それから気がついたときには、三年の歳月が流れていた。実家で過ごし、優しいマスターのもとでバイトをするというぬるま湯のような暮らしは、あっという間に思えた。
 料理の腕が上がったことから調理師の資格だけは取れたが、ハローワークに通っても気分が晴れないのは相変わらずだった。

「ほら、いつまで寝てるの!」

 ある日、母親が昼まで寝ていた尊の布団をはがす。

「あぁ、もう! ガキかよ俺は!」

 できれば、可愛い彼女に優しく起こして欲しいとは思っても、卒業前に二年付き合った彼女と別れたきり、新しい出会いもない。
 その彼女は札幌の大きな会社に就職しているはずだが、音信不通だ。別れを切り出された理由は『就職もしないでフラフラしている男なんて頼りない』という至極真っ当な理由だった。
 ぼさぼさの頭をかいている尊に、母親が鋭い一瞥をくれる。

「寝ている暇があったら仕事探しておいで。せっかくのリクルートスーツだって、卒業式に着たきりじゃないの」

 クローゼットの中には、たった一着のリクルートスーツがひっそりとかけられている。
 だが、それを身につけたのは、卒業式のときだけではなかった。
 実は、一度は彼も就職が決まっていたことがあり、そのときに何度か着用したのだった。

 大学生時代、そろそろ就職活動をしようと考えていた時期だった。携帯電話が鳴り、懐かしい名前が表示された。

「尊、元気か?」

 突然の電話は三つ年上の賢太郎という先輩だった。
 彼も千歳市が出身で、大学のサークルで意気投合したのがきっかけで仲良くなった。卒業後は本州の親戚がやっている会社に勤めているはずだった。

「俺、久しぶりに実家に帰るんだよ。飲もうぜ」

「いいですね! じゃあ、千歳で飲みましょう。空港に迎えに行きますよ」

 二つ返事で飲み会が決まる。電話口の先輩は学生の頃と全然変わっていなかった。
 ところが、空港に迎えに行った尊は、到着口から出てきた賢太郎に驚きを隠せなかった。
 彼が颯爽とスーツを着こなし、大きなケースを引いて歩く姿は、すっかり学生の雰囲気を脱ぎ捨てていたのだ。
 学生の頃はどちらかというと軽薄に見える男だったが、そのときの彼は頼もしく見えた。
 社会の中で責任とプレッシャーに負けず働いている何よりの証だと感じ、尊は心底羨ましいと思った。そしてたった数年で人はこんなに変われるものかと感心さえしていた。

 賢太郎は夕食を食べた後、とあるバーに彼を案内した。ビルとも呼べないような小さな建物の二階の突き当たりにあり、ライトで照らされた真鍮の看板と木製の扉が重厚な雰囲気だった。

「いらっしゃいませ」

 呼び鈴を鳴らした二人を出迎えたのは、一人の女性バーテンダーだった。尊が思わず見惚れるほどの涼しげな美人で、黒髪を綺麗に束ね、ほっそりしていた。
 賢太郎と同じくらいの年頃に見えたが、静かな物腰のせいで彼より大人びて見える。
 先輩は彼女が目当てなのかという考えがよぎったが、詮索するのも野暮かと思い、黙ってカウンターの椅子に腰を下ろした。
 店のバックバーを見回し、尊は思わず小さくなる。この店はいわゆる『オーセンティック』なバーで、いつも安い居酒屋ばかりの彼にはまったく未知の世界だった。
 バーテンダーの背後にはボトルがぎっしり並んだ棚があり、その下では無数のグラスがライトを浴びて輝いている。カウンターも壁も床も、店中が木目で統一されていて、シーリングファンのある天井は吹き抜けになっていた。
 尊は分厚いカウンターの下で汗ばむ手を揉み合わせる。落ち着かない彼と正反対に、賢太郎は慣れた様子で「竹鶴をロックで」と、オーダーしていた。

「お前は?」

 そう言われた尊は言葉に詰まってバックバーに視線を泳がせる。二十歳になったばかりで、安い居酒屋しか行ったことなかった彼には、カクテルもスピリッツも全然わからない。
 そもそも、彼は酒にはめっぽう弱く、自分から飲みに行くタイプではなかった。調子のいいときでさえ、酎ハイ三杯でもう頭がぐらぐらする。賢太郎とここに来るまでに酎ハイ一杯で時間を繋いで来たが、すでに顔が熱かった。
 おどおどする尊に、バーテンダーがすっと助け舟を出してくれた。

「オレンジはお好きですか? 今日はとてもいいオレンジが入ったんです。それで何かお作りしましょうか」

「え? あ、はい」

「辛口と甘口はどちらがお好みです?」

「じゃあ、甘いほうで......」

 とりあえずオーダーを済ませたことに安堵した尊に、先輩が笑いを堪えている。

「そういえば、お前、初めて仲間と酒飲んだとき、べろんべろんだったんだって?」

「うわぁ、喋ったの、どいつですか? シャンパンをグラスに五杯も飲ませるからですよ」

 尊が二十歳になってすぐ、気心知れた仲間と祝杯をあげたときがあった。調子に乗ってシャンパンを空けたものの、すぐに酒が飲めない体質だということを嫌と言うほど思い知ったのだった。
 尊は膨れっ面になりながら、機敏に動くバーテンダーの手元を見つめた。
 市販品のオレンジジュースを使うのかと思っていたが、彼女は丁寧に生のオレンジをプレスして果汁をしぼっている。その手つきは慣れたもので、ほっそりした指が流れるように動く様は綺麗だった。
 美人で仕事もできる人もいるんだなと、彼は感心する。天は二物を与えずなんて、誰かの言い訳に過ぎないのかもしれない。

「どうぞ」

 差し出されたロンググラスにはオレンジ色の酒が入っていた。その下のほうに赤い液体が沈んでいて、緩やかなグラデーションを生み出していた。

「うわぁ、綺麗ですね」

 ぱっと顔を明るくさせた尊に、美人バーテンダーがにっこり微笑んだ。そして、賢太郎には琥珀色の酒が入ったロックグラスを差し出した。
 グラスが出揃ったところで、彼らは乾杯をする。
 尊が一口含んでみると、酒だと思えないくらい飲みやすくて美味かった。さっきの会話を聞いてアルコールを加減してくれたのかもしれない。そう思ってバーテンダーに視線を移すと、ちょうどつぶらな瞳が彼を捉えていた。

「あ、美味いです」

 そうお世辞抜きで言うと、彼女は笑みを漏らし「ありがとうございます」と礼を返す。
 その顔つきに、尊は思わず見惚れてしまった。先ほどまでの静かな笑みとは違い、心底嬉しそうな顔になったのだ。黙っていると美人だが、こういう笑い方をすると一気に可愛く映る。
 顔が赤くなったのを誤摩化すように、尊は慌てて賢太郎に話を振った。

「先輩のそれ、なんていう酒なんです?」

「あぁ、竹鶴っていうウイスキーだよ。千歳に来たら必ず飲むことにしてるんだ。居酒屋だったら千歳鶴にするところだけどな」

「先輩、鶴が好きなんですか?」


「鶴は千年、亀は万年っていうだろ。千歳って名前には鶴がぴったりじゃないか。縁起がいいし」

 そう言って唇をウイスキーで湿らせると、賢太郎はまじまじと尊を見つめる。

「なぁ、お前さ、勿体ないよな」

「は? 酒が弱いことですか?」

「違うよ」

 賢太郎先輩がしょうがないなと言わんばかりに眉を下げた。

「お前だよ、お前。尊って器用だし、スポンジみたいに吸収早いのに、なんでそんなに無気力なの? 好きなこととか興味あることはないの?」

「そんなの、俺が教えて欲しいですよ」

 肩をすくめる尊に、賢太郎は首を傾げた。

「お前、就職どうするの? どこか受けたい会社あるのか?」

 その言葉に、黙って首を横に振る。

「いや、それがわかんないんですよね。俺、一体何をやりたいのかわからなくって。卒業してもずっとバイト生活って訳にいかないのはわかってるんですけどね」

 ふと、尊の脳裏に付き合っていた彼女の姿がよぎった。結婚願望が強く、尊に大手の企業に就職して欲しいという態度を隠そうともしない。彼女自身も企業説明会やセミナーに通い、熱心に就職活動をすすめている。
 だが、尊はそれを見ていても、一歩踏み出す勇気が持てずにいた。結婚も、彼女としてもいいかなとぼんやり思う反面、そんなに急がなくてもいいような気もする。それでも、やはり彼女を不安にさせたくない気持ちはあった。
 すると、賢太郎が「なぁ」とグラスを置いて身を乗り出した。

「うちの会社来ないか?」

「へ?」

「本州だから親とか恋人とは離れちゃうけど、やりがいはあると思うんだ。そろそろ新入社員入れようかって話してたから、俺から推薦してみるよ。身内の会社だしな」

「うわ、本当ですか?」

 思ってもいなかった申し出に、思わず彼のテンションが跳ね上がった。

「うん。お前って伸びると思うんだよ。真面目だしな」

「よろしくお願いします!」

「おい、お前、二つ返事でいいわけ? 北海道を出るんだぞ?」

 苦笑する賢太郎に、尊は深々と頭を下げた。

「構いません! こちらからお願いします! 俺、親とか彼女を安心させてやりたいんですよ」

 何事にも熱中できない尊は『何をやらせても中途半端でやる気のない男』で通っている。だが、そんな自分がきちんと就職したら、少しはみんなに安心してもらえるじゃないかという期待で胸が膨らんだ。
 賢太郎が白い歯を見せて笑う。

「よし、じゃあ就職祝いするか! あぁ、チーフも飲んでください」

 チーフと呼ばれたバーテンダーは「ありがとうございます」とお辞儀をし、グラスを取り出した。小さな缶からウーロン茶を注ぐと、尊に差し出した。

「おめでとうございます」

「いや、まだ決まってないんですけどね」

 尊は頭をかきながら乾杯を交わす。
 美人バーテンダーの店を出るのは名残惜しかったが、賢太郎はそのあと、二軒も飲み屋をはしごした。
 賢太郎は酒豪だったが、尊は最後には千鳥足になり、路地の脇でげえげえ吐いた。
 その背中をさすっている賢太郎は、尊の十倍は飲んでいるのにしらふのような顔で笑う。

「お前には確かにシャンパンよりシャンメリーだな」

 畜生、あの初めて酒を飲んだときに居合わせた仲間の誰かが言ったんだな。そう思ったものの、それどころではなかった。吐くことも辛いが、このあとの気持ち悪さがだらだら続く時間はもっと苦しい。
 尊は賢太郎に送られ、家のリビングにあるソファに倒れ込むと、トイレと往復する夜を過ごした。