彼はナプキンで口の周りを拭き、鉄板をテーブルの端に寄せました。ついで、長いスプーンでクリームソーダをつつき、真っ白いアイスのふちを少しすくいます。

「このアイスのふちがシャリっていうのが好きなんだ」

 それを聞いた途端、思わず私の頬が緩みました。

「ですよね、わかります!」

 今まで特に意識もしていなかったし、誰かに言うほどのことでもないけれど、私もクリームソーダに浮かぶアイスのふちが氷の結晶でしゃりっとするところが無性に好きでした。それについてわざわざ語るほどでもない小さなことなのに、まったく思いがけぬ人と自分の嗜好が、しかもこんな地味な好みが一緒だと知り、すっかり嬉しくなってしまったのです。

「ここのね、この感じ、いいですよね」

 アイスのふちをスプーンで口に運ぶと、快い感触のあとで、音もなく溶けてしまいます。そして広がるのはアイスの風味。氷菓を食べているようでアイスクリームの贅沢な後味がするのが、好きなのです。さっきまであんなに遠く感じていた上野さんに、こんな些細なことですっかり親近感を感じたのでした。
 嬉しさが私を包み込みます。このささやかな楽しみをわかってくれる人がいたからでしょうか。それとも、上野さんが思いのほか親しみを持てる人だったからかもしれません。
 どちらかははっきりとはわかりません。このときの私はそんな疑問すら抱くこともせず、ただただはしゃいでいたのです。
 そんな私をじっと見ていた上野さんが、くしゃっと笑います。

「香織ちゃんはまっすぐだね」

 私は思わず言葉を失い、彼の顔を見つめました。

「どうしたの?」

「上野さん、いつもそうやって笑えばいいのに」

「え?」

「いつもの穏やかな笑顔もいいけれど、私はくしゃくしゃに笑うほうがいいと思います」

 すると、彼がますます声を上げて笑うのです。

「君は歯に衣着せないね。あの兄にしてこの妹だ」

 兄が普段、どのように上野さんと付き合っているかは知りません。けれど、彼は兄のまっすぐな性格を気に入っているのだということだけはわかりました。

「まぁ、それは自分で意識するのは難しいんだ」

 彼はぽつりと、呟きます。

「なにせ、自分がいつ本当に楽しくて笑っているかもわからないんだからね」

「どういう意味ですか?」

「僕は自分が夢中になれるものを探しているんだ。それは趣味でも学問でも女でもなんでもいい。鳥肌がたつほどわくわくするような何かを、自分がどんな顔をしているのか忘れて没頭できる何かをね」

 カランと氷の崩れる音がし、彼はそれっきり口をつぐみました。私は溶けたアイスの膜がへばりついた氷をストローでつつきながら、彼が全部飲みきるのを待っていました。
 彼は目が合うと『喋りすぎた』とでも言わんばかりに、何も言いませんでした。

 不思議な人だと思いながら、彼の意外に長いまつ毛を見つめます。その瞳に宿る虚無感がひょっこり顔を出したような気がしたのでした。
 彼のクリームソーダが残り少なくなる頃には、もう少し、この人を知りたいと思う自分がいました。私はいつしか、彼に興味を抱いていたのです。

 少しだけ、彼の気持ちがわかるような気がしたのです。私は漫画や映画の世界に夢中になれるタイプでしたが、現実の世界には何一つわくわくすることはありませんでした。身を焦がす恋を描いた漫画を読んでも、自分とは遠い世界だから憧れると思っていました。実際に自分だって、こんな思いをしてみたい。けれど、それってどこにいけばいいのでしょう。
 憧れれば憧れるほど、今の自分とのギャップに幻滅し、興ざめしていくばかりの私が、何かを求めている彼と重なって見えたのでした。

「さぁ、帰ろうか」

 やがて、グラスが空になったのを見届けると、彼が伝票を持って立ち上がります。

「あの、私も払います」

「いいんだよ、付き合わせたのはこちらだから」

 その笑みはさっきのくしゃっとした笑顔ではなく、卒のない笑みに戻っていました。
 会計をすませる背中を見ながら、私は自分に驚きました。だって、名残惜しく思う自分がいたんですから。

 外を出るとクーラーに慣れた肌にむっと温い空気がまとわりつきます。陽炎でも見えそうな道を、彼は歩き出しました。

「送るよ」

「……ありがとうございます」

 一体何人の女性と付き合えば、こんなに自然にエスコートできるのでしょう。経験値の絶対的な差を見せ付けられた気がしました。
 ふと、上野さんが思い出したように口を開きました。

「あぁ、お兄さんに明日には電話が通じるって伝えてもらえる?」

「あ、はい。じゃあ、これから料金払いにいくんですね」

「わざと払ってないんだ」

「え?」

 予想外の答えに目を丸くすると、彼はすっと眉を上げて見せました。

「連絡を取りたくない気分のときはこうして電話をわざと使えないようにするときがあるんだよ。特に女がしつこいときとかね」

「さっきの人ですか?」

「うん、まぁ、あの子は連絡がとれないと逆効果だってわかったから、電話を使えるようにしとこうと思ってね。不便には違いないし」

 すっかり呆れた顔の私を見て、彼は微笑みました。

「君みたいに顔で会話する人も面白いね。恋人にしたら楽ちんだろうな」

「どういう意味ですか?」

 何を言い出すのかと赤面していると、彼は面白がるように白い歯を見せます。

「隠し事はできないし、何で怒っているのか、何で嬉しいのかわかりやすいものね」

「あんまりわかりやすくても、面白くありませんよ。わからないからいいんじゃないですか?」

 それは沢山の少女漫画を読んでいて感じていたことでした。彼がどう思っているか、何を考えているか、二人はどうなるのかわからないからヒロインも読者も一喜一憂するんですもの。
 彼は少し驚いたようでしたが、すぐに小さな笑みを漏らしました。

「本当に面白いね、香織ちゃんは」

 次の瞬間、蝉の声が消えました。眩しい夏の日差しが影に呑まれ、目の前に迫ります。
 唇に押し当てられた柔らかい感触。一瞬の体温。奪われたという言葉がふさわしいようなキスでした。気がつけば、彼はもう顔を離し、人差し指を唇に当てて笑います。

「内緒だよ」

 責めたくても声になりません。ただただ、顔を真っ赤にして呆然としていました。
 すると、彼は少し困ったように眉尻を下げます。

「君は面白いんだけどね、親友の妹には手を出せないよ」

 そして歩みを止めました。

「じゃあ、ここで。それじゃあね」

 彼はあの涼やかな笑みを浮かべて背を向けました。遠くなる背中を、私はただただ黙って見送っていました。そうすることしかできなかったのです。
 ご馳走になったお礼を言えばよかったと気がついたのは、家に帰って布団に顔を押し当てて恥ずかしさにじたばたしたあとでした。