「おまえ、知らないのか」

「え?」

「そんなこと、あいつは中学時代、何度も経験してるんだよ!」

 橘先輩の拳が来栖先輩の頬にめり込んだ。殴られた勢いで来栖先輩の体は埃のように飛んで、地面に転がるようにして倒れた。

「おれはな、あいつには何度も迷惑をかけてるんだよ。いまさら気にすると思うなよ」

 来栖先輩は地面に腰を降ろしたまま、虚ろな目でどこかを見ていた。
 やがて、その口元に歪んだ笑みが刻まれた。

「ふ、ふふ」

 立ち上がりながら、ズボンのポケットに手を伸ばす。そこから取り出したのは小型のナイフだった。

「前にヤバそうなやつにからまれたからさ、自分の身を守るために持ってたんだけど」

「……来栖」

「これって正当防衛ってやつだよね。橘くんから殴ってきたんだもんね。おれには身を守る権利がある。それにさ、前から思ってたんだよ。将来、医者になるためには、人の血くらい見ておかないといけないかなって」

 来栖先輩は正気を失っていた。
 橘先輩を見る目は人のそれとはだいぶ違っていた。

「やめるんだ、来栖。もうこれ以上、犯罪を重ねるんじゃない」

「はあ?なにいってんの?そっちだろ、ぼくを殺そうとしたのはそっちじゃないか!」

 ナイフを両手に握りしめて、突進する来栖先輩。

 橘先輩はとっさに逃げようとしたけど、あまりにも突然の行動だったので間に合わなかった。

 来栖先輩を正面から抱き止める形で、橘先輩の動きが止まった。

 やがて、来栖先輩が体を離した。その手に持っているナイフの先端は赤く染まっていた。

「し、知らない。こんなのおれ、知らないんだよ」