尊の航海はこのとき始まった。新しい世界に飛び出したいと飛行機に願っていた彼が、琥珀色の海に身を乗り出した瞬間だった。
 それから尊は雇用形態や給与面のことを真輝と話し合った。

「通勤は車でも大丈夫ですか? 実家は駅のそばなんで歩いても来れますけど」

「駐車場は用意してないんです。お客様にお酒をすすめられてもお茶しか飲まない主義なんですけれど、カクテルの味見はしますから、私は徒歩で来ています」

「真輝さん、家が近いんですか?」

「えぇ」

 すると、それまで黙って話を聞いていたお凜さんが口を開いた。

「そういえば尊は実家を出なきゃならないんじゃなかったっけ?」

 お凜さんには状況を話していたことを思い出し、即座に頷く。

「はい。兄貴夫婦が実家に戻るんで」

 すると、お凜さんの唇が意味ありげにつり上がり、真輝を見た。

「どうだろうね、真輝?」

「お凜さん、強引ですね」

 真輝はどこか呆れ顔で眉を下げている。
 尊がきょとんとしていると、真輝がこう説明した。

「実は、先代のオーナーが残してくれたアパートがあって、私とお凜さんはそこに住んでいるんです。ここからほど近いんですけど」

 こんなに若くして琥珀亭のオーナーだけでなくアパートの管理人でもあることに口をぽかんと開けていると、耳を疑うような言葉が耳に飛び込んできた。

「つまり、お凜さんは、尊さんがうちのアパートで一人暮らししたらどうだろうって提案しているんですよ」

 苦笑する真輝に、尊は思わず「ええ!」と叫んでしまった。
 つまり、真輝と同じ屋根の下に暮らすということで、壁一枚向こうで風呂に入ったり寝ていたりするということだと思うと、頭に血が上りそうだった。
 お凜さんが煙草片手ににこやかに笑っている。

「築年数はだいぶいってるが、悪くはないよ。家賃も安いしね。あんたの給料でもやっていけるだろうさ。琥珀荘っていってね、真輝の死んだじいさんの持ち物だったんだが、管理人は真輝が……」

「よろしくお願いします!」

 お凜さんの言葉を遮って勢いよく飛び出た返事に、二人は呆気にとられ、そして大笑いし始めた。
 こうして、尊の船出はいきなりの追い風を得ることになった。
 あれだけにっちもさっちもいかなかった状況が、一気に滑り出したことに彼自身が一番驚いていた。
 神様なんて信じる質ではないが、このときばかりは神様仏様、そして世界中の誰にでも『ありがとう』を言いたくなった。