『今日の小テストうんざり。先生テストどっかに落としてくれないかな』
『今日は五時間目体育かあ……六時間目起きれる自信がないなあ』
『部活出たくない、最近部内の空気むっちゃ重い』
俺は聞こえてくる声を聞こえないように、必死でスマホのボリュームを上げた。スマホには録った音楽が詰まっている。最新曲を一気に流し込み、聞こえてくる音をどうにか無視しようとしていると。
肩をポンポンと叩かれた。
「よっす。あんまり音楽にうつつ抜かしてたら、耳が悪くなるぞ」
「わっ。なんだ、相田かよ」
「なんだとはなんだ。なんだとは」
俺が背中を丸めて猫背でも、隣の高身長イケメンくんにはなんの反応もない。
『相田くん今日も格好いい』
『なんで相田くんと早川が仲良いのか訳わからん』
『イケメン陽キャとフツメン陰キャのカプか。王道だな』
女子からのやっかみが流れ込んできて、余計に気鬱になる……あとナマモノをカップリングにするのはよくないと思います。はい。
俺は肩を竦めながら、相田を見る。
「で、今日はどこの部活の助っ人に行ってたんだよ?」
「今日はサッカー部な。食中毒のせいで、部員足りないらしくってさあ。早川も行かないか?」
『今日はサッカー部な。食中毒のせいで、部員足りないらしくってさあ。早川も行かないか?』
「お前な……俺が運動神経ないのわかってて言うのかね」
「楽しいと思ったんだけどなあ」
『楽しいと思ったんだけどなあ』
俺は相変わらずあまりにも裏表のない相田の言葉に、少しだけほっとした。よくも悪くもこいつとは小学校の頃からの付き合いだけれど、今でもそこそも話せるのは、こいつがあまりにも裏表がないから、一緒にいてて楽な相手だからだ。
俺が人の心の声が聞こえると気付いたのは、小学校からだった。
人の心の声が一気に流れ込んでくると、それはそれはしんどくって、初めて聞こえるようになったときは、そのしんどさに三日三晩寝込んでしまった。
そして人の言っている声と聞こえてくる声……建前と本音が必ずしも一致しないと知ったのも、この頃だった。世の中綺麗事が好きな年頃に、真実を教えるもんじゃないと思う。
女子は幼少期から物の見事に本音と建前が一致しないということを知り、俺は女子が怖くなった。よくも悪くも心の声が聞こえるせいで、あまりにも暴言ばかり吐いているクラスのリーダー格には極力近付かなくなったし、あまりにも心の声がきつ過ぎる人間とも距離を置くようになった。
先生の声を聞けばテストの答案が上がるかもしれない。なんとか自分の心の声が聞こえる力を駆使して成績を上げようと思った頃も一時期はあったものの。
『なにかあったら学校に苦情は来るし、親から苦情は来るし、若いから大丈夫とへりくつ言って仕事押しつけられるし、私はどうして教師になったんだろう。一時間でも早く帰って睡眠時間増やしたい』
……あまりにも闇色に染まった心の声は聞くもんじゃないと思い、できる限り先生の声が聞こえないように気を遣い、なるべく先生に「ありがとうございます」と挨拶を心掛けるようになった。
こうして俺は、メキメキと陰キャ力を上げていき、見事なまでにオタクへとなっていった。
だって、アニメやマンガ、ソシャゲは心の声が聞こえないし。本音と建前にギャップがあり過ぎて幻滅することだってないし。なによりもオタクは自分にハマッているものに夢中になって、他人に対する悪口を言っている暇はないし。
そんな厄介な性格になったものだから、周りも「変な奴」認定して、俺に距離を置くようになっていったもんだ。
相田みたいに近くにいても、他人に対する悪口を言わないいい奴っていうのは、限られているんだ。
俺がチラッと女子を見ると、途端に女子は相田に視線を向ける。女子が俺を敵視するのは他でもない。相田がいつまで経っても誰とも付き合わないから、俺のせいにされているんだろう。
「つうかなあ、お前は誰かと付き合わない訳? 俺、お前が誰とも付き合わないのは俺のせいだと思われるの、ものすごく嫌なんですけど」
「そうか? 俺は早川といると楽だし、誰とも付き合う気はないけどなあ」
『誰かを選んだら、選ばれなかった子たちが喧嘩して、最悪選んだ子を傷付けるかもしれない。そんな責任を取れないようなことは、俺にはできない』
こいつ、本当に天は二物も三物も与えるよなあ……! 聖人かよ!
俺が勝手に感動して打ち震えていると、相田はにこやかに言った。
「というか、そういう早川は? 好きな子とかいないのか? お前部活に入ったし、付き合いだってあるだろ?」
『早川はいい奴だし、それがわかる女子がいたらいいのにな。なんでこいつがいい奴だと気付かないんだろうな、女子は』
「ははははは……そんな天使みたいな女子はいやしません」
そりゃこれだけ善人が過ぎる相田みたいな女子がいたらいいけれど、大概はなあ。
俺は女子の心の声が、チクチク突き刺さっていた。
『なんなの早川、相田くんに対してぞんざいな扱いしてさ』
『相田くんが付き合わないの、どう考えても早川に気を遣ってでしょ』
『このふたりのカップリングでシチュはどこがいいか……さすがに学園ものだとまんま過ぎて肖像権で訴えられるかもしれないから、世界観構築からスタートしないと』
俺、相田が誰とも付き合わないのになんも悪くないのに、すげえ言いがかり付けられてない!? あと誰だよ、俺たちで勝手に創作スタートさせようとしているのは!?
そんな訳で、俺は女子怖い、人間怖いが先に立ち、誰とも特に付き合いたいというのはなかった。どんなに可愛くても、これだけ心の声が怖かったら、誰とも付き合いたくないと思っても仕方ないだろ。
****
「今日のガチャ星5は当てる!」
『推しガチャキタァァァァ! これは当てる、マジ当てる、唸れ貯まりに貯まったコインー!!』
「いやぁ、やっぱり最推しのガチャはいいっすなあ!」
『今回のイベントとガチャは推し連チャンでなくってマジ助かった。これでイベントに集中できる』
文芸部は、文芸とは名ばかりのオタクのたまり場で、文化祭用の原稿さえ期限内に完成させれば、ソシャゲをしてようが絵を描いてようが小説を読んでいようが自由という、オタクの無法地帯と化していた。
正直オタクのなにが助かるかというと、好きなもの一辺倒になってくれているおかげで、心の声が聞こえても大概は推しキャラに対する愛情で埋まっていて、こちらが気鬱になるような他人に対する悪口が聞こえないというところだ。まあ、たまに運動部の花形に対する強烈な嫉妬が聞こえることはあるけれど、気にするほどでもない。
俺もソシャゲを適当に走る。自分も三つほど掛け持ちでやっているとは言えど、今は特に推しが活躍する期間でもないから、小遣いと相談しながら微課金で楽しんでいる……さすがに無課金でイキり散らすというのは筋違いだと思うから、程々が肝心だ。程々。
俺がぼんやりと机にもたれかかりながらスマホを触っていると。
『スタスタスタスタ』
何故が擬音が聞こえる。なんで。
俺は少しだけ驚いて、擬音を発している方向に視線を向けた。
ショートカットボブで、真新しいセーラー服がきらめいている。大きな猫目は睫毛で縁取られ、肌は真っ白で透き通っているように見える……はっきり言って、滅茶苦茶可愛い子だった。こんな子、うちの部にいたっけか。
隣で推しイベを必死で周回している奴に聞いた。
「あのさ、あの子誰?」
「へえ? C組の白石さんのことか?」
『C組は特進クラスだし、そんな賢い子がうちの部に入ってくれたのはマジ感謝っすなあ。眼福眼福』
『イエス美少女ノータッチ。可愛い子は愛でよ……マイナスイオン様にしゃべりかける勇気もないし』
「なるほど」
オタクの純朴過ぎる声に納得しつつ、俺は白石さんを眺めていた。
白石さんはスケッチブックを広げると、それに絵を描いていた。
『サラサラサラサラ』
だから、なんで擬音を心の中で言ってるの。
彼女はツンとした真剣な目で、賢明に鉛筆を動かしている。なにを描いているんだろうと、俺は少しだけ気になって、部室に使っているうちの教室のロッカーに荷物を取りに行くてらいで彼女のスケッチブックをちらりと見た。
……ものすごくメルヘンな絵柄で、今俺たちがプレイしているソシャゲのキャラの絵を描いていた。
『可愛い』
うん、たしかに可愛い。
俺はうろたえながら、白石さんを見た。白石さんはキョトンとした顔で、こちらを見た。
「なに?」
『なに?』
珍しく本音と建前が一致している子だ。そう思いながら、俺はスマホを手に取ってみた。
「白石さんもやってるの? ソシャゲ」
「わたし、ソシャゲってあんまり詳しくないけど。皆が見てる絵が可愛かったから、部誌に描きたくって練習してた」
『ソシャゲ詳しくないから、やってみたいけどどうすればいいのかわかんない』
「あ、もしよかったらやってみる?」
俺がそう声をかけると、白石さんはパァーっと頬を紅潮させて頷いた。
「うん。ありがとう」
『うん。ありがとう』
本音と建前の一致具合に噴き出しながら、俺はインストールからゲームの説明までをしてみせた。部内の皆は、驚いた顔で俺を見ていた。
「マイナスイオン様と、話をしてる……だと?」
「あれだけ冷たい声で?」
……たしかに、俺は白石さんの心の声がわかるからいいけど。
白石さんの声も態度も、全体的に淡泊が過ぎるのだ。冷たいとかクールとかに取られがちな。嘘は全く言ってないのになあ。
白石さんはソシャゲ初心者で右も左もわかっていないから、ひとまず俺は自分のアカウントを見せた。
「俺とフレンド登録する?」
「フレンド登録するとどうなるの?」
『フレンド登録するとどうなるの?』
うん、本当に面白いくらいに裏表がないな。俺は噴き出しそうになりながら、説明をした。
「フレンド登録すると、フレンドのキャラを借りることができるから、ゲーム内バトルが有利になるんだよ。あ、でもこれ、知り合いとじゃないとしちゃ駄目だからな?」
「どうして?」
『どうして?』
「たまにあるんだよ。自分のアカウントよりもレアなキャラがいるとか、強いキャラがいるとか、推しがいるとか妬んで、アカウント乗っ取っちゃうのが。その対策として、基本的に知り合い以外にはフレンド登録しないの」
「わかった」
『初めてしゃべるけど、いい人だな』
そう心の声が聞こえて、俺は悶えそうになる。
あーあーあーあー……そういう勘違いのさせ方は、よくないと思う! 俺みたいなひねくれ者がすぐ勘違いするから!
俺がジタバタしそうになるものの、白石さんはキョトンとしたままだ。
「あ……そういえば、名前聞いてない」
『ごめんなさい、まだ他のクラスの子の名前と顔が一致してない』
「あー……こっちこそお節介してたのに、ごめん。俺は早川。一方的に知っててごめん」
「ううん、早川くんね。覚えた」
『ううん、早川くんね。覚えた』
そう言ってにっこりと笑った。
俺は思わず顔が緩みそうになるのは、白石さんが本当に裏表がなくいい子だからだ。ただ。
周りは呆気に取られた顔をしたままだった。
「……早川氏、やるな」
「あのマイナスイオン様が、笑みを……」
『マイナスイオン様はオタクじゃないのに、オタクに優しいギャルは実在したのか!? マイナスイオン様はギャルじゃないけど!』
『かわゆい、仰げば尊し、白石の御……』
『うわっ、まぶしっ。早川氏はハゲろっ』
なんだか好き勝手言われていた。
でも白石さん、こんないい子なのになんで文芸部にいるんだ? ここ、本当にオタクの溜まり場なのに、本人は全然オタクの雰囲気がない。
他の部の事情にはいまいち詳しくない俺は、ただなんでだろうと首を捻っていた。
****
今日も今日とて、昼休みになると積み上がっている。
「あ、相田くん! これ! 受け取ってください!」
『早起きしてつくったお弁当食べてぇぇぇぇ!!』
「ああ、ありがとう」
『申し訳ないなあ、これ全部食べられるかな』
昼休みになると、相田のファンの女子が次から次へとやってきて、相田に弁当をプレゼントしていく。中には『相田くんに私の××××を!』というヤバメな女子がいて、それは俺がわざと引っ繰り返して食べれなくしているものの、それ以外は割と女子が必死につくったものだから、それを相田は必死に食べている。
あまりに必死に食べているもんだから、ときどきたまりかねて「俺も一緒に食べるか?」と尋ねると、それに相田は首を振る。
「それは悪いだろ。俺に時間をつくってくれたのに」
『人の時間を奪ったんだから、ちゃんと食べるのが義務だよな』
裏表なくイケメンムーブをするものだから、そりゃ女子が惚れるよなあと納得する。
周りの男子のひがみはすごいが。
『相田、B組のきょぬー女子から弁当を! もげろ!』
『腹壊せ!』
『タダ飯いいな……ソシャゲで小遣い使い込んでもう今月水で凌ぐしかないわ』
だからちょいちょい混ざるソシャゲ好きはなんなんだよ。それはさておいて。
「なあ、相田。お前あちこちに助っ人言ってるなら、他クラスにも知り合いいるだろ?」
「ああいるぞー」
「あのさ、C組の白石さんって知ってる?」
「うん、知ってるぞ。無茶苦茶可愛い子だな」
ああ、やっぱり知ってたか。
相田は相変わらず裏表ない言葉で語り出す。
「すごく可愛い子だけれど、何故かひとりでいることが多いなあ……誤解を招きやすいというか」
「なんでまた?」
「感情表現が下手なんじゃないかな。無愛想がられることが多いみたいだけど……前にバレー部に助っ人行った奴が白石さんにフラれたとか言ってた」
「……フるのか、あの子が」
白石さんは言っていることに裏表がないし、そこまで遺恨が残るような物言いをするとは思えないんだけど。相田は「あくまでそいつの証言だけどな」と言い置いてから続けた。
「告白したら『なんで?』と冷たいこと言われて話を打ち切られたって」
「ええ……」
あの子がそこまで冷たいこと言うか?
いや、俺は心の声が聞こえるから、素直な子に聞こえるが。あの子は大概しゃべり方が淡泊なんだ。全部聞かなかったら「なんで?」と聞かれても返答に困るのか。
相田は女子のつくったお弁当箱そのいちをカラにしてから、他の弁当箱に手を伸ばし、唐揚げを放り込んだ。これ、母さんのつくった弁当に入ってた冷凍唐揚げだな、あれ美味いよなとぼんやりと思っていたら「そのせいかな」と相田が言う。
「なんか白石さん、おかしなあだ名が付いてて」
「マジか。なんて」
「マイナスイオン様」
「……なんで?」
「なんでもばっさばっさとフり続けるせいで、すっかりと男子に脅えられてる。そういえば、お前と同じ部じゃなかったのか?」
「あー……」
基本的にオタクは三次元女子と素直におしゃべりできないから、白石さんに告白どころかまともに声かけすらできないんだ。俺も普段からソシャゲに勤しんでいたから、彼女が同じ部活にいることすら知らなかったし。
うーん……あんな裏表ない子がひとりでいるのは、ちょっと寂しいかもしれない。
「なんとかならないかな、白石さん」
「おっ、お前女子の話をするの初めてじゃないのか?」
「えっ?」
そりゃ女子は本音と建前が一致しなさ過ぎて怖いとは、今も昔も変わらず思っているけれど。でも白石さんは本当に珍しく本音と建前が一致していて、こちらが吐き気を催すようなギャップがないから、見ていても安心するし、しゃべっていても可愛いと思う。
でも、なんで相田がそれにニヤニヤしてくるのかね。相田はこちらを、新しい弁当に焼きおにぎりを頬張りながらニッコリと笑った。
「もし早川が付き合い出したら、コンビニで赤飯おにぎりおごってやるからな!」
「そんな恥ずかしい祝われ方嫌じゃ!? というより、生涯恋愛しない宣言しているお前に祝われると、むっちゃ怖いんですけど!?」
「いや、俺もいつかは誰かを本気で守りたいと思うかもしれないから、生涯恋愛しない宣言はしてないぞ。今のまだ誰かひとりを守りきれない俺が、その子の全責任を取れないのに軽はずみなことなんて言える訳ないだろ」
「そういう結婚を前提にお付き合いはじめましょうとか素で言えるお前が怖いわっ!?」
俺がギャーギャーと言っている中でも、周りは相田の言葉をざわっとしながら見守っていた。
『相田くんが本気で守りたい女の子ってなに!?』
『硬派。本当に世の中の男に相田くんの爪の垢を飲まして回りたい』
『わーい、私のお弁当食べてくれたあ』
しかし、相田のことはさておいて、白石さんのことどうしよう。
どうも周りに誤解されてるっぽいし。そんなのイチオタクの俺がどうこうできるもんでもないような気がする……と、そのときスマホのアプリがピコンと鳴った。
今ちょうどスマホ内イベントで、レイドバトルが開催中なんだ。
「あ、ごめん。ちょっとソシャゲしていい?」
「お前相変わらず好きだな、それ。面白い?」
「今ちょうど、フレンド枠にひとり追加したところ」
「ふーん」
白石さんのアカウントをちらっと覗くと、本人がソシャゲのキャラを引き当てたみたいだった。低レアではないけれど、高レアでもない彼女の描いていたキャラをご満悦にパートナーとして頑張ってソシャゲをしているみたいだ。
俺はそのキャラに似たタイプのキャラを貸し出せるように設定しておいた。一緒にゲームできたら楽しいと、ほんの少しだけ思いながら。
俺と白石さんがフレンド登録し、ソシャゲのアカウントを眺めていると、白石さんところの陣営も順調に育っていっているのがわかる。
結構楽しんでくれているなら嬉しいな。俺がそう思ってスマホを眺めていると、普段はソシャゲの推しにかかりっきりと文芸部員が全員窓に貼り付いているのが見えた。
「あれ? どうした?」
「し、白石さんが!」
「リア充に呼ばれている!」
『ああ、我らがマイナスイオン様も遂に年貢の納め時か!?』
『でもマイナスイオン様に告白して玉砕してない奴、見たことないけどな』
「えー……」
窓の下を見てみると、たしかに白石さんが男子に呼び出されていた。あの男子はたしか、バスケ部の主将だったと思う。前に相田がバスケ部の助っ人に出かけたときに、宿題を届けに行った際に見かけたから知っている。
小柄な白石さんと比べると、バスケ部員なだけあって身長がものすっごく大きく、威圧感がある。普通あれだけ身長差があったら白石さんもびびるのかと思いきや、思いっきりいつも通りだった。
ここからだったらさすがに距離があって心の声は聞こえない。でも前にバスケ部に出かけた際に聞こえてきた声は、運動部特有のガツガツとした意地汚い声はあまり聞こえなかったから、大丈夫とは思うけど。
「どうかしましたか?」
白石さんはマイペースに尋ねる。それを文芸部員はゴキュンと唾を飲み込んで聞いている。俺も聞いている。
「白石、君のことをずっと可愛いと思っていた。君が好きだ。付き合いたい。どうか、今度の大会、応援に来てくれないか!? 君に応援されたら、勝てそうだと思うんだ」
おお。硬派な雰囲気も相まって、告白も格好いい。文芸部員が今にも死にそうな顔をしている。でもなあ。
白石さんは、本気で困った顔をして、眉を寄せてしまっていた。
「今度の大会、予定があるから困るんですけど」
「ええ? なにか予定があったかな?」
「イベントがあるから」
文芸部員が顔を見合わせた。
そういえば。来週の日曜日にバスケ部の地区大会があるけれど、その日の昼間から、ソシャゲのイベントが開始する。たしか白石さんが可愛い可愛いと言っていたキャラ……まあ、白石さんにとっての推しキャラだろう……の限定カードが手に入る。
格好いいバスケ部主将よりも、ソシャゲのイベントかあ……。
少しばかり主将が気の毒になったものの、バスケ部主将は「むむむっ」と口の中でふがふが言いながらも、がっくりと肩を落とした。
それに心底ほっとしたものの、なおも主将は口を開く。
「……先約が入っているなら仕方がない。だが、君に告白をした。せめてその返事だけでも聞かせてもらえないだろうか?」
多分本気でいい人なんだろうな。俺は少しだけもやもやとしたものの、そもそも付き合う付き合わないは白石さんが決めることだしなあ。白石さんは首を捻ってから、ストンと答えた。
「困ります」
それにますますもって主将は撃沈、いや轟沈してしまった。もうオーバーキルなので勘弁してやって欲しい。
「やったぁぁぁぁぁぁ!!」
「ざまぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
いかに文芸部員がモテないのかがよくわかる拍手喝采を耳にしながら、俺はここからだとわからない白石さんの心の声を思った。
なんというか、白石さん本気で困ってたみたいなのに、どうして誰も聞いてやらないんだろうと。俺は「ちょっと自販機行ってくるけど、なにか欲しい飲み物ある?」と皆に欲しい飲み物聞いてから、買いに行った。ついでに下にいる白石さんの話を聞いてこようと。
****
烏龍茶に炭酸。アイスティー。それらのペットボトルを持って文芸部の部室に戻ろうとしたところで、同じく部室に向かおうとしている白石さんと鉢合った。
「あっ、こんにちは」
『ほっ……』
白石さんの淡泊な表情が少しばかり緩んだ。それに俺は「おや?」と思いながら口を開いた。
「お疲れ。さっき熱烈な告白を受けていたみたいだけど大丈夫だった?」
「見てたの?」
『見られちゃった』
「見てた。なんか疲れてるみたいだったから、大丈夫かなと思ったけど」
「知らない人にいっぱい声をかけられると、疲れちゃうから」
「ああ、そっか。バスケ部には知り合いはいない?」
それに白石さんは大きく頷いた。白石さんは珍しくものすごく困ったように眉を寄せていた。さっき窓から見下ろしたときの表情だ。
「知らない人に、毎回毎回好きって言われても、困るよ。だって好きか嫌いか以前に、知らないもん」
「そっか。ノリで付き合うっていうのは」
「わたし、あんまり面白いこと言えないよ? 幻滅されちゃうかも」
「俺は白石さんといると、結構面白いのになあ……それじゃあ駄目なの?」
そう言ってから、自分で「んっ?」となった。
俺は思わずギギギギ……と音を立てて白石さんを見た。白石さんは、顔を真っ赤に染め上げてしまっていた。
「あのう……白石さん、俺」
「……初めて言われた」
「えっ」
「一緒にいると面白いって初めて言われた! いつも顔ばっかりだったのに! 知らない人からばっかり言われたのに、すごいね。早川くんすごいね」
「ええっっ!」
俺は思わず仰け反った。
もしかしなくっても俺は、白石さんにとんでもないことを言ってしまったんじゃないか? でもな。白石さんのニコニコとした顔を見て思う。
周りからはクールとかマイナスイオン様とかさんざん言われているけれど、俺にはちっとも仏頂面を見せないし、そもそも彼女は嘘をつかない。
『すごい! すごい! 面白いって言われた! 嬉しい!』
本当に口にしたことをそのまんま喜んでいる子のなにをそんなに疑えるのか。
気付けば白石さんのニコニコとした顔が伝染して、俺の表情も緩んでしまっていた。
「そっか、嬉しいんだ」
「うん。そうだ、今度のソシャゲのイベントだけれど。多分わたしひとりだったら走れないと思うんだ」
「ああ、そうだね。初心者だと割ときついイベントかも」
イベントは戦闘を何回戦も行わないといけない。だからある程度キャラの育成ができていないとスムーズに進めることができないんだけれど、まだ初心者の白石さんだったら最後までクリアするのは難しいだろう。俺は「なら」と言う。
「言ってくれたら、フレンド用の貸し出しキャラ置いておくよ。どんなキャラがいい?」
俺がスマホを取り出し、自分の育てた高レアキャラを見せると、白石さんは「うーんと……」と首を捻ってキャラのデータを確認しはじめた。
「なら、このキャラ」
「おっ」
「えっと、駄目だった?」
「ううん、全然」
ドキン、と胸が跳ねたけれど、白石さんは本当にキャラのデータを見て選んだだけだった。
そのキャラは白石さんが「可愛い可愛い」と連呼しているキャラの公式恋人キャラの騎士だった。
今度のイベントで白石さんの推しキャラと一緒に、俺が育てた騎士が走るのかと思うと、少しだけときめいた。
でもまだゲームをプレイしはじめたばかりの彼女が、知るはずないしなあ。心の声でも、本気でわかってないようだし。
「最近白石さんとよくしゃべってるみたいだな、早川」
『青春してるなあ、こいついい奴なのに、すぐ人に壁をつくるから心配してたけど、ほっとした』
おいおい相田よ、なんで俺をそんな温かい目で見るんだ。俺は相田が相変わらず塔のように積まれた弁当を食べているのを眺めつつ、購買部で買ったパンを頬張る。
「いや、ソシャゲで推しキャラがいるみたいだから、その推しキャラのイベントの手伝いをしているだけだよ」
「そっかあ」
『早川、ソシャゲ以外に興味がなかったのに、ソシャゲを通して青春はじめたのか、本当によかったなあ』
だからその温かい眼差し辞めてくれないかな!? なんて。心が読めることを白状しないといけないから言えないけど。
俺は「いやいやいや」と手を振る。
「白石さんはたしかに無茶苦茶いい子だよ。ただ、お付き合いっていうのは可哀想だと思ったよ」
「どういうことだ?」
「んー……知らない人にしょっちゅう告白されてて、本気で困るみたいだった。俺が安全圏みたいになってるところで、俺がそういう目で見ているって思ったら、白石さんも困るだろ」
「そうか? 白石さんの言うことはいちいちもっともだけど、早川と白石さんに告白した連中は全然違うと思うぞ?」
「なんて??」
まあ……モテモテキングで、やろうと思えばハーレム主人公展開可能な相田が、弁当を受け取る以外のことは一切やらないし、誰も選ばないと公言しているんだから、そりゃモテモテの白石さんの気持ちだってわかるよなあとは理解するが。
俺と白石さんに寄ってきた連中が違うっていうのは……考えてみたけれど、白石さんに告白した連中は、皆いわゆるリア充という奴みたいだった。自分がフラれると考えてないような、キラキラした主人公みたいな連中。
そりゃ俺とは違うわあ。そう思ってへこんだら、相田はキョトンとした顔で、弁当をひとつ空にして、他の弁当を開きはじめた。
「なんか勘違いしてるっぽいから言うけど。白石さんだって、知らない人から告白されて、はいもいいえも言えないじゃないか。それでいて、フラれたら必然的に悪者にされる。男子は自分をフッた相手に対してそんなにやっかみの声は上げないけど、普通に陰口は流すしな。女子の場合は友達同士で徒党を組んで『どうしてフッたのか説明を求める』って言いに来たりする。どっちもフッたほうが悪者になって、何度も知らない相手の悪者を演じる羽目になったら嫌だろ」
『白石さんも苦労するよなあ。まあ、早川は白石さんの傷口を抉るような真似はしないと思うけどな』
だから、お前の俺に対する信頼値はいったいなによ????
でもまあ、それは理解した。白石さんは本気で告白されて困っていたんだから、それをモテキングの相田に説明されて、より納得した。でもなあ。
これって俺、なにかすることってあるのか? 俺はパンを食べ終えてから聞く。
「でもこういうのってさ、俺なんかできるのか? 白石さんに対して、なんにもできないと思うけど」
「それこそ、いきなり告白なんかせず、普通に仲良くしてればいいだろ。それだけで救われる気持ちってあるもんだから」
『頑張れ、早川』
「そっかあ……」
そんなの陰キャにはいくらなんでも荷が重くないか。
そう思っていたけれど、意外なところから流れ弾が飛んできた。
****
「はい、じゃんけんで負けたから、この原稿を早川くんと白石さんに印刷所まで届けに行ってもらいたいと思います!」
文芸部は文化祭に向けて、文芸誌をつくる。
だるんだるんで普段はソシャゲの周回しかしてないような部だけれど、不思議と締切破りはいない。
「だって、こっち終わらせないと自分の原稿終わらないし!」
『イベントと部活の原稿だったら、イベントの原稿の完成度を高めたくない!?』
「宿題は早く終わらせるタイプです」
『次のイベントの担当、推しなんだよ。徹夜するには課題は邪魔』
……などなど、あまりにもオタクあるあるが流れ込んでくるのに、俺は頭が痛くなってきていた。
「ちなみにネットで送るっていうのは……」
「あ、無理。デジタルとアナログ混合原稿だから、どちらかに合わせるとなったらアナログ。特に絵は自分でデジタルに変換するよりも、印刷所に任せたほうが綺麗な線が出るから」
「さようですか……」
地図を持たせてもらい、印刷したかなり思い原稿の束を抱えて、俺と白石さんは印刷所へと向かうことになった。
ただの部活動の一環だし、ふたりっきりで歩いたことはいくらでもあるけれど。白石さんはうきうきしているのが聞こえる声からもわかる。
『知らない場所は楽しいな、この辺りひとりだったら全然来ない』
「あー……もしかして白石さんは、印刷所に行くのは初めて?
「そういう早川くんは?」
「さっさと高校入学決めたせいで、卒業文集係になったから、印刷所まで原稿届けに行ったことがある」
「すごいね」
『すごいね』
「いやいや、ただ届けに行っただけだから。ところで、白石さんは部誌になに描いたの? 推しキャラ?」
「うん! 四ページマンガ描いたよ。マンガは初めて描いたけど楽しかった」
『推しができると、マンガも描けるんだなあ』
そうにこにこ笑って言う白石さんに、俺も釣られて笑う。
俺はマンガ描けないし、だからと言って小説も書けないから、意味がわかると怖い話を二行ずつまとめただけの代物だった。きちんと創作している白石さんは偉い。
しかし推しキャラってことは、ソシャゲのキャラを描いたのか。
「この間からやってるソシャゲの?」
「うん。可愛かったから、一生懸命調べて描いたの」
「えっ、読みたい。原稿見られるかな」
「駄目、印刷できたら真っ先に見せてあげるから。あっ、あそこ?」
だんだん印刷所が見えてきた。
この辺りの学校や会社をターゲットとしている印刷所は、今日も冊子をつくりたい人たちで賑わっていた。
俺たちが学校の名前を出し、原稿を渡すと、受付の人が「それじゃあ、印刷が終わり次第宅配便で送りますからね」と言ってくれた。
さっきまで紙束が重かったのに、今は荷物もなくて軽々だ。帰りにふたりでコンビニにより、アイスを買った。
「なんのアイス買ったの?」
「ソーダキャンディー。早川くんは?」
「梨味のキャンディー」
「えっ!? 売ってた!?」
「ラスト一本だった」
「食べたい食べたい食べたい食べたい!」
「えー……でも間接キスは、いろいろとこう、駄目だろ……」
そんな陰キャと白石さんを間接キスさせる訳には……。俺がドギマギしていたら、俺がビニールを剥いたばかりの梨味キャンディーをそのままシャクッと音を立てて囓ってしまった。結構噛みつかれたあとを、俺は呆然と眺める。
「ええっと……」
「近所だったら梨味、全然売ってなかったんだあ。久々の梨味おいしい……あっ、早川くんもソーダキャンディーどうぞー」
そう言って白石さんはビニールを剥いてソーダキャンディーを見せてくれた。
言ってるんだからいいじゃん。あと本気で裏表ないからからかってもいないじゃん。そう思うものの。
いや、陰キャがそれで調子に乗ったら、いろいろとこう、駄目だろという気持ちのほうが強い。
「お、れは……結構です。梨味キャンディー、おいしいな、ははっ」
「どうしてカタコト?」
「ホント、だいじょぶだから。うん」
俺が必死で首振り人形になっていて、白石さんは首を捻っていたものの、すぐに「食べちゃうよー」と言いながらソーダキャンディーを食べはじめてしまった。
俺は必死で白石さんと間接キスしないように場所を選んで囓り、残りは溶けてコンクリートに染み込んでしまうのを眺めていた。
……うん、陰キャは調子に乗ったらいけない。
『なんで?』
「へっ?」
「なんでもないよ?」
一瞬白石さんから声が聞こえたけれど、白石さんがソーダキャンディーを一生懸命食べるものだから、どういう意味か聞きそびれてしまった。
白石さんと部活で印刷所に出かけてから数週間。
中間テストを終えたある日、俺たちはげんなりしながらペットボトルに画材を携えてのろのろと歩いていた。
日差しが強い。ペットボトルのお茶一本だけで足りるのかなと思う程度には、暑い。
「なにも課外授業、この時期にやる必要ってあるのかね」
「そうか? まだ梅雨じゃないし、真夏にやるよりはマシだと思うぞ」
「真面目ー」
「別にそんなんじゃないけど」
相田は相変わらず優等生なこと言うなあと思いつつ、俺はげんなりとしながら溜息をつく。
課外授業っていうのはなんてことはない。写生大会だ。
美術を選択科目に取っていない生徒も強制参加のこの課外授業は、好きな科目に出席日数を加算してくれるということで、さぼり気味の生徒にも概ね好評だったものの、ほとんどの生徒は絵を描くのがそこまで好きじゃない。
かくなる俺も、見る専門だしなあ。
で、この手の自由に場所取りして作業する授業になると。
俺は周りから感じるプレッシャーと声に、内心「げ」となっていた。
『早川どけ。隣に座るから』
『相田くんって絵はどんな感じなんだろう?』
『差し入れとかしたら、株が上がらないかな』
『いっそのこと相田くんと早川くんが並んでるとこ模写させてもらえないだろうか』
なんか混ざってる気がするけれど、相田の隣を狙って女子が互いを牽制し合っていて、おそろしいことこの上ない。当の相田は『建物描くの苦手だから、植物ばっかのところとかないかなあ』と写生しやすいもの探してきょろきょろと視線をさまよわせているというのに。
俺もまあ、あんまり建物を上手く描く自信はないしなあと、植物だらけな場所を探していると。
『カリカリカリ、カリカリカリ』
いつもの独特の擬音が聞こえてきて、振り返る。
既に何人かは写生大会のために座って作業を開始していたけれど、その中には白石さんもいた。
俺は相田に手を挙げる。
「あー、すまん。ちょっとあっちで絵を描いてきていい?」
俺が相田にそう言うと、途端に相田は破顔する。だからなんなの、その反応。
「おう、行ってこい行ってこい」
『頑張れ頑張れ』
だからそのむやみやたらと明るい応援やめろ、とは相変わらず言えない俺は、絵を描いている白石さんのスケッチブックを覗き込んだ。
鉛筆で細かく描かれたそれは、かなり上手い。そういえば、前もソシャゲのキャラを一発で可愛く描いていたから、見たものをそのまんま描くのが得意なんだろうなあと思う。
「すごいな、写真みたいだ」
俺が素直に言うと、鉛筆で描いていた白石さんは「あっ」と顔を上げる。
「こっちで絵を描くの?」
「おう。俺もそんなに絵が上手くないけど、やるだけはやっておこうかと」
「ええ? どんな絵を描くの?」
「無茶苦茶上手い白石さんに見せるの恥ずかしいよ。あ、ちゃんと水摂ってる?」
まだ夏じゃないのに充分夏日みたいな日だから、水分摂ってないとまずいだろうと思って言うと、白石さんは「この下書き終わったら飲むよ」と教えてくれた。
俺は隣に座って鉛筆を取り出して、ガリガリと描きはじめる。
俺の絵が上手くないのは、謙遜でもなんでもなく本当に話だ。とりあえず下書きで形だけガリカリと書いたら、白石さんほど細かく下書きも描いてないけど、そのまんま絵の具を水で溶かして塗りはじめた。
俺がさっさと筆を動かしはじめたのを見て、白石さんは俺の絵をまじまじと眺めはじめる……あれ、なんで?
『素敵な色……すごい』
あまりにも素直な誉め言葉に、思わず俺はどっと頬に熱を持った。
いや、ただ色を塗っただけで褒めるってなに。そもそも褒める要素がどこに……。
俺がペタペタと塗りはじめると、ペットボトルのお茶を飲みつつ、白石さんはなおも俺を凝視してくる。たまりかねて「どうしたかな?」と尋ねると「あ、ごめん」と返してきた。
「本当にすごいね、早川くん。色が綺麗」
「色が綺麗って……色なんて、絵の具を水で溶いたら、皆同じ色を出せるんじゃあ……」
「ううん、混ぜれば混ぜるほど色って濁るから。色って三色以上混ぜないで塗るのがセオリーなんだけれど、早川くんはそれ以上混ぜても綺麗な色を出せるからすごいなと思って」
「え……それってそんな高度なことだったの?」
「うん」
これだけ絵を描くのが上手い子が言うんだったら本当のことなんだろうけれど、色をつくるのが上手くっても、実際の絵がこれじゃあなあ……。
小学生よりはマシだとは思うけれど、とてもじゃないけれど高校生の描いた絵には見えないそれが、俺の顔面に広がっている。
一方白石さんもようやく筆を取って下書きを塗りはじめたけれど、その様子はおかしかった。
彼女はどうにか絵を塗ろうとしているものの、彼女が色を塗ると、あれだけ上手かった下書きの線がどんどんと死んでいくように、立体感が消えてぺったんこな絵になっていく。
白石さんは泣きそうな顔をして、その絵に筆を動かしていた。
「あの、白石さん……?」
「わたし……色を塗るの下手だから……絵を描くのは好き。線を描くのも好き……でも色を塗るのはいくら練習しても苦手」
「なるほどなあ……」
あれだけ絵が上手い子がどうして美術部に入らずに文芸部に入ったんだろうとは思っていたけれど。美術部に入ったら、彼女の欠点はすぐにばれるし、美大卒の先生にボロクソに言われるのが目に見えている……うちの美術の先生は、絵に関してはあまりにもスパルタが過ぎて、選択科目を選ぶ際に他学年から注意勧告が来たくらいだから、選ばれし人たち以外は美術を選択していない。
ふと声が聞こえてきた。
『情けないところ、早川くんには見せたくなかったなあ……』
いや、いやいやいや。
苦手な部分があるのは当たり前だし、そんなところで遠慮しなくっても。
俺はどう言ったもんかなと思いながら、ふと思いついた。
「じゃあ俺が白石さん用に絵の具を溶くっていうのは? 俺はただ絵の具を溶いただけだし、これなら俺が代わりにやったとかいう反則にもならないと思うけど」
「え? でも……早川くんの絵は?」
「俺、どっちみちちゃんと描いてないから、もうちょっとで終わるから、残り時間は白石さんに絵の具を溶くよ」
「えっと……うん」
実際に俺は形だけわかればいいやと、外郭しか描いてないから、筆をたっぷりと動かして全部塗ったら、それでおしまいだ。
残りは「どの部分の色が欲しいの?」と、白石さんの絵の具チューブを借りて絵の具を白石さんのパレットに溶きはじめる。
「えっと……じゃああそこの桜の樹」
「了解」
俺が茶色に少しだけ緑色を混ぜると、それを取って白石さんは色を塗りはじめた。俺は絵の具を溶いただけだというのに、白石さんの絵は見る見る見違えたように綺麗になっていく。
俺はペットボトルを傾けながら、白石さんが綺麗に絵を塗っていくのを眺めていた。
書きあがった絵は、制限時間を思えばかなり綺麗な出来栄えだった。俺は「ヒュー」と口笛を吹く。
「すごいな、白石さん。本当に」
「え……そうかな?」
『早川くんが絵の具を溶いてくれなかったらこんな綺麗な絵は描けなかった。ありがとう』
その反応がいちいちむず痒い。それぞれ出来上がった絵を、向こうにいる先生たちに提出しながら言う。
「俺は白石さんみたいにすごい絵は描けないよ。これは白石さんの実力だ」
「そんなことないよ」
『早川くんは、すごいよ』
そうしっかりと力説され、とうとう俺は顔を火照らせて、目を逸らしてしまった。
……いや、今のはずるいだろ。フツメンが勝手に美少女の誉め言葉を聞いて勘違いすることほど恥ずかしいことはないのに。
絵を提出してから、こちらに生暖かい声が聞こえたけれど、スルーした。
『なんでマイナスイオン様と仲良くしてんだ?』
『あいつ誰? どこのクラス?』
『マイナスイオン様が、笑ってる……だと?』
そういえば。そこでようやく俺は気が付いた。
心の声が聞こえているから、白石さんは淡白な表情をしているだけで素直な子だとは知っていたけれど、彼女が素直に感情を表に出していたことに、今更ながら気が付いた。
彼女が笑うと、朝顔の花が開いたように華やぎ、儚く思えるんだ。
同じクラスの白石さん。
ボブカットの髪はキューティクルつやつやで、長い睫毛はソシャゲのスチルみたいにバチバチに長い。全体的に黒猫みたいな印象の彼女は、学校の中でもダントツの美少女だと思うけれど、今まで誰とも付き合ったという噂がない。
掃除当番で中庭の掃除をしていると、「話ってなに?」という声を耳にし、思わず隠れてしまった。
中庭の椿の木の近くで、背が高い先輩と一緒に、小柄な白石さんが見えた。
たしかあの先輩は、テニス部の主将だったと思う……あの人が苦手なのは、同じ図書委員だけれど、大会の練習とか遠征とかで、すぐに図書館の当番を押し付けられるからだ。実際にテニス部はうちの県じゃ強豪らしいけれど、女遊びも激しいからSNSに書かれるような真似はすんなと警告が流れている。
そんな人に捕まって、白石さんは大丈夫なんだろうか。そう思ってハラハラして見ていたら、テニス部の主将が口を開いた。
「君のことが好きなんだ。今度の大会、見に来てくれないかな?」
「どうして?」
「えっ? だから、君のことが好きで……」
「好きだと大会に見に行かないといけないんですか?」
白石さんの口調には抑揚がない。多分だけれど、テニス部の主将に興味もないのだろう。
主将は顔を真っ赤にして、「こんの……っ!」と彼女に手を挙げようとした。
あっ、まずい……!
僕はおろおろとして、持っていた箒を落としてガッチャンという音を立てた……いろいろとやらかしている主将だけれど、SNSに誹謗中傷を書かれるのは避けたいだろう。ぎょっとしたあと、舌打ちをしてその場に白石さんを置き去りにしていった。
白石さんはいつもの抑揚のない表情で、主将を見送っていた。
「あ、あの……白石さん、大丈夫だった?」
「ありがとう。でも大丈夫」
彼女は淡々と言う。
感情が乏し過ぎて、彼女が怒っているのか悲しんでいるのかわからなかった。
そのままさっさと彼女が去っていったのを、僕は見送った。
余計なことしたんだろうか。僕は彼女の態度に首を捻りながら、落とした箒を拾い上げた。
****
普段から抑揚のない受け答えで、しゃべることも滅多になく、表情を変えることもない白石さんが、どこから来たのか『マイナスイオン様』という愛称で呼ばれるようになったのは、三人ほど告白したという噂が流れてからだった。
どんなイケメンが告白してもなびかない。フツメン以下ではお呼びでない。全員無表情でばっさばっさとフッていく。
噂というには悪意が強過ぎるものが、いつの間にやら出回りはじめた。
実際のところ、彼女にフラれた相手に逆上されて殴られかけているということは、ほとんど知られてないみたいだ。
大方、SNSで悪評を書かれるより前に、彼女に風評被害が向くようにフラれた相手が仕掛けたんだろう。そのせいで、フラれた相手のファンの女子も混ざり、悪評がどんどんと広がっていた。
気付けば白石さんは孤立するようになってしまっていたけれど、彼女はマイペースに部活に入って、部室に入り浸るようになってからは、その迷惑な行動も少しだけなりを潜めた。
彼女の入った文芸部はオタクのたまり場であり、基本的に白石さんに積極的に話しかけるような陽キャはいないけれど、彼女をネタにして遊ぶ陰湿な奴もいなかったから、彼女は比較的安心なようだった。
そんな中。彼女と仲良く話をしている男子が出るようになった。
ふたつ隣のクラスの目立たない男子だけれど、なにかと白石さんに気を遣っているようだった。
彼女は相変わらず表情は乏しいが、彼は彼女がなにを言いたいのかわかるらしい。
「ありがとう」
冷たい抑揚のない言葉でも、男子はヘラリと笑う。
「いいよいいよ。白石さんがいいんだったら」
男子はヘラヘラと答える。
あれだけ冷たい返答だったら、僕は折れそうなのに、あの人すごいな……。
僕は思わずそれを凝視していたら、白石さんのほうから「あ」と声をかけてくれた。それに僕は「ひっ!」と声を上げる。それに隣にした男子が首を捻る。
「あれ、白石さんの知り合い?」
「うん。同じクラスの……どうかした? ずっとこっちを見ていたけど……」
「えっ! 違う……カ、カレシさんとの付き合いを、別に邪魔するつもりは……」
「えっ? わたしと早川くんは、同じ部なだけだよ?」
「えっ……」
もし白石さんの暴言だったら……思わずギギギ……と首を早川くんとかいう男子に向けたら、その早川くんもまたにこやかに笑っていた。
「いやあ……白石さんも大変そうだから。もし勝手にそう噂が出てるんだったら、そのまんま出てくれてたほうが……いいかなあと……」
「ええと……それでいいんだったら、いいのかな……?」
これ以上は僕がどうこう言うことでもないなと、退散した。
「……ありがとう」
「へっ?」
振り返ると、白石さんは薄く笑っていた。
今まで本当に抑揚ない表情をしていたっていうのに。
僕はちらりと隣の早川くんを見る。
多分、このふたりの関係は今はこのまんまでいいんだろう。
写生大会で白石さんが提出した絵は、美術部を追い抜いて賞をもらうことになったらしい。
入賞した白石さんは、困惑の眼差しで校長先生から賞状をもらっているのが印象的だった。
『美術部よりも絵が上手いって……でも上手い』
『マイナスイオン様、ますますモテるなあ』
『あの子が苦痛で歪んだ顔するのが見たい』
白石さんに、羨望も憎悪も、変態的欲求も全部ぶつけられる。あーあー……白石さん大丈夫かな。俺はほんの少し心配になりながらも、日常は続く。
文化祭は期末テスト明けに行われる。昔は秋にやっていたらしいけれど、高三の受験シーズンを考慮した結果、一学期の内に終わらせてしまおうということになったらしい。
文芸部もどうにかこの間印刷所に出した本が届き、皆で「おー……」と言いながら捲っている。
驚いたのは、白石さんの描いた漫画が、思っている以上に面白かったことだ。
ソシャゲの推しキャラ同士が、仲良く冒険している四ページ漫画。たった四ページでよくもまあ面白い漫画になるもんだと、しきりに感心してしまった。
「本当に白石さん、この手の才能あるなあ……」
「そんなことないよ。それを趣味だからやれるだけだから」
『これくらいなら、わたしより上手い人なんていくらでもいるからなあ』
「謙遜も行き過ぎると結構失礼になると思うよ?」
俺の指摘に、白石さんはびっくりしたように口を抑える。
本当に。元々裏表がほぼない子だったけれど、変われば変わるものだなあと思う。
俺が漫画を繰り返し読んでいると「あのう……早川くん」と白石さんが口を開いた。
『こういうの早川くんが好きかどうかわかんないけど、ひとりで行くのはちょっと怖いし……』
なんだ、どこか行くのに着いてきて欲しいのか。俺はどう言ったものか迷った挙句「どうかしたか?」と尋ねると、白石さんはビクンッと肩を跳ねさせてから、もじもじもじもじと自身の掌を弄びはじめる。
文芸部員たちはこちらに視線を向けていた。
『早川すごいな、マイナスイオン様の言葉がわかって……あれだけ冷たい口調で、どうしてそんなに……』
『もじもじするマイナスイオン様かわゆい。SSR』
『早川は陽キャではないと信じていたのに……いや、マイナスイオン様の笑顔を引き出せた時点で主人公……主人公にモブは勝てない』
いや、どんな感想だよ、それ!?
叫びたくなるのをぐっと堪えていたところで、ようやく白石さんは声を上げた。
「ソシャゲで……コラボカフェするんだって……」
「ふうん……」
最近だったらアニメでもゲームでもソシャゲでも、コラボカフェっていう世界観をイメージした料理やドリンクを提供する店を展開したりしている。
あれってピンからキリまであって、一部は超有名IPのコラボカフェにもかかわらずぼったくり料金でグッズ集めを強要させるところもあれば、リーズナブルな値段で満足させ、そもそもIPのコラボカフェだということすら教えないところまである。
俺や白石さんがやっているソシャゲのコラボカフェは、世界観に沿った作品内の回復アイテムをメニュー展開し、箱推しファンをメインに全員登場グッズを展開するという良心的なコラボカフェをしているらしいけれど。
でもあれって抽選が大変らしいって聞いてたけど。
「あれ、白石さんもしかして」
「……行けることになったけど、あれって予約が……ふたり以上じゃないとできなくって……わたしひとりでは行けないから……」
『ひとりでファンを探して行くのは怖い。助けて。お願い』
なるほどなあ……。
俺たちの会話を聞いていた文芸部員はと言うと。
『お土産! 金はカンパで出すからお土産!』
『畜生、リア充爆発しろ!』
『推しがついにリア充の仲間入りかあ……拝む……』
なんか本当に好き勝手言われてるなあ。
少し考えて、溜息をついた。
「俺、そういうところの作法って知らないけど、なにすんの?」
「ご、ご飯食べるだけだと思うから……多分。あの、一緒に行って、くれませんか?」
「俺でよかったら」
途端に白石さんは頬をポポポポポと真っ赤に染め上げた。
「ありがとうございます!」
「お? おお……うん」
やたらめったら嬉しそうな白石さんに、俺も釣られてニコニコしていて、ようやく気付く。
……ん、前の印刷所に制服で行ったんじゃなくって、これ、普通にデートじゃないのか?
デートって、リア充のものではなかったのか?
え、俺ってこれ。どうしたらいいの?
ようやくことの重大さに気が付いて、冷や汗を流した。
****
【おお、すごいな白石さんとデートって!】
【デートじゃねえし! 聖地巡礼だし! コラボカフェとかって初めて行くから、どうすりゃいいのかわかんねえけど】
他に聞ける相手もいないから、必然的に俺は相田にメッセージアプリで助けを求めていた。
相田はスタンプでペタンとサムズアップしたキャラのを押して言う。
【あまりにも普段着って感じじゃなかったら、女子はそこまで怒らないぞ】
【普段着じゃない服ってなに? 制服? 世の中の人、なに着て歩いてるの……】
【これっておしゃれな雑誌とかサイト見ても、背丈とか年齢とかで全然参考にならないから言うけど、服はあんまり着崩れてない奴……できれば新品の服を着て、匂いにさえ気を付けてれば大丈夫】
【匂いってなに? オーデコロンとか付ければいいの?】
【というか、早川は普通に毎日風呂に入って体洗ってシャンプーもしてるだろ? それに加えてドラッグストアでデトランスでも買って脇と首の裏に塗っておけば大丈夫だろ】
【でとらんすってなに】
【制汗剤って言えばわかるか? スポーツやってると汗がすごい噴き出て着替えるときに制服に貼り付いて鬱陶しいから、スポーツ前にそれを振っておくんだよ】
俺の無知っぷりに、相田はすかさずフォローをくれる。持つべきものはリア充の友人か。
最後に相田はしみじみと言った。
【なんというか嬉しいなあ】
その言葉にはて、と思う。
【なにが?】
【白石さんは早川のいいところに気付いて。早川は人を偏見の目で見ないから、楽なんだよな】
偏見もなにも、嘘がないのが聞こえているしなあ。
【そりゃどうも】
【デート頑張れ】
【これ、果たしてデートのカテゴリーに入れても大丈夫????】
心は読めているはずなのに、それでもその先の行動の意図までは、白石さんはちっとも読ませてくれない。
俺はひとまず一番新しいTシャツに、一番くたびれていないジーンズ、比較的綺麗なスニーカーを履いて、当日挑むことにしたのだ。
****
スポーツショップのロゴも入ってない、至ってシンプルなデザインのTシャツだし、むやみに陰キャっぽくはないと思う。
制汗剤だけは困り果ててドラッグストアの店員さんに聞いたら、何故か温かい眼差しで見られて居たたまれなかったけれど、どうにか無臭の制汗剤を振っておいた。
さて、白石さんはどこだろう。
待ち合わせ場所は時計の大きい広場だけれど、ここはデートの待ち合わせがかなり多く、ひとりで買い物に行くときはなるべく通りたくない場所だった。
【あと十分で依頼者が来る】
【ガチ恋勢の同伴は荷が重い……早く済ませたい】
【楽しみ過ぎて、一時間前についてしまった……こんなところで時間潰せることもないし、どうしよう】
幾人かが業者の人みたいな中でも、本当にデートの待ち合わせの人もいて、白石さんも変な人に捕まる前にこっちが回収しないとなあと、彼女がいないか探していると。
人のシャツの背中をくいくい引っ張る感触に気が付いた。
「えっと?」
「早川くん、お待たせ」
「あ……」
思わず見とれてしまった。
麦わら帽子をかぶり、ロングワンピースを着て、肩掛け鞄を斜め掛けしている白石さん。
日頃から見る小柄で華奢な姿が、私服姿になった途端に愛玩さもプラスされたように見える。
はっきり言って、滅茶苦茶可愛い。
「か、かわっ……」
「かわ?」
「きゃわいいねっ……噛んだ」
陽キャのような噛み方をして、はずい。俺がオタオタとしている中、白石さんは華奢な体を揺らして笑いはじめた。
「あははははははは……!!」
思いっきり笑い飛ばされてしまい、いたたまれなくなったものの。
彼女はきっと悪気なんてないし、むしろこんな弾けるような笑い顔を拝めたのは悪いことではないと思う。
俺は少しだけ肩を竦めてから、一緒に笑いはじめた。
それじゃあ行こうか、コラボカフェ。
コラボカフェはソシャゲに合わせたカラーリングで統一されていた。
てっきりソシャゲとのコラボなんだから、もっとキャラの立体パネルを置いて記念撮影できるようにしたり、キャラのプリントをした布地やらポスターやらをペタペタ貼り付けているのかと思ったのに、思いのほか普通の喫茶店っぽい印象だ。
でもくれるコースターはきちんとソシャゲのキャラのをくれるようだ。
店員さんに注文すると、コースターをくれる。俺には白石さんの推しキャラ。白石さんには俺の推しキャラ……おそらく店員さんは気を遣って女性客に男性キャラ、男性客に女性キャラを宛がってくれたんだろうけど、逆なんだよなあ。
とりあえずハンバーグセットに紅茶のセットが届き、店員さんが去ったのを見計らってから、コースターを交換する。
「すごい! 本当にもらえた! キャラが多いから、当たるかどうかわからなかったんだけど!」
「そうなの? てっきり推しを教えたらそれをくれるのかと思っていたけど」
「違うよ、完全にランダム……でもコラボカフェなんてチケットが全然取れないから、何回も行ける自信なんてなかったなあ……本当にありがとう、早川くん」
「いやいや。俺は全然そのつもりはなかったんだけど。でもそれぞれ推しがもらえてよかったな。それにこれ、結構美味いし」
ソシャゲ内イベントで存在していた、手作りハンバーグをつくるために騒動を巻き起こすというイベント内で完成したハンバーグ。
てっきりファミレスっぽい冷凍食品を手作り品に見せかけているのかと思っていたけれど、味は思っている以上に本格的だ。野菜が細かくごろごろ入っているし、肉もジューシー。ソースも結構美味いし、添えている野菜も全部美味い。
美味い美味いと連呼して食べていたら、白石さんも一生懸命ハンバーグセットを食べているのが見えた。
食べ方がやたらと小さく、ちびちびと食べている。小柄な白石さんは、もしかしたら小食なのかもしれない。
「白石さん、それ全部食べきれるか?」
俺がなにげなく聞いてみると、白石さんは「ぴゃっ!」と跳ねた。何故跳ねる。
そのあと、小さく首を横に振った。
「食べきれるよ……ただ、食べるのが遅いだけ」
「そっか。ごめん、急かすつもりはなかったんだ。そっかそっか」
「……このハンバーグおいしくって。食べ終えるのがもったいないなと、いつもよりゆっくり食べてた」
「あっ、それは思った。これ美味いなあ」
「……もし、これと似たようなハンバーグつくれたら、食べてくれる?」
『玉ねぎは多分みじん切りにしたものを生で入れているんだと思う……刻みまくって原型が無くなっているけれど、香りがするから多分セロリも入ってる。人参も……それを蒸し焼きにしてるんだろうなあ……前のイベントに出てきた手作りハンバーグ想定だったら、材料はこれで合ってると思うけど』
俺はそれを聞いて目をパチパチさせてしまった。料理を食べても大概は「美味いなあ」「美味くないなあ」で終わらせてしまう俺は、材料まで考えてなかった。
というより。
「白石さん、料理できるのか? すごいな。俺、夢中で食べててつくってみようとか全然思わなかったから」
「ハ、ハンバーグは、野菜刻んじゃったらあとは混ぜるだけで簡単だから……ソシャゲ内のシナリオで材料は出てたし、実物も見て食べたから、つくれるかなと……」
「でもすごいよ」
「ほ、褒め過ぎ……」
とうとう白石さんは顔を真っ赤に染めて紅茶に逃げてしまった。紅茶もしっかりと味が出ているのに、不思議と渋くない。綺麗な水色の紅茶だった。
ふたりでお腹いっぱい食べたあと、アニメショップに出かける。アニメショップは最近はソシャゲに力を入れている店舗が多く、俺たちの応援しているソシャゲもしっかりグッズ展開されていた。
あんまりそういうのを集める趣味はないけれど、新規のイラストを見るのは好きなため、クリアファイルくらいだったら邪魔にならないだろうと購入する。
俺が買い物している間、白石さんがフラリといなくなっていた。まさか迷子か?
「白石さん?」
「あ、ごめん。ちょっと見てて……」
本棚と本棚の間から、ぴょんぴょんと飛んでみせてくれたので、場所はわかった。普段アニメやソシャゲのノベライズやコミカライズのコーナーにはいるけれど、普段入り込まない場所にいたから驚いた。
そこはイラストや漫画の技巧講座の本がたくさん並んでいた。少し離れた場所にはアナログ画材も置いてある。最近はデジタル全盛期で、全部の作業をスマホやタッチパネルで済ませてしまう人もいるらしいけれど、白石さんはもっぱらアナログ派だった。
「画材? 本? なんか買うの?」
「えっと……前に文芸誌つくったのが楽しかったから、今度は自分で本をつくろうかなと思って……本の作り方とか載ってないかなと思って……」
「本って……もしかして同人誌のこと?」
白石さんは小さく頷いた。
そっか、白石さんの絵だったら充分同人誌にしても映えるしなあ。
一緒にコラボカフェに行った結果、インスピレーションが生まれたんだったら、そりゃすごいことだ。
「印刷所のサイトに載ってないのかな、同人誌の作り方って。多分部長にも言ったら印刷所への原稿の出し方も教えてくれると思う。ただ、白石さんはアナログで綺麗な絵を描くんだから、アナログ原稿を取り扱ってくれるところに出さないと駄目かも」
学校の文芸誌とか取り扱っているところだったらいざ知らず、今はもっぱらデジタルに移行しているんだから、せっかくの上手い白石さんの絵を潰すような真似はしたくないよなあと思う。
俺が言った言葉に、白石さんはますます目を輝かせた。
「す、すごいね、本当に早川くんは! うん、頑張る! ハンバーグつくるのも、同人誌つくるのも、頑張る!」
「ええ? 俺はただ、耳年魔なだけで、別にすごくもなんとも……」
「でもすごいよ、早川くんは」
そう言って白石さんはにこにこと笑い、振り返った。
そのこちらを見上げる様に、ドキリとする。
「人の知りたいことも、困っていることも、全部アドバイスをくれて、励ましてくれる。本当にすごいよ、早川くんは」
「いや……あ……」
そうあまりにも素直に口にする白石さんに、俺は言葉を失ってしまった。
いや、違うだろ。俺の場合、ただ白石さんの声が聞こえるだけ。それに沿って、アドバイスをしているだけ。別に欲しい言葉を絶妙なタイミングで渡したらすごいとか善人とか思うかもしれないけど、こんなのタネを明かしたらただのペテン師だろ。
俺が口をふがふがとさせている中、白石さんはきょとんとして、こちらを覗き見てきた。
「早川くん?」
「いや……ああ……うん。俺は、白石さんが思うような人間じゃ、ないよ?」
「ええ? 皆、自分の理想と現実は違うでしょ? そうじゃないの?」
「ええっと?」
いきなり哲学的なことを言われ、俺は唖然として白石さんを見ると、白石さんはカゴを持ってきて、せっせと画材を入れはじめた。
同人誌用用紙、墨汁、ペン軸、ペン先、スクリーントーン。どれもこれも、アナログ原稿の道具だ。
それを入れながら、白石さんは続ける。
「皆、思い込みでしか話をしないから。思い込みが思い込みだってわかったら、皆すごく怒るから。それは、すごく怖い。勝手に期待されて、勝手にがっかりされるのは、すごく怖い。早川くんだけだった。わたしがしたことだけを褒めてくれたのは。思い込みじゃなくって、結果で褒めてくれた。それは、すごいことではないの?」
その言葉に、俺は喉を詰まらせた。
……俺は自分の持っている人の声が聞こえるのは、全部ズルだと思っていたし、あまりにもギャップが大き過ぎる人間からは逃げるのが普通だと思っていた。
単純に白石さんといるのは、裏表がないから楽だった。それだけだったはずなのに。
そんな褒められるなんて思わなかった。
「あー……ありがとな。そう言われたのは、初めてだわ」
「そう?」
「はい」
会計に進んだ白石さんを見送りながら、次はどこに行こうと考えた。
陰キャの俺は、今ものすごく楽しいけれど、女の子とどこに行ったら楽しいのかまではわからない。
ただ、ふたりでいる時間があと少しだけでもと先延ばしにしたい気持ちだけは、本物だ。