美紗にひどいこと言っちゃった。
電車から降りて、駐輪場へ向かう。
だけど、自転車を漕ぐ気にもなれなくて、駐輪場を通り過ぎる。
「あれ?響子?」
聞き覚えのある声に振り向くと、制服姿の奏がいた。
でも、聞こえないふりをして立ち去る。
だって、こんなこと思ってるのに奏に会えない。
音楽が嫌いになったわたしなんか、用無しでしょ、奏。
恋心を抱いただけの津城響子は、相棒でもなんでもない。
ただ、奏の邪魔をするだけの存在だから。
「ねぇ響子、響子でしょ?」
奏は回り込んでわたしの肩をつかむ。
太陽の光を反射して煌めく瞳は、あまりにも眩しい。
「今日早いね。それに昨日も来なかったし……体調悪い?大丈夫?」
奏は、優しい言葉をかけてくれる。
奏の優しさに包まれて、罪悪感で押しつぶされそうだ。
昨日は、もう自分に絶望していて、奏のところへ行けなかった。
ただ立ち尽くすわたしから何かを悟ったようで、奏は少し強引に引っ張る。
「とりあえず、いつもの場所行こっか」
堤防沿いに向かうまで、奏は何も喋らなかった。
*
「なにかつらいことあった?僕が話聞くよ」
奏に尋ねられるけど、わたしはうつむくことしかできない。
今は、奏の優しい瞳を見るのがつらいんだ。
奏の優しさに触れるたびに自分の性格が惨めに思えてくる。
「響子」
奏は、空を見上げながらわたしの名前を呼ぶ。
「僕のこと、頼っていいんだよ」
たぶん、奏は微笑んでいる。
「僕は相棒だし、それに友だちだよ。つらいときは側に居るから」
優しい。優しいなぁ。
奏の優しさに涙がこぼれそうになって、あわてて目を閉じる。
わたしが泣いたら、奏が心配する。
わたしに優しくしてもらう権利はない。
もうギターが弾きたくないなんて、思っちゃったんだから──。
ほんとは、奏にすごくきれいな音色を聴かせてあげたかった。
だけど、ギターを頑張れば頑張るほど、わたしには向いてないって思ってしまう。
「僕が歌えたらよかったのに……」
奏の声は、かすかに震えている。
喉が痛いんでしょ?
それなら、わたしなんかのために無理しちゃだめだよ。
その言葉は、口にできずに呑み込んだ。
奏は優しい。優しすぎる。
悪いことに巻き込まれちゃうんじゃって心配になるほど優しい。
だけどね、奏。
優しくしなくていい人も、いるんだよ。
奏は世界の全員に優しさを分けてあげるような人だけど、そんなの無理だから。
こんな、うつむくことしかできないわたしは放っておいて。
代わりに、他の人に優しさをあげてよ。
視界の端で、奏が手を握り込むのが見えた。
「響子。つらいね。僕を頼って……」
耳元で、奏のすがるような声がした。
そのあとすぐに、背中に感じるぬくもり。
顔を上げたら、わたしは奏に抱きしめられていた。
奏は優しく、わたしを包み込むように微笑む。
「ぎゅぅってしたら、心がぽかぽかしてくるでしょ?」
奏の言葉に、ぬくもりに、我慢したはずの涙がこぼれ落ちてくる。
涙が奏の服にシミを作る。
だめだ、止めなきゃ、と思ったけど、自分では止められなかった。
「ひとりで抱え込まなくていいんだよ」
奏の笑顔を見たら、蓋をした思いがあふれ出してきてしまう。
「どこがだめなのか教えてよ……っ。何が良くないのか自分で分かんないのは、わたしの実力不足なのかなぁ……っ」
奏はなにかを言おうとしたけど、口を閉ざした。……わたしの言葉が止まらなくなってしまったから。
それで、全部言ってしまった。
ギターが怖いこと。
音楽が嫌いになってしまったこと。
どれだけ頑張っても上手く行かないこと。
わたしの知らないことが多すぎること。
そのせいで、美紗に八つ当たりしてしまったこと。
全部嫌になって、ギターから逃げたこと。
そして、そんな自分が嫌なこと。
奏は、ずっと背中をさすり続けてくれた。
大丈夫って声が聞こえてくる気がした。
「分かるよ……すごく分かる……」
耳の横で、奏の少し掠れた声が響く。
「どこがだめかなんて、誰も教えてくれないよね。僕もそうだった……急に否定されても分かんないよね」
奏は、情けない顔で笑って、それにね、と続ける。
「音楽は、『音を楽しむ』ものだよ。そんなにつらい思いしてまで続けなくていい」
奏のまっすぐな瞳がわたしを貫く。
「だから、もう嫌なら……無理して練習することないよ。響子、プレッシャーになっちゃってるでしょ?…………僕の存在が」
奏はわたしから腕を外して微笑むけど、そのくちびるは震えてる。
奏の存在がプレッシャーじゃないって言ったら、嘘になる。
だって、奏に迷惑をかけちゃいけないって思ってる。それに、そんなことを考えながらギターを弾くのは苦しい。
確かにわたしは、もう音を楽しめてない。
「…………怖いよ……すごく怖い……」
奏はそっか、と呟いて、悲しい顔をして笑う。
「でも……このまま音楽をやめるのも……怖い」
彼は目を見開いて、え、と声をもらす。
「まだ音楽、続けられるの?」
「……自信はないよ……だけど、音楽やめたら後悔しそうな気もする」
奏は、目を瞑って、うん、と頷く。
「じゃあ……ゆっくりゆっくり、音楽を好きになっていこう。夏祭りは、音楽が楽しいって思えたら。音楽を奏でるのが楽しかったら、それでいいよ」
奏はわたしの目に溜まった涙を拭う。
夏の爽やかな風が吹き抜けていく。
「響子、また花が咲いたね」
突然の言葉にあたりを見回すけど、花なんて咲いてない。
「1回萎れちゃっても、花はもう1回咲けるんだよ。枯れない限り、花は咲き続ける」
彼はわたしを見て微笑む。
「また咲いてくれてよかった。……僕は何度だって、花を咲かせる手伝いをするよ。だから響子、なんでも言ってね」
あぁ、そういうことか。
やっと奏の言葉の意味が分かった。
奏の言う『花』は『心』だ。たぶん。
心が萎れても、それでも完全に枯れてしまうまでは、立ち直れる。
だから、心が壊れる前に、『たすけて』って言ってね──ってことだと思う。
「ありがとう、奏」
「どういたしまして」
奏の笑顔は、夕陽に照らされてすごくきれい。
まだ、ギターを弾ける自信はない。
でも、それでも、この笑顔があるから。
奏がいてくれるから、ギターを弾き続けることはできる。
もう、音楽を怖いと思うことはないはずだ。
万が一そんなことがあったとしても、必ずその闇から抜け出せる。
奏がいるだけで、こんなにも強くなれるんだ。
心の中で、もう1度ありがとう、と呟いた。