「このたびは卒業おめでとう」
スーツ姿の松中尊は壇上でスピーチする学長をぼんやり眺めていた。
冗長な挨拶を聞き流す彼は、端正な顔立ちをしているものの、目に活力がなかった。座席にだらしなく背を預け、着慣れないスーツのせいか窮屈そうな面持ちだった。大学の卒業式というめでたい場のはずだが、彼の心中は鬱屈したものだった。
「今まで得た知識や経験を糧に、社会で羽ばたいて......」
学長の言葉に、尊は眉をつり上げた。あいにく、今までもこれからも、自分には何もない。そんな言葉を吐きそうになり、ぐっと唇を噛む。
北海道札幌市にある四年制大学を卒業したところで、就職先も見つからず、仕方なしに実家に戻るのだ。この式を終え、アパートに帰れば、引越しの準備が待っている。
式が終わると、写真撮影や別れの挨拶で賑わう人混みをすり抜け、足早に地下鉄の駅に向かった。
卒業式シーズンとはいえ、札幌市ではまだ桜が咲くのは先だ。冷たい向かい風が容赦なく尊に吹きつけ、惨めさを誘った。
歩道脇の汚い雪がまるで自分のようだ。彼はそう思い、大きなため息を漏らしたのだった。
可もなく不可もなく。
尊にとって、実家のある北海道千歳市を一言で表現すると、そうなる。
千歳市は石狩平野の南端にある街だ。『千歳』という名前は、昔、このあたりに鶴が沢山いたからだというが、今では見かけない。
田舎というほどでもなく、都会というほどでもない。雄大な支笏湖があり、白鳥や遡上する鮭も見ることができるという自然に恵まれている一方で、新千歳空港があるため北の空の玄関口として賑わう一面もある。自衛隊の基地があり、ブルーインパルスでは大勢の見物人が集まる。札幌市へは快速電車で三十分ほどあれば行けるということもあって、尊はとりわけ不便を感じることはなかった。
だが、彼はなんとなく千歳市が嫌いだった。何故なら彼の胸を躍らせるものが何もなかったのだ。
とはいっても、松中尊という男はいまだかつて何かに夢中になったことがない男だった。
彼は自分の名前を説明するとき、『尊敬の尊でタケル』だと言うようにしていたが、とんだ名前負けだといつも思うのだった。
彼は誰にも尊敬されはせず、尊敬する相手もいない。
成績は悪くもないが、よくもない。ずば抜けて得意なものもない。特に誇れるものもない。
そう、彼こそ『可もなく不可もなく』という言葉が似合う男だった。尊は勝手に、生まれた街を自分自身に重ね、似ているからこそ嫌っていた。
だが、たった一つだけ、この街に空港があることは気に入っていた。
新千歳空港から毎日大勢の人々が降り立ち、そしてまた旅立って行く。空を見上げると、これから飛び立とうとする飛行機の白い機体が青い空に映えていることがよくあった。それをぼんやりと見送りながら、夢心地になれた。
「あぁ、俺もいつか新しい世界に旅立ちたいな」
そんなことを考え、彼は眩しそうに空を見上げるのだ。
しかし、自分がどこに行くのか、いや、どこへ行きたいのかもわからないまま、彼は大学を卒業してしまった。
何もわからないのは高校生の頃から変わらない。登校しながら、何をしたくて学校に行き、何をするために大学受験するんだろうと、よく考えていた。そんな彼には、飛行機がとてつもなく遠い存在に思えた。
結局はなんとなく四年制の大学に進学し、なんとなく卒業したというわけだ。
実家に戻った尊はまずアルバイトを始めた。就職活動に必要な経費のためと、家にいれるお金のためだった。
人間は生きているだけでお金がかかるものだと、彼の心はますます重くなったが、それでも何度目かの面接で飲み屋街にほど近いところにある喫茶店で雇ってもらえたときは少しだけ顔つきが明るくなった。
喫茶店は昭和の佇まいが漂う落ち着いた店で、高齢のマスターが一人で経営していた。彼はそこで美味しいコーヒーの入れ方と軽食の作り方を学び、人柄のいいマスターとのんびり暮らし始めた。
だが、実家では食事にありついている間、母から決まってこう言われる。
「今日もハローワーク行くんでしょ?」
「そのハの字だけで心に三トンの重しを乗せられた気分だよ、母さん」
「ふざけてないで、ちゃんと面接行きなさい。当たって砕けろよ」
砕けたらどうすればいいんだと、尊は眉をしかめて味噌汁を飲み干す。
週に一度はハローワークに通っていたものの、面接に行く勇気が持てずにいたのだ。どうしても『俺なんか採用されるのか』とか『俺にできるのか』という思いから尻込みしてしまうのだった。
スーツ姿の松中尊は壇上でスピーチする学長をぼんやり眺めていた。
冗長な挨拶を聞き流す彼は、端正な顔立ちをしているものの、目に活力がなかった。座席にだらしなく背を預け、着慣れないスーツのせいか窮屈そうな面持ちだった。大学の卒業式というめでたい場のはずだが、彼の心中は鬱屈したものだった。
「今まで得た知識や経験を糧に、社会で羽ばたいて......」
学長の言葉に、尊は眉をつり上げた。あいにく、今までもこれからも、自分には何もない。そんな言葉を吐きそうになり、ぐっと唇を噛む。
北海道札幌市にある四年制大学を卒業したところで、就職先も見つからず、仕方なしに実家に戻るのだ。この式を終え、アパートに帰れば、引越しの準備が待っている。
式が終わると、写真撮影や別れの挨拶で賑わう人混みをすり抜け、足早に地下鉄の駅に向かった。
卒業式シーズンとはいえ、札幌市ではまだ桜が咲くのは先だ。冷たい向かい風が容赦なく尊に吹きつけ、惨めさを誘った。
歩道脇の汚い雪がまるで自分のようだ。彼はそう思い、大きなため息を漏らしたのだった。
可もなく不可もなく。
尊にとって、実家のある北海道千歳市を一言で表現すると、そうなる。
千歳市は石狩平野の南端にある街だ。『千歳』という名前は、昔、このあたりに鶴が沢山いたからだというが、今では見かけない。
田舎というほどでもなく、都会というほどでもない。雄大な支笏湖があり、白鳥や遡上する鮭も見ることができるという自然に恵まれている一方で、新千歳空港があるため北の空の玄関口として賑わう一面もある。自衛隊の基地があり、ブルーインパルスでは大勢の見物人が集まる。札幌市へは快速電車で三十分ほどあれば行けるということもあって、尊はとりわけ不便を感じることはなかった。
だが、彼はなんとなく千歳市が嫌いだった。何故なら彼の胸を躍らせるものが何もなかったのだ。
とはいっても、松中尊という男はいまだかつて何かに夢中になったことがない男だった。
彼は自分の名前を説明するとき、『尊敬の尊でタケル』だと言うようにしていたが、とんだ名前負けだといつも思うのだった。
彼は誰にも尊敬されはせず、尊敬する相手もいない。
成績は悪くもないが、よくもない。ずば抜けて得意なものもない。特に誇れるものもない。
そう、彼こそ『可もなく不可もなく』という言葉が似合う男だった。尊は勝手に、生まれた街を自分自身に重ね、似ているからこそ嫌っていた。
だが、たった一つだけ、この街に空港があることは気に入っていた。
新千歳空港から毎日大勢の人々が降り立ち、そしてまた旅立って行く。空を見上げると、これから飛び立とうとする飛行機の白い機体が青い空に映えていることがよくあった。それをぼんやりと見送りながら、夢心地になれた。
「あぁ、俺もいつか新しい世界に旅立ちたいな」
そんなことを考え、彼は眩しそうに空を見上げるのだ。
しかし、自分がどこに行くのか、いや、どこへ行きたいのかもわからないまま、彼は大学を卒業してしまった。
何もわからないのは高校生の頃から変わらない。登校しながら、何をしたくて学校に行き、何をするために大学受験するんだろうと、よく考えていた。そんな彼には、飛行機がとてつもなく遠い存在に思えた。
結局はなんとなく四年制の大学に進学し、なんとなく卒業したというわけだ。
実家に戻った尊はまずアルバイトを始めた。就職活動に必要な経費のためと、家にいれるお金のためだった。
人間は生きているだけでお金がかかるものだと、彼の心はますます重くなったが、それでも何度目かの面接で飲み屋街にほど近いところにある喫茶店で雇ってもらえたときは少しだけ顔つきが明るくなった。
喫茶店は昭和の佇まいが漂う落ち着いた店で、高齢のマスターが一人で経営していた。彼はそこで美味しいコーヒーの入れ方と軽食の作り方を学び、人柄のいいマスターとのんびり暮らし始めた。
だが、実家では食事にありついている間、母から決まってこう言われる。
「今日もハローワーク行くんでしょ?」
「そのハの字だけで心に三トンの重しを乗せられた気分だよ、母さん」
「ふざけてないで、ちゃんと面接行きなさい。当たって砕けろよ」
砕けたらどうすればいいんだと、尊は眉をしかめて味噌汁を飲み干す。
週に一度はハローワークに通っていたものの、面接に行く勇気が持てずにいたのだ。どうしても『俺なんか採用されるのか』とか『俺にできるのか』という思いから尻込みしてしまうのだった。