで、誰かが同じように思ってくれたなら、それはとても嬉しいことじゃないかと思えた。
目を閉じると、シェイカーを振る真輝の凛々しい姿が浮かぶ。詩織の笑みに目を細める優しい顔も。
「俺……あの人が見ているものを見たいんだな」
思わずそう漏らすと、彼の胸が締めつけられた。
バーテンダーの仕事に感動したのは事実だ。だが、なにより『赤い月が綺麗だ』と評する真輝のことをもっと知りたかった。仕事のためにどんな努力をしてきたのだろう。あのバーテンダーの服を脱ぎ捨てたとき、彼女はどんな人間なんだろう。
彼女の隣に立って、同じ場所からいろんな物を見たい。そして、彼女がどんな風に感じて動くのか、知りたい。赤い月のように、きっと自分とは違うものが見えているはずだ。
そこまで考えると、彼は枕に顔を埋めた。
「……参ったな」
惚れやすい性分ではなかったはずだが、いつの間にか心の中が真輝で溢れている。
絶望的なのは、採用を拒否されたら、もう会えなくなるということだった。あれだけ無茶を言い出したのをなかったことにして店に通い続けるなんて、到底できそうにもない。会わせる顔がないんだから、失恋も確定だ。
もっとも、採用されたところで、彼女がこんな自分を相手にするかもわからないし、フリーなのかもわからないのだ。
そのまま一睡も出来ず、長い夜になった。