私は教室で生徒のことを眺める。
日差しの降り注ぐ夏ごろまで元気が良かった教室も、受験シーズンを直前に控え、机に向かい合っている生徒が多い。それでもやはり、友達と話をする生徒もいるのだけれど。
窓の外には雪が降る。史上最大の寒波が日本を襲っているらしい。教室はエアコンの暖房で暖かいが、その景色を見るだけで体が凍える。教室に来るときも生徒たちの無数の足跡がくっきりと残るほど雪が降り積もっていた。
「セーフ!」
後ろの扉から長谷川くんが野球の審判のように左右に手を広げて入ってきた。これがもうすぐ朝のホームルームが始まるという合図だった。彼が椅子に向かって歩き出したとき、ちょうどチャイムが鳴った。
「はい、みんな席について」
その一言で立っていた生徒たちは集団行動のようにぶつかり合わずに自分の席に向かう。その光景は何度見ても不思議な可笑しさがある。
「今日は担任の加瀬先生がお休みなので、副担任の私がホームルームを担当します」
教室の隅の方で長谷川くんが「よっしゃ!」と声を上げた。
「こら、騒がない」
長谷川くんはそう言われると、わざとらしくしょんぼりとした顔をする。その顔を見て、教室の空気が和んだ。受験生特有の殺伐とした空気は、いつも彼が崩してくれる。
連絡事項を読み上げられている間、生徒たちは教卓の方を熱心に見つめる。きっと長谷川くんがいなければ、みんな必死な顔で参考書の問いを解き続けていたことだろう。
「それでは最後に、もう少しで受験本番だけど自分たちのやってきたことを信じて」
その言葉で朝のホームルームは締めくくられた。
私が手元の書類を整えて、授業の準備をしていると、長谷川くんに声をかけられた。無邪気な笑顔を私に向けている。無垢に見えるその表情が長谷川くんを人気者たらしめる理由の一つであると思う。
「葵ちゃん、この前の倫理のプリントの話なんだけど」
私はわざとじとっとした視線を長谷川くんに送る。
「この前の倫理の……」
「そうじゃないでしょ?」
「分かりましたよ、葵ちゃん」
わざとらしく言う長谷川くんを私は目を細めて見つめ続けた。するとやっと長谷川くんは観念した。
「分かりました。葵先生」
「うん。それでよし」
あれから七年と半年が経った。私は大学を卒業してから高校の教師になった。
家族との関係もそれほど変わらぬ間に、私は高校を卒業した。
三年生になった私は、高校生活はほとんどを学校と塾で過ごした。できるだけ、家族と顔を合わせないように努力した。顔を合わせても何を話せばいいか分からなかった。しばらく距離を置いたことで徐々に話せるようになっても、どこかお互いにこれ以上踏み込めないという境界線が存在した。その境界線を決して踏み越えないように、夜ご飯の話だとか、弁当の何が美味しかったとか、それくらいの浅い話しかしなかった。
居場所を失った分、受験勉強に時間を費やした。何かに没頭していたかったのだと思う。そのおかげか、県を跨いだそこそこ評判のいい大学に合格することができた。県外の大学を選んだ理由は単に学力がちょうどよくて、新たな人間関係に身を投じたかったから。それは高校を選んだ理由と全く同じで、人って変わらないんだなと思った。素っ気なく合格したことを母に報告すると、「よかったわね」とだけ返ってきた。
大学に入ると下宿を始めた。慣れない一人暮らしは些か大変ではあったが、それでも両親と一度距離を置きたかった。大学では心理学を専攻した。私の心と向き合ってみたかった。高校時代の私が何を思って孤独の道を選んだのか、それが知りたかった。結局ぴったりと当てはまるような心理的状態は見当たらなかったものの、私が人間関係を断絶してしまったのは、思春期における一種の精神的な自傷行為のようなものだろうと分析した。美玖を遠ざけたのは、親友としてそばにいるのが辛かったのもあるが、たぶん祐樹くんの好意を弄んだ罰の意味もあったと思う。逃避でもあり罰でもあった。今思えば、もっといい選択があったかもしれないと思う。だけどきっと、もう一度あの時期に戻れたとしても私は同じ選択をしてしまうと思う。
他にも世界は段々と同性愛に寛容的になっていることを学んだ。高校の時は自分のことで精一杯で知らなかった。日本は未だ認められていないが、同性婚を認める国は数か国存在し、現在も数が増え続けていると知った。動画サイトに同性カップルの動画が上がったりして、最近では随分身近に感じられるようになってきた。
母親に私の性的指向について話してみようかと思ったこともある。だけど、それはやっぱり怖かったし、その必要もないかとも思った。だって、大学では誰かを好きになることもなかったから。
私が恋をしたのは美玖が最初で最後だった。だからあれが本当に恋だったのか、疑問に思うことさえもある。もしかしたらあれは、若さが見せる儚い幻だったのかもしれない。でも全部なかったことにするのは悲しくて、私はあれを恋と呼ぶことにした。
周りの友達に恋人ができる中で寂しいと思うことはあった。だが、無理して人を好きになろうとするものでもないと割り切った。私はそれを祐樹くんとの付き合いで学んだ。無理して人を好きになろうとして傷つくのは、私ではなくその相手だった。今思えばなんて自分勝手な行動だったんだろう。心の傷を癒すために、私のことを好きでいてくれた祐樹くんを約一年間も縛り付けた。祐樹くんは私の行いを、若き日の過ちとして許してくれるだろうか。
祐樹くんは去年大学院在学中に結婚したらしい。本人に聞いたわけではない。誰かのSNSでタキシード姿の祐樹くんとウエディングドレスを纏う可憐な女の子が腕を組む姿が映っているのを見た。女の子は私よりもずっと可愛くていい子そうだった。祐樹くんはあの時よりうんと幸せそうな顔をしていた。それを見て安心した。祐樹くんには私が汚した彼の恋愛遍歴を塗り替えるだけの幸せを謳歌してほしい。私のことなど一切思い出すことがないように。
大学在学中に高校の公民科の教員免許を取った。公民科を選んだのは、単に心理学専攻ではそれしか選択肢がなかったからだ。今は地元に帰らず通っていた大学のある県で高校教師として倫理を教えている。高校のころは昔の人の言葉を学ぶ意味が分からないと思っていた私が、それを教える立場にいることが不思議だった。
教師としてバレー部の顧問もしている。部活動が残業時間であるとして問題に上がることはあるけれど、私は部活の顧問という立場を楽しんでいる。生徒とともに泣き、ともに笑い、苦い思い出に変わってしまった部活の記憶を塗り替えている。
「葵先生、あともう一つ相談なんすけど」
「未来さんの話?」
「しー!声がでかいって」
長谷川君は人差し指を口に当てて焦ったように周りを見回す。
「ごめんね」
長谷川くんは声を潜めて言う。
「先生ってさ、告白のときなんて言われたら嬉しい?」
普段あれだけふざけている長谷川くんが真剣な表情をしているのがおかしい。
「今度告白するの?」
「いいじゃん細かいことは。それで、答えは?」
「さあ」
「さあって」
「そういうのって人から言われた言葉で言うものじゃないと思うから。長谷川くんの気持ちを自分の言葉でまっすぐ伝えたらいいと思うよ」
「うーん。なるほど」
「でも、まずは大学受験ね」
「分かった。ありがと!葵ちゃん!」
「ちょっと葵先生でしょ?」
「はーい」
長谷川くんは身のない返事をして去っていく。彼らのような生徒たちの青春を守っていくのが私の役目だ。
帰りの駅のホームからは、星が良く見える。ここは地元よりも少し田舎だ。どれがどの星か、昔習ったはずだけど、記憶の奥底に眠っている。中心に光る月しかわからない。
部活終わりの生徒もとっくに帰った時間帯だった。教師としての業務が忙しく、最近は部活にも終わる時間くらいしか顔を出せていない。
駅のホームは侘しい雰囲気で古びた横長の白いベンチが時刻表とともにいくつか置かれているだけ。その中で一人ぽつんと待っていると寂しい気持ちにもなってくる。時刻は九時を回って、この時間になると電車は三十分に一度しか来ない。
十分待つとアナウンスが流れて電車が来た。地元の地下鉄のホームには私が高校三年生の間に、落下防止のための柵と、電車の停止位置に合わせた扉ができた。扉は電車が来ない間ずっと閉じている。この駅にそれができるとしたら、当分先だろうな、と何となく思った。外気にさらされるこの駅のホームの方が風に吹かれてよっぽど危ないと思うのだけれど。
電車が到着して扉が開いて、一人女性が降りてきた。彼女とすれ違って振り返る。ただの知らない人なのに。
今でも私は美玖の姿を探してしまう。いたとしても話しかける勇気もないのに。美玖が今どこで何をしているのかも知らない。知りたいけど、知ったところで何もしない。だから、私は美玖について何も知ろうとしない。
高校時代の友人には一度も会わなかった。菜緒も陽菜とも高校を卒業してから一度も会っていない。そこには必ず美玖の幻影が表れてしまう。今更美玖にどんな顔をしていいのかわからない。私が会いたいと思っていても、きっと美玖は違う。
私は美玖を遠ざけると決めたあの時から、ずっと美玖を避け続けていた。遊びに誘われても忙しいと断り、学校で遠くの方に美玖を見つければ近くに隠れた。段々と美玖の方も私に関わらなくなった。いつからか、美玖の親友は私ではなくなったと思う。
ほとんど貸し切りの電車に乗り込む。私はため息をついて席に座った。今日も疲れた。その言葉を誰に共感してもらえばいいんだろう。うとうとして眠気が私を襲う。家まで三十分かかる。少し眠ろう。
最寄り駅の手前で目を覚ました。人間の本能にたまに驚く。寝過ごしてしまうこともあるが、大概は最寄り駅のちょうど手前で目が覚める。
電車を降りて家までの道を歩いた。見慣れない道も二年も過ごせば、どこにコンビニがあって、どこに飲食店があるか、大抵分かるようになった。といっても、その数は少ない。
脇の田んぼは雪に埋もれてしまって静かだ。一年の間で冬だけが静寂を保つ。秋なんかは特に鈴虫や、何の種類かも分からないカエル、その他諸々の生き物たちが一堂に会して大合唱をして賑やかな気持ちになる。夏も遠くに見える雑木林でセミが鳴いていて、春は静かだが桜が空に舞う。冬だけは少し寂しい。
もう少し着込んでくればよかったと後悔するくらい寒かった。
アパートの二階にある家に帰ってすぐ暖房を付けた。暖房が効き始めるまで部屋はまだ寒い。窓の方からひんやりと冷たい空気が漂ってくる。
八畳一間の空間に物は少ない。好きだった小説もほとんど実家に置いてきたままで、本棚は生徒に教えるための倫理の教科書や参考書がほとんどを占めている。
荷物をすべて置いて、まだスマホを確認していなかったと思い出す。スマホを確認すると、ポイントカードのメールや迷惑メールの通知が溜まっていた。そのほとんどは必要なく、適当に画面を下にスクロールした。一番下まで辿ると、驚いた。そこには懐かしい名前があって、その内容を見て私はすぐに返信を返した。
○
「久しぶり」
「久しぶり」
私たちは正面を向いて向かい合う。面と向かって話すのはいつぶりだろうか。
「美玖、大人っぽくなったね」
「葵こそ」
「私たちもう二十六歳だもんね」
「ちょっとやめて、年齢の話は」
「高校卒業してから……」
私が指折り数えようとすると、美玖は「あー」と声を出しながら指で耳を塞いだ。
大人っぽさの中にあの時のあどけなさが残っている。まず最初にあの時のことを謝ろうと覚悟してきたのに、楽しいやり取りが続いて言い出しづらくなった。
「行こうか」
美玖から【久しぶりに会わない?】と連絡が来た。私が地元に帰るときに、おすすめのバーに行こうと美玖は言ったから私は週末ちょうど地元に帰るつもりだったと嘘をついた。年末年始に実家に帰る以外、私はほとんど実家に帰っていない。今日も美玖と別れたら、ビジネスホテルかカラオケにでも泊まるつもりでいる。
美玖がおすすめだというバーは、昔晃先輩と三人で行ったカフェの近くにあった。その時もきっと通ったはずだけど、高校生の頃は、お酒なんかは遠い存在だと思っていて、酒場が醸し出す独特の雰囲気を感じると自然と目を逸らしていた。
バーの中に入って右に見えるカウンターの中で、黒いベストに蝶ネクタイを付けたバーテンダーがシェイカーを振っていた。全体的に薄暗い雰囲気で、ネオンカラーがバーテンダーの背後に並べられた酒を照らしていた。
私たちは並んでカウンター席に座る。
「ここね、オレンジのカクテルがおいしいんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「何飲む?」
「じゃあ、美玖と同じものにしようかな」
美玖が「マスターいつもの二つ」と言うと、バーテンダーは髭のついた口元を笑わせた。
バーテンダーは、背後からお酒やシロップを取り出して、一度小さな容器で測ってから材料をシェイカーの中に入れる。その手際の良さに思わず見入ってしまう。
「よく来るの?」
「仕事終わりにたまにね」
シェイカーを振り終えると、足の長いグラスに鮮やかな明るいオレンジ色のカクテルが注がれていき、それが私たちの前に出された。
「ありがとうマスター」
美玖がそう言った隣で私は小さく頭を下げた。
「じゃあ乾杯」
「乾杯」
小さくグラスを当てると、バーテンダーはまた微笑んだ。
「おいしい」
「でしょ?」
差し出されたカクテルはアルコールのきつさが抜けて、心地よく喉を通った。
「美玖って仕事なにやってるの?」
「この辺の小さな銀行で営業やってる」
「へえ、どんな仕事やってるの?」
「うーん、簡単に言ったら中小企業の偉い人にお金借りてください、って頼む仕事」
「大変そう」
「大変よ!まあ、相手の人によるんだけどさ。気を使わなきゃいけないから」
美玖はグイっと大きな一口を飲んだ。
「葵は今、仕事何やってるの?」
「高校で先生やってるよ」
「え!先生!?」
「ちょっとそんなに驚く?」
「ごめんごめん。でも、葵きっといい先生になんだろうな」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「ないない。だって私、クラスの子に葵ちゃんって呼ばれるんだよ。全然尊敬されてないよ」
「それだけ親しみやすいってことだよ」
「先生には威厳が必要じゃない?そう呼ぶのは一人だけなんだけど、何回も注意しても中々直してくれなくて」
「きっとその子は葵にかまってもらいたいんだよ」
「うーん」
「もしかして葵のこと好きだったりして」
「ないない」
「分かんないじゃない」
「だって先生と生徒だよ?」
「愛さえあればどんな相手とだって大丈夫。先生と生徒でも卒業まで待てば大丈夫だよ!」
「その子ほかに好きな子いるから!なんて告白されたら嬉しい?って相談受けてたの。たぶん好きな子に告白するときの参考にしたいみたいなんだけどさ」
「え?なにそれ青春だねえ」
「微笑ましいよね」
「それで、なんて答えたの?」
「何が?」
「なんて告白されたら嬉しいって答えたの?」
「自分の言葉でまっすぐ伝えたらいいよって」
「かっこいい」
「もう美玖、ばかにしてるでしょ」
全部昔のままだった。親友だったころを思い出す。
違うのは飲むものがタピオカとかジュースからお酒に変わったくらい。時が変えたのはそのくらいだった。
高校時代の思い出は溢れて止まらない。遊園地に行ったこと、放課後にタピオカを飲んだこと、テスト勉強をするために集まったのに結局話していたら時間が過ぎていたこと、文化祭の演劇で美玖のやった役が面白かったこと、体育祭で優勝したこと。楽しいことに目を向ければ、こんなにも私は十分に青春を謳歌していた。
二杯目はコーヒー系のカクテルを飲んだ。名前を聞いたけれど、忘れてしまった。少し酔いが回って体が熱くなる。美玖も呂律がおかしくなりはじめた。心地の良い時が流れた。体温が上がって程よく眠くなって、この時間がずっと続けばいいと思った。
ふと思う。この酔いに任せてあの時の思いを伝えられないだろうか。実は美玖のことが好きだったと軽い感じで。愛さえあればどんな相手とだって大丈夫だと美玖も言っていた。叶わなくてもいい。ただ、あの時の私の気持ちを知ってほしい。私の思いを伝えるまできっとこの恋は終わらない。もう今しかない。今伝えなければ、一生後悔する。自分の言葉でまっすぐと、自分でもそういったじゃないか。
言え。
言え。
言え!
「「あのさ」」
言葉が被った。
「どうぞ」
「あ、いや美玖の方からどうぞ」
「分かった」
美玖は大きく息を吸った。
「あのね、私もうすぐ結婚するんだ」
強い風が吹いた気がした。
「え、そうなの?相手は?」
「晃と」
「ええ!?おめでとう!ずっと付き合い続けてたの?」
「ううん。一回別れたけどもう一回付き合った」
「てことは晃先輩が運命の人だったんだ」
「そうみたい。あ、でも私が結婚する話、他の人には言わないでね。まだ、葵にしか言ってないから」
「え、どうして?」
「だって背中押してくれた葵には一番最初に言いたかったから」
まだその言葉を私に言ってくれるのか。胸が熱くなった。
「そうなんだ。ってか、美玖が先輩のことを晃って呼ぶの違和感あるね」
「今じゃ晃くんって呼ぶのすら違和感あるよ」
しんみりとした空気に耐えられなくなって、私は話題を逸らした。けれどやっぱり、静かな空気が流れた。私は手元のカクテルをぐいっと飲み干した。
「……美玖はさ、私のことまだ親友だと思ってくれてる?」
「何言ってんの?当たり前じゃん」
「そっか。ありがとう」
「受験勉強が忙しかったんだもんね。長い受験勉強だったけど」
美玖がそう茶化してくれたから、私の心は少し楽になった。こうやって軽口を言い合いながら日々の時間を過ごしてきた。いつまで経っても、私たちは私たちだった。
「そういえば、葵が言おうとしてたのはなんだったの?」
「あれ、なんだっけ?忘れちゃった」
「もう何よそれ」
忘れるわけはない。でも、言えるわけもなかった。
「じゃあ。また」
「うん。美玖のウエディングドレス姿楽しみにしてるね」
そのあとしばらく飲んで、美玖の終電には解散した。私は実家に帰らず、ビジネスホテルに泊まることにした。
結局、思いを伝えることはできなかった。あの時好きだった。ただそれだけ言えばよかっただけなのに。だけど今更言えるわけがない。美玖はもう自分の幸せをつかんだのだ。
でも、やっぱり言葉だけでも伝えたい。そうしないと私は一生前に進めない気がする。
日差しの降り注ぐ夏ごろまで元気が良かった教室も、受験シーズンを直前に控え、机に向かい合っている生徒が多い。それでもやはり、友達と話をする生徒もいるのだけれど。
窓の外には雪が降る。史上最大の寒波が日本を襲っているらしい。教室はエアコンの暖房で暖かいが、その景色を見るだけで体が凍える。教室に来るときも生徒たちの無数の足跡がくっきりと残るほど雪が降り積もっていた。
「セーフ!」
後ろの扉から長谷川くんが野球の審判のように左右に手を広げて入ってきた。これがもうすぐ朝のホームルームが始まるという合図だった。彼が椅子に向かって歩き出したとき、ちょうどチャイムが鳴った。
「はい、みんな席について」
その一言で立っていた生徒たちは集団行動のようにぶつかり合わずに自分の席に向かう。その光景は何度見ても不思議な可笑しさがある。
「今日は担任の加瀬先生がお休みなので、副担任の私がホームルームを担当します」
教室の隅の方で長谷川くんが「よっしゃ!」と声を上げた。
「こら、騒がない」
長谷川くんはそう言われると、わざとらしくしょんぼりとした顔をする。その顔を見て、教室の空気が和んだ。受験生特有の殺伐とした空気は、いつも彼が崩してくれる。
連絡事項を読み上げられている間、生徒たちは教卓の方を熱心に見つめる。きっと長谷川くんがいなければ、みんな必死な顔で参考書の問いを解き続けていたことだろう。
「それでは最後に、もう少しで受験本番だけど自分たちのやってきたことを信じて」
その言葉で朝のホームルームは締めくくられた。
私が手元の書類を整えて、授業の準備をしていると、長谷川くんに声をかけられた。無邪気な笑顔を私に向けている。無垢に見えるその表情が長谷川くんを人気者たらしめる理由の一つであると思う。
「葵ちゃん、この前の倫理のプリントの話なんだけど」
私はわざとじとっとした視線を長谷川くんに送る。
「この前の倫理の……」
「そうじゃないでしょ?」
「分かりましたよ、葵ちゃん」
わざとらしく言う長谷川くんを私は目を細めて見つめ続けた。するとやっと長谷川くんは観念した。
「分かりました。葵先生」
「うん。それでよし」
あれから七年と半年が経った。私は大学を卒業してから高校の教師になった。
家族との関係もそれほど変わらぬ間に、私は高校を卒業した。
三年生になった私は、高校生活はほとんどを学校と塾で過ごした。できるだけ、家族と顔を合わせないように努力した。顔を合わせても何を話せばいいか分からなかった。しばらく距離を置いたことで徐々に話せるようになっても、どこかお互いにこれ以上踏み込めないという境界線が存在した。その境界線を決して踏み越えないように、夜ご飯の話だとか、弁当の何が美味しかったとか、それくらいの浅い話しかしなかった。
居場所を失った分、受験勉強に時間を費やした。何かに没頭していたかったのだと思う。そのおかげか、県を跨いだそこそこ評判のいい大学に合格することができた。県外の大学を選んだ理由は単に学力がちょうどよくて、新たな人間関係に身を投じたかったから。それは高校を選んだ理由と全く同じで、人って変わらないんだなと思った。素っ気なく合格したことを母に報告すると、「よかったわね」とだけ返ってきた。
大学に入ると下宿を始めた。慣れない一人暮らしは些か大変ではあったが、それでも両親と一度距離を置きたかった。大学では心理学を専攻した。私の心と向き合ってみたかった。高校時代の私が何を思って孤独の道を選んだのか、それが知りたかった。結局ぴったりと当てはまるような心理的状態は見当たらなかったものの、私が人間関係を断絶してしまったのは、思春期における一種の精神的な自傷行為のようなものだろうと分析した。美玖を遠ざけたのは、親友としてそばにいるのが辛かったのもあるが、たぶん祐樹くんの好意を弄んだ罰の意味もあったと思う。逃避でもあり罰でもあった。今思えば、もっといい選択があったかもしれないと思う。だけどきっと、もう一度あの時期に戻れたとしても私は同じ選択をしてしまうと思う。
他にも世界は段々と同性愛に寛容的になっていることを学んだ。高校の時は自分のことで精一杯で知らなかった。日本は未だ認められていないが、同性婚を認める国は数か国存在し、現在も数が増え続けていると知った。動画サイトに同性カップルの動画が上がったりして、最近では随分身近に感じられるようになってきた。
母親に私の性的指向について話してみようかと思ったこともある。だけど、それはやっぱり怖かったし、その必要もないかとも思った。だって、大学では誰かを好きになることもなかったから。
私が恋をしたのは美玖が最初で最後だった。だからあれが本当に恋だったのか、疑問に思うことさえもある。もしかしたらあれは、若さが見せる儚い幻だったのかもしれない。でも全部なかったことにするのは悲しくて、私はあれを恋と呼ぶことにした。
周りの友達に恋人ができる中で寂しいと思うことはあった。だが、無理して人を好きになろうとするものでもないと割り切った。私はそれを祐樹くんとの付き合いで学んだ。無理して人を好きになろうとして傷つくのは、私ではなくその相手だった。今思えばなんて自分勝手な行動だったんだろう。心の傷を癒すために、私のことを好きでいてくれた祐樹くんを約一年間も縛り付けた。祐樹くんは私の行いを、若き日の過ちとして許してくれるだろうか。
祐樹くんは去年大学院在学中に結婚したらしい。本人に聞いたわけではない。誰かのSNSでタキシード姿の祐樹くんとウエディングドレスを纏う可憐な女の子が腕を組む姿が映っているのを見た。女の子は私よりもずっと可愛くていい子そうだった。祐樹くんはあの時よりうんと幸せそうな顔をしていた。それを見て安心した。祐樹くんには私が汚した彼の恋愛遍歴を塗り替えるだけの幸せを謳歌してほしい。私のことなど一切思い出すことがないように。
大学在学中に高校の公民科の教員免許を取った。公民科を選んだのは、単に心理学専攻ではそれしか選択肢がなかったからだ。今は地元に帰らず通っていた大学のある県で高校教師として倫理を教えている。高校のころは昔の人の言葉を学ぶ意味が分からないと思っていた私が、それを教える立場にいることが不思議だった。
教師としてバレー部の顧問もしている。部活動が残業時間であるとして問題に上がることはあるけれど、私は部活の顧問という立場を楽しんでいる。生徒とともに泣き、ともに笑い、苦い思い出に変わってしまった部活の記憶を塗り替えている。
「葵先生、あともう一つ相談なんすけど」
「未来さんの話?」
「しー!声がでかいって」
長谷川君は人差し指を口に当てて焦ったように周りを見回す。
「ごめんね」
長谷川くんは声を潜めて言う。
「先生ってさ、告白のときなんて言われたら嬉しい?」
普段あれだけふざけている長谷川くんが真剣な表情をしているのがおかしい。
「今度告白するの?」
「いいじゃん細かいことは。それで、答えは?」
「さあ」
「さあって」
「そういうのって人から言われた言葉で言うものじゃないと思うから。長谷川くんの気持ちを自分の言葉でまっすぐ伝えたらいいと思うよ」
「うーん。なるほど」
「でも、まずは大学受験ね」
「分かった。ありがと!葵ちゃん!」
「ちょっと葵先生でしょ?」
「はーい」
長谷川くんは身のない返事をして去っていく。彼らのような生徒たちの青春を守っていくのが私の役目だ。
帰りの駅のホームからは、星が良く見える。ここは地元よりも少し田舎だ。どれがどの星か、昔習ったはずだけど、記憶の奥底に眠っている。中心に光る月しかわからない。
部活終わりの生徒もとっくに帰った時間帯だった。教師としての業務が忙しく、最近は部活にも終わる時間くらいしか顔を出せていない。
駅のホームは侘しい雰囲気で古びた横長の白いベンチが時刻表とともにいくつか置かれているだけ。その中で一人ぽつんと待っていると寂しい気持ちにもなってくる。時刻は九時を回って、この時間になると電車は三十分に一度しか来ない。
十分待つとアナウンスが流れて電車が来た。地元の地下鉄のホームには私が高校三年生の間に、落下防止のための柵と、電車の停止位置に合わせた扉ができた。扉は電車が来ない間ずっと閉じている。この駅にそれができるとしたら、当分先だろうな、と何となく思った。外気にさらされるこの駅のホームの方が風に吹かれてよっぽど危ないと思うのだけれど。
電車が到着して扉が開いて、一人女性が降りてきた。彼女とすれ違って振り返る。ただの知らない人なのに。
今でも私は美玖の姿を探してしまう。いたとしても話しかける勇気もないのに。美玖が今どこで何をしているのかも知らない。知りたいけど、知ったところで何もしない。だから、私は美玖について何も知ろうとしない。
高校時代の友人には一度も会わなかった。菜緒も陽菜とも高校を卒業してから一度も会っていない。そこには必ず美玖の幻影が表れてしまう。今更美玖にどんな顔をしていいのかわからない。私が会いたいと思っていても、きっと美玖は違う。
私は美玖を遠ざけると決めたあの時から、ずっと美玖を避け続けていた。遊びに誘われても忙しいと断り、学校で遠くの方に美玖を見つければ近くに隠れた。段々と美玖の方も私に関わらなくなった。いつからか、美玖の親友は私ではなくなったと思う。
ほとんど貸し切りの電車に乗り込む。私はため息をついて席に座った。今日も疲れた。その言葉を誰に共感してもらえばいいんだろう。うとうとして眠気が私を襲う。家まで三十分かかる。少し眠ろう。
最寄り駅の手前で目を覚ました。人間の本能にたまに驚く。寝過ごしてしまうこともあるが、大概は最寄り駅のちょうど手前で目が覚める。
電車を降りて家までの道を歩いた。見慣れない道も二年も過ごせば、どこにコンビニがあって、どこに飲食店があるか、大抵分かるようになった。といっても、その数は少ない。
脇の田んぼは雪に埋もれてしまって静かだ。一年の間で冬だけが静寂を保つ。秋なんかは特に鈴虫や、何の種類かも分からないカエル、その他諸々の生き物たちが一堂に会して大合唱をして賑やかな気持ちになる。夏も遠くに見える雑木林でセミが鳴いていて、春は静かだが桜が空に舞う。冬だけは少し寂しい。
もう少し着込んでくればよかったと後悔するくらい寒かった。
アパートの二階にある家に帰ってすぐ暖房を付けた。暖房が効き始めるまで部屋はまだ寒い。窓の方からひんやりと冷たい空気が漂ってくる。
八畳一間の空間に物は少ない。好きだった小説もほとんど実家に置いてきたままで、本棚は生徒に教えるための倫理の教科書や参考書がほとんどを占めている。
荷物をすべて置いて、まだスマホを確認していなかったと思い出す。スマホを確認すると、ポイントカードのメールや迷惑メールの通知が溜まっていた。そのほとんどは必要なく、適当に画面を下にスクロールした。一番下まで辿ると、驚いた。そこには懐かしい名前があって、その内容を見て私はすぐに返信を返した。
○
「久しぶり」
「久しぶり」
私たちは正面を向いて向かい合う。面と向かって話すのはいつぶりだろうか。
「美玖、大人っぽくなったね」
「葵こそ」
「私たちもう二十六歳だもんね」
「ちょっとやめて、年齢の話は」
「高校卒業してから……」
私が指折り数えようとすると、美玖は「あー」と声を出しながら指で耳を塞いだ。
大人っぽさの中にあの時のあどけなさが残っている。まず最初にあの時のことを謝ろうと覚悟してきたのに、楽しいやり取りが続いて言い出しづらくなった。
「行こうか」
美玖から【久しぶりに会わない?】と連絡が来た。私が地元に帰るときに、おすすめのバーに行こうと美玖は言ったから私は週末ちょうど地元に帰るつもりだったと嘘をついた。年末年始に実家に帰る以外、私はほとんど実家に帰っていない。今日も美玖と別れたら、ビジネスホテルかカラオケにでも泊まるつもりでいる。
美玖がおすすめだというバーは、昔晃先輩と三人で行ったカフェの近くにあった。その時もきっと通ったはずだけど、高校生の頃は、お酒なんかは遠い存在だと思っていて、酒場が醸し出す独特の雰囲気を感じると自然と目を逸らしていた。
バーの中に入って右に見えるカウンターの中で、黒いベストに蝶ネクタイを付けたバーテンダーがシェイカーを振っていた。全体的に薄暗い雰囲気で、ネオンカラーがバーテンダーの背後に並べられた酒を照らしていた。
私たちは並んでカウンター席に座る。
「ここね、オレンジのカクテルがおいしいんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「何飲む?」
「じゃあ、美玖と同じものにしようかな」
美玖が「マスターいつもの二つ」と言うと、バーテンダーは髭のついた口元を笑わせた。
バーテンダーは、背後からお酒やシロップを取り出して、一度小さな容器で測ってから材料をシェイカーの中に入れる。その手際の良さに思わず見入ってしまう。
「よく来るの?」
「仕事終わりにたまにね」
シェイカーを振り終えると、足の長いグラスに鮮やかな明るいオレンジ色のカクテルが注がれていき、それが私たちの前に出された。
「ありがとうマスター」
美玖がそう言った隣で私は小さく頭を下げた。
「じゃあ乾杯」
「乾杯」
小さくグラスを当てると、バーテンダーはまた微笑んだ。
「おいしい」
「でしょ?」
差し出されたカクテルはアルコールのきつさが抜けて、心地よく喉を通った。
「美玖って仕事なにやってるの?」
「この辺の小さな銀行で営業やってる」
「へえ、どんな仕事やってるの?」
「うーん、簡単に言ったら中小企業の偉い人にお金借りてください、って頼む仕事」
「大変そう」
「大変よ!まあ、相手の人によるんだけどさ。気を使わなきゃいけないから」
美玖はグイっと大きな一口を飲んだ。
「葵は今、仕事何やってるの?」
「高校で先生やってるよ」
「え!先生!?」
「ちょっとそんなに驚く?」
「ごめんごめん。でも、葵きっといい先生になんだろうな」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「ないない。だって私、クラスの子に葵ちゃんって呼ばれるんだよ。全然尊敬されてないよ」
「それだけ親しみやすいってことだよ」
「先生には威厳が必要じゃない?そう呼ぶのは一人だけなんだけど、何回も注意しても中々直してくれなくて」
「きっとその子は葵にかまってもらいたいんだよ」
「うーん」
「もしかして葵のこと好きだったりして」
「ないない」
「分かんないじゃない」
「だって先生と生徒だよ?」
「愛さえあればどんな相手とだって大丈夫。先生と生徒でも卒業まで待てば大丈夫だよ!」
「その子ほかに好きな子いるから!なんて告白されたら嬉しい?って相談受けてたの。たぶん好きな子に告白するときの参考にしたいみたいなんだけどさ」
「え?なにそれ青春だねえ」
「微笑ましいよね」
「それで、なんて答えたの?」
「何が?」
「なんて告白されたら嬉しいって答えたの?」
「自分の言葉でまっすぐ伝えたらいいよって」
「かっこいい」
「もう美玖、ばかにしてるでしょ」
全部昔のままだった。親友だったころを思い出す。
違うのは飲むものがタピオカとかジュースからお酒に変わったくらい。時が変えたのはそのくらいだった。
高校時代の思い出は溢れて止まらない。遊園地に行ったこと、放課後にタピオカを飲んだこと、テスト勉強をするために集まったのに結局話していたら時間が過ぎていたこと、文化祭の演劇で美玖のやった役が面白かったこと、体育祭で優勝したこと。楽しいことに目を向ければ、こんなにも私は十分に青春を謳歌していた。
二杯目はコーヒー系のカクテルを飲んだ。名前を聞いたけれど、忘れてしまった。少し酔いが回って体が熱くなる。美玖も呂律がおかしくなりはじめた。心地の良い時が流れた。体温が上がって程よく眠くなって、この時間がずっと続けばいいと思った。
ふと思う。この酔いに任せてあの時の思いを伝えられないだろうか。実は美玖のことが好きだったと軽い感じで。愛さえあればどんな相手とだって大丈夫だと美玖も言っていた。叶わなくてもいい。ただ、あの時の私の気持ちを知ってほしい。私の思いを伝えるまできっとこの恋は終わらない。もう今しかない。今伝えなければ、一生後悔する。自分の言葉でまっすぐと、自分でもそういったじゃないか。
言え。
言え。
言え!
「「あのさ」」
言葉が被った。
「どうぞ」
「あ、いや美玖の方からどうぞ」
「分かった」
美玖は大きく息を吸った。
「あのね、私もうすぐ結婚するんだ」
強い風が吹いた気がした。
「え、そうなの?相手は?」
「晃と」
「ええ!?おめでとう!ずっと付き合い続けてたの?」
「ううん。一回別れたけどもう一回付き合った」
「てことは晃先輩が運命の人だったんだ」
「そうみたい。あ、でも私が結婚する話、他の人には言わないでね。まだ、葵にしか言ってないから」
「え、どうして?」
「だって背中押してくれた葵には一番最初に言いたかったから」
まだその言葉を私に言ってくれるのか。胸が熱くなった。
「そうなんだ。ってか、美玖が先輩のことを晃って呼ぶの違和感あるね」
「今じゃ晃くんって呼ぶのすら違和感あるよ」
しんみりとした空気に耐えられなくなって、私は話題を逸らした。けれどやっぱり、静かな空気が流れた。私は手元のカクテルをぐいっと飲み干した。
「……美玖はさ、私のことまだ親友だと思ってくれてる?」
「何言ってんの?当たり前じゃん」
「そっか。ありがとう」
「受験勉強が忙しかったんだもんね。長い受験勉強だったけど」
美玖がそう茶化してくれたから、私の心は少し楽になった。こうやって軽口を言い合いながら日々の時間を過ごしてきた。いつまで経っても、私たちは私たちだった。
「そういえば、葵が言おうとしてたのはなんだったの?」
「あれ、なんだっけ?忘れちゃった」
「もう何よそれ」
忘れるわけはない。でも、言えるわけもなかった。
「じゃあ。また」
「うん。美玖のウエディングドレス姿楽しみにしてるね」
そのあとしばらく飲んで、美玖の終電には解散した。私は実家に帰らず、ビジネスホテルに泊まることにした。
結局、思いを伝えることはできなかった。あの時好きだった。ただそれだけ言えばよかっただけなのに。だけど今更言えるわけがない。美玖はもう自分の幸せをつかんだのだ。
でも、やっぱり言葉だけでも伝えたい。そうしないと私は一生前に進めない気がする。