ナイフを投げ捨て、一目散にその場を逃げ出していった。

「た、橘先輩!」

 その場に崩れるようにして、橘先輩は倒れた。地面に手をついて、四つん這いのまま、荒い呼吸を繰り返している。

「大丈夫ですか!血が出てますよ」

 橘先輩はお腹の辺りを手でおさえていた。指の間を抜けるようにして血が滴っていた。

 救急車を呼ばないといけない。
 でも、寝起きですぐに家を出たわたしはスマホを持っていなかった。

「すいません、スマホ、借りますね」

 わたしが膨らんだズボンのポケットに手を伸ばそうとすると、橘先輩は振り払うようにした。

「救急車なんて、呼ばなくていい」

 そう喘ぐようにいって、橘先輩は体を動かした。道路の端のほうに向かい、近くの塀に寄りかかるようにした。

「な、なにいってるんですか。刃物で刺されたんですよ。それで血が出てるんですよ!」

「これくらい、平気だよ。中学のときなんかは、殴り合いの喧嘩なんかもよくしたから」

「喧嘩とは違います。これは犯罪ですよ!」

「篠崎さんは大袈裟だよ。絆創膏でも張っておけば、これくらいはすぐに治るんだよ」

 力なく笑う橘先輩。
 顔色は明らかに悪い。

 早く救急車を呼ばないと取り返しのつかないことになる。でも、無理矢理スマホを奪うわけにもいかない。
 そんなことで無駄な体力を使わせるわけにもいかない。

「わかりました。ちょっと待っていてください。近くの家で電話を借りてきますから」

「いいって、いってる」

 立ち上がろうとするわたしの腕をつかんで、橘先輩はいった。

「少し休めば、これくらいの血は止まるよ。そんな焦らなくていい」

 わからない。橘先輩がなにを考えているのか。出血量は確かにそれほどじゃない。

 赤い染みはそれほど広がっていない。だからいまはもう、血は止まっているのかも。

 それでも、楽観視できる状態では全然ない。バイ菌が体の中に入ってたら、大きな病気に繋がる可能性だってある。

 橘先輩はさっきからずっとお腹をおさえている。

 その手の位置を見て、わたしは少しおかしいなと感じた。ほんのわずかに、傷口からずれているように見えたから。