夕飯を終え、しばらく他愛もない話をした後、帰宅する先生を階下まで見送った。既に店のシャッターは下ろしてあり、出入りには店の裏にある勝手口を使うことになっている。扉を開けると、夏の湿った夜風が肌にまとわりついた。やっぱり夏は、朝の方が好きだ。

「ここでいいよ、大澤。ありがとな、いつも見送ってくれて」

 扉から半身を外に出し、いつまでも暑いなぁ、と言いながら先生は額の汗を拭う。

「当然です。先生にはお世話になりっぱなしなんで。もう足を向けて寝られません」

 先生は楽しそうに笑う。優しい顔だ。

「本当ですよ? だって先生がいなかったら私、きっと途方に暮れていたから」

 両親の前では威勢よく息巻いたものの、少し冷静になってみると、現実は壁だらけだった。先生を頼ることを選べた私は幸運だったと思うし、その判断ができたあの時の自分を誉めてあげたいと思う。

「じゃあ、大澤はもう、先生の言うことには逆らえないな?」

「はい」

「何でも言うこと聞くか?」

「何なりと。仰せのままに」

 冗談ぽくそう返すと、先生は一瞬、真顔になって私を見つめた。

「なら……本当に、嫁さんになってくれるか?」

 ——え?

 さきほどの澄子さんの言葉が蘇る。いやいや、あれは冗談でしょう?

「あ、あの、私……」

 こういう時はどう答えるのが正解なんだろうか。そもそも私はどう思っているんだろう?
 戸惑う私を見て、先生はプッと笑った。

「なーんて、な。冗談だよ、ごめん」

「え……ええっ⁉ 何それ!」

 先生は目を細めておかしそうに笑う。

「ごめんごめん。母さんがおかしなこと言ったから、つい調子に乗っちゃってな。安心しろ、大事な生徒に手を出したりなんかしないから」

 そう言って、私の頭をポン、と撫でた。

「おやすみ、大澤。また明日」

「……おやすみなさい」
 
 夜の帳に消えていく先生の背中を見送ってから、私は扉を閉めた。
 二学期からは、勇気を出して学校へ行こう。どんな顔をして那智と会えばいいのかはわからない。でも、たとえ那智が私を避けたとしても、残りの高校生活は後悔の無いように過ごそう。私は、その為にここに残ったのだから。