「俺ここで待ってるわ」
 セミがうるさく喚き散らす夏。
 両親が海外に転勤することになりばあちゃんの家に引き取られた俺は、ばあちゃんの外出に付き添い町外れの神社に来ていた。
「あら、そう? おばあちゃん少し時間かかるけど大丈夫?」
 長い石階段の中腹にある鳥居の下で足を止めた俺は、木陰に腰を下ろして額の汗を拭う。
「日陰だし。これ以上歩く方がしんどい」
「まぁ大丈夫かしら。なるだけ早く済ましてくるわね」
 暑さに頭を抱える俺の顔を心配そうに覗き込むばあちゃんに、力なく笑い返して俺は自分の膝に頭を預ける。
 そんな俺にばあちゃんは手拭いを被せ、水の入った桶や箒や籠を抱えて残りの石階段をせっせと登って行った。
 もう80を超えるというのに高校生の俺よりも健康的で行動的なばあちゃんには感心するが、生憎行動を共にして健康になろうという気力は俺には無い。
「暑いしだりぃ……」
 東京で両親と共に過ごしていた時は、学校への登校等必要最低限しか外に出なかったから、夏の外がここまで暑いものだということを忘れていた。
 クーラーの効いた涼しい部屋が恋しい。
 居心地の良い自室に想いを馳せながら、俺は目を閉じた。

「ちょっと、水桶持つくらい手伝ってあげなさいよ」
 突然すぐそばから聞こえて来た女の子の声に、俺は閉じたばかりの目を開け顔を上げる。
 昨日引っ越して来たばかりの俺は、ばあちゃん以外の知り合いはこの町にいないはずだが……真っ白なワンピースを身に纏った俺と同い年くらいであろう黒髪の女の子が、仁王立ちで俺を見下ろしていた。
 顔を見ても今までに会った記憶は出てこないので、俺は面倒な奴に絡まれたとため息を吐く。
「本当は外に出ることすら嫌なのにここまでついて来てやったんだ、それで十分だろ」
「お年寄りに優しくしないなんて、最低な男ね」
 俺の返答に、彼女は腰に手を当て怒ったようにそう返して来た。
「うるさいな、初対面の人にとやかく言われる筋合い無いんだけど」
 ただでさえ暑さで頭が痛いというのに、見も知らぬ女の子にいきなりキツイ言葉をぶつけられ、俺はばあちゃんが頭にかぶせてくれた手拭いで目元を覆った。
 都内の高校に入学して半年で両親の転勤が決まりせっかく仲良くなりかけた友達とも離れ、年寄ばっかのこの町で出会った歳の近そうな奴は口うるさい女とか……本当、最悪だ。
 これからのこの町での暮らしを想像した俺は、一人で更に落ち込み頭を抑える。
「……千代ばあ、もうだいぶ歳重ねてるんだから、万が一があったらどうすんのよ」
 許可なく隣に腰を下ろす彼女から逃げるように立ち上がるも、ばあちゃんの名前を口に出され思わず彼女の顔を見下ろした。
「は? お前ばあちゃんのこと知ってんの?」
 俺と目が合うと、彼女はニコッと明るい笑顔を見せる。
「当たり前でしょ。この町はそう広くないんだから、みんな顔見知りよ」
「ふーん、そういうもんか」
 聞いておいてなんだが別段興味を唆る内容ではなかったので退屈そうに返事を返すと、彼女は立ち上がり俺の目の前に回り込んできた。
「ほら、さっさと様子見に行きなさいよ!」
 彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、ばあちゃんが向かった石階段の上の方を指差す。
「な、なんで俺が。そんなに心配ならお前が見にいけばいいだろ」
 さっきから距離の近い彼女から数歩後ずさり、俺は眉間にシワを寄せる。
「私が行くより、アンタが行った方がいいに決まってんでしょ、カラスくん」
 後ずさる俺を見ると、彼女は面白そうに更に距離をつめ顔を寄せて来た。
「意味わかんねぇ。ってかなんでカラス……」
 彼女の鬱陶しさに、俺は口元をひくつかせる。
「アンタ全身真っ黒なんだもん。まるでカラスみたい。陰気臭いし」
「あっそ」
 ケラケラと楽しそうに笑いながらそう話す彼女から俺は顔を逸らした。
 彼女の明るい笑顔を見ているとイライラしてしょうがない。
 俺は目深にフードをかぶりながら、自分の格好を思い出す。
 黒いジーンズの長ズボンに、黒い半袖のパーカーを着た俺は、確かに全身真っ黒ではある。
 がしかし、普通初対面の相手にカラスみたいだとか陰気臭いだとか言う女がいるだろうか。
 失礼極まりない彼女ともう関わらないようにしようと、俺はこの場を離れるために石階段を登り始めた。
「カラスくんが嫌なら名乗りなさいよ」
 俺の不機嫌な態度を一切気にせず、彼女は後ろを着いてくる。
「別に今後お前に関わるつもりないし、カラスで結構」
「じゃあ今後もカラスくんで」
 冷たく突き放したつもりだったのだが、彼女は笑顔で俺の顔を覗き込む。
「ほら、行くよ!」
 彼女は石階段を数段駆け上がって一度俺を振り返るとそう声をかけ、軽い足取りで石階段を登りきり走って行った。
「あ、おい! ったく、なんで俺が……」
 重い足取りで一段一段登っていた俺は彼女を見失ったが、気にせずのんびりばあちゃんの元に向かうことにした。
 どうせ彼女とは、ばあちゃんのところでまた会うんだろう。

 石階段を登りきった先にある社の裏側にばあちゃんは居た。
 俺が踏んで折れた木の枝の音に気づいたのか、箒を手にしたばあちゃんが振り返る。
「あら、鴉貴(あき)ちゃん。ごめんなさいね、時間かかっちゃって。心配かけたかしら?」
 俺はきょろきょろと辺りを見回す。あんなに真っ白な服を着ていればすぐに見つけられそうなものだが。
「あの白い女は?」
「女? おばあちゃんがここに来てから他に人は来てないけれど……誰かにご用?」
「……いや、別に」
 不思議そうに首を傾げるばあちゃんに俺は軽く首を振って見せる。
 あれだけばあちゃんが心配だとか言っていたのに、どうやらここには来ていないらしい。
 そんなに広くないこの境内で一体どこに行ったというのか。
「ってか、ばあちゃん何やってんの?」
 ぼーっと突っ立っている俺とは対照に、忙しなく手元を動かしているばあちゃんに俺は思わず尋ねた。
「見てわからないかい? 掃き掃除だよ。ここは木が多いからねぇ、どうしても葉っぱがたくさん落ちちゃってねぇ」
 確かにこの辺りは入口よりも木が多く、風で折れたのであろう細い木の枝や虫に喰われた緑の葉っぱが土の上に大量に撒き散らされている。
 ばあちゃんはそれを箒で掃いてまとめては家から持ってきた籠に片しているようだった。
「なんでばあちゃんが……神社の人の仕事だろ」
 別にばあちゃんは、神社の何かの役職についている訳ではないはずだ。
 自分の敷地でもないのに一生懸命掃き掃除をするばあちゃんに俺は疑問を持った。
「あらあら、別に誰がやっても良いじゃない。ちゃんと神主さんにもお許しをもらっているのよ」
 なぜかばあちゃんは嬉しそうにそう話す。
「わざわざ面倒なこと自分から進んでやってんのかよ……」
「おばあちゃんがこうして綺麗にすることで、他の人が気持ちよくお参りできるなら、こんなに嬉しいことはないよ」
 俺はばあちゃんがどうしてそんな風に嬉しそうに言うのか分からなかった。
 やらなくていい面倒な事をやらされて嬉しいなんて、俺には共感できない感覚だ。
「……馬鹿馬鹿しい」
 一通り境内を綺麗に掃いたばあちゃんがようやく帰り道へと歩みを進める。
「そろそろお天道様が天辺にくるからね。帰ってお昼にしましょう」
 真上から太陽に照らされ、遮るものも日陰もないこの場所に長く留まれば熱中症になるだろう。
 俺は少しでも早く日差しを遮りたいと、鳥居の下まで足早に石階段を下る。
「おっとっと」
 行きと違って軽い足取りで進む俺の耳に、ばあちゃんの慌てる声が聞こえた。
「ちょっ!」
 振り返ると、石階段の途中でばあちゃんの体が傾くのが見えた。
 慌てて俺は数段駆け上がりばあちゃんの体を支える。
「だ、大丈夫かよばあちゃん」
「ま、まぁまぁ、ごめんなさいね。最近ここの階段がキツくてねぇ」
 ばあちゃんは申し訳なさそうに眉を下げると、落として籠から散らばってしまった枝葉を手でかき集める。
 俺はそっと、倒れていた籠をばあちゃんの隣に置き直した。

 あの日以来、俺はばあちゃんが神社へ行く時は毎回ついて行くようになった。
「あら、また会ったじゃない。最近よく会うわね、カラスくん」
 いつものように鳥居の下に一人でいると、いつものように真っ白なワンピースを着た彼女が現れる。
「お前……この神社に住んでんのか?」
 やたらと近い彼女の距離感にももう慣れた。あんなにも鬱陶しかったというのに、人間の順応力とは凄いものだ。
「違うわよ。好きなの、この場所が」
 俺の質問に、彼女は笑いながらそう答える。
「好き? こんな場所が? お前変わってんな」
 遊べるような遊具がある訳でもないただ木が覆い茂るこの神社に用もなく毎日来るとは、彼女は余程の物好きらしい。
「こんな場所だなんて失礼ね。私にとっては思い出の場所なの」
「ふーん」
 慣れた様子で俺の隣に腰を下ろした彼女は、少し寂しそうに空を見上げていた。
「そういえば、この町に来て一週間近く経つけど、お前以外に同じくらいの歳の奴見ないな……」
 ふと疑問に思い、俺は何気なくそうぼやく。
「10代なんて私たちしかいないわよ。隣町まで行けばいるみたいだけど」
「いるみたいって、お前同年代の知り合いいないのかよ」
 他人事のように答える彼女に、俺は呆れたため息まじりの返事を返す。
「悪い? 別に困ってないもの、友達いなくても」
「寂しい奴」
 俺の言葉にムッと頬を膨らませると、彼女は俺に詰め寄り顔を覗き込んできた。
「そういうカラスくんはどうなのよ。友達いないんじゃないの? 毎日毎日そんな陰気臭い真っ黒な格好で」
 トントンと俺の胸元を指で叩き格好を指摘する彼女。
「……いたけど、今はいない」
 めんどくさいなと顔を背けてボソボソとそう呟くと、彼女は勝ち誇ったように笑顔を向けて来た。
「あら、じゃあ私たち一緒ね」
「まだ引っ越して来たばっかだし、夏休み明けて学校行けば友達なんてすぐ出来る」
 彼女の得意げな様子がなんだか気に食わなくて、俺は一緒にするなと嫌味を投げた。
「……そう」
 いつもなら言い返して来そうな彼女だが、今日は何故か寂しそうに呟くだけだった。
 その様子に違和感を覚えた俺は、どうかしたのかとチラリと彼女に視線を向ける。
「そういえば、今日はどうしたの? また千代ばあ放ってここで暇つぶし?」
「今日は放ってないし……ばあちゃんが神主に用があるっていうからついて来てやったんだよ。ばあちゃんなら神主と一緒」
 俺の視線に気づいたのかパッといつもの調子に戻る彼女に少し安心し、お社の方を指差して教えてやった。
「へぇ、偉いじゃない。外に出るの嫌だとか言ってたのに」
「階段、危ないし」
 小さい子を褒めるように俺の頭を撫でようとしてくる彼女の手から逃げるように、俺は彼女から顔を逸らす。
「千代ばあ、この間階段でつまづいてたもんね」
 困ったように眉を下げてそうぼやく彼女に、俺は思わず逸らした顔を戻して彼女を覗き込む。
「は? お前見てたのかよ」
「い、いやぁ、噂で聞いたのよ」
 俺の質問に、慌てて顔の前で手をぶんぶんと振る彼女。その様子に俺は眉間にシワを寄せて見せた。
「そんなことまで噂されんの? 田舎こわ」
 俺の言葉に、彼女はあははと笑いながら頭を掻く。
「まぁ、カラスくんが付いていれば千代ばあも安心ね。ありがと」
 不意に彼女はふわりと優しい笑顔を見せ、お礼を言って来た。お礼なんて言われ慣れていない俺は、思わず視線を泳がせる。
「別に、お前にお礼言われる筋合い無いんだけど」
「千代ばあにはたっくさんお世話になってるから。何かあったら嫌だもの」
「あっそ」
 俺の話を聞いているのか聞いていないのか、彼女はどこか遠くを眺めるようにばあちゃんがいるであろう神社の方を見つめていた。
 今日はなんだか、彼女の様子がいつもと違う気がする。
 透明になって消えてしまいそうな、そんな儚げな雰囲気を纏っているように思えた。
「それに」
 不思議と彼女から目が離せずにいた俺は、パッと振り返った彼女と目が合う。
 見られていたことに驚いたのか、彼女はパチクリと一度瞬きをするも、明るい笑顔を俺に向けた。
「お孫さんと一緒に住むんだって嬉しそうにしてたしね」
「……ふーん」
 ばあちゃんが俺と一緒に住むのを喜んでくれていたのは知らなかったが、悪い気はしない。
 彼女から視線を外した俺は、神社の玄関の開く音とばあちゃんの声に気づき立ち上がった。
「ばあちゃん戻ってくるわ。また……な?」
 神社の方から彼女に視線を戻すと、彼女はもうそこにはいなかった。
「あいつ……普通挨拶も無しに帰るか?」
 いつものように気が付くといなくなっている彼女に慣れた俺は、もう疑問を持つことは無かった。
 なんとなく彼女に後ろから見守られているような不思議な感覚を持ちながら、ばあちゃんを迎えに行くために俺は石階段を登って行った。

「なぁ、ばあちゃん。俺と同い年くらいの女知ってる?」
 そういえば彼女のことを何も知らないなと思った俺は、家に帰ってからばあちゃんにそう聞いてみた。
「この町で鴉貴ちゃんと同じ歳の女の子は、鶴子ちゃんしかいないわねぇ」
「鶴子……」
 聞き覚えのあるその名前に、俺は首を傾げる。
「鴉貴ちゃんが小さい頃に、神社で一緒によう遊んでた子だよ。ほら、そこの写真の。覚えてないかい?」
 ばあちゃんが指差した写真立ての写真を見て、俺は声を上げた。
「そうだ、こいつだ! おつる!!」
「そうそう、そんな風に呼んでたかしらねぇ」
 朗らかに笑うばあちゃんを余所に、俺は写真を手に取り凝視する。
 俺がまだ幼稚園に通っていた頃、両親に連れられて夏休みの間だけばあちゃん家で過ごしていた時期があったことを思い出した。
 その時期、毎日あの神社で一緒に遊んでいた女の子を俺はおつると呼んでいた。
 そうだ、彼女だ。
 この写真の女の子が成長すれば、きっと彼女のような顔立ちになるだろう。
「鶴子ちゃんはあんたのこと、カラスくん、だなんて呼んでいたわねぇ」
 昔を思い出しながら楽しそうに話すばあちゃんの言葉に、俺は頭を抱えた。
 きっと彼女は、俺のことがすぐに分かったのだろう。
「おつる、今友達いないのか……」
 今日の昼間に鳥居の下で話した彼女との会話を思い出し、俺はボソリとそう呟く。
「そうねぇ。鶴子ちゃん、二年ほど前からずっと寝たきりみたいで、高校には行けてないようだから、友達は作れていないでしょうねぇ」
「は?」
 俺の呟きを聞いたばあちゃんの返答に、俺は思わず眉を寄せ素っ頓狂な声をあげてしまった。
「寝たきり……?」
「ほら、元々あまり体の丈夫な子ではなかったでしょう? 体を起こすのも大分辛いみたいよ」
 それならば俺があの鳥居の下で会う彼女は一体なんだというのだ。
 おつるには確か姉妹なんていないはずだ。
 考えても答えに辿り着けそうにないと思った俺は、写真を机の上に戻してばあちゃんに向き直った。
「ばあちゃん、おつるの家ってどこだっけ」

 ばあちゃんにおつるの家を教えてもらった俺は、おつること雛森鶴子の家の玄関前で佇んでいた。
「お嬢様かよ……」
 初めて訪れたおつるの家の立派すぎる門に、俺は思わず苦笑いを溢す。
 自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、俺は雛森さん家のインターホンを押した。
 出てきた使用人らしき人に烏野鴉貴ですと名乗ると、驚いたように目を丸くされ、家の中へと案内される。
 案内された部屋には、俺が最近鳥居の下で会っていた彼女が、真っ白な寝巻きを着てベッドに腰掛けていた。
「凄い……夢で会ってたカラスくんが、現実でも会いにきた」
 俺が顔を見せると、彼女は使用人と同じように驚いて目を丸くし、自分の口元を手で覆った。
「夢って……お前にとってはあれ夢だったのかよ」
 第一声がそれかよ、と呆れてため息を溢す俺に、彼女は力なく笑って見せる。
 使用人が持ってきてくれた椅子をベッドの脇に置き、俺は腰を下ろした。
 目の前に座る彼女は、鳥居で会うよりも痩せ細って見え、病人であるのだと思い知らされる。
「だって、外になんて出れないし、夢だとしか。えっ、現実のカラスくんと会ってたの!?」
「つまり俺は、生き霊のお前と会ってたってことかよ」
 嬉しそうに笑いながら話す彼女につられ、俺も笑い返した。
「あ! やっと笑ったわね、カラスくん!」
 突然大きな声を出して指を差され、俺は思わずビクッと肩を跳ねさせる。
「な、なんだよいきなり」
「だって、せっかく再会したというのに全然笑ってくれなかったんだもん。夢のくせになんて奴だって思ってたんだからね? あっ」
 ムッと口を尖らせていた彼女が、急に気まずそうに目を逸らした。
 何があったのかと続きを待つ俺に、彼女は視線を泳がせる。
「あの、覚えてないかもしれないけど、カラスくんとは随分前にも会ったことがあって……」
 モゴモゴと口籠もりながらそう話す彼女に、そういうことかと俺も視線を泳がせた。
「あ〜……おつる、だろ?」
 俺の言葉に、彼女はパッと目を輝かせる。
「覚えててくれたの!?」
 そのあまりにも嬉しそうな彼女の様子に、俺は気まづくなり頬を掻いた。
「いや、その……ばあちゃんに聞いて、さっき思い出したというか……それでお前が寝たきりだって知って、家に来ちゃった……みたいな」
 俺の様子に、彼女は一瞬ポカンと口を開けると、クスクスと笑い始めた。
 怒るだろうと思っていた俺は予想外の反応をされて困惑する。
「いや、ほんと悪い。その、全然思い出せなくて」
「ふふっ、あっはは! いいのいいの。だって10年以上前だもの。思い出してくれただけでも嬉しい!」
 彼女の言葉に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「お前はよく俺のこと覚えてたな」
 そういえば10年以上も会っていないのかと認識した俺がそう尋ねると、彼女はより一層笑顔を深めた。
「当たり前でしょ? だって私、カラスくんのこと本当に大好きだったんだもの」
「えっ!?」
 思わぬ言葉に、俺は思わず彼女の目を見た。
 真っ直ぐに俺の目を見つめ返す彼女は、照れているのか少し頬が赤い気がした。
「冗談とかじゃないから。まぁ、歳の近い男の子がカラスくんだけだったからそう思うんだ〜とか、一時の気の迷いだ〜とか思うかもしれないけど」
 俺から目を逸らさずに、彼女は微笑んだ。
「小さい時から今まで、ず〜っとカラスくんのことばっかり気にしてたんだもん。夢で会っちゃうくらいね! それに、こうして会いに来てくれたことが本当に嬉しいし……やっぱり私は、カラスくんのこと大好き」
 人から好意を向けられることに慣れていない俺は、彼女の言葉に何も返せなかった。
「生きててよかった。ありがとう、カラスくん」
「ど、どういたしまして?」
 えへへと笑う彼女に、俺は口籠もりながらそう返す。
 また来るよと約束をして、俺はふわふわとした不思議な心地のまま家に帰った。

 夏休みも終わり、二学期が始まって早二週間。
 学校が始まってからも毎日の様に彼女の家に通い、授業の内容を教えてやっていた。
「だ〜か〜ら〜! この公式に当てはめて解くんだってば!」
「カラスくんの説明分かりづら〜い」
 初めて家に来た時よりも、彼女は大分元気になっていた。
 医者曰く、生きる気力が湧いたんだろうとのことだ。
 彼女の両親には大変感謝された。
「あ、そうだ」
 問題の解き方をああだこうだと説明していると、彼女が急に声を上げる。
「なんだよ。休憩ならさっき取っただろ」
「違う違う! ビッグニュースがあるんだって!」
 彼女はいそいそと立ち上がってクローゼットに向かう。
「じゃ〜ん!」
 そう言って嬉しそうに彼女が見せてきたのは、俺が通う高校の女子制服だった。
「え、制服じゃん。着てみたくなったのか?」
「違うわよ! 来週から、様子を見ながら少しづつ登校してみようってお医者さんから許可が出たのよ」
「まじで!? 凄いじゃん!」
 体を起こすだけで一苦労だった彼女にとっては、大きな進歩だ。
 彼女と一緒に登校する様子を想像して、俺も少し心が躍る。
「で、今のうちだけどどうする?」
 意図の読めない彼女からの質問に、俺は首を傾げた。
「何が?」
「……ほら、学校に行き始めたら、こんな美少女、他の男子が放っとかないわよ?」
 彼女の言葉に、俺は思わず声を出して笑う。
「はははっ、自分で美少女とか言うなよな」
「う、うるさいわね! 容姿には自信があるのよ!」
 腹を抱えて笑う俺に、彼女はグイッと顔を寄せる。
「あれだけ真剣に告白したと言うのに、いまだに返事をもらってないなんておかしいと思わない?」
「い、いやぁ、そうかなぁ?」
 ぷくっと頬を膨らませる彼女から俺は顔を逸らす。
 そんな俺を見て、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「どうせカラスくんは私のこと忘れてたくらいだし、興味ないわよね。あーあ、嫌なやつに恋しちゃったわ」
 不貞腐れる彼女に、俺は苦笑を溢す。
「今更返事するの、恥ずかしいしな」
 クローゼットに制服をしまった彼女は、俺のその言葉にバッと勢いよく振り返った。
「それって、カラスくんも私のこと好きってこと!?」
「あ、いや、なし! 今の呟きなし!」
 自分の言葉にハッとして、俺はぶんぶんと手を振る。
「ちょっと! 言葉は取り消し効かないんだからね!」
「あ〜、もうこんな時間か〜。また明日な!」
 俺の対面に戻ってきて机をバンバンと叩く彼女を横目に、俺はわざとらしく時計を見ると鞄に荷物を詰めた。
「カラスくんの弱虫〜!」
 口を尖らせる彼女の目の前に、俺は学校からのプリントを突き出す。
「お前に流されて告白とか男が廃るだろ。ちゃんと俺から告白できる様に頑張るから、待て」
 淡々そう告げると、俺はさっと顔を逸らして足早に扉に向かった。
「ふふっ、はーい」
 そんな俺の背中で、彼女はプリントを手に笑っていた。

 俺は最近、学校に行く前に神社の境内の掃き掃除をしている。
 ばあちゃんにはもうあの石階段を上り下りするのがキツくなってしまったからだ。
「お待たせ、鴉貴くん!」
 石階段を、制服を着た女の子が登ってくる。
「今日は早いじゃん、鶴子」
「朝の支度にも慣れてきたからね」
 箒と籠を片付けて、俺は彼女の元に向かう。
 朝早起きをしてこうして神社の掃除をするのも、健康的でスッキリしていいかもしれない。
 そう思える様になったのは、いつからだっただろうか。
 俺はお社に一礼して、彼女と共に、高校へ向かった。