「きみは比較的、元気だった。頭を打った程度で、とくに怪我なんかはしていなかった。事故についても覚えていた。両親とはしばらくしたら会える、そんなふうに教えられていたみたいだから、とくに落ち込んでもいないようだった」
「でも」
「篠崎さん、きみが記憶を失ったのはぼくの母親のせいなんだ」
橘先輩のお母さんはわたしを憎んでいた。
だから、病院の図書室で息子と遊んでいるのがバスにぶつかった車を運転していた人の娘だとわかったとき、激怒した。幼いわたしに詰め寄り、きつい言葉で責任を追求した。
両親がすでに亡くなっていることもそのときに告げたという。
わたしの記憶がなくなったのは、その出来事がきっかけだったと、橘先輩は言った。
「それ以降ぼくはきみと会うことはなかったけど、それでもぼくはきみのことが忘れることができなかった。会話を積み重ねるうちに、自然な形で、ぼくはやけどの跡をきみに見せることになった。そのとき、きみはいまと同じようにキレイだよ、そう言ってくれたんだ」
橘先輩の口元がかすかに緩んだ。
「あのときの言葉がなければ、ぼくは絶望から抜け出すことはできなかったかもしれない。自宅に帰ったあとも、母親はぼくと距離を置き、必要以上に弟を可愛がるようになった。完璧主義者的なところがあったから、ぼくの体には不満があったのかもしれないけど、そんなときはいつもきみとのやりとりを思い出していたんだ」
橘先輩はわたしに感謝をしている?
憎んでいるんじゃなくて?
「きみがぼくと同じ高校に入学していると知ったとき、ぼくは運命を感じた。あの日の感謝を伝えたくて、またきみと同じようにいろんな話がしたくて、それで告白をしたんだ」
「でもそれなら、あのときのことはどうなるんですか?二度目の屋上で、橘先輩、言いましたよね。わたしのことを恨んでいるって。あれはどういうことなんですか?」
「それはぼくも不思議だった。本当はあんなことをいうつもりじゃなかったんだけど」
うっ、と橘先輩が顔を歪めた。
そうだ、こんな長話をしている暇なんてないんだった。
わたしは橘先輩のポケットに再び手を伸ばした。今度は遮られることはなかった。
救急車への電話を終えると、橘先輩は「そうか。そういうことだったのか」と呟くように言った。
「わかったよ。ぼくがあんなことを言った理由。それはきっと、篠崎さんのコンプレックスプランが影響してたんだ」
わたしはコンプレックスプランで視力を一時的に失った。その結果、橘先輩にとってはわたしの失明は元々という前提が生まれてしまった。
そうなると、あのとき、病院で起こったこともなくなってしまう。わたしの目が見えなければ、橘先輩のやけどの跡を確認することはできなくなるから。
「ぼくのなかにはもうひとりの自分がいた。あの事故さえなければ、こんな辛い人生を送ることもなかったという憎しみに満ちた自分が。あの車さえバスに突っ込んでこなければ、もっと幸せな人生を遅れたはずだという悔しさを抱えたままの自分が。それがふとしたきっかけで目覚めてしまったんだと思う」
救急車のサイレンが耳に届く。
早く来て、とわたしは心のなかで何度も呟く。
「ぼくは弱い人間だ。例えコンプレックスプランが邪魔をしたとしても、篠崎さん相手にあんなこと、口が裂けても言ってはいけなかった。ほんと、情けないよ」
「そんなことありませんよ。人はいろいろな側面があるから意味があるんです。橘先輩のなかにはわたしへの怒りが残っていたんですよね。それでいいんです。自分のなかにある悪い部分をちゃんと自覚できる人こそが成長するんですから」
「篠崎さんは、大人だね……」
橘先輩の体がぐらりと傾く。
わたしはとっさに腕を伸ばして、体の傾きをおさえる。
「あのときのお礼、ずっと言おうと思っていたんだ。それだけが心残りだった」
「先輩、もうしゃべらないでください!」
ありがとう、そう口を動かして、先輩は目を閉じた。
来栖先輩はまもなく逮捕された。
道路には指紋と橘先輩の血がついたナイフが投げ捨てられたいたので、言い逃れすることも不可能だった。
医者のお父さんの権力も通用しなかったみたいだった。
梨子ちゃんの遺書は、家族に断った上で警察に提出した。こちらはまだ捜査が続いているので、どうなるかはわからない。
橘先輩は幸い、命に別状はなかった。
内臓なんかも傷ついていなかったので、比較的すぐに退院できるそう。
とはいっても、軽傷というわけでもないので、夏休みはすべて病院で過ごすことになりそうだけど。
医者の先生から自由に歩くことが許された日、わたしと橘先輩は病室を出て外を散策することにした。
夏らしい暑い日が続いていた。連日気温は三十度を超え、今日もまぶしい太陽の光が降り注いでいた。
「暑くないですか?」
「いまのぼくにはこれくらいがちょうどいい感じだよ」
駐車場から離れた病院の裏庭は静かだった。わたしたちはそこのベンチに腰を降ろした。
「やっぱり外の空気はいいよね。生きてるなって実感があるよ」
「もう傷口は痛くないですか?」
「そうだね。傷は完全に塞がってるし、他に悪いところもないみたいだから、予想以上に退院は早いかもね」
あの事件からすでに二週間が経っていた。入院当初はやつれていた橘先輩も、たいぶ肌艶が戻ってきている。
「あまり焦らないほうがいいと思います。お母さんも心配すると思いますから」
わたしは頻繁に橘先輩のお見舞いに来ていた。そこで橘先輩のお母さんとは一度だけバッタリ会ったことがある。
病院や通学路で怒鳴られたことのある人だけど、向こうはわたしのことを覚えてはいないようだった。
橘先輩も名前を告げてはいないらしく、初めましてと頭を下げられた。
冷たい人なのだろうと想像していたけど、実際にはそんなふうには思えなかった。
橘先輩に対する態度も普通の親のそれだった。
息子が死ぬかもしれない、そんな恐怖が彼女を変えたのかもしれない。
「……そばかすが原因だっていってたよ」
「そばかす?」
「うちの母さんのこと。子供の頃、母さんはそばかすがひどくて、学校でいじめられたんだって。ぼくのやけどの跡を見たとき、母さんはそのときのことを思い出したっていってた。二度とあんな思いは味わいたくないから、母さんは肌の手入れには人一倍気を使っていたんだ。だから、シミのように見えたぼくのやけどの跡に過剰な反応をしたらしいんだ」
「そうだったんですか」
そばかす。これもコンプレックスかな。
「篠崎さんのほうは大丈夫?まだ友達のことで苦しんでるんじゃない?」
わたしは梨子ちゃんの死を完全に受け入れられているわけではなかった。
夜中にふと梨子ちゃんのことを思い出して、涙を抑えられなくなることもある。
「いまも後悔が消えないんです。どうして梨子ちゃんの気持ちに気づいてあげられなかったんだろうって」
「仕方がない、と割り切るよりはよっぽどいいと思うよ。その悔しさが友達に対する想いでもあるわけだから」
一生この後悔は消えないのかもしれない。
それもいいのかもしれない。
梨子ちゃんのことをずっと忘れないということでもあるから。
それからも夏の日差しのもと、わたしたちは会話を続けた。
子供の頃の病院での出来事や、なんでもないような世間話まで。
事故に遭ったときのことも聞くことができた。
わたしはまだ、あの事故のことを思い出してはいなかった。
橘先輩と本気で向き合うには、過去を取り戻す必要がある。
記憶が戻る戻らないは自分で選ぶことはできないけれど、正面から見つめ直すことは可能。
橘先輩とこれから少しずつ前に進まないといけない。それがわたしの責任だった。
「そろそろ部屋に戻ることにするよ。両親が面会に来る時間だから」
「あ、じゃあ、わたしは帰りますね。両親も待たせてますし」
この病院は自宅からは結構離れていて、簡単に通えるところではなかった。
最初は電車なんかを使っていたけれど、最近は両親が車で送ってくれる。
年寄りだから病院に用事があるんだといって。本当かとうかはわからないけど。
おじさんとおばさんのことをお父さん、お母さんと呼び始めたとき、二人はとくに反応を示さなかった。
まるで前からそういう感じだったという感じで受け入れてくれた。
まだまだ家族と呼べるほどの関係ではないけれど、きっといつか誰が見てもそう呼んでくれる日がくるはず。
「篠崎さん」
病院の出入り口で別れようとしたわたしを、橘先輩が呼び止めた。
「実はさ、伝えたいことがあるんだ」
「ありがとうはもういいですよ」
「もっと大事なことだよ」
「なんですか?」
わたしがそう尋ねると、橘先輩は空を見上げるようにした。
「二人で行きたい場所があるんだ。そこで伝えることにするよ」
わたしたちにはまだ、乗り越えるべき壁がある。
同じものを共有しているからこそ、二人でしか挑めない過去がある。
いつかわたしたちは立ち向かわなければならない。
それはきっと、遠くはない未来のことだと思う。
「だから、退院するのを待っててよ」
「はい」
とわたしはいった。
夏の日射しが一瞬、和らいだように思えた。