私たちはチェーン店のコーヒーショップに入ることにした。お詫びにおごってくれるというので期間限定のちょっと高めのドリンクを頼むことにする。彼はコーヒーと三つのデザートを頼んでいた。

「受け止めてくれてありがとう。俺の名前は広瀬翔。十七歳です。命の恩人ちゃんの名前は?」
「命の恩人ちゃんって……。ええと関有紗です。十七歳です」
「同い年だ!有紗は何であそこにいたの?」

 屈託なく笑う広瀬君の破壊力は半端なくて周りの視線がちょっとだけ痛い。何よりも名前呼びなことに驚いた。いや、こんなイケメンから名前で呼ばれて嫌な人なんていないかもしれないけど。もしもそれを自分で分かっているのだとしたら広瀬君は結構チャラい。

「課題をやろうと思って図書館に行く途中だったの」

 なるべく個人情報を出さないように気を付ける。

「課題?まだ夏休みが始まったばっかりなのに真面目だね。俺は今年はやらなくていいかなー」

 広瀬君はけろりとした顔で悪びれもなく言う。
 チャラくて不真面目か……。人は見た目によらないな。疑いの目を向けてるとそれがばれて上唇を突き出し、不満げな顔をされる。

「有紗ってばろくでもないこと考えているでしょ。俺は頭いいんだからね。ただやる気がないだけです!」

 そんな元気いっぱいに言われても困る。頭がいいというのも当てにならない。ふ、と思い立ってトートバッグから数学の課題と筆記用具を出す。付箋が貼ってあるページをめくって広瀬君に見せた。この問題は答えを見ても分からなかったから図書館で似たような問題が載っている参考書がないか探そうと思っていたのだ。

「じゃあさ、この問題って広瀬君解ける?」
「うん?どれどれ。ああ、これ。メモ用紙とかってある?」

 指さした問題を一瞥するとすぐに納得したように頷かれる。メモ用紙を求められたのでシャーペンとまだ真っ白なページを開いたノートを渡す。広瀬君はすぐにスラスラと計算式を書き始めて五分程度で答えを導き出してしまった。

「すごい……合ってる」
「ふふん。解き方も教えてあげよっか?」
「え、いいの!」
「もちろん」

 広瀬君の教え方はとても分かりやすかった。何度も解説と睨めっこしても分からなかった問題がするすると気持ちいいぐらいに解けてしまった。

「ありがとう!広瀬君って本当に頭良かったんだね。あ、十七歳って言ってたけどもしかして高校三年生だったりする?」
「二年だよ。さっきからちょいちょい失礼だなぁ」
「あ、ごめん」

 私のこういうところが駄目だ。ついつい思ったことを声に出してしまう。ぎゅっとTシャツを握る。店内は空調が効いているはずなのに手のひらに汗が垂れた。

「そんな顔しなくても大丈夫。突然お茶に誘った男に警戒してアレコレ聞くのは当然だって。ナンパ男に優しくなんてしなくていいからね」

「え、ナンパなの?」

 思いがけないワードに拍子抜けした声が出る。

「階段から落ちた先に有紗がいたのは偶然だけどお茶に誘ったのは有紗が可愛かったからって言ったらどうする?」
「……噓だ」

 広瀬君なら声をかけなくても女の人から寄ってくるだろう。わざとらしく何かを企んでいる顔をしている広瀬君をじぃと見つめる。すると突然愉快そうに笑い出した。

「有紗って面白いな。落ちてきた男を受け止めるわ、警戒しまくってるくせに傷つけたと思ったら落ち込んだり、忙しい」
「なんで笑うの?」
「ごめんごめん。いい子だなって思っただけだよ。真面目で不器用で守ってあげたくなる」

 柔らかい笑みを浮かべてこちらに手を伸ばしてくる。私の頬に張り付いた髪を払いのけてそのまま幼い子供にいい子いい子するように頭を撫でられた。広瀬君は人との距離感がおかしい。
 それなのにどうしてこの手を外せないんだろう。広瀬君の“いい子”という言葉は胸にストンと落ちてそのまま溶け込む。

「有紗?」

 黙って撫でる手を受け入れている私に彼は驚いたような顔をする。

「どうして泣いてるの?」
「え、泣いてなんて、あ、どうして私……」

 頭を撫でていた手で頬を拭われる。そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。突然泣き始めておかしな子だと思われる。早く止めなきゃ。

「ご、ごめん。涙腺がおかしくて。すぐ止めるから」

 ただでさえ集まっている視線が怪訝なものに変わって増えていく。でも焦れば焦るほど涙は止まらない。

「泣いてもいいんだよ。大丈夫。泣くことが悪いことのはずないだろう」

 優しく、まるで言い聞かせるみたいなその声が心地いい。静かに涙を流す私を広瀬君はずっと見守って柔らかく笑いながら頭を撫でてくれた。その眼差しでようやく私は自分が泣いている理由が分かった。
 私は寂しかったのだ。だから真っ直ぐに私を見てくれる広瀬君の優しさが心地いい。
 自分の気持ちが整理できると落ち着いてきた。初対面の男の子にいつまでも甘えるわけにはいかない。

「もう大丈夫。ありがとう」
「えー、本当に?心配だなぁ」
「平気だってば。ちょっと気が緩んだだけ」

 心配されたところで彼に私の家の状況をどうにか出来るわけではない。何よりも泣き顔を見られたことが恥ずかしくてもうその話題をしたくなかった。

「うーん、有紗は命の恩人ちゃんだからなぁ。有紗が悲しいままだと俺も嫌なんだよね」
「いや、そんな気にしなくていいよ」

 広瀬君は腕を組んで宙を眺める。私の静止の声はまるで聞こえてないみたいでしばらくすると、開いた左手に握り拳をポンっと当てて所謂“閃いた”という動作をする。さっきから思っていたけど一々動きが漫画みたいな人だ。

「有紗に俺の一ヶ月をあげるよ」
「……は?」

 突拍子のない提案に口が開く。一ヶ月をあげるってどういう意味だろうか。ポカンとしている私を無視して彼は名案だと目をキラキラさせている。

「俺は本当は今日、死ぬ運命だったんだ」
「……は?」

 もう一度同じリアクションをしてしまったが驚きはさっきの比じゃない。死ぬ?今、目の前にいるこの男が?まじまじと上から下まで見る私の視線など気にせず、スコーンにクリームをつけて口に運んでいる彼は生きている人間の生活感がある。いや、でも実際に広瀬君は階段から落ちてきた。……もし私があの場にいなかったら広瀬君はもうこの世にはいなかった……?
 いやいや、そんなバカな。人間が自分の死期を理解するなんてこと出来るはずがない

「もしかしてさっき階段から落ちた時に頭打った?」
「頭は打ってないよ。有紗に心臓を撃たれたかもしれないけど」

 お手本のようなウインクになんとなくイラッときてしまった。きっとからかわれているだけだ。暖かい手で撫でてくれた広瀬君が途端に胡散臭い人に変わっていく。そもそも私が初対面の人の前で涙を見せるほど広瀬君のことを信頼したことがおかしい。
 ズズっと音を立ててカップの残りを飲み干した。

「そんな冗談を言えるんだったら大丈夫だね。奢ってくれてありがとう。もう帰るね」
「俺が死ぬのは冗談じゃないよ。本当に今日死ぬ運命だった。もし有紗が俺の一ヶ月をもらってくれるなら俺はあと一ヶ月生きれる。でも要らないっていうなら俺は明日死ぬ」

 バッグを手に取った私に淡々と広瀬君は言う。

「そういう運命なんだ」

 無感情の声。音もなくこちらを見るその表情。全てがさっきまでと別人のようで思わず肩を揺らした。

「ああもう!分かった!広瀬君の一ヶ月をもらう。だから絶対に一ヶ月の間は死んじゃ駄目だからね」
「もちろん。俺は有紗のものだよ」

 誰もが見惚れる笑みを浮かべるこの男を信頼したわけじゃない。
 でもしょうがないじゃん。だってそうしないと広瀬君は死んじゃうらしいし。









 こうして私は夏休みのとある日、上から降ってきた一ヶ月後に死ぬ男と出会った。