いろんなことを諦めるな。そう言ったのは藤本先生だった。それがあったから、町へ戻ってきた私が真っ先に頼ったのは先生だった。学校を辞めたはずの私が突然現れて、先生は目を丸くした。でも、事情を話すとすぐに理解してくれた。そればかりか、先生の実家の部屋が余っているからと、卒業までの間、私を置いてくれることになった。
藤本先生の実家は、高校のある駅から一駅だけ離れた商店街の中にある、たこ焼き屋——那智と行った、あの店だった。
「世間は狭いわねぇホント! まさか、理央ちゃんが雅紀の教え子だったとはねぇ」
たこ焼き屋のおばさん、もとい、先生のお母さんである澄子さんは、カラカラと笑いながら言った。先生の実家は一階がたこ焼き屋で、二階と三階が居住スペースになっている。先生は既に実家を出て、高校の近くで一人暮らしをしている。私が使わせてもらうことになった部屋は、先生がかつて使っていたという部屋だった。
「雅紀が理央ちゃんを連れて来た時は驚いたけど、娘ができたみたいで嬉しいわぁ」
二階にある台所で、私は澄子さんの夕食作りを手伝っている。澄子さんは早くに旦那さんを亡くしていて、ずっと先生と母子二人で生きてきたという。澄子さんはいつも明るくて、一緒にいると私も楽しくなってしまう。そんな素敵な人だった。こんなお母さんだから、藤本先生も優しい人なんだろうな、きっと。
「私も、母とこんなふうに台所に並んだことがなかったから……なんか、嬉しいです」
この家に来て一週間。私はすっかり澄子さんと打ち解けている。藤本先生は私がここにお世話になり始めてからというもの、毎日晩ご飯には帰って来る。きっと、私のことを心配して、様子を見に来てくれているんだろう。
「でも理央ちゃんがヒロちゃんの彼女さんとはねぇ。それにも驚いちゃったわ」
澄子さんがネギを刻みながら笑う。
那智の名前を久しぶりに聞いた気がして、一瞬ドキッとした。
あれから、那智とは連絡が取れないままだ。あの日のラインは未だに既読が付かず、電話もやっぱり繋がらないままだった。
「ヒロちゃんは元気にしてる?」
そう聞かれたけれど、私にもわからない。
「——はい、元気ですよ」
だから、そう嘘をつくしかなかった。
「いただきます」
澄子さんと、先生と、私。三人で小さな食卓を囲む。この一週間ですっかり当たり前になりつつある毎晩の光景だ。
「うん——美味い」
野菜と鶏肉の入った煮物を口にして、先生が言う。
「それは理央ちゃんが作ったのよ。上手でしょ?」
「澄子さんにいっぱい手伝ってもらったんですよ」
先生は私たちのやり取りに終始、にこにこしながら煮物を頬張っている。
「すごいな、大澤。ほんとに美味しいよ」
「あ、ありがとうございます……」
先生に褒められると照れてしまう。自分が出来る子だと錯覚しそうになる。
「雅紀。あんた、理央ちゃんをお嫁さんにしたら?」
ぶほっ、と大きな音を立てて先生がお茶を噴き出した。
「ちょっと! 汚いねえ、この子は!」
「か、母さんがバカなこと言うからだろう⁉︎ 大澤は俺の生徒だぞ⁉︎」
先生はむせたからか、耳まで真っ赤だ。
「そんなの、あと半年もすれば卒業じゃないの。だいたいあんたはいい歳していつまでも一人で……」
「もうその話はいいって!」
「良くない! あんた、いくつだと思ってんの? その歳で家庭の一つや二つ築いてなくてどうすんの!」
「家庭を二つも築いたらおかしいだろ!」
私は、そんな二人のやり取りを眺めながら、声を出して笑った。穏やかで温かい、家族の姿がそこにはあった。
藤本先生の実家は、高校のある駅から一駅だけ離れた商店街の中にある、たこ焼き屋——那智と行った、あの店だった。
「世間は狭いわねぇホント! まさか、理央ちゃんが雅紀の教え子だったとはねぇ」
たこ焼き屋のおばさん、もとい、先生のお母さんである澄子さんは、カラカラと笑いながら言った。先生の実家は一階がたこ焼き屋で、二階と三階が居住スペースになっている。先生は既に実家を出て、高校の近くで一人暮らしをしている。私が使わせてもらうことになった部屋は、先生がかつて使っていたという部屋だった。
「雅紀が理央ちゃんを連れて来た時は驚いたけど、娘ができたみたいで嬉しいわぁ」
二階にある台所で、私は澄子さんの夕食作りを手伝っている。澄子さんは早くに旦那さんを亡くしていて、ずっと先生と母子二人で生きてきたという。澄子さんはいつも明るくて、一緒にいると私も楽しくなってしまう。そんな素敵な人だった。こんなお母さんだから、藤本先生も優しい人なんだろうな、きっと。
「私も、母とこんなふうに台所に並んだことがなかったから……なんか、嬉しいです」
この家に来て一週間。私はすっかり澄子さんと打ち解けている。藤本先生は私がここにお世話になり始めてからというもの、毎日晩ご飯には帰って来る。きっと、私のことを心配して、様子を見に来てくれているんだろう。
「でも理央ちゃんがヒロちゃんの彼女さんとはねぇ。それにも驚いちゃったわ」
澄子さんがネギを刻みながら笑う。
那智の名前を久しぶりに聞いた気がして、一瞬ドキッとした。
あれから、那智とは連絡が取れないままだ。あの日のラインは未だに既読が付かず、電話もやっぱり繋がらないままだった。
「ヒロちゃんは元気にしてる?」
そう聞かれたけれど、私にもわからない。
「——はい、元気ですよ」
だから、そう嘘をつくしかなかった。
「いただきます」
澄子さんと、先生と、私。三人で小さな食卓を囲む。この一週間ですっかり当たり前になりつつある毎晩の光景だ。
「うん——美味い」
野菜と鶏肉の入った煮物を口にして、先生が言う。
「それは理央ちゃんが作ったのよ。上手でしょ?」
「澄子さんにいっぱい手伝ってもらったんですよ」
先生は私たちのやり取りに終始、にこにこしながら煮物を頬張っている。
「すごいな、大澤。ほんとに美味しいよ」
「あ、ありがとうございます……」
先生に褒められると照れてしまう。自分が出来る子だと錯覚しそうになる。
「雅紀。あんた、理央ちゃんをお嫁さんにしたら?」
ぶほっ、と大きな音を立てて先生がお茶を噴き出した。
「ちょっと! 汚いねえ、この子は!」
「か、母さんがバカなこと言うからだろう⁉︎ 大澤は俺の生徒だぞ⁉︎」
先生はむせたからか、耳まで真っ赤だ。
「そんなの、あと半年もすれば卒業じゃないの。だいたいあんたはいい歳していつまでも一人で……」
「もうその話はいいって!」
「良くない! あんた、いくつだと思ってんの? その歳で家庭の一つや二つ築いてなくてどうすんの!」
「家庭を二つも築いたらおかしいだろ!」
私は、そんな二人のやり取りを眺めながら、声を出して笑った。穏やかで温かい、家族の姿がそこにはあった。