「あら、今日はバイト休みでしょ? ずいぶん早いのね」

 顔を洗い終わった尊に、母親が目を丸くした。早いと言っても、時計の針は午前十時を過ぎたところだった。

「うん、ちょっとね」

 湿ったタオルを洗濯かごに放り込み、念入りに髪を整える。

「もしかして、デート?」

 露骨にわくわくしている母親を無視し、尊はそそくさと自分の部屋に戻った。

「デートより緊張するよ」

 独り言を漏らしながら、クローゼットから取り出したのは、賢太郎の会社に行ったときと卒業式で着ただけの、あのリクルートスーツだった。

「久々の出番だぞ」

 何故かスーツに話しかけながら、カバーを取り去った。
 着慣れないワイシャツは襟元が窮屈で、ネクタイの結ぶのも一苦労だった。
 鏡の前に立ち、彼は自分の姿に顔をしかめた。賢太郎のようにスーツを着こなせず、どこか不格好に見えた。

「でも、これがはじめの一歩なんだ。踏み出さなきゃならないんだ」

 そう鏡の中の自分を励ますように、まるで呪文のように唱えた。
 玄関で革靴を出すと、普段から手入れもろくにしていないせいか、少し埃っぽかった。慌ててリビングからティッシュを取ってきて拭く。

「あらまぁ、今日は面接なの?」

 母親が背後で興味津々の声を上げている。

「それとも、まさか彼女のご両親にご挨拶とかじゃないでしょうね?」

「まさに、まさかだ」

 げんなりして埃まみれの丸めたティッシュを母親に渡した。

「今日、昼メシはいらないよ」

「あら、そう。いってらっしゃい」

 玄関を出ると、扉の向こうで「尊、頑張れ!」という母親のエールが響いていた。
 思わず苦笑するが、すぐに唇を引き締めた。
 アスファルトを鳴らす靴音が鼓笛隊の太鼓のように快く、まるで『たまには、覚悟を見せるときがあってもいいんじゃないかな』と背中を押しているように聞こえた。