それから三日後の昼下がり、尊はかつてバイトしていた喫茶店のカウンターにいた。

「尊君、ほら、一杯サービスするから元気出して」

 そう言ってコーヒーを差し出してくれたのは、髪も髭も眉も白い年配の男性だった。

「マスタ−、ありがとうございます」


 情けない顔をしている尊に、彼が皺だらけの顔にもっと皺を浮かべて笑う。

「琥珀亭は大変そうだね」

「俺、自分の出来なさ加減に呆れてますよ」

 あれから日が経つごとに、無力さだけが募っている。

「氷はうまく割れない。メジャー・カップを持つ手が震えて、酒をグラスに入れようとしてもこぼれちまう。あの長いバー・スプーンも使えない。でも、俺が一番辛いのは、真輝さんが俺を叱らないことなんですよ」

「ほう」

「こう、菩薩みたいな穏やかな顔で何度も『もう一度』って言うんです。出来るまで延々と。優しい響きだけど、有無を言わさない感じで、それがまた余計申し訳なくて」

「なるほど、それは叱られたほうが気が楽そうだ」

「でしょう?」と、尊は苦笑して真輝の真似をし出した。

「肩の力を抜いてください。バー・スプーンは回そうと思わず、スプーンの背でグラスを撫でるイメージで」

 そして、がっくりと肩を落とす。

「でもさ、マスター。回そうと思わなかったら、どうやって回るんだろう?」

 マスターが愉快そうに笑っている。

「なんだか、真輝さんは先代そっくりになってきたね」

「マスター、真輝さんのおじいさん知ってるんですか?」

 目を丸くすると、彼はふくよかな腹の上で腕組みをして頷いた。

「あぁ、実は私はね、先代が琥珀亭をやっていた頃の常連だったんだよ」

「へぇ。それでお凜さんを知っていたんですね」

「まぁね。今は身体を壊して酒をやめてしまったけれどね。あの頃は楽しかったなぁ」

 尊は彼の細められた目を見つめた。いつもは穏やかなマスターの瞳が、ちらりと少年のような輝きを宿したからだ。

「先代はね、そりゃあ男前だったよ。粋な人でねぇ。お凜ちゃんは彼の奥さんと親友だったんだ」

 あのお凜さんを『お凜ちゃん』と呼ぶことに微笑みながら、尊は黙って耳を傾けていた。

「そういえば、さっき電話があってね。尊君を探していたみたいだよ。ここにいるって言っておいたから、そろそろ来るんじゃないかな?」

「へ? 俺を? なんだろう?」

「さぁね。お凜ちゃんは昔から何を考えているのかわからないよ、私には」

「お凜さん、昔からあんな風なんですか」

「あぁ。自由気ままで活発でね。真輝さんのおばあさんはおしとやかな人だったから、あの二人が親友というのも意外な気がしたけれどね。きっと、逆だったからよかったのかもね」

「もう亡くなったんですよね、先代って」

「あぁ、あれは悲しかったね。ひどい事故だったんだよ」

「事故?」

「うん。ニュースにもなったんだけどね。真輝さんの……あぁ、いらっしゃい、お凜ちゃん」

 マスターの言葉は途中で遮られた。店中に乾いた呼び鈴の音が響かせて、お凜さんが入ってきたからだった。

「久しぶりだねぇ。何がきっかけでまた顔を合わせるかわからんもんだ」

 彼女はバイオリンケースを手にマスターへ挨拶すると、尊に顔を向けた。

「尊、元気かい。どうだ、仕事は?」

「落ち込んでますよ」

 苦笑すると、彼女は大きな口を開けて笑い飛ばす。ケースを床に置き、尊の隣に腰を下ろした。

「マスター、マンダリンを」

「はいよ」

 マスターが厨房に消えていくのを見送ると、お凜さんはショルダーバッグから何枚かのCDを取り出した。

「ほれ」

「なんです?」

「ジャズだよ。お客さんとの会話の種になるかもしれないからね。いろんな音楽を知っておくといい」

「あ、ありがとうございます」

 尊は藁にもすがる想いでそれを受け取った。

「本当、出来ることなら何でもしますよ。何を話していいか、わからなくって困ります」

 お凜さんはハイライトを取り出しながらにっと笑う。

「話すのはお客さんであって、あくまで主役は客さ。あんたは話を引き出して、膨らませて楽しませればいい」

「それが難しいんですよね」

「まぁ、いろんな話題にある程度ついていけるようにしとけばいいんじゃないか? ただ、詳しすぎてもいけないし、知らなければ教えてもらえばいいんだし。考えすぎだよ」

 マスターがマンダリンの入ったカップを差し出しながら笑う。

「お凜ちゃん、相変わらず世話焼きだね」

「懲りない性分でね」

 マスターとお凜さんは笑みを交わす。旧知の二人だからできるやりとりに見えて、尊はうらやましかった。いつか、自分も友人とあんな風に笑いあえるだろうか。
 ふと、マスターの言葉を思い出し、美味そうにマンダリンを飲んでいるお凜さんに声をかけた。

「お凜さん、真輝さんのおばあさんと親友だったんですってね」

「あぁ。マスターに聞いたのかい?」

「はい」

 彼女は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに小さな声で呟くように言った。

「まぁ、そうだね。親友でライバルだったね」

「ライバル?」

 問い返してみたものの、お凜さんはそれきり何も言わなかった。
 そこから長い沈黙があった。尊は踏み入れてはいけないところに足を突っ込んだのかもしれないと気まずくなり、そそくさとサービスしてもらったコーヒーを飲み干し、席を立つ。

「マスター、ありがとうございました。ご馳走様です」

 会計を済ませていると、お凜さんが席に座ったままやっと口を開いた。

「もう行くのかい」

「アパートに戻って、カクテルの勉強です。酒も覚えないとね」

「いい心がけだ」

 そう笑うお凜さんの顔つきがいつもの調子に戻っていることに少しほっとしながら、訊いてみた。

「発表会が終わるまでは店に来ないんですか?」

「いや、だいぶ落ち着いてきたからね、顔を出すよ。あぁ、でも明後日は用事があるから行かないね」

「わかりました。お待ちしてます」