腕時計の針が深夜十二時半を回る頃、店はちょうど最後の客が帰ったところだった。

「いつもより早いですけど、今日はもう閉めましょうか。尊さん、疲れたでしょ?」

 真輝がグラスを流しに運びながら言うのを聞いたとき、長いため息と共に肩の力が抜けた。

「すみません。俺、役立たずで」

「あら、上出来ですよ」

 彼女の慰めも心に響かない。それくらい、尊は滅入ってしまっていた。
 外灯を消し、洗い物と掃除を終えて店のシャッターを下ろしたときには、もう飲み屋街も人通りがまばらになっていた。
 尊は真輝と連れだって琥珀荘のほうへ歩いて行く。本当なら二人での帰路は嬉しいはずなのに、これで給料をもらっていいのかという申し訳なさで一杯になっていた。

「そういえば、今日はお凜さん、来ませんでしたね」

 暗い道に靴音を響かせながら、ふと口を開いた。真輝さんが隣で「あぁ、そうですね」と頷く。

「もう少しでバイオリン教室の発表会があるみたいで忙しいらしいですよ」

「俺、あの人は一年中、来てるんだと思ってました」

 真輝が大きな口を開けて笑う。カウンターでは落ち着いた雰囲気だが、こうしてバーを離れると気さくに見えた。

「お凜さんは先代からの常連客ですからね」

「先代って、真輝さんのおじいさんですか?」

「えぇ。仲がよかったですよ。それで、私のことも孫のように可愛がってくれるんです」

「へぇ」

「お凜さんがいてくれたら心強かったんだけどなぁ」

「あの人は面倒見がいいというか、姉御肌なんですよね」

 歩きながら、夜空を見上げる。満天の星空とは言えなかったが、雲の隙間から綺麗な星が見えた。
 仕事はひどかったが、こうして一緒に帰ることの喜びがじわじわと滲み出し、次第にアパートに着いてしまうのがもったいない気がしてきた。
 時間を惜しむ尊をよそに、真輝は琥珀荘の前でにこやかに言った。

「それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい。また明日」

 真輝が微笑み、扉の鍵を開けて中に入っていく。
 『また明日』というなんてことのない言葉だが、初めてなんていい響きなんだろうとしみじみする。
 その余韻を噛みしめながら、彼は自分の部屋に続く階段を昇った。
 さっきよりは幾分か軽い足取りに気づき、我ながら単純だと眉を下げて笑った。