開店までの二時間は地味な作業ばかりだった。
 カウンターや椅子、床はもちろん、グラスやボトルも磨き、夜のライトの下ではわからないような汚れを掃除していく。トイレは特に念入りに磨き、水回りにサービスで置いておくあぶらとり紙や綿棒も忘れずに補充しなければならない。
 お通しを作り、板氷をアイスピックで割ってストックし、丸氷も幾つか用意するのだった。また、酒や氷、食材を仕入れ、伝票整理や階段の掃除もしなければならなかった。
 毎日ではないが、一輪挿しに花をいけることも大事な仕事だった。琥珀荘の庭で摘んでくるときもあれば、近所の花屋で仕入れることもあるらしい。

「真輝さん、よく一人でやってましたね」

 真輝と手分けして仕事をこなしながら、尊が思わず漏らす。真輝はただ微笑むだけだったが、毎日のこととなると思った以上に仕事量は多い。
 だが、こういうことの積み重ねが、ここで居心地のいい時間を過ごせる秘訣の一つなのだと、尊は感じた。
 真輝は手を休めることなく、作業内容を教え続けている。

「お通しは目で見て楽しい色彩で、食べやすく、原価は安く。しばらくは私が作りますから、盛りつけのコツは少しずつ覚えてくださいね。そのうち、板氷を割ってもらいます。普段使う大きさのものと、丸氷と両方用意するんです」

「あの、丸氷ってどうやって作るんですか?」

「アイスピックで削るんですよ」

「え? あの板氷を? ボールみたいに丸くできるんですか?」

「はい」

「まるで彫刻じゃないですか。俺、美術の成績、最悪ですよ? 俺、役に立てるんですかね?」

「誰もがみんな、一から始めるんですから、ゆっくりでいいですよ。私は尊さんがいてくれるだけで随分助かります」

 自信なさげに肩を落としていた尊だったが、真輝の言葉だけで思わず口元が緩んだ。真輝の手の上で転がされるような気がしないでもないが、それも悪くない。

 午後六時になると、彼女は外灯をつけ、本日のおすすめが書かれた立て看板を手にした。

「さて、では始めましょうか」

 立て看板には以前はマンハッタンだったが、今夜はモヒートに変わっている。だが、あの力強い筆跡は同じだった。

「真輝さんって達筆ですね」

 感心したように言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯く。

「いえ、実はこれ、お凜さんに書いて貰うんです」

「あ、そうなんですか。いやぁ、道理でなんだか力強い字だと」

「私、すごく癖字なんですよ。ちょっと気にしてて」

 恥ずかしそうに笑うと、「じゃ、出してきます」と足早に扉の向こうに消える。尊にはなんだかそれが可愛くて、思わず笑ってしまった。
 店に戻ると、真輝が口を尖らせる。

「もう、いつまでにやにやしてるんですか。さぁ、カウンターにいきますよ」

「はい!」

 一気に緊張が尊の背筋を強ばらせた。恐る恐るカウンターの中に立つと、深いため息が漏れ出る。
 そこから見る光景は、まるで違う店の中だった。カウンターの外から見るのと、中から見るのとは大違いで、とうとう、琥珀亭の中に入り込んだということが、今更ながら実感できた。

「俺、すんごく緊張して手が汗ばんでるんですけど」

 ふっと隣を見ると、真輝が尊を見上げて微笑んだ。

「大丈夫。習うより慣れろです」

「……真輝さん、目が笑ってませんよ」

 尊は一抹の不安を感じながらも、真輝とこうして距離が縮まったことに喜びを隠せず笑ってしまった。自分の二の腕くらいの高さにある彼女の顔と気配に胸が高鳴る。
 女性に免疫がないわけではないのに、彼女の隣にいることが、新鮮でとても誇らしかった。ただ、同じカウンターに立っているという、たったそれだけのことなのに、何故こうも自分の心を浮つかせるのか不思議だった。