元彼が死んだ。
まだ17歳だった。
冷たい雨の降る6月に、首を吊って死んだ。
私に知らされたのは、7月になってからだった。
元彼といっても、中学一年生の冬頃に少しの間付き合っていただけで、特別なことは特にしていなかった。
すごくイケメンなわけでも、すごく頭がいいわけでもなく、黒縁メガネが似合うただのクラスメイトだった。
でも、仲良くなるにつれて次第に好きになった。というありきたりな馴れ初めだった。
死んだという報告を受けても、私は泣かなかった。
現実味がないし、もう新しい彼氏もいるし、明日から中間テストが始まるし、もう夜中の2時だった。
だからその訃報のメールから目を逸らして、電気を消して、眠りについた。

それから少しして、私は元彼の母親と連絡をとった。
線香を上げに行きたい旨を伝えると、快く承諾してくれた。
なぜか今の彼氏は、私が線香を上げに行くことを嫌がっている。
元彼であることは伝えていないのだが、何となく察するところがあるのだろうか。
そんな彼氏にどうしても行きたいのだと伝えて家を出た。
もうすっかり夏だった。
何かお供え物や手土産を用意しなくてはと思った時、ふと気づいた。
私は元彼の好きなものを知らない。
別れてからも仲良くしていたから、3年以上の仲のはずなのに、それすら知らなかった。
困った私は、花束を買った。
元彼は花なんか似合わない人だったけれど、それしか思いつかなかった。
花束を抱えて歩く。
最後に会ったのは去年の秋だっただろうか。
彼女が出来たかと聞くと、決まって『俺に出来るわけないだろう』と言っていた。
そうやってよく自分を卑下する人だった。
私はそんな元彼が好きだったけど、嫌いだった。
私だけが長所を知っていればいいのだと思う気持ちと、なんでそんなに自分を下げるんだろうという悲しさが同時にあった。
困っている人がいたら控えめに助ける人だった。
人見知りだけど、仲良くなった人のことをすごく大切にする人だった。
ぎこちなくエスコートをしてくれる人だった。
少しづつ、思い出が蘇る。
考えに耽っていると、あっという間に家の前に着いた。
元彼の家には、4、5回行ったことがある。
チャイムを鳴らすと、元彼の母親が出た。
少し痩せたように見える。無理もないだろう。
リビングに通され、見覚えのある部屋の中に一つだけ、異質な空間があった。
黒くて大きな仏壇に、ついさっき上げたばかりであろう線香の煙が燻っていた。
荷物を置いて、花束を母親に渡して、仏壇の前に座った。
前が、見れなかった。
正直ここに来るまで嘘なんじゃないかと思っていた。
大規模なドッキリで、いつもの笑顔で出迎えてくれるんじゃないかと期待していた。
いや、確かに元彼は笑っていた。
遺影の中で、だけれど。
受け入れたくなかった。受け入れたくなかったから逃げていた。考えるのをやめていた。泣かなかった。ずっと泣かなかった。
泣いてしまったら、死んだことが本当になってしまうから。
でも、私が泣いても泣かなくても元彼は死んでいた。
骨と灰になっていた。
震える手で線香に火をつけて、手を合わせて、目を閉じた。

会いたい

自然とその言葉が浮かんだ。
あぁ、私は彼が大好きだったのか。
付き合っていた時は勿論、別れたあとも人として大切で大好きだったのだ。
このまま一緒に歳をとって、来年に控えている中学の同窓会で久々に会って、たまに遊んで、連絡をとるんだと思っていた。
いつだって会えると思っていたのだ。
この強烈な感情をなんと言ったら良いのだろう。
恋慕なんかじゃ生易しい、強い、強い感情だった。
特別なことは特にしていないと思っていたけれど、そんなことは無かった。
手を繋いで登校した。
彼の委員会が終わるまで教室で待っていた。
2人で色んなところに出かけた。
私より大きな体で抱きしめられた。
少し背伸びをしてキスをした。
その思い出全部が大切で特別だった。
今更、気づいてしまった。
どれくらいの間手を合わせていたのだろうか。
私は、元彼が死んでから初めて泣いた。

元彼の母親は、私が泣き止むまでずっと待っていてくれた。
泣き止んだ頃、小さな声で、仲良くしてくれてありがとう、と言った。
私は堪らず聞いてしまった。

私以外に、彼に恋人はできましたか?

すると母親は首を振って、私の知る限りではいないと言った。
そうだとするのなら、私は元彼の最初で最後の彼女であることになる。
それがたまらなく嬉しくて、寂しくて、また泣いてしまった。
帰りがけに、母親から何かを手渡された。
恐らく会葬御礼みたいなものだろう。
中身はタオルだった。
未だに開けることも使うことも出来ていない。
家を出て高架下を歩く。
ふと、夏祭りのチラシが目に入った。
私の地区の祭りは時期が遅く、9月半ばに行われる。
小さな神社でやるのだが、地域の人皆が集まるのでかなり大規模なものになる。
もう張り出されているのか、と思って眺めていると、思い出したことがあった。
私はこの夏祭りに、元彼と二度訪れたのだ。
付き合う前と、別れたあと。
付き合っている期間に夏祭りは来なかった。
そのくらい短い交際期間だった。
その二回とも、あまりの人の多さに避難した場所があった。
ちょうど頭上にある橋だ。
祭りの中心部から少し離れた場所にあるその橋には、殆ど人が寄ってこなかった。
折角なら寄っていこうと橋に向けて歩き出す。
歩く足が震えた。
死にたいと、本気で思った。
突然思ったのだ。死にたい、死んで会いたいと。
私には恋人がいる。友達も、家族もいる。
でもそれを全て捨てて彼に会いに行きたくなった。
恋や愛などの感情ではない。
大切で堪らない人に会いたくなっただけだ。
もう一度あの優しい顔で名前を呼んで欲しい。
私が何か失敗したときに慰めて欲しい。
いつだって私の味方をして、認めて欲しい。
そのどれもが二度と叶えられない願いだと気づいた。
私が彼とすごした3年と少しで、今の私の全ては形成された。
私の生きる道標は、私の生きる活力は、彼がいたことだった。
そんなことにも気づかずに、私は生きてきたのだ。
自分を救ってくれた人を救うことすら出来ずにのうのうと生きてきたのだ。
彼の苦しみに気づかずに自分のくだらない悩みばかり相談していたのだ。
後悔が、脳を支配する。
橋に繋がる階段をゆっくりと登る。
登りきった1番高い位置から飛べば、死ねるだろうか。
自殺したら地獄に落ちるというけれど、そうだとするなら彼は地獄にいるだろう。
地獄にだって会いに行きたかった。
そのくらい、私の中で彼の占める割合が大きかった。
登りきって、橋の方へ方向転換する。
荷物を地面に投げ捨てて、歩調を早める。
遠くに看板が建てられているのに気づいた。

『工事中につき、通行止め』

カラーコーンの黄色が、目に痛かった。
口の端から空気が漏れた。
私は笑っていた。
なんてタイミングが悪いんだろう。
そういえば彼は、タイミングが悪い男だった。
来なくていい時に来て、来て欲しい時に来てくれない男だった。
違うのはわかっている。
ただの偶然で、彼が死ぬ前から工事は始まっていたのかもしれない。
だけど、彼が止めてくれた気がした。
馬鹿だなって呆れて笑っているような気がした。
家に、帰ることにした。

帰宅して自分の部屋のベットに横になる。
まだ昼だったけれど、何もする気にならなかった。
目を閉じると、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
時計を見ると4時間ほどたっている。
夢の中で、元彼に会えた。
元彼はふわふわと浮いていて、私はその足元で静かに泣いていた。
泣く私をみて彼は言った。

『もう会えないけど、いつでも話せるよ』

その言葉の意味を理解することはできていない。
そもそも私の夢なのだから、私の都合のいいように出来ているのかもしれない。
でも、あの日から元彼は夢に出てこない。
1度きりの夢だった。
だからきっと、彼が私に伝えてくれたのだ。
会えなくても伝わっている、と。

これは、ただの記録だ。
彼が生きて、そして死んだことの記録だ。
最後に、私に遺してくれた彼の言葉の中で、1番好きなものを書き残しておこう。

『嫌なことあっても全部「幸せ!」って口に出しとけば楽しくなってくるよ』

私は貴方に出会えて今も幸せだよ。
生まれてきてくれてありがとう。
これからも頑張って頑張って、歯を食いしばって生きるから、見守っていてね。