那智はカッターシャツの袖をぐっと捲ると、よし、と言ってチョークを取った。

「じゃあ、リオ。高校生活でやり残したこと挙げてって」

「ええ? そんな突然言われても……」

 記憶を遡り、自分が参加しなかった学校行事を思い浮かべる。

「ええと、夏の体育祭」

「おお。それな」

 言いながら、那智は黒板に『体育祭』と書いた。

「あと、球技大会もあったよね、確か」

「『球技大会』、と。ん? あれって何やったんだっけ?」

「各クラス、バスケとバレーのどっちか好きな方に参加、とかじゃなかった?」

「なるほど」

「ていうか那智、全然覚えてないね?」
 
 那智はごまかすように、あははと笑う。

「ほらリオ。次は?」

 ったく。勝手なんだから。

「マラソン大会。これは別にやりたくはなかったな。あと、文化祭」

「文化祭はコロナで中止だったな」

「そうそう。合唱したかったのに、私」

『転校生の子』だった私が唯一、クラスの一員になれたと錯覚できる時間。だから、子供の頃から私は合唱が好きだった。

「へえ、歌好きなんだ? リオ」

「まあね。あとは……あっ、修学旅行!」

「おっ。メインイベント来たな。『修学旅行』、と。こんなもんか?」

 黒板に書かれた文字を見ながら那智が言う。イベントはこのくらいだったはずだ。他にやり残したこと……やり残したこと……。

「……あ」

 思いついたけれど、私は口にするのを躊躇った。これを彼に言うのはちょっと恥ずかしい気もする。

「何。全部言っちゃえよ、リオのやりたいこと」

「……友達と、教室でおしゃべりしたり。彼氏作って、放課後デートしたり、とか……」

 もごもごと答えると、那智は優しく笑って再び黒板に向かった。

『友達とおしゃべり』『恋人とデート』が那智の字で加えられる。

「いいじゃん。それこそ青春って感じで」

 いざ、肯定されるとますます恥ずかしくなる。私は、そんなことがやりたかったのか。ていうか、那智は彼女とかいないんだろうか。

「ねえ、那智は何か無いの、やり残したこと」

「え? もう全部リオが挙げてくれたから。最後のやつ含めて」

 ニヤッと笑う。那智は結構ズルい。何となくわかってきた。

 那智はチョークを黒板の溝に戻すと、両手で軽く粉を払った。

「よし。じゃあ、一週間でこれ全部やろう」

「え? ぜ、全部?」

 さすがにハードスケジュールすぎると思う。『修学旅行』とか明らかに無理でしょ。でも、那智は平然とした顔で「大丈夫だって」と笑った。世界一当てにならない「大丈夫」だ。

「でもさ、リオ。気付いてるか? 『友達とおしゃべり』はもうクリアできたぞ? この数時間、リオと俺、ずっとしゃべってる」

 ――あ。確かに。言われて初めて気付いた。

「だから大丈夫、全部できるって。俺を信じろ」

 馬鹿みたい。そう思ったけど。

「わかった、那智を信じる」

 そう言って、私は那智に笑顔を向けた。蝉の合唱はいつの間にか大音量になっていた。