それからの私は、寝ても覚めても上野さんのことばかり考えるようになりました。免疫のない私は突然のキスにすっかり舞い上がってしまったのです。上野さんが私を特別視するわけもないと思いながらも、心のどこかで自分を好いてくれるんじゃないかと期待もしました。

 今となっては笑ってしまいます。だって、その気があるなら、あのときとっくに私は彼に抱きすくめられていたでしょうに。
 学校へ向かう坂道、人ごみでにぎわう駅、あと少しで家だというところにある曲がり角。いろんなところで彼の姿を探します。けれど、彼はそんなところはおろか、兄のところにも遊びに来なくなりました。

 ある日、思い切って兄に訊いてみました。

「最近、上野さん来ないね。元気?」

 何も知らないのでしょう、兄はけろっとこう返します。

「あぁ、あいつバイト始めたからなぁ。忙しいんだよ。遊びに行くのも外に飲み食いに行くことが増えたな」

「バイト?」

「あぁ。どっかの工場だって言ってた」

 私は内心ひどく肩を落としていました。接客業のアルバイトをしているならともかく、工場なんてとてもじゃないけれど、偶然を装って会いに行けるわけがありませんから。
 私の中で彼に会いたいという想いは徐々にふくれあがり、重くのしかかっていきました。

 それから一ヶ月、私は妄想の中で彼と会っていました。
 今度会ったら、まずはクリームソーダのお礼を言おう。きっと、彼はこう言うだろう。そうしたらあそこに行こうと誘ってみよう。あぁ、ある日家の前で待ち伏せでもしてくれないかしら。そんなことを考えるだけで私はいてもたってもいられないほど浮き足立つのです。

 ところが夏の終わり、私のそんな浮かれた気分は地に落とされるのです。
 私が学校の友達を駅まで送ったときのことでした。友達を改札で見送って、帰ろうとしたとき、駅のベンチに彼が座っているのを見つけたのです。

「あ……」

 声が漏れて、そしてすぐに動けなくなりました。その隣に親しげにしている女性が座っていたからです。あの喫茶店の前でキスしていた人とは違う女性でした。すらりとした足を組み、綺麗に化粧をした顔を彼に向けて微笑んでいます。
 上野さんは少し髪が伸びていました。けれど、あの繕ったような笑みはそのままでした。

 胸がえぐられたようで、すぐさま背を向けて走り出しました。一刻も早く彼の視界から消え去りたかったのです。
 あの二人の姿を見て、私は惨めさにうちひしがれていました。彼は私を見ていない。彼は私を選ばない。妄想するだけ無駄で、およそ気持ち悪いことなのです。

 そして私はあることに気がついていました。私は彼が自分を思い出しもしないことより、もうキスをすることができないのが悲しいのです。私は彼とあの日のキスの続きをしたかったのです。しかも、私だけが。
 あの人は他の誰かとキスをしているのにと思うと、恥ずかしく、消え去りたい気持ちでいっぱいになりました。

 こうして、私の初恋はあっけなく消えました。けれど、それは女としての私を目覚めさせる一歩でもありました。
 駅での彼は、あのくしゃっと笑う笑顔ではありませんでした。きっと彼はまだ自分の気持ちを昂ぶらせるものを探しているのでしょう。それが私であったらよかったのに。心からそう思ったのをよく覚えています。

 上野さんは私にひとつのことを教えてくれました。思っているだけでは何も変わらないということです。妄想するだけでなく、キスの続きがしたければ押しかけて無理やりにでもすればよかったのに。今ではそう思います。
 そのあと、私はたくさんのキスを知り、いつしか上野さんとのキスの感触を忘れてしまいました。あまりに一瞬すぎたせいか、それとも頭が真っ白だったせいか、思い出せなくなっていたのです。

 なのに、どうでしょう。クリームソーダのアイスのふちを食べるたびに、この胸の高まりや痛みがどっと押し寄せるのです。アイスのふちが好きだと言ったときの嬉しさ、キスの驚き、そして駅での潰されそうな痛み。それが一気によみがえります。アイスのふちだけが、私をあの夏に押し戻すのです。

 彼とはあれ以来、顔を合わせてもいません。彼は今、本当に楽しそうに笑っているのでしょうか。
 あの夏の日のキスがどんなキスだったか、きっともう一度口づければよみがえるはずです。けれど、それがどんなものか知りたくもあり、知らないからこそいいような気がします。
 だって、あの頃よりもいくらか経験を積んで、いろんなキスを知り、悲しみに慣れてしまった今の私が彼と再び出会ったら、「『彼女だ』と思えるのは私よ」と、迷わずキスできるかわからないからです。
 でも、もしそうなったら、彼をくしゃっと笑わせ、そのたびに笑えていることをキスで教えてあげたいと思うのです。