尊が向かった先は飲み屋街だった。明るい日差しに晒された通りは、夜の賑やかさからは想像もできないほど、まったく違う顔をしていた。
閑散として車も通らない道をカラスが飛び跳ね、靴音がやたら大きく響くのが寒々しい。誰もいない路地は薄暗く、下ろされたシャッターがどことなく切ない気持ちにさせた。
そして、琥珀亭の階段前にもシャッターが下りて、中の様子がまったく見えなかった。
尊はシャッターの前で、小さな建物を見上げた。築何十年かわからないが、古い造りの壁に、灯りの消えた琥珀亭の看板が突き出ている。
ここが、俺の居場所になってくれたらいいのに。
そう願ったとき、辺りに轟音が響き渡った。耳に手を当てても騒々しいと感じるほどのけたたましさは、自衛隊の戦闘機が飛ぶ音だった。
普段なら苦い顔をするのだが、この日は別だった。
飛行機みたいにどこかに飛んでいきたいと願っていただけの自分が、その足で飛行機に乗らせて欲しいと頭を下げに来ている。そんな状況にいた尊には騒音ともいえる戦闘機の音も、『戦闘機にだって乗れるかもしれないよ』という声援に聞こえたのだった。
尊が午前中から店の前で真輝を待ち伏せしようと考えたのは、彼女が何時に店に顔を出すのかわからなかったからだった。そもそも、開店時間すら知らなかった。営業時間に行くのが迷惑になるのか、はたまた開店前に行く方が迷惑なのかも判断できない。
少なくとも、客のいる時間帯ではないほうがいいと思い立ち、彼はこうしてスーツ姿で店の前に来たのだった。もし開店前で都合が悪ければ出直せばいいし、何度でも足を運ぶつもりだった。
尊はシャッターを背に待ち続けた。
昼が過ぎ、腹が鳴り、三時を過ぎる頃にはしゃがみたくなった。けれど、彼はずっと立ち尽くした。あの彼女の姿を今か今かと待ちわびながら。
昨日の寝不足もたたっている尊をそうまでさせたのは、何もしないうちにこの仕事と真輝との縁が切れるのは嫌だという、焦りにも似た強い想いからだった。
だが、腕時計の針が午後四時を過ぎた頃、とうとう『これは出直したほうがいいのかな』という考えがよぎった。
そもそも定休日も知らないことに気づいたのだ。今日が休みだったら、とんだ間抜けだと項垂れる。
そのときだった。通りの向こうから一台の車が近づいてくる。
尊の胸が一気に高鳴った。フロントガラスの向こうに、真輝の顔を見つけたからだ。
真輝は尊に気づいて、目を丸くした。少し荒く車を停めると、慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? あの、ここで何を?」
「すみません。あの、どうしてもお目に掛かりたくて。でも、いつ来たらいいのかわからなかったものですから。今、よろしいですか?」
「え? えぇ」
きょとんとしている真輝に、彼は内ポケットから白い封筒を取り出した。
「先日は突然すみませんでした。でも、あれは酔っぱらいの勢いじゃなくて、本気なんです。募集もかかってないのに失礼かとは思ったんですけど」
そう言って、白い封筒を真輝に差し出す。
「これ、俺の履歴書です。今日はあらためてお願いに参りました。俺、ここで働きたいんです。面接だけでもお願いします!」
真輝は黙って履歴書を受け取った。その顔は戸惑ってはいるものの、何を考えているのか読めなかった。
彼女がなんと言うか怖くなり、尊は一気にしどろもどろになって、こう付け加えた。
「あの、お手すきでしたら、あの、ご一考ください。忙しい時間に押し掛けちゃってすみません。あの、俺、出直してきます! あの、失礼しました!」
履歴書を受け取ってもらった途端に気が抜けた尊は、『あの』を連発しながら、脇の下を冷たい汗が伝うのを感じていた。
勢いよくお辞儀をし、駅のほうへ歩き出す。
「あの!」
恐る恐る振り返る。今の『あの』は尊の声ではなく、真輝が履歴書を胸に抱くように持ち、呼び止めたのだった。
そして、こう言った。
「今日、七時くらいにお店に来ていただけますか?」
閑散として車も通らない道をカラスが飛び跳ね、靴音がやたら大きく響くのが寒々しい。誰もいない路地は薄暗く、下ろされたシャッターがどことなく切ない気持ちにさせた。
そして、琥珀亭の階段前にもシャッターが下りて、中の様子がまったく見えなかった。
尊はシャッターの前で、小さな建物を見上げた。築何十年かわからないが、古い造りの壁に、灯りの消えた琥珀亭の看板が突き出ている。
ここが、俺の居場所になってくれたらいいのに。
そう願ったとき、辺りに轟音が響き渡った。耳に手を当てても騒々しいと感じるほどのけたたましさは、自衛隊の戦闘機が飛ぶ音だった。
普段なら苦い顔をするのだが、この日は別だった。
飛行機みたいにどこかに飛んでいきたいと願っていただけの自分が、その足で飛行機に乗らせて欲しいと頭を下げに来ている。そんな状況にいた尊には騒音ともいえる戦闘機の音も、『戦闘機にだって乗れるかもしれないよ』という声援に聞こえたのだった。
尊が午前中から店の前で真輝を待ち伏せしようと考えたのは、彼女が何時に店に顔を出すのかわからなかったからだった。そもそも、開店時間すら知らなかった。営業時間に行くのが迷惑になるのか、はたまた開店前に行く方が迷惑なのかも判断できない。
少なくとも、客のいる時間帯ではないほうがいいと思い立ち、彼はこうしてスーツ姿で店の前に来たのだった。もし開店前で都合が悪ければ出直せばいいし、何度でも足を運ぶつもりだった。
尊はシャッターを背に待ち続けた。
昼が過ぎ、腹が鳴り、三時を過ぎる頃にはしゃがみたくなった。けれど、彼はずっと立ち尽くした。あの彼女の姿を今か今かと待ちわびながら。
昨日の寝不足もたたっている尊をそうまでさせたのは、何もしないうちにこの仕事と真輝との縁が切れるのは嫌だという、焦りにも似た強い想いからだった。
だが、腕時計の針が午後四時を過ぎた頃、とうとう『これは出直したほうがいいのかな』という考えがよぎった。
そもそも定休日も知らないことに気づいたのだ。今日が休みだったら、とんだ間抜けだと項垂れる。
そのときだった。通りの向こうから一台の車が近づいてくる。
尊の胸が一気に高鳴った。フロントガラスの向こうに、真輝の顔を見つけたからだ。
真輝は尊に気づいて、目を丸くした。少し荒く車を停めると、慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? あの、ここで何を?」
「すみません。あの、どうしてもお目に掛かりたくて。でも、いつ来たらいいのかわからなかったものですから。今、よろしいですか?」
「え? えぇ」
きょとんとしている真輝に、彼は内ポケットから白い封筒を取り出した。
「先日は突然すみませんでした。でも、あれは酔っぱらいの勢いじゃなくて、本気なんです。募集もかかってないのに失礼かとは思ったんですけど」
そう言って、白い封筒を真輝に差し出す。
「これ、俺の履歴書です。今日はあらためてお願いに参りました。俺、ここで働きたいんです。面接だけでもお願いします!」
真輝は黙って履歴書を受け取った。その顔は戸惑ってはいるものの、何を考えているのか読めなかった。
彼女がなんと言うか怖くなり、尊は一気にしどろもどろになって、こう付け加えた。
「あの、お手すきでしたら、あの、ご一考ください。忙しい時間に押し掛けちゃってすみません。あの、俺、出直してきます! あの、失礼しました!」
履歴書を受け取ってもらった途端に気が抜けた尊は、『あの』を連発しながら、脇の下を冷たい汗が伝うのを感じていた。
勢いよくお辞儀をし、駅のほうへ歩き出す。
「あの!」
恐る恐る振り返る。今の『あの』は尊の声ではなく、真輝が履歴書を胸に抱くように持ち、呼び止めたのだった。
そして、こう言った。
「今日、七時くらいにお店に来ていただけますか?」