息を吸い込み私は話し始めようとした。

「「あのさ」」

けれど、考えていた事は同じだったらしい。声が重なった。お互いに目が合う、そして、吹き出した。笑うしかない、とは正にこの事だった。私は、笑いつつも

「いいよ、染矢君からで。どうせ、話すから。」

と、先に話すように促した。彼は、咳払いをすると気を取り直して、話し始めた。

「えっと、オレの顔が腫れてる理由か……オヤジが、俺の金を勝手に使った。で、文句言ったら、殴られた。ただ、それだけの話。」

どこか諦めたように話された内容に、私は驚いた。ふいに、暴力沙汰を引き起こした、という噂話が頭をよぎった。もしかして、という考えが湧き上がった。私は、

「いつも、そんな感じなの? お父さん。」

と問いかけていた。

「そ。オレのオヤジさ……酒飲むと人殴んだよ。いつも。その上、どうしようもなくギャンブルが好きでさ。委員長だって見ただろ。あの酒臭い男。あっ、でも一応仕事はしてるぜ。」

「あぁ……」

私は、プリントを届けた時に見た中年男性を思い出した。

「もしかして、この前手を引っ張ったのって……」

「ヤベェって思ったから。咄嗟に。女子高生に手を出したらマズイってな。流石に身内に犯罪者を出したくねぇ。」

染矢君が慌てていた理由が、よく分かった。もっとも、犯罪ではないけど、私の母親の方が手遅れかもしれない、とも思った。彼はまだ言葉を続けた。

「あと、あの時は委員長の一言に苛ついた。……何様だよって、思った。まぁ、八つ当たり。お前と一緒で。」

「私は自分の評価の為に、心配する振りをしてただけだから。別に、いいよ。それより、染矢君はお父さんに抵抗とかした事とかあるの?」

私の問いに彼は、かぶりを振った。

「……いざ、殴り返そうと思ってもダメでさ。身体が固まるんだ。あと、何でか憎めねぇんだよ。」

私は、その言葉に深く共感できた。

「憎めないの、分かるなぁ……。」

ため息交じりに呟くと、彼は

「委員長も、何かあんのか。親に」

と、問いかけてきた。

「まぁ、それが家出の原因なんだけど……。私のお母さん、不倫してたの。しかも、私が良く知っている人と。それ、目撃しちゃって。」

私の言葉に、目を見開く。そして、気の毒そうな眼を向けてきた。

「うっわぁ……しかも、知ってる人って……」

「そう。篠田先生だったんだけど。」

「はぁ⁉」

落した爆弾は、彼にとっては相当大きかったらしい。大きな声をあげた後、口をパクパクさせていた。

「えっ、篠田って、結婚していて、しかも子供いるよな?」

「うん。世間とかで言われてる、『ダブル不倫』とかじゃないのが、せめてもの救いかな。うちのお母さんね、どうしようもない男好きなの。離婚した理由も、浮気。その前後でも男をとっかえひっかえしてさ。不倫だけはしてなかったのになぁ……。」

私は、言葉が続かなくなって膝に顔を埋めた。

「……どっちもクソだな。」

ぬるい風が私たちの間に吹いてくる。
すると、彼は思い出した様に

「ってか、本当だったんだな、あの噂。」

と、言ってきた。

「え?」

バッと顔を上げる。

「クラスの女子が言ってた。高山の母親の話。」

その言葉を理解して、私はもう笑うしかなかった。

「そっか。知ってたのか。あーあ。折角真面目にやってきて、お母さんと私は違うってこと、証明できたと思ったのに。男好きって影口叩かれないように頑張ったんだけどなぁ。何で、親の評判に左右されなきゃいけないんだろ?」

「さぁな。それが分かりゃ苦労しねぇよ。ま、オレの場合はちょっと違ぇけど。
……あーあ、遠いトコに行きてぇ。うぜぇ噂も、オヤジもいない所に、今すぐ。」

心底嫌そうな顔で、投げやりに彼は言う。そして、ごろんとコンクリートの上に寝ころんだ。本気で言ったわけじゃ無いのかもしれない。
けれど、今の私には、その提案がとても魅力的に思えた。

「じゃあさ、今から逃げ出してみる? ここから。何かドラマであったじゃん。逃げるは何とやらって。」

いつもと違う夏の夜に浮かされていたのかもしれない。茶化すような口調になったが、割と本気で言った。
でも、それは非現実的な願いで、無理な事だという事も理解していた。なーんてね、と私が言う前に、

「……じゃあ、逃げるか。」

という返事があった。

こうして、私たちは突発的にこの町から逃げ出すことになった。