午後の日差しが溢れる外へ出ると、真夏の重い空気がまとわりついてくる。CDを持つ手まで汗ばんでいる気さえした。
 ふと、お凜さんの一瞬だけ見せた困った顔を思い出す。そして、マスターが言っていた『ひどい事故』という言葉が脳裏をよぎった。
 人には、触れられたくない傷があるんだな。なんとなく、尊はそう感じていた。

「今日もお凜さん来ませんでしたね。顔を出すって言ってたんですけど」

 喫茶店で会った翌日、尊は店を閉めながら真輝に声をかけた。だが、真輝は肩をすくめるだけだ。

「毎年、発表会の時期はこうなんですよ。元々、来るときには来る。来ないときには来ない。保障がないのが水商売ですから」

 そうだとしても、尊には寂しく思えた。たった数回しかここで会っていないのに、あのカウンターの端に彼女の姿がないと妙にしっくりこない。
 お凜さんは不思議な人だった。そこにいるだけで周りの人々をほっとさせてしまう。彼女の器の大きさがそうさせるのかもしれないと、尊は人知れず微笑んだ。

「あぁ、尊さん」

 その夜の帰り道、真輝がこう切り出した。

「明日なんですけど、実は用事があって店に出れないと思うんです」

「えっ? じゃあ、店はどうするんですか?」

「一人でお願いできます?」

「えぇ! 俺、まだ満足に氷もうまく割れませんよ? カクテルもジントニックくらいしか作れませんよ。それに酒の値段も覚えてないし……」

 大慌ての尊に、真輝が吹き出した。

「大丈夫ですよ。助っ人が来ますから」

「助っ人?」

「えぇ。とっても腕のいいバーテンダーです」

「あ、よかった」

 心底ほっとすると、何気なくこう訊いた。

「でも、真輝さんどこに行くんですか?」

 すると、彼女は「すみません」と呟く。

「毎年、この時期と秋にはそこに行かなきゃならなくて」

 その横顔を見たとき、何故か尊は胸を詰まらせた。
 彼女の伏し目に帯びた影は寂しそうでもあり、切なそうでもあり、その表情に尊まで呼吸が苦しくなるようだった。

「あの、大丈夫ですよ」

 思わず、励ますように力強く言う。

「心配しないでください。俺、全力で留守を守ってみせますから」

 口から出任せもいいところだが、彼女のそんな顔を見たくなかった。顔を上げた真輝が、ふっと目を細める。

「ありがとうございます」

 それは、噛みしめるような言葉だった。
 真輝は部屋に入る前に、こう言った。

「明日、開店時間に上杉という者が行きますので。うちの店のことはよく知っているので、心配いりませんから。申し訳ないんですが、よろしくお願いします」

 開店時間に来るということは、お通しは尊が用意しなくてはならないということだ。
 尊は「わかりました」と頷き、上杉という人物への期待と不安を胸に部屋に入っていったのだった。