翌日、尊は重たいダンボールを抱えて『琥珀荘』を見上げていた。お凜さんが言うように決して新しいとは言えないアパートだが、ここが自分の住処になると思うと感慨深いものがあった。 
 琥珀荘は2LDKが二部屋、1LDKは二部屋の造りだった。1LDKは二部屋とも空室になっていて、彼は二階を選んだ。一階の2LDKにはお凜さんが住んでいて、玄関のところに『バイオリン教室アンバータイム』という看板がかけられている。二階の2LDKは管理人、つまり真輝の部屋だった。
 両親にバーテンダーになることを話したとき、母親はきちんと正社員として企業に就職して欲しかったらしく難しい顔をしていた。だが、普段は無口な父親が『若い頃は何事も経験だし、手に職をつけるのも悪くない』と、なだめてくれた。
 そして、バイト先の喫茶店のマスターは心の底から、彼の新しい道を喜んでくれた。

「尊君、君のこれからは、眩しいくらい未知数だよ。楽しみだね」

 急にバイトを辞めることになっても祝ってくれる姿に、尊は琥珀亭に勤めてからも、この喫茶店に通おうと決めた。
 尊は琥珀荘に来て、お凜さんの『猫が好きか』という質問の意図を理解した。
 琥珀荘には黒猫のスモーキーと、白猫のピーティーという二匹の先輩がいたのだ。
 どちらも真輝の愛猫で、真輝が留守のときは預かるのが琥珀荘での管理費代わりらしい。
 お凜さんは面接のときに既に自分を琥珀荘に住まわせるつもりだったんだと悟り、思わず微笑んだ。喫茶店のマスターが「家も仕事も探すってのは大変だろうから、住むところもなんとかしてやれないか」と口をきいてくれたのを知るのは、だいぶあとになってからだった。
 尊は「よいしょ」とダンボールを持ち直し、歩き出した。
 真輝は今頃、お通しの材料を買いに行っている。
 お凜さんはバイオリン教室が終わったら、いそいそといつものカウンターの端の席を占領する。バーで垣間見れるお客様たちの人生の一幕を肴にして。
 そして、尊は今夜から琥珀亭のカウンターに立つのだ。いつの日か『マスター』と呼ばれる日を思い描きながら。