二〇二二年七月二十日。夏休みの始まりは、運命の始まり。
 
 
 夏は夜が良い、と言ったのは清少納言だった。あいにくだけど、私は朝が良いと思っている。それも明け方。まだ暑さが鳴りを潜めている時間帯。夜と朝の間で、世界がどこか油断しているような、そんな空気が気に入っている。この町は海が近いから、風は潮の香りがする。それがまた良い。だから、夏はあけぼの。
 
 夏休み初日の学校は、いくつかの部活が朝から活動をしていた。
 たとえば転校の心配も無く、三年間を同じ学校で過ごせるとしたら、私は何部を選んだだろうか。憧れたものはたくさんあった。あったけれど、全て諦めてきた。いついなくなるかもわからないような部員を抱えるなど、どの部活だってごめんだろう。
 
 グラウンドを横目に、校舎の中へ入って職員室へと向かう。職員室は校舎の一階、下駄箱のすぐそばにある。
 
「大澤。良かった、来てくれて。しかしなんだ、ずいぶん早いな」

 担任の藤本先生は四十路手前で、私の中では「理想のお父さん」的な人だ。温厚で朗らか。裏表の無さそうな笑顔に、つい心を許してしまいそうになる。転入してからほとんど登校していない私のこともすぐに覚えてくれた、なかなか稀有な人だ。

「朝の方が好きなので。それに、勉強以外やることもないし」

 そう答えると、先生はハハッと声を出して笑った。目尻の皺が人の良さを物語っている。

「おいおい、高校最後の夏にそんな悲しいこと言うなよ。勉強なんかより大事なもんは世の中にいっぱいあるんだぞ?」

「受験生に言う台詞とは思えません」

 藤本先生は楽しそうに笑っている。
 
 今日、私がここへ来たのは、通知表を受け取る為。それと、机の中に置き忘れたシャープペンを取りに来る為。

「はい、これ。通知表。なかなかクラスには出てこられなかったけど、良く頑張ったな」

 手渡された通知表を開くと、5が並んでいた。昔から、勉強はわりと得意な方なのだ。

「ありがとうございます。短い間でしたけど、お世話になりました」

 そう言って目の前の先生に頭を下げる。夏休み初日の早朝、職員室には藤本先生しかいない。この人と会うのも、この学校へ来るのも今日で最後だ。ろくに登校もしていないから、それほどセンチメンタルになることもない。

「いやいや、こちらこそ。何と言うか、その……お前も大変だな、ご両親のこと。引越しや転校ばっかりで」

 ストレスの原因は恐らく両親にある、と先生は思っているだろう。実際、そうなのかもしれない。だけど、別にもうどうでもいい。これが私の人生だ。いろんなことを諦める現実に、変わりは無い。それに、期待しなければ落ち込むことは無い。
 でも先生はきっと違う。流れに抗い、自分の進みたい方へ歩いていける、強い足をもっている。だからこそ、私みたいな人間の気持ちはわからないと思う。

「でもな大澤。どんな夜でも必ず朝が来るだろ? だから、お前も諦めるな、いろんなこと。我慢するな。今が永遠に続くなんてありえないんだから。な」
 
 藤本先生は私の目を真っ直ぐに見て、力強くそう言った。先生はやっぱり良い人だ。