それから数日後、染矢君は学校を休んだ。この前手伝ってもらった事もあって、私にとって彼の休みは少し気になる事ではあったけれど、私の日常にはさして関わりのないもの、のはずだった。昼休み篠田先生から、声を掛けられるまでは。

「高山―。あのな、この前から悪いんだがまた、頼まれてくれるか」

眉を下げ、困ったように言ってくる先生は、私が聞く姿勢を見せるや否や、すぐに内容を伝えてきた。

「本当に頼りになるな、うちの学級委員長は。で、頼みたい事はだな、染矢が今日学校を休んでいるだろ?ちょっと渡しておいてほしい課題プリントがあるんだ。あとついでに様子も見てきて欲しい。放課後、職員会議があってな。あと、染矢から避けられてるんだよ、俺。クラスメイトなら何か話しやすい事もあると思うし……
大丈夫か?」

私を褒めながら、ちらちらとこちらを見てくる先生の姿は、正直わざとらしかった。純粋にそれは私の仕事なんだろうか、と思ったけれど、断ることはせず、

「いいですよ。分かりました。同じクラスメイトとして心配ですから。」

という如何にも“優等生”風に引き受けた。
先生は、満面の笑みを浮かべ私の背中をバシバシと叩くと、職員室の方へと向かって行った。私は、触れられた部分をはたいた。

それから、午後の授業はいつも通り進み、あっという間に彼の家を訪れる時間がやって来てしまった。職員室にて、大げさに感謝する先生から荷物を受け取り、廊下を歩く。教室の前にたどり着き、扉を開けようとすると、中で何人かの女子が話しているのが聞えた。話題は……私についてだった。

「高山さんってさぁ、本当に篠田先生から贔屓されてるよね~」

「えー、ただ雑用任されてるだけじゃん。あの子、断れないから。」

「そうそう、今日だって何か染矢のうちにプリント届けに行くらしいよ。先生の頼みで。」

「うわ、だるっ。てか、それを断らない高山さんもある意味凄いけど。」

「ただの八方美人でしょ。何かノリも悪いし。どんだけいい子に見られたいんだよ、って感じ。」

「それなー。自分の意見が無いよね~。」

私は、別にやりたくてやっているわけじゃないし、と心の中で言い返しながら、
自分に対する悪口を、どこか冷静な調子で聞いていた。悪口を言われているのは、本当の私では無くて、“優等生”として学校に出荷された私だ、と思っていたから、かもしれない。ただ、教室の中に自分のカバンを置いている以上、一度はあの空間の入る必要がある。さて、どのタイミングで入るべきか……と考えていると、

「そういやさ、高山さんと同じ中学校だった子から話聞いたんだけど、知ってる?高山さんのお母さんの話。」

という言葉が耳に入ってきた。私は、動揺して手に持った荷物を落しそうになった。どうしよう、そんな思いが私の中を目まぐるしく駆け巡り、冷静な思考を奪っていく。

「えー何それ知らない。」

「えっとねぇ、高山さんのお母さんってさぁ……」

やめて、その先を言わないで。そんな思いが先走ってしまい、私は気付いたら、扉を開けていた。中に居た人達からの視線が突き刺さる。そこには、普段一緒にお昼を食べていたメンバーもいた。

「えっと……香菜。今の話、聞いてた?」

気まずそうに、一人が問いかけてきた。私は、お母さんについての話を中断出来た事にほっとしつつ、冷静さを何とか取り繕い、いつもの調子になるように仮面を貼り付け、

「どうしたの、そんなに慌てて。話って、何かあったの?」

と、何も知らない振りをした。その私の反応に、ほっとしたのか、皆はあからさまに肩の力を抜いていた。そして、口々になんでもない、と言ってきた。今から私が染矢君の家に行く事を知ると、中には、

「これから、染矢の所行くんでしょ。色々頑張ってね‼」

と、思っても無い応援をしてくる人もいた。私は、冷え込む心の底を無視して、

「ありがとう」

と言い、右肩に重みを追加してその場を立ち去った。


ゆらゆらと揺れるコンクリートとやかましさ感じる蝉の声を背に、私は歩いていた。額から流れる汗が、睫毛に貯まり、零れる。

「いたっ……」

目に染みて、つい声を出してしまう。今頬を伝ってきている雫は汗か、それとも……私は、気付いていた。あの時、何も知らない様に、傷ついていないように振舞う事が出来たのに、しばらく経ってから、暗い気持ちが襲ってくるあたり、案外傷ついている事に。色々な感情がグルグルと回り、悶々とした思いが荷物と共に肩にのしかかってくる。けれど、歩き続けた。止まってしまったら、駄目になってしまう、そんな気がしていたから。そして、気付けば染矢君の家の前に、私は立っていた。

染矢君の家は、どこか昭和感の漂う平屋だった。そして最近では珍しく、玄関に続くだろう扉は、引き戸だった。私は、色々疲れていて、早々に帰りたい気分だった。さっさと用事を済ませようと、目の前の呼び鈴を鳴らす。ジー、という不協和音が鳴り響いてから、数十秒後引き戸がガラッと勢いよく開いた。そこに立っていたのは、染矢君ではなく、

「どちら、ヒック、さまぁ、……ヒック」

全身から酒と汗の匂いが漂う男だった。私は、予想外の展開に身体が動かなくなった。何か言わないと、そう思い必死に言葉を探していると、キキッ、という音が後ろから聞こえてきた。

「委員長……?」

「染矢君?」

私が探していた張本人が、自転車にまたがっていた。

「えっと……」

しどろもどろになる私と、奥にいる男の姿を見るや否や、染矢君は表情を変え、私の方に近づくと強い力で腕を引っ張ってきた。

「いたっ……。ちょっと、染矢く……」

突然の事に、私は訳も分からないまま、彼を止めようとした。

「いいから、こっちこい‼」

が、彼の苛立った声に気圧され、何も言えなくなり、そのまま、家から数メートル離れた路地に連れていかれた。

「で、委員長。何しに来たんだ。ここに。」

彼は、腕を離したかと思うと険しい顔つきで、そう言った。戸惑ったまま私は、

「何しにって……これ。篠田先生に頼まれて。」

と、プリントが入った袋を差し出した。
彼は、少し冷静になったのか、深呼吸をすると

「……篠田の差し金かよ。」

と舌打ち交じりに呟き、苦い表情でその袋を受け取った。私は、気まずさを感じつつも、先生から言われていた事を思い出し、

「あー、染矢君。その、何か困った事があったら言ってね。」

と、一応声を掛け、クラスメイトとしての役目も果たした。けれど彼は、私の一言が気に食わなかったのか、不快そうに眉を顰め、馬鹿にしたように鼻で笑ってから、

「篠田から何か言われてんのかもしんねぇけどさ。そうやってイイ子ぶって、何もできねぇ癖に、中途半端に関わってこようとすんの、やめろよ。」

と言ってきた。私は、肩に背負った荷物に、グシャッと押しつぶされるように感じた。

「……ない。」

「え?」

「やりたくて、やってるわけじゃない‼」

と、気付いたら叫んでいた。けれどすぐにはっ、となって私は彼の顔を見た。
彼は、まさか私に言い返されると思っていなかったのか、目を見開いていた。そして、頭を掻きながら

「……わりぃ。八つ当たりした。とりあえず、ありがと。プリント。」

と、気まずそうに言った。
私は、その空気に耐えられなくなり、走って逃げ出した。