真輝は仕事に関しては職人のようだった。手取り足取り教えてもらうのを期待していなかった訳ではないが、実際は『目で見て耳で聞いて盗め』という教え方だ。

「あれ? 新しい子入ったんだね」

 サラリーマンらしき客に「よろしくお願いします」と頭を下げる。だが、彼は「ふぅん」とさして興味もないようだった。
 この客は真輝が目当てか、酒が飲めればいいというタイプかもしれないとは思ったものの、肩すかしをくらった気がした。

「それじゃ、おすすめのモヒートをお願いしようかな」

「かしこまりました」

 何をしたらいいのか戸惑っていると、真輝が「これで氷を砕いてくれます?」と、まるで家庭用のかき氷機を四角くしたようなものを差し出した。

「これはアイスクラッシャーっていって、氷を入れてハンドルを混ぜると細かく砕かれて下の受け皿に溜まるんです」

「はい、わかりました」

 尊は慣れない手つきで氷を入れ、ハンドルを回そうとしたが、力をこめないと引っかかってしまう。思ったよりも重労働だ。
 その間に真輝はライムをカットしている。

「真輝さん、これくらいですか?」

 たまった細かい氷を見せると、「もう少し」と笑う。緊張と力仕事でうっすら汗ばむ尊は「まだですか」と苦笑した。

「おう、こういう力仕事だと男の人がいると助かるな」

 サラリーマンが笑い飛ばしてくれたことで、絶望的な気持ちからほんの少し救われる。何故なら、尊に出来る事は氷を砕くことだけだったのだ。
 真輝さんタンブラーにカットしたライムを絞って、皮ごと落とした。そこに砂糖とミントを入れ、擂り粉木みたいな棒で潰し始める。
 そして、砕いた氷をタンブラーの半分ほど詰め、ホワイトラムとソーダを注ぐ。バー・スプーンで軽く混ぜたあと、また砕いた氷をタンブラーの縁まで足してミントを飾った。これが文豪ヘミングウェイも愛したラム・ベースのカクテル『モヒート』だ。
 だが、尊にはそのレシピも蘊蓄も頭にない。客はグラスを傾け「うん、やっぱ夏はこれだな」と、満足そうにしていた。
 客は飲みながら真輝と楽しげに花火大会の話を始めた。だが、尊はその会話に入ることすらできず、ただただ立ち尽くして愛想笑いしかできなかった。
 この居たたまれなさをなんと言えばいいのか。尊は営業スマイルを必死に保ちながら、肩身の狭い思いで立ち尽くした。何かしなくてはと焦るたびに、自分が何もできないことをまざまざと思い知らされる。せめてトークだけはと思っても、何を話していいのか頭が真っ白になる。
 「いらっしゃいませ」のあとにおしぼりを差し出す。水のことは『チェイサー』と呼ぶ。それくらいのことなら、バーテンダーでなくても少しはバーに慣れた人なら知っているのだろう。だが、尊にとっては、この日初めて知った知識だった。
 焦りと無力感に支配された尊に出来たことといえば、掃除、洗い物、モヒートの氷を砕く、そして挨拶と愛想笑いだった。
 情けなさに打ちひしがれ、閉店時間までの七時間があっという間なような、長いような、奇妙な感覚だった。