うっ、と橘先輩が顔を歪めた。
 そうだ、こんな長話をしている暇なんてないんだった。

 わたしは橘先輩のポケットに再び手を伸ばした。今度は遮られることはなかった。

 救急車への電話を終えると、橘先輩は「そうか。そういうことだったのか」と呟くように言った。

「わかったよ。ぼくがあんなことを言った理由。それはきっと、篠崎さんのコンプレックスプランが影響してたんだ」

 わたしはコンプレックスプランで視力を一時的に失った。その結果、橘先輩にとってはわたしの失明は元々という前提が生まれてしまった。

 そうなると、あのとき、病院で起こったこともなくなってしまう。わたしの目が見えなければ、橘先輩のやけどの跡を確認することはできなくなるから。

「ぼくのなかにはもうひとりの自分がいた。あの事故さえなければ、こんな辛い人生を送ることもなかったという憎しみに満ちた自分が。あの車さえバスに突っ込んでこなければ、もっと幸せな人生を遅れたはずだという悔しさを抱えたままの自分が。それがふとしたきっかけで目覚めてしまったんだと思う」

 救急車のサイレンが耳に届く。
 早く来て、とわたしは心のなかで何度も呟く。

「ぼくは弱い人間だ。例えコンプレックスプランが邪魔をしたとしても、篠崎さん相手にあんなこと、口が裂けても言ってはいけなかった。ほんと、情けないよ」

「そんなことありませんよ。人はいろいろな側面があるから意味があるんです。橘先輩のなかにはわたしへの怒りが残っていたんですよね。それでいいんです。自分のなかにある悪い部分をちゃんと自覚できる人こそが成長するんですから」

「篠崎さんは、大人だね……」

 橘先輩の体がぐらりと傾く。
 わたしはとっさに腕を伸ばして、体の傾きをおさえる。

「あのときのお礼、ずっと言おうと思っていたんだ。それだけが心残りだった」 

「先輩、もうしゃべらないでください!」

 ありがとう、そう口を動かして、先輩は目を閉じた。