荷ほどきをしていた尊は、ぐっと背筋を伸ばした。部屋にはまだ幾つかの段ボールが積まれたままになっていて、すべて片付くにはまだまだ時間がかかりそうだった。
腕時計に目をやると、ちょうど二時になるところだ。
「まだ時間はあるな」
琥珀亭の開店時間は午後六時だが、準備のために四時には出勤しなければならなかった。それまでには布団と洗面道具は出しておかないと困る。
ベッドの上に布団を調えていると、玄関のチャイムが鳴った。琥珀荘にはインターホンはないため、手を止めて玄関に向かって大声を張り上げた。
「はぁい、どちら様?」
「あの、真輝です」
慌てて駆け寄ってドアを開ける。その向こうには髪をおろした真輝が立っていた。
尊は口を半開きにして思わず見惚れてしまった。女は七変化の生き物だとしみじみする。
今日の真輝は見違えるようだった。店ではまとめ髪だったせいか気づかなかったが、毛先に緩くパーマがかかっている。ふわりと肩に垂れる髪は可愛らしく、いかにもスカートが似合いそうだが、淡いクリーム色のカットソーにジーンズというラフな格好をしているところが真輝らしかった。
「真輝さん、どうしたんですか? まだ四時には早いですよ」
驚いていると、彼女が手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、バーテンダーのベストやサロンです。自分の服を買うまでは、これを使ってください」
紙袋の中を覗くと、ワイシャツや蝶ネクタイまで入っている。そのどれもがクリーニングの袋に包まれたままだった。
「以前、うちで働いていた人の予備なんです。サイズは合うと思うんですよね。あ、でも靴だけは用意してくださいね。黒い革靴持ってます?」
「はい、大丈夫です」
自分も父親のように革靴を履くのが当たり前になるのか。そう思うと、感慨深いものがある。
「私は帳簿の整理があるので、先に店に行きますね。尊さんは四時に来てください」
「はい、よろしくお願いします」
頭を下げている間に、ドアの向こうに彼女の姿が消えた。階段を下りる足音が小さくなり、やがて外で車のエンジンをかける音がする。
真輝の車が走り去った気配にため息が漏れて、がくんと肩が落ちた。思いがけない訪問とはいえ、たったこれだけのやりとりで肩肘を張っていては先が思いやられる。
「俺、やっていけるかな」
そんな不安を抱きながら、紙袋の中身を広げてみた。
ワイシャツは襟がウィングカラーになっていた。ベストとサロン、パンツは至ってシンプルな黒。そして蝶ネクタイは留め具で取り外しできるらしい。いかにもバーテンダーといった服が、尊を威圧していた。
「よし、ちょっと着てみるか」
そう思い立ってクリーニングの袋を外そうとしたときだ。
「ん?」
尊は違和感を覚えて、手を止めた。目についたのは、袋に入っていた伝票だった。
しげしげとそこに印字されていた文字を見つめる。感熱紙のせいかだいぶ字が薄くなっているが、そこには確かにこう書いてあった。
「……山本……真輝様? あれ、堀河じゃないの?」
慌てて他の伝票も見てみるが、全部『山本真輝』という名義だった。
「ということは、つまり……」
やたら音が響く空っぽの部屋に、尊の力ない声が木霊した。
「……結婚してるのか」
そう口にして項垂れると、ぶつぶつ独り言を漏らす。
「そうだよな、あんなに素敵な人だもんな。結婚していてもおかしくないよな。でもさ、そうしたらせっかくこうやって毎日会えるチャンスが出来たのに無駄じゃないか?」
だが、すぐに「待てよ」と、怪訝そうな顔になる。まるで百面相だ。
「でも、結婚しているなら、旦那さんはどこにいるんだ?」
少なくとも琥珀荘にはいない。別居でもしているんだろうか。
そこまで考え、尊は大きく頭を振った。
「やめよう。こんなこと」
自分に言い聞かせるように呟くと、彼は大きなため息をついた。
真輝がどんな人生を歩んできたかは、彼女が話したくなったら話してくれるだろう。男物の黒いベストを見ながら、ぼんやりそんなことを考えた。
腕時計に目をやると、ちょうど二時になるところだ。
「まだ時間はあるな」
琥珀亭の開店時間は午後六時だが、準備のために四時には出勤しなければならなかった。それまでには布団と洗面道具は出しておかないと困る。
ベッドの上に布団を調えていると、玄関のチャイムが鳴った。琥珀荘にはインターホンはないため、手を止めて玄関に向かって大声を張り上げた。
「はぁい、どちら様?」
「あの、真輝です」
慌てて駆け寄ってドアを開ける。その向こうには髪をおろした真輝が立っていた。
尊は口を半開きにして思わず見惚れてしまった。女は七変化の生き物だとしみじみする。
今日の真輝は見違えるようだった。店ではまとめ髪だったせいか気づかなかったが、毛先に緩くパーマがかかっている。ふわりと肩に垂れる髪は可愛らしく、いかにもスカートが似合いそうだが、淡いクリーム色のカットソーにジーンズというラフな格好をしているところが真輝らしかった。
「真輝さん、どうしたんですか? まだ四時には早いですよ」
驚いていると、彼女が手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、バーテンダーのベストやサロンです。自分の服を買うまでは、これを使ってください」
紙袋の中を覗くと、ワイシャツや蝶ネクタイまで入っている。そのどれもがクリーニングの袋に包まれたままだった。
「以前、うちで働いていた人の予備なんです。サイズは合うと思うんですよね。あ、でも靴だけは用意してくださいね。黒い革靴持ってます?」
「はい、大丈夫です」
自分も父親のように革靴を履くのが当たり前になるのか。そう思うと、感慨深いものがある。
「私は帳簿の整理があるので、先に店に行きますね。尊さんは四時に来てください」
「はい、よろしくお願いします」
頭を下げている間に、ドアの向こうに彼女の姿が消えた。階段を下りる足音が小さくなり、やがて外で車のエンジンをかける音がする。
真輝の車が走り去った気配にため息が漏れて、がくんと肩が落ちた。思いがけない訪問とはいえ、たったこれだけのやりとりで肩肘を張っていては先が思いやられる。
「俺、やっていけるかな」
そんな不安を抱きながら、紙袋の中身を広げてみた。
ワイシャツは襟がウィングカラーになっていた。ベストとサロン、パンツは至ってシンプルな黒。そして蝶ネクタイは留め具で取り外しできるらしい。いかにもバーテンダーといった服が、尊を威圧していた。
「よし、ちょっと着てみるか」
そう思い立ってクリーニングの袋を外そうとしたときだ。
「ん?」
尊は違和感を覚えて、手を止めた。目についたのは、袋に入っていた伝票だった。
しげしげとそこに印字されていた文字を見つめる。感熱紙のせいかだいぶ字が薄くなっているが、そこには確かにこう書いてあった。
「……山本……真輝様? あれ、堀河じゃないの?」
慌てて他の伝票も見てみるが、全部『山本真輝』という名義だった。
「ということは、つまり……」
やたら音が響く空っぽの部屋に、尊の力ない声が木霊した。
「……結婚してるのか」
そう口にして項垂れると、ぶつぶつ独り言を漏らす。
「そうだよな、あんなに素敵な人だもんな。結婚していてもおかしくないよな。でもさ、そうしたらせっかくこうやって毎日会えるチャンスが出来たのに無駄じゃないか?」
だが、すぐに「待てよ」と、怪訝そうな顔になる。まるで百面相だ。
「でも、結婚しているなら、旦那さんはどこにいるんだ?」
少なくとも琥珀荘にはいない。別居でもしているんだろうか。
そこまで考え、尊は大きく頭を振った。
「やめよう。こんなこと」
自分に言い聞かせるように呟くと、彼は大きなため息をついた。
真輝がどんな人生を歩んできたかは、彼女が話したくなったら話してくれるだろう。男物の黒いベストを見ながら、ぼんやりそんなことを考えた。