エアコンの効いた快適な部屋でごろりとベッドの上で寝返りをうつ。枕元にあるスマホを手探りで見つけて、通知を見ると一件のメッセージ。
 それは唯一の友人である絵麻からだった。

『フランス到着!』

 という題名に空港らしき写真が添付されている。
 絵麻は夏休みを利用して丸々一ヶ月フランスに一人でホームステイをするのだという。絵麻がいない高校二年の夏、私の予定は真っ白だった。何もない空っぽの私。

 返信をポチポチと打っていると勢いよく部屋のドアが開く。こんな開け方をするのはこの家に一人しかいない。



「ありさちゃん、おはよう!」
「……おはよう、姫香」

 今年八歳になる姫香はフリフリのワンピースを翻しながら元気よくご挨拶。対してまだベッドでスマホ片手に寝っ転がっている十七歳の私。

 自分でも呆れてしまう。

「ありさちゃん、一緒にお買い物行かないの?」
「あー、うん。お勉強しなきゃだし」
「そっかぁ、分かった。お土産買ってくるね!」

 私が行かないと分かると姫香は一瞬だけ悲しい顔をしたがすぐに満面の笑みで去っていった。

『ありさちゃん行かないって!』

 ドア越しに大きな声で宣言する姫香の声が聞こえた。両親が困った顔で微笑んでいるのが目に浮かぶ。きっと家族と一緒に出かけるのが嫌な年頃だとでも思っているのだろう。

 だってしょうがないじゃん。両親と姫香と一緒に買い物に行ったところで買うのはほぼ姫香の服のみ。そして日曜の朝にやっている幼児アニメのイベントに付き合わされるのだ。

「嫌なおねえちゃん」

 ボソッと呟く。自分でも分かっている。でもある日、突然出来た妹と新しい父親にどう接すればいいのか分からない。

――姫香は母の再婚によって出来た妹だった。





 中学を卒業した日、母に結婚を考えている男性がいると明かされた。卒業祝いだったはずのレストランでの食事はその人の紹介に変わった。

 イケメンではないけど優しそうな一流企業に勤めている立派な男性。私がまだ幼い頃に父が病気で亡くなって、女手一つで私を育てくれた母が幸せそうに馴れ初めを語る姿を見て素直にその時の私は良かったな、と思ったのだ。

 一人っ子だったから妹が出来ることも嬉しかった。一緒にお菓子を作って、勉強を教えてあげるんだってワクワクすらしていたのに。

 いつからだろう。この家が息苦しくなったのは。



 一番最初に感じたモヤモヤは大きな家に引っ越した時。今まで狭いアパートで母と一緒の部屋で寝ていたのに私には個室が与えられ、憧れのベッドも買ってもらえた。初めは飛び上がるほど喜んでいたけれど日が経つにつれて虚しさが心を占めるようになっていく。

 母に恩返しをするために勉強を頑張って難関高に行き、いい会社に就職しようという私の密かな計画があっさりと潰されたことに対する虚しさだった。

 次にモヤモヤを感じたのは母が私よりも姫香の名前を多く呼んでいることに気づいた時。ただの子供の嫉妬だ。まだ小学生の姫香ともう高校生の私だったら姫香を優先するに決まっている。

 でも素直で可愛らしい姫香を中心に明るくなっていくこの家にもう私の居場所がないように思ってしまう。

  日に日に息はしづらくなっていく。







 暑い。まだ夏は始まったばかりだというのに燦々とした日差しが容赦なく私を叩く。家にいても暇なので図書館で夏休みの課題でも終わらせようと外に出たのはいいが、目的地に着く前に暑さで溶けてしまいそうだ。

 途中、コンビニの誘惑に負けそうになりながらもようやく図書館が見えてくる。









 階段に足をかけた私に男の人が降ってきた。



「ええっ!ちょ……!?」
「どけぇええ!」

 必死の形相で叫ばれても避けられるはずがない。

 十段ほどの階段を飛ぼうとしたら失敗したみたいな見事な落ちっぷりをスローモーションのように見ていた。その時、私は何を思ったのか両手を広げていた。何を思っていたのかもなにも頭の中には走馬燈が駆け巡っていたのだが。

 奇跡的に男の人は私の両手にすっぽりと収まり、衝撃と共に私は思いっきりひっくり返った。

「いったぁ!」
「大丈夫か!?」

 覆い被さるような体制からすぐに手を地面について上半身を起こした男の人は至近距離で私の顔を覗き込んだ。

 その人の顔が視界に入ってきた。私は思わず痛みも忘れて息を呑む。

 さらりと揺れる黒髪に澄んだ瞳。目も口も鼻も全てのパーツが整っていて、それらがバランスのとれた配置にある。こんな綺麗な男の人、初めて見た。

「おい!聞こえるか!?返事しろ!」
「あっ、うっ、き、聞こえてるから!」

 彼の顔に魅入ってしまい何も言えなかったら、あろうことか肩をつかんでぐいんぐいんと揺らした。頭をぶつけてるかもしれない人間に絶対にやってはいけない対処法だ!びっくりだよ!
 幸い頭と地面との間に男の人の手が差し入れられていて、脳に異常はなさそうだけど。

「ホント!よかった!」

 危ないでしょって怒ろうと思っていたのに今にも泣きそうな顔でホッとしたように笑うからしゅるしゅると怒りがしぼんでいく。

「あ、でも思いっきりお尻ぶつけたよね?大丈夫?ちょっと見せて!」

 美少年が慌てふためいてとんでもないことを口走っている。……相手の方が慌ててると案外自分は落ち着くもんなんだな。冷静に状況を把握する。

「見せるわけないよ。とりあえずここから移動しない?」
「……あ」

 視線だけで周りを見ると通行人たちが遠巻きにこちらを見ている。なぜなら私たちは昼間っから外で押し倒して、押し倒されている人たちなのだ。