あの時きっと、君以上に僕の方が動揺していたんだろうな。
 
 
「——リオ?」

 那智の声でハッと我に返る。

「どうした? さっきからぼうっとして。もしかしてまだ体調悪い?」

 心配そうに那智が私の顔を覗きこむ。
 七月二十三日。駅前のカラオケ店の一室。私と那智は狭いソファに寄り添うようにして並んで座っている。目の前には電目(デンモク)が一台。
 今朝もまた、高校の校門前で待ち合わせをし、二人でここまで歩いた。制服姿の私たち。私がこの制服を着るのも、今日が最後になってしまう。
 
「ううん、もう全然大丈夫! ごめんごめん」

 努めて明るく振る舞う。
 私は明日、この町を出て行く。
 まだ那智にはそれを伝えられていない。言い出すタイミングがなかなか見つからないのだ。

「そっか? ならいいけど。ほらリオ、歌いたいやつどんどん入れろよ?」

 那智が電目を私に勧める。

「うん!」
 
 朝から歌い続けること三時間。
 那智は私以上にいろいろ歌を知っていて、しかも上手かった。話し声とはまた違った、じんわり優しい、素敵な声だった。

「——あー、結構歌ったな!」

「だね。カラオケってバックコーラスもちゃんと入るんだね。二人しかいないのに、大勢で合唱してるみたい」

 私が言うと、那智は笑った。
 二人で複数のパートを歌うので、なかなか納得のいく出来にならず何度も同じ曲を歌うことになった。頭の中で「大地讃頌(だいちさんしょう)」がまだ流れている。

「いろいろ歌ったけど、リオはどれが好き?」

 那智は四杯目のウーロン茶を啜っている。捲り上げたカッターシャツの袖から伸びる腕にうっすらと浮かぶ筋を見て、男の子なんだな、とドキドキしてしまう。

「んー……悩むなあ。『時の旅人』も良いし『心の瞳』も素敵」

 那智は隣でうんうんと頷いては微笑む。

「那智は? どれが好き?」

「俺? そうだなあ……。『大地讃頌』とか、『樹氷(じゅひょう)の街』とかかな」

「自然の歌が好きなんだ?」

「あれ。ほんとだ」

 那智は笑った。
 そうかと思ったら、何かを思い出したように突然電目で何か曲を探し始める。

「どうしたの? 急に」

「思い出した。まだ歌ってなかったやつ——お、あったあった」

 画面に、今選曲したばかりの曲名が表示される。
 
「……カワグチ?」

 私がつぶやいたのと、那智が噴き出したのと、華々しく前奏のピアノが鳴り出したのがほとんど同時だった。

「違うよ、リオ。これは——」

 那智がマイクを握り、歌い始めた。
 
 それが何の歌なのか、私はすぐにわかった。——「川」だったから。

 そばにいるものたちに別れを告げながら、流れていく川の歌。さようなら、さようなら。そう告げながら、川は流れていく。
 まるで私みたいだ。
 いつも「さよなら」ばかり。本当はさよならなんて言いたくなかった。
 懐かしいと思える故郷が欲しい。通い慣れた通学路や、顔馴染みのご近所さんや、私を知ってくれている何かが欲しい。ずっとここにいてもいいんだよと言ってくれる、そんな居場所が欲しかった。学校へ行けなくなったのは、きっと怖かったからだ。誰かと親しくなって、さよならを言うのが怖かったからだ。
 
「この歌は『河口(かこう)』。いい歌だろ? リオにぴったり……って、えっ⁉︎ り、リオ⁉︎」
 
 私は、那智の歌に号泣していた。
 いろんな思いが巡って、那智の声と、壮大なメロディに心打たれて。
 
 離れたくない。
 
 さよならなんてしたくない。
 
 那智にさよならを告げることなんて、私にはとてもできそうにない。
 
「リオ? 何かあった?」

 心配そうに那智が私の顔を覗き込む。

「那智……。私、もう那智に会えない……」