喫茶店に入って中を見渡すと、一番奥のテーブル席に上野さんが腰を落ち着けたところでした。
「いらっしゃいませ」
声をかけてくれたマスターに「待ち合わせですので」と言って、彼のもとに歩み寄ります。
ふと顔を上げた上野さんは私を見て一瞬きょとんとしましたが、すぐに誰かわかったようで「おや」という顔になりました。
「香織ちゃん? どうしたの?」
首を傾げる彼は、いつも見せる人懐こい表情を浮かべていて、さっきまでの色気溢れる男の顔つきではありませんでした。
「兄から頼まれたんです。」
男って一緒にいる相手次第でこうも顔つきが変わるんだという驚きに顔つきを凍らせたまま、兄の言葉を伝えます。
「あぁ、そうか。今、携帯止められているからね。申し訳ないね、わざわざ」
彼は私に詫びると、眉をひそめます。
「それにしても参ったな。呼び出したのはあいつのほうなんだが」
「すみません」
思わず謝った私に、彼はにっこり笑う。
「うん。そう思うなら、ちょっと付き合ってよ」
「へ?」
「せっかく入った喫茶店で何も頼まずに出るのは嫌だし、付き合ってもらいたいな。それに香織ちゃんがいつまでも座らないから、お店の人も困っているようだし」
慌てて振り返ると、マスターが水の入ったコップを二つ乗せた盆を手に苦笑いしているところでした。
「あ、すみません」
慌てて上野さんの向かいに腰を下ろすと、彼は小さなメニューを広げて笑いました。
「今日はご馳走するから、一緒にご飯でも食べようよ。ね?」
犬のように人懐こい。私はなんとも不思議な人だと呆れながら、メニューに目を通します。
「お腹はすいてる? 好き嫌いとかあるかな?」
彼は、女性とどう接していいかよく心得ているようでした。場慣れしているというか、こなれているのがわかるのです。
私といえばその対極で、男性と二人きりで食事をするなんて生まれて初めてのことだったのです。向かいあってメニューを見ているだけで精一杯でした。一緒に食事をすると意識しただけで、彼の顔を見るのもやっとの有様でした。
「わ、私、そんなにお腹はすいてなくて」
しどろもどろで言うと、彼は「あ、そう?」と少し残念そうに首を傾げました。どうも、彼は首をちょっとだけ傾げて見せるのが癖のようでした。
「ここの鉄板に乗ったナポリタンはおすすめなんだけどな。僕はそれにしよう。あぁ、それじゃ飲み物は? コーヒーは飲める?」
「いいえ」
「ほら、他にも紅茶にレモンスカッシュに、クリームソーダもあるよ」
クリームソーダという言葉に、思わず頬が緩みました。子どもっぽく思われるのが嫌で普段はあまり口にしませんが、実は大好物なのです。
「じゃ、クリームソーダで」
上野さんは私を見つめ、ふっと目を細めました。
「じゃあ、僕もそれにしよう」
「え?」
男の人がクリームソーダなんてずいぶんと可愛らしい。そう思った途端、彼が微笑みます。
「香織ちゃん、好きなんでしょ? 僕も飲んでみるよ」
顔に出ていたんだと思うと、赤面してしまいました。けれど、彼は気にも留めない様子でマスターを呼び、ナポリタンとクリームソーダを注文します。
「家にお邪魔したときに顔を合わせるけど、こうしてお話するのは初めてだね」
マスターの背中を見送ると、彼が穏やかな口調で言います。
「あの、いつも兄がお世話になっております」
ぺこりと頭を下げると、彼は「はは」と笑っています。
「こちらこそだよ。でも、香織ちゃん。さっきの女の人とのことは、内緒にしていてね」
ぎくりとして顔を上げると、上野さんはにやりと口の端を吊り上げていました。
「見てたでしょ?」
「気がついていたんですか?」
「香織ちゃんだとはわからなかったけれど、後ろを歩いていた女の子が喫茶店に入ってきたなとは思ったよ」
人に見られていると知っても、あの濃厚なキスをしていたわけです。なんだか呆れてしまいました。
「あの女の人は、彼女ですか?」
おずおずと訊ねると、彼は「ううん」と唸っています。
「嫌いじゃないけれど、彼女ではない」
「彼女じゃないのに、あんなキスするんですか?」
目を丸くした私を、彼は面白そうに見ています。
「彼女かどうか確かめるために、キスをするんだ」
「よく意味がわかりません」
「そのほうがいい」
ずいぶんと人を馬鹿にして。まるで、私が子どもみたいじゃないの。
そうふくれっ面になったときです。マスターが「お待たせしました」と、料理を運んできました。じゅうっと音をたてる鉄板に乗った赤いナポリタンでした。なんともいい匂いが鼻先をくすぐって、胃袋を刺激します。
「うわぁ、美味しそう」
思わずため息まじりに言うと、上野さんが噴き出しました。
「でしょ?」
そう言って、彼は手早くフォークにナポリタンを巻きつけ、こちらに差し出しました。
「はい」
「え?」
湯気のたつナポリタンが私に向かって突きつけられています。それは漫画の世界でも最近見ない「あ~ん」の体勢でした。
「ちょ、ちょっと……」
「いいから。一口わけてあげる」
にっこりした笑みと漂う香りにつられて、思わずナポリタンにかぶりつきました。
「美味しい?」
首を縦に振ると、彼はゆっくりとナポリタンを味わい始めます。私が使ったフォークで食べることなど、彼はいっこうに気にも留めていないようでした。
なんて人懐っこいんだろうと呆れた私に、彼が気づいてにんまりします。
この人は自分がどうやったら女性の懐に滑り込めるかわかっているのだと確信しました。よく見ると、遠目には青白いひ弱な青年にしか見えなかったけれど、こうして間近で見ると、そうでもありません。メガネの向こうにある顔立ちも中性的で綺麗だし、ちょっとふっくらとした唇が色っぽい。それに、体つきだって痩せて見えるけれど、実は着やせするだけでほどよく筋肉がついている。つまり、魅力的だったのです。
「お待たせしました」
二人の前に出されたのは、クリームソーダでした。メロンの再現率など皆無のメロンソーダに浮かぶ白いアイス。これが何故か子供の頃から大好きな私は、思わず笑みを浮かべました。
「好きなんだねぇ」
眉尻を下げて笑う彼は、まるで子猫でも見るような目つきでした。
「そ、そんなに好きでもありません」
なんだか無性に恥ずかしくなって嘘をつく私を、彼は目を細めています。
上野さんは意外と食べるのが早い人でした。とはいっても、綺麗に食べるのです。私はクリームソーダを飲みながら、その所作にすっかり感心していました。スプーンなど使わずにフォークだけでくるりと綺麗に巻かれていくナポリタン。その顔も本当に美味しそうで、見ていて気持ちがいいくらいでした。
「上野さんって、モテそうですね」
思わず、ストローから口を離し、そう漏らしました。
上野さんがひょいと肩をすくめます。
「そうだね。でも、残念ながら『彼女だ!』って人にはまだ巡り合えない」
「それは好きな人がいないということですか?」
「そうなるね」
「なのに、お付き合いしたり、キスをしたりするんですか?」
「そうだね」
「まったく理解できません」
沸き起こる嫌悪感で眉間にしわを寄せている私に、彼はぎこちなく笑いました。だが、そこには少しさびしそうな影が見えた気がしました。
「そうだね、僕も何故そうなのか、わからない」
誠実さのかけらもないのではないか。そんな半ば軽蔑の眼差しを向けていた私を見透かすように、彼はただただ切なげに微笑むのです。まるで、諦めているのだと私に訴えているようでもありました。
理解できないというのは、目の前にいる人をこんなにも遠くに感じるものなのだ。そう思ったときでした。
「いらっしゃいませ」
声をかけてくれたマスターに「待ち合わせですので」と言って、彼のもとに歩み寄ります。
ふと顔を上げた上野さんは私を見て一瞬きょとんとしましたが、すぐに誰かわかったようで「おや」という顔になりました。
「香織ちゃん? どうしたの?」
首を傾げる彼は、いつも見せる人懐こい表情を浮かべていて、さっきまでの色気溢れる男の顔つきではありませんでした。
「兄から頼まれたんです。」
男って一緒にいる相手次第でこうも顔つきが変わるんだという驚きに顔つきを凍らせたまま、兄の言葉を伝えます。
「あぁ、そうか。今、携帯止められているからね。申し訳ないね、わざわざ」
彼は私に詫びると、眉をひそめます。
「それにしても参ったな。呼び出したのはあいつのほうなんだが」
「すみません」
思わず謝った私に、彼はにっこり笑う。
「うん。そう思うなら、ちょっと付き合ってよ」
「へ?」
「せっかく入った喫茶店で何も頼まずに出るのは嫌だし、付き合ってもらいたいな。それに香織ちゃんがいつまでも座らないから、お店の人も困っているようだし」
慌てて振り返ると、マスターが水の入ったコップを二つ乗せた盆を手に苦笑いしているところでした。
「あ、すみません」
慌てて上野さんの向かいに腰を下ろすと、彼は小さなメニューを広げて笑いました。
「今日はご馳走するから、一緒にご飯でも食べようよ。ね?」
犬のように人懐こい。私はなんとも不思議な人だと呆れながら、メニューに目を通します。
「お腹はすいてる? 好き嫌いとかあるかな?」
彼は、女性とどう接していいかよく心得ているようでした。場慣れしているというか、こなれているのがわかるのです。
私といえばその対極で、男性と二人きりで食事をするなんて生まれて初めてのことだったのです。向かいあってメニューを見ているだけで精一杯でした。一緒に食事をすると意識しただけで、彼の顔を見るのもやっとの有様でした。
「わ、私、そんなにお腹はすいてなくて」
しどろもどろで言うと、彼は「あ、そう?」と少し残念そうに首を傾げました。どうも、彼は首をちょっとだけ傾げて見せるのが癖のようでした。
「ここの鉄板に乗ったナポリタンはおすすめなんだけどな。僕はそれにしよう。あぁ、それじゃ飲み物は? コーヒーは飲める?」
「いいえ」
「ほら、他にも紅茶にレモンスカッシュに、クリームソーダもあるよ」
クリームソーダという言葉に、思わず頬が緩みました。子どもっぽく思われるのが嫌で普段はあまり口にしませんが、実は大好物なのです。
「じゃ、クリームソーダで」
上野さんは私を見つめ、ふっと目を細めました。
「じゃあ、僕もそれにしよう」
「え?」
男の人がクリームソーダなんてずいぶんと可愛らしい。そう思った途端、彼が微笑みます。
「香織ちゃん、好きなんでしょ? 僕も飲んでみるよ」
顔に出ていたんだと思うと、赤面してしまいました。けれど、彼は気にも留めない様子でマスターを呼び、ナポリタンとクリームソーダを注文します。
「家にお邪魔したときに顔を合わせるけど、こうしてお話するのは初めてだね」
マスターの背中を見送ると、彼が穏やかな口調で言います。
「あの、いつも兄がお世話になっております」
ぺこりと頭を下げると、彼は「はは」と笑っています。
「こちらこそだよ。でも、香織ちゃん。さっきの女の人とのことは、内緒にしていてね」
ぎくりとして顔を上げると、上野さんはにやりと口の端を吊り上げていました。
「見てたでしょ?」
「気がついていたんですか?」
「香織ちゃんだとはわからなかったけれど、後ろを歩いていた女の子が喫茶店に入ってきたなとは思ったよ」
人に見られていると知っても、あの濃厚なキスをしていたわけです。なんだか呆れてしまいました。
「あの女の人は、彼女ですか?」
おずおずと訊ねると、彼は「ううん」と唸っています。
「嫌いじゃないけれど、彼女ではない」
「彼女じゃないのに、あんなキスするんですか?」
目を丸くした私を、彼は面白そうに見ています。
「彼女かどうか確かめるために、キスをするんだ」
「よく意味がわかりません」
「そのほうがいい」
ずいぶんと人を馬鹿にして。まるで、私が子どもみたいじゃないの。
そうふくれっ面になったときです。マスターが「お待たせしました」と、料理を運んできました。じゅうっと音をたてる鉄板に乗った赤いナポリタンでした。なんともいい匂いが鼻先をくすぐって、胃袋を刺激します。
「うわぁ、美味しそう」
思わずため息まじりに言うと、上野さんが噴き出しました。
「でしょ?」
そう言って、彼は手早くフォークにナポリタンを巻きつけ、こちらに差し出しました。
「はい」
「え?」
湯気のたつナポリタンが私に向かって突きつけられています。それは漫画の世界でも最近見ない「あ~ん」の体勢でした。
「ちょ、ちょっと……」
「いいから。一口わけてあげる」
にっこりした笑みと漂う香りにつられて、思わずナポリタンにかぶりつきました。
「美味しい?」
首を縦に振ると、彼はゆっくりとナポリタンを味わい始めます。私が使ったフォークで食べることなど、彼はいっこうに気にも留めていないようでした。
なんて人懐っこいんだろうと呆れた私に、彼が気づいてにんまりします。
この人は自分がどうやったら女性の懐に滑り込めるかわかっているのだと確信しました。よく見ると、遠目には青白いひ弱な青年にしか見えなかったけれど、こうして間近で見ると、そうでもありません。メガネの向こうにある顔立ちも中性的で綺麗だし、ちょっとふっくらとした唇が色っぽい。それに、体つきだって痩せて見えるけれど、実は着やせするだけでほどよく筋肉がついている。つまり、魅力的だったのです。
「お待たせしました」
二人の前に出されたのは、クリームソーダでした。メロンの再現率など皆無のメロンソーダに浮かぶ白いアイス。これが何故か子供の頃から大好きな私は、思わず笑みを浮かべました。
「好きなんだねぇ」
眉尻を下げて笑う彼は、まるで子猫でも見るような目つきでした。
「そ、そんなに好きでもありません」
なんだか無性に恥ずかしくなって嘘をつく私を、彼は目を細めています。
上野さんは意外と食べるのが早い人でした。とはいっても、綺麗に食べるのです。私はクリームソーダを飲みながら、その所作にすっかり感心していました。スプーンなど使わずにフォークだけでくるりと綺麗に巻かれていくナポリタン。その顔も本当に美味しそうで、見ていて気持ちがいいくらいでした。
「上野さんって、モテそうですね」
思わず、ストローから口を離し、そう漏らしました。
上野さんがひょいと肩をすくめます。
「そうだね。でも、残念ながら『彼女だ!』って人にはまだ巡り合えない」
「それは好きな人がいないということですか?」
「そうなるね」
「なのに、お付き合いしたり、キスをしたりするんですか?」
「そうだね」
「まったく理解できません」
沸き起こる嫌悪感で眉間にしわを寄せている私に、彼はぎこちなく笑いました。だが、そこには少しさびしそうな影が見えた気がしました。
「そうだね、僕も何故そうなのか、わからない」
誠実さのかけらもないのではないか。そんな半ば軽蔑の眼差しを向けていた私を見透かすように、彼はただただ切なげに微笑むのです。まるで、諦めているのだと私に訴えているようでもありました。
理解できないというのは、目の前にいる人をこんなにも遠くに感じるものなのだ。そう思ったときでした。