初恋は高校生のときでした。
 それまでも誰かを目で追うことはありましたが、誰か一人に夢中になって夜も眠れなかったことはありませんでした。私は現実の異性よりも、小説や漫画の世界のほうが好きだったのです。

 本の中の恋愛に憧れはしましたが、『ずきん』とか『とくん』とかそんなオノマトペで表現される胸の痛みが、実際はあんなに辛く苦しいものなんて、知る由もなかったのです。

 三つ上の兄の親友に、上野さんという人がいました。
 家に遊びに来ることは多かったのですが、顔を合わせたら会釈するくらいで、ほとんど話したことはありませんでした。
 黒縁のメガネがいつも下がり気味で鼻にひっかかり、痩せぎすな印象でした。まるで明治時代の書生さんといった印象でした。

 ある日、兄が珍しく青白い顔をしていました。

「香織、助けてくれ」

「どうしたの、兄さん?」

 兄は呻くように言いました。

「これから上野と待ち合わせなんだけど、腹下しててキャンセルしたいんだよな」

「一人であんなにスイカを食べるからよ。連絡したら?」

「あいつ、料金延滞しているみたいで、連絡つかないんだよ」

「そうなの」

「ほら、あいつ一人暮らしだろ? バイトで忙しいとか言って、時々振込みを忘れるんだよ。俺から見れば忘れっぽいだけなんだよな」

 ぶつぶつと文句を言い、兄が「うっ」と声を漏らしてトイレに駆け込みます。やがてトイレから出てきた兄が私の肩を掴んでこう言い出しました。

「頼む。俺の代わりに上野のところに行って事情を話してきてくれ」

「えぇ? 私が?」

「しょうがないだろ。十五分後に、駅前の喫茶店で待ち合わせなんだよ。頼むよ」

 突然のことでしたが、私は思いがけず上野さんの待つ喫茶店に向かうことになりました。兄の『あとでお前の好きな漫画を買ってやるから』という言葉にのせられたのです。

 兄も兄だけど、上野さんも上野さんだと、呆れながら駅前の喫茶店に向かいました。
 真夏の日差しが容赦なく照りつけ、それと共に蝉の鳴き声が降り注ぎます。むっとした熱気がまとわりつき、息をするのすら苦しいようでした。

「漫画一冊なんて安かったかな。二冊にすればよかった」

 ぼやきながら歩いていると、道のはるか先に喫茶店の看板が小さく見えました。待ち合わせの時間には間に合いそうだと安堵したとき、前を歩いていた一組の男女に目が留まりました。
 痩せた男の腕に絡みつくのは、しなやかな体つきの女でした。時折見える横顔がいわゆる美人な大人だということはわかりました。女は懸命に男の気をひこうとしているのか、何かを話しかけては艶っぽい視線を送っているようです。けれど、男のほうはそれをかわしたようで、腕を離して肩をすくめました。
 こんな美人を袖にするなんて、どれほどいい男なのか。興味津々で見ていた私は、思わず口をぽかんと開けてしまいました。
 ふっと見えた横顔は、これから会うはずの上野さんだったからです。私が驚いたのは彼が女性をあしらっていたことよりも、その顔つきでした。いつもはにこにこと愛想がよく、どこかのお坊ちゃんみたいな顔をしているのに、そこにいた彼は艶のある大人の男に見えたのです。

 彼が何事か口にすると、喫茶店を指差しました。きっと、これから兄と会う約束をしているからと伝えたのでしょう。相手の女は急にふくれっ面になります。彼はにやりと唇の端を吊り上げて、彼女に軽いキスをしました。触れるだけの、まるで子どもをあやすようなキスでした。
 女が「もう!」と拗ねる声が聞こえ、彼に背を向けて歩き出します。すると、上野さんはその手を掴み、引き寄せ、今度は長いキスをしました。いわゆる、大人のキスです。彼の手は彼女の腰を抱き、何度も唇を味わいます。思わず目を丸くして、唇を重ねる二人を凝視しました。気がつけば、すっかり蝉の鳴き声を忘れている自分がいました。

 彼は離れて何かを囁いたと思ったら、すっと喫茶店に消えていきました。女性がぼんやりと見とれているのを知らない振りで追い越し、私は顔を真っ赤にさせていました。これから会うというのにどんな顔をすればいいのか。気まずい思いを抱きながら、喫茶店の呼び鈴を鳴らしたのでした。