誰もいないはずの教室に風が吹いたあの朝のこと、ずっと忘れない。
三年二組の教室は校舎の二階にある。今から一年と三ヶ月前、この学校へ初めて来た時から教室の場所は変わっていない。ほとんどここへは来ていないのに、不思議なもので教室の場所はしっかりと覚えていた。
鍵は開けてあるから、という藤本先生の言葉通り、誰もいない教室の扉は半分程開け放したままになっている。手を掛け、扉を引く。正面の窓も開いていて、風が入ってきた。最近は至るところで換気が叫ばれるようになった。電車の中や、お店や、勿論家の中でも。この町みたいに気候が良ければ問題はないけれど、雪国とかだとちょっと嫌かもしれない。私は寒いのが苦手なのだ。
風に気を取られていた私は、自分の机の方に目をやって初めて、誰もいないはずの教室に誰かがいることに気付いた。
私の席には、知らない人が眠っている。男の子のようだ。ひょっとして席替えでもしたのかと、机の側面に貼られているネームシールを確認するが、そこには確かに「大澤理央」と印字されていた。やっぱり、ここは私の席のままだ。となると、この人は席を間違えたのか、教室を間違えたのか、それとも不審者か。それにしても、こんな夏休み初日の午前中から、誰もいない教室で一体何をやってるんだろう? とにかくそこをどいてもらわないと、机の中に転がっているはずの私のシャープペンが取れない。
たかがシャープペン一本くらい、諦めたって良かったのに、私は何故か粘りたくなった。特に思い入れのある物でもないのに。
私は、彼が座る私の席の一つ前にある、顔もよく思い出せないクラスメイトの席を拝借し、彼の方を向いて座った。椅子の背もたれに両腕を乗せて、目の前にいる見知らぬ男の子の寝顔をじっと見つめる。
窓からそよぐ風が、私と、私の目の前で眠っている彼の頬を同時に撫でる。
んん……、と小さな声を出して、彼は身体を僅かに揺らした。
その時、ガタンッ、と扉の方から物音がした。咄嗟に振り向いたけれど、何も変わったことはなかった。
「ん……。誰……?」
物音で目を覚ましたのか、男の子はゆらりと顔を上げると、ぼやっとした顔で目の前にいる私に視線を向けた。寝起きだからか焦点があまり合っていないみたいだ。
「いや、こっちの台詞だから。そこ、私の席」
同じ学校の制服を着ているところをみると、不審者ではなさそうだ。
「え……? ここは俺の席……」
まだ寝ぼけているようなので、私は机の側面に貼られたネームシールをコツコツと指で叩いた。
「こ・れ。私の名前なんだけど?」
彼は怪訝な顔で座ったまま机の横を覗き込む。
「……オオサワ、リオ?」
「はい」
「——リオ。いい名前だな」
そう言って、ふわりと笑った。不意すぎて、思わずドキッとした。
「で、リオはここで何してるわけ?」
いきなり呼び捨てか。それに、完全にこちらの台詞だ。私は警戒心剥き出しの目で、彼を睨む。
「そんな睨むなって、リオ」
まあ、いい。この人と会うのも最初で最後なんだから。
「私、転校するの。あなたが座っているその机の中に置き忘れたシャープペンを取りに来ただけ。だから、早くそこどいてくれない?」
私の言葉に、彼は机の中に片手でを突っ込むと、あっ、と言ってシャープペンを一本取り出した。
「これ?」
何の変哲もない、ブルーのシャープペン。
「そう、それ」
彼の手から奪おうとすると、ひょいと交わされてしまった。
「……ちょっと、何? 返してよ」
彼はニッと笑った。
「もうちょっとだけ付き合ってくれたら返してあげる」
何、この人。関わりたくないタイプ。
私は小さくため息を吐いた。
シャープペン一本くらい、諦めて帰ったって良かったのに。どうしてこの時に限って、私は諦めなかったんだろう。
「その顔は付き合ってくれるってことでオッケー? リオの話、もっと聞かせてよ」
三年二組の教室は校舎の二階にある。今から一年と三ヶ月前、この学校へ初めて来た時から教室の場所は変わっていない。ほとんどここへは来ていないのに、不思議なもので教室の場所はしっかりと覚えていた。
鍵は開けてあるから、という藤本先生の言葉通り、誰もいない教室の扉は半分程開け放したままになっている。手を掛け、扉を引く。正面の窓も開いていて、風が入ってきた。最近は至るところで換気が叫ばれるようになった。電車の中や、お店や、勿論家の中でも。この町みたいに気候が良ければ問題はないけれど、雪国とかだとちょっと嫌かもしれない。私は寒いのが苦手なのだ。
風に気を取られていた私は、自分の机の方に目をやって初めて、誰もいないはずの教室に誰かがいることに気付いた。
私の席には、知らない人が眠っている。男の子のようだ。ひょっとして席替えでもしたのかと、机の側面に貼られているネームシールを確認するが、そこには確かに「大澤理央」と印字されていた。やっぱり、ここは私の席のままだ。となると、この人は席を間違えたのか、教室を間違えたのか、それとも不審者か。それにしても、こんな夏休み初日の午前中から、誰もいない教室で一体何をやってるんだろう? とにかくそこをどいてもらわないと、机の中に転がっているはずの私のシャープペンが取れない。
たかがシャープペン一本くらい、諦めたって良かったのに、私は何故か粘りたくなった。特に思い入れのある物でもないのに。
私は、彼が座る私の席の一つ前にある、顔もよく思い出せないクラスメイトの席を拝借し、彼の方を向いて座った。椅子の背もたれに両腕を乗せて、目の前にいる見知らぬ男の子の寝顔をじっと見つめる。
窓からそよぐ風が、私と、私の目の前で眠っている彼の頬を同時に撫でる。
んん……、と小さな声を出して、彼は身体を僅かに揺らした。
その時、ガタンッ、と扉の方から物音がした。咄嗟に振り向いたけれど、何も変わったことはなかった。
「ん……。誰……?」
物音で目を覚ましたのか、男の子はゆらりと顔を上げると、ぼやっとした顔で目の前にいる私に視線を向けた。寝起きだからか焦点があまり合っていないみたいだ。
「いや、こっちの台詞だから。そこ、私の席」
同じ学校の制服を着ているところをみると、不審者ではなさそうだ。
「え……? ここは俺の席……」
まだ寝ぼけているようなので、私は机の側面に貼られたネームシールをコツコツと指で叩いた。
「こ・れ。私の名前なんだけど?」
彼は怪訝な顔で座ったまま机の横を覗き込む。
「……オオサワ、リオ?」
「はい」
「——リオ。いい名前だな」
そう言って、ふわりと笑った。不意すぎて、思わずドキッとした。
「で、リオはここで何してるわけ?」
いきなり呼び捨てか。それに、完全にこちらの台詞だ。私は警戒心剥き出しの目で、彼を睨む。
「そんな睨むなって、リオ」
まあ、いい。この人と会うのも最初で最後なんだから。
「私、転校するの。あなたが座っているその机の中に置き忘れたシャープペンを取りに来ただけ。だから、早くそこどいてくれない?」
私の言葉に、彼は机の中に片手でを突っ込むと、あっ、と言ってシャープペンを一本取り出した。
「これ?」
何の変哲もない、ブルーのシャープペン。
「そう、それ」
彼の手から奪おうとすると、ひょいと交わされてしまった。
「……ちょっと、何? 返してよ」
彼はニッと笑った。
「もうちょっとだけ付き合ってくれたら返してあげる」
何、この人。関わりたくないタイプ。
私は小さくため息を吐いた。
シャープペン一本くらい、諦めて帰ったって良かったのに。どうしてこの時に限って、私は諦めなかったんだろう。
「その顔は付き合ってくれるってことでオッケー? リオの話、もっと聞かせてよ」