夜になると、飲み屋街はすっかりいつもの顔を取り戻していた。
 連れだって歩く自衛隊らしき男たち、これから出勤という出で立ちの女性、そして配達に走り回る酒屋の車が行き交う。
 尊は琥珀亭へ続く階段の下で、何度も深呼吸をした。
 スーツではなく私服でいいという真輝の言葉に従い、彼はラフな格好をしている。靴もいつものスニーカーだった。
 これから面接なのかと思うと、階段に足をかけることすら躊躇われた。だが、賽は投げられたのだ。そう自分に言い聞かせ、階段の手すりを掴み、一歩一歩ゆっくりと足を進めた。

 細い廊下から目に飛び込むのは、真鍮の看板と木製の扉だ。重厚で歴史を感じる扉は、まるで異世界への入り口に見えた。
 心臓の鳴る音が口から飛び出そうだと生唾を飲み込み、尊は静かに扉を押し開けた。

「いらっしゃいませ」

 尊を見た真輝は、カウンターの中からいつもの笑顔を向けた。前と同じ席にお凜さんもいる。
 てっきり営業前に二人きりで面接だと思っていただけに、拍子抜けした。面接なんて誰にも見られたくないのに、お凜さんがいると心強いような複雑な気持ちでカウンターに歩み寄る。

「どうぞ、こちらへ」

 真輝が示すのは、尊が以前座った席……つまり、お凜さんの二つ隣の席だった。

「失礼します」

 そう消え入りそうな声で腰を下ろすと、お凜さんが大口を開けて笑う。

「なにもそんなに怯えなくていいよ。ここの面接はそりゃあ気楽だからね」

 彼女が笑い飛ばしたことで、少しだけ尊の緊張がほぐれた。あぁ、やっぱりお凜さんが居てくれてよかったかもしれないと思った瞬間、彼女が皺の寄った口をつり上げて、こう言った。

「さぁ、始めようか」

「えっ? お凜さんが面接するんですか?」

 思わずそう口走り、真輝を見る。彼女はアーモンド型の大きな目を細め、無言で頷いていた。

「やっぱり、お凜さんはただのバイオリン教師じゃなくて、ここのオーナーか店長なんじゃないですか?」

 さっきお凜さんの笑い声で得た少しの安堵が、まるで竜巻に巻き込まれた藁のように消し飛んだ。
 お凜さんは飄々とした顔でハイライトの箱を手で転がしている。

「ただのバイオリン教師だが、ただの客じゃないのさ」

 意味がわからない。だが、少なくとも面接はしてくれるらしい。
 彼はガチガチに肩を緊張させてお凜さんに向き直った。

「あの、面接お願いします」

「うん? あぁ、そうだね」

 ごくりと生唾を飲み込むと、お凜さんが「ふむ」と小さく頷いてからこう切り出した。

「あんたが仕事を探している理由は、もう聞いた。で、何故ここにこだわるんだ?」

 初っぱなから尊の苦手な志望動機の質問だった。

「俺は琥珀亭が好きですし、酒の知識は......」

 懸命に考えながら口を開いた尊に、彼女は「あぁ、あぁ、ストップ」とうんざりしながら、ヒラヒラと手を振った。

「私が聞きたいのは、そこらへんのマニュアルにあるような答えじゃないんだ。だが、これは私の質問の仕方がまずかったかな」

 ぶつぶつと「もっとシンプルにだ」と呟き、ぐっと強い眼差しで尊を射貫くように見つめた。

「どんな酒でも飲めるか?」

 まるでヘビに睨まれたカエルだった。気圧されそうな尊は拳を握り、強く頷いて見せた。

「はい。弱いですが」

「料理は出来るか? 得意料理は?」

「できますが、ありません」

 作れと言われれば作るが、これという物は特にない。

「猫は好きか?」

「大好きです!」

 自信を持って答えられたのは、猫の質問だけだった。
 不安に満ちた目でお凜さんを見つめていると、彼女は「ふむ」とまた唸り、今度はハイライトを一本取り出して火をつけた。
 煙草を吸う面接官なんて初めて見たと呆気にとられていると、お凜さんは紫煙を吐き出して、こう尋ねた。

「このカウンターに立って、何がしたい?」

 お凜さんの真っ直ぐな目は尊をじっと捉えている。
一瞬だけ頭が真っ白になったものの、少し間をおいてから、ゆっくり噛みしめるように言った。

「お酒のことを知りたいとか、カクテルの作り方を覚えたいというより、俺はここでいろんな人を知りたいです。ここじゃなきゃ会えないような人がどんなことを見聞きして、どんな風に感じて生きているのか知りたいんです」

 真輝を思い浮かべながら話し終えたとき、ふと目の前にいるお凜さんにも言えることだと気づいた。どんな生き様をしてくればこんな風に凛々しくなれるのか、いつか聞いてみたい。
 そして、それは家や大学では決して知ることができないものだという気がしていた。この琥珀亭だからこそ垣間見れるものがあるんじゃないかと思い、彼はこう話を続ける。

「俺には経験というものが圧倒的に足りません。それは仕事とかじゃなくて、なんていうか、人間を知るってことがまだまだなんだと思うんです」

 お凜さんがふっと目許を綻ばせた。

「あんた、音楽は好きかい?」

「えっ? はい。でも、あまり詳しくありません」

「そうかい。今度、じっくり教えてやるよ」

 彼女はそう呟き、紫煙をくゆらす。

「……うん、今夜の煙草は美味い」

 彼女がそう言うと、真輝が黙って灰皿を差し出した。
 その途端、お凜さんが右の眉を吊り上げ、晴々とした声を張り上げた。

「おめでとう。お前は今から琥珀亭の一員だ」

「へっ? あの、いいんですか?」

 呆気にとられていると、お凜さんがいたずらっ子のように笑う。

「あんた、喫茶店で三年バイトしてるって言っていただろう」

「あ、はい」

「そこのマスターと私は昔なじみでね。昨日電話で話したんだ」

「えっ?」

「尊は全てがこれからの無垢な奴だから、琥珀亭で働きたいというなら、お凜ちゃんが力になってやってくれ、だとさ」

 尊は真っ白い眉を下げて優しく笑うマスターを思い出し、胸が熱くなっていた。彼はまるで自分の孫のように、尊を世話してくれたのだ。

「まぁ、真面目だって話だったし、熱意があれば合格にしようと思ってたんだよ。私が気に入れば『煙草が美味い』という手はずだった。そして催促しなくても灰皿が出れば、真輝も気に入ったって合図だったのさ」

 真輝は穏やかな笑みを浮かべて尊を見ている。

「あなたが慌てて帰ったあとに、お凜さんとそう決めたんです」

「でも、なんでお凜さんが面接をすることに?」

「気にするなよ。単に真輝は客観的にあんたを観察したかったし、こういうことは苦手な性分なんだ。人見知りでね」

 真輝の頬が朱に染まった。

「お客様相手なら平気なんですけど、仲間となると途端に緊張しちゃって……」

 仲間という響きに、思わず笑みが浮かんだ。

「そうか、俺、琥珀亭の仲間になれたんですね」

 そう呟くと、じんわりと喜びが胸を満たしていく。思わず立ち上がり、勢いよく頭を下げた。

「松中尊です! よろしくお願いします!」

 真輝が笑い声を上げた。思わず顔を上げた尊は思わず胸を詰まらせた。目の前にある真輝の顔は、今まで見たことのない無邪気さをまとっていたのだ。客相手の顔ではない、素顔の真輝を垣間見た気がした。

「堀河真輝です。よろしくお願いします」

 ずっと知りたかったフルネームを頭の中で復唱していると、お凜さんが景気よくこう切り出した。

「じゃあ乾杯といこうか。真輝、あんたも飲もう。尊はまぁ、座って落ち着け。私と同じものでいいかい?」

「はい!」

 お凜さんが愉快そうに笑う。

「尊の船出に乾杯だ」

 真輝はアルコールではなくお茶だったが、尊とお凜さんの目の前には琥珀色に輝く酒で満たされたロックグラスが置かれた。
 お凜さんが目の前にあるボトルを片手で持ち上げ、しげしげと見る。

「尊、これは『メーカーズマーク』というバーボンだ。ボトルの注ぎ口に赤い封蝋があるだろう?」

 尊は黙ったまま頷く。
 ボトルの口は深紅の蝋で封がしてあったらしく、その蝋がだらりと垂れるままボトルネックに纏わりついている。

「これはね、一つ一つ手作業なんだ。だからただの一つも同じ封蝋はない。カクテルもレシピはあるが作る人や材料や気候で味が変わる。もちろん、人との出会いも同じ出会いは二度と来ない」

 そして、こう続けた。

「尊も世界にただ一人だ。そのあんたが、ここでしか味わえない酒で、ここでしか出会えない人に、そのときしか持てない時間を用意するのが仕事になる。面白いね」

 お凜さんはボトルをゆっくり下ろし、グラスを手にする。

「新しい仲間に乾杯」

 真輝がそっとグラスを寄せる。

「乾杯。ようこそ、琥珀亭へ」

 尊は感極まりながら、頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 グラスを近づけると、お凜さんはふっと軽くグラスを持ち上げて鳴らさずに飲んだ。

「乾杯のときは鳴らすんじゃないよ。グラスが傷つくからね」

「そうなんですか」

 驚きながらメーカーズマークを口にした。慣れないバーボンの味が鮮烈に喉を駆け抜ける。
 ふと、お凜さんが目を細めて壁のスピーカーに視線を送った。

「なんともタイムリーな曲だね。幸先いいよ」

 そのとき初めて、尊は店内にジャズが流れていることに気がついた。
 ジャズのことは何もわからない尊には気の利いたことも言えず、ただ黙り込む。
 そのとき流れていたのがハービー・ハンコックの『Maiden Voyage』つまり『処女航海』という曲だったと知るのは、ずっとあとのことだった。