お母さんの体調が悪く、お弁当を作ってもらえなくて購買でパンを買うことになった。
東館、西館を繋ぐ一階の渡り廊下の真ん中の入り組んだ小さなスペースに購買がある。昼休みに入ってすぐはそれなりの列ができるから、私は少し時間を置いてから入った。
番重に並べられたパンたちと、奥の四角い冷蔵庫に入る飲み物たち。コンビニで買うより少しだけ安いから、育ち盛りの運動部の生徒があらかた買い占めてしまい、すでにかなり減っていて、残りは数個しか残っていない。
購買に行くのは久しぶりで三年生になってから初めてだった。購買のおばちゃんは相変わらずしわくちゃな笑顔がかわいくて、いっぱい食べやあよ、と優しく語りかけてくれる。
六個入りのクリームパンとコーヒーの代わりに甘いカフェオレを買った。お金を払ってから少し甘すぎるかなと思った。
渡り廊下には風で入り込んだ桜の花びらがまだ少し残っていた。中庭に咲く桜の木は緑の葉に覆われていて、名前の知らない広葉樹と同じような完全なただの木に成り代わってしまっている。それが寂しいと思いつつ、春しか見られないからこれほど桜に心を動かされるんだろうとも思った。
階段を上って、教室へ帰る。その途中の廊下で、誰かに後ろから抱き着かれた。顔を向けると、美玖がいた。
「葵!久しぶり~!新しいクラスでもうまくやれてる?」
美玖とは三年生になって違うクラスになった。だけど久しぶりに会ったのは、私が美玖を避けていたからだと思う。
「なんとかやってるよ」
「私がいなくなってさみしい?」
「どうかな?」
「この~。寂しいって言ってよ~」
美玖はすっかり元気を取り戻した。嫌がらせを受けていたときの弱弱しさはとっくに消えた。
「ねえ、葵と同じ中学だった遠藤美咲って子いたじゃない?私その子と仲良くなってよかったら今度三人で遊ぼうってなったんだけどどうかな?」
「ごめん。もう三年生だし、受験勉強しなくちゃいけないから」
「そうだよね。受験が終わったらたくさん遊ぼうね」
「うん。それまで楽しみにしてる」
「そういえば葵、彼氏と別れたんだって?」
「相変わらず情報早いね」
「葵が落ち着いたら、いつでも話聞くから。愚痴りたいことがあったら何でも言って」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
優しくしないで。その優しさが痛い。私の心の深い傷がまた深くなる。
「本当に?」
「本当」
「でも葵って一人で抱え込むところあるからなあ」
「そうかな?」
「うん。だから私は心配」
「心配してくれなくても大丈夫だよ」
「分かった。でも本当何でも言ってね。葵に助けられてきたんだから私も葵を助けたい」
「大丈夫だって!」
私の張り上げた声に反応して、廊下にいる生徒たちが一斉に私の方を向いた。美玖は困惑していた。
「ごめん。ちょっと慣れない受験勉強にいらいらしてるのかも。まだ半年以上も先なのにね」
「分かった。私もう行くね」
美玖は優しく微笑んで頷いて、廊下を歩いて行った。その背中を見ていた。美玖は私の方を振り返らなかった。
美玖とクラスが離れてよかった。もう授業中、集中できなくなることもなくなる。休み時間に無駄に鼓動が高まることもなくなる。疲れたと愚痴をこぼすこともない。
私は美玖が好きだという自分の気持ちに一度は蓋をした。久しぶりに蓋を開けたら、いつの間にか美玖への思いは隠し切れないほど大きくなっていた。蓋ももうぼろぼろで、溢れ出る気持ちをもう塞ぐこともできない。
美玖が晃先輩と付き合えたと喜んでいるとき私は喜べなかった。
私がいたはずの遊園地の思い出が晃先輩とのものに変わっていくのはさみしかった。
美玖が晃先輩とキスをしたと聞いたときショックだった。
晃先輩が私の知らない美玖をたくさん引き出して嫉妬した。
遠くで目が合うと逸らしてしまった。たくさん話しかけてくれると、そんなはずないのに期待してしまった。ハグをするたびドキドキして心臓の音が聞こえていないか心配になった。頭を撫でられると全部がどうでもよくなった。
美玖とまた遊園地に行きたい。恋愛映画だけじゃなくてアクションとかサスペンスも見に行きたい。おいしいご飯を食べに行って分け合いたい。美しい景色を見たい。桜も紅葉も雪化粧も移り変わる季節を一緒に感じたい。
美玖の腕の中で好きだと言われたかった。愛し合いたかった。手を繋いで並木通りを歩きたかった。公園のベンチでキスがしたかった。私がいなくちゃだめだと思われたかった。私だけを見ていてほしかった。私の言葉に顔を赤らめてほしい。私しか知らない美玖を見せてほしい。
全部、もう叶わない。
だって美玖には恋人がいるんだから。
そばにいるから辛いんだ。近くにいるから美玖の眩しい光に充てられてしまう。自分から可能性をどこかへ完全に捨て去って、遠くの方に逃げてしまえば、美玖が晃先輩と幸せそうに笑う背中を微笑ましく見守ることができる。
もう気持ちを誤魔化すことができない。好き。好き。好き。美玖のことが大好き。
だから私は美玖を遠ざけることにした。この気持ちが消えるまで。
これが私の出した答え。
私の初恋はこれで終わる。
その日の帰りの足取りは重かった。初夏の暑さに吹き出る汗が体にまとわりつき、大丈夫と張り上げた声に困惑した美玖の表情が瞬きをするたびに現れた。
電車はいつもより人が少ない。図書室で時間を潰して人が少なくなる時間帯を選んだ。私の姿を誰にも見られたくないと思った。何故だかは分からない。とにかく人と会いたくなかった。
家に着いたとき、夕暮れ時で辺りは薄暗くなっていた。カーテンの隙間から灯りが漏れていて家に入るのが怖かった。いつかは軽く思えた門扉も今日は重い。玄関を抜けてリビングに入ると、「おかえり~」と間延びしたお母さんの声が聞こえた。祐樹くんと付き合ってからいつもお母さんはこんな感じだった。
その声に腹が立って「ただいま」の声が少し低かったかもしれない。
リビングにお母さんがテレビを見ながらソファに座っていた。その視線がテレビをはずれ、私を追っている。
「何?」
「葵、何か嫌なことあった?」
「別に」
「本当に?」
「うん」
「葵が嫌なことあったときはお母さんすぐに分かっちゃうんだから」
何を言ってるんだこの人は?私が苦しんでいるとき、何も気づいてくれなかったくせに。祐樹くんと別れたことも知らない。美玖のことを好きだったことさえも。お母さんは私の何も知らない。
「何があったかは知らないけど葵はいい子だから、きっと大丈夫よ」
何もかも分かったような顔に無性に腹が立った。
「お母さんに何が分かるの?」
振り絞るように小さな声で言った。
「え?」
お母さんには聞こえてなかったようで、まだ穏やかな笑顔を浮かべている。もう限界だった。
「お母さんに何が分かるの!」
私は叫んだ。お母さんはその場から動けずにいる。
「私の理解しようともしてくれないで、分かった気にならないでよ!私のどこがいい子なの?今だってこうやってお母さんのこと怒鳴りつけてる」
「お母さんそんなに変なこと言った?」
「いつもお母さんは無神経だよね。私の気持ちも考えないで好き勝手言ってさ」
「考えてるわよ。お母さんが色々言うのは、大人になってから葵が困らないように言ってるの」
「今の私の気持ちを考えてよ。どうしていつも自分が正しいみたいな言い方をするの?私が言ったこといちいち否定して。私の言ったこと一回でも認めてくれたことあった?自分が間違ってるなんて一ミリも考えないんだ」
「どうしたの葵?そんなこと言う子じゃないでしょ?」
「そんなこと言う子だから言ってんだよ。私はずっとずっとずっと言ってやりたかった。今まで言わなかっただけ」
「葵落ち着いて、女の子なんだから。ね?」
「今そんなの関係ないだろ!女なんだからって何なんだよ。どいつもこいつも男だ女だって。男も女も関係なくただの人間だろ!私が結婚するとかしないとか、好きにさせてよ。お母さんが決めることじゃないじゃん。お父さんもお母さんも、ただ自分の娘が結婚しないのがみっともないと思ってるだけでしょ?自分の幸せのためじゃん」
「違う。葵のためを思って言ってるの」
「そういうのがうざいんだって。嘘つくなよ。私のためって体裁はいいんだよ。全部全部自分のためだろうが」
「親にそんな口聞いたらだめでしょう?今日の葵、おかしいわよ」
「おかしくなんかねえよ。これも私だって言ってんだよ」
脳裏に七海先輩の姿が浮かんだ。
「どうしたの、本当に?悩みがあるなら打ち明けて」
「お母さんに悩みなんか話せるわけないでしょ」
「どうしてそんなこと言うの?悩み聞くくらい私にでもできるわ」
「今まで散々私の言うこと否定してきたくせに、その自覚ないんでしょ?そういうところだよ。あんたのそういう無神経なところが嫌いなんだよ」
お母さんは何かを言おうとして、飲み込んだ。そのあと少し黙ってぽつりとつぶやいた。
「ここまで育ててそんな風に言われるなんて思わなかった」
その言葉は私に向かって直接放たれたわけじゃない。吐き捨てるように壁に向かって言った言葉が跳ね返って私の方に来た。
「待ってよ。なんで私が悪いみたいになってるの?」
「だって他の家なんて高校通わせてもらえない子だっているのよ?お父さんもお母さんもあなたのためを思って一生懸命やってきたの」
「なんで今他の家の話すんだよ。あんたたちと私の話をしてんだろ。他の家なんて関係ねえよ」
お母さんは何も言わなかった。だから私は抑えきれない感情任せに思いついた言葉をそのまま吐き出した。
「あんたたちが生みたいから生んだくせに。私は生んでなんて頼んでない。生まれたから仕方なく生きてるだけ。生きててよかったなんて一度も思ったことない」
お母さんが泣いている。そんな姿初めて見た。
思ってもいない出鱈目な言葉だった。けれど私はその言葉を引っ込めることもできず、謝ることもできなかった。
「こんな家で生きてるくらいなら死んだ方がまし」
頬に痛みと音。私の視界は横を向いた。そのまま私は平手打ちをした母親の顔を睨め付ける。やりたくてやってるわけじゃない。そう表情で物語ろうとしているのが腹立たしい。頬の痛みを感じなくなるほど、私の中で燃え盛る怒りの炎が荒れ狂うように私の内側を燃やし、どす黒く変色していく。体が私じゃない何者かに支配されていく心地がした。
私はその場を離れ自分の部屋の扉を荒々しく開けて、学校の鞄をひっくり返し中身を全部出した。転がった教科書の端が床で無造作に折れ曲がっている。私は着替えを適当に鞄の中に詰めた。
「何してるの!」
そう言われても無視した。腕を掴まれたが振り払った。家を飛び出し、ひたすら走った。「葵!」と叫び続けていた声も次第に遠くなっていく。
何もかもに腹が立った。手を繋ぐカップル、公園で遊ぶ子供、それを見守る夫婦、胸を張って歩くスーツを着たサラリーマン。全員が全員幸せそうな顔をしている。心の中で彼らにいくら呪いをかけても、一切その顔を崩さなかった。
しばらく走り続けて見渡す限り同じような家が立ち並ぶ住宅街に来た。見覚えはなく、ここがどこかもうわからない。
だが、他に行く場所なんてなかった。
祐樹くんと別れて、美玖を拒絶した。他に泊めてもらえるような友達もいない。家にも帰れない。私は立ち尽くした。
「どうしたの君?おじさんでよかったら話聞くよ?」
スーツを着た中年の男が私に声をかけた。乾燥してめくれた唇、清潔感のない無造作な髪、額に垂れる汗。にやけた口元と見開いた目に下心が見え透いていた。無視して進むと男が私の腕を掴んだ。
「おじさんのうちそこにあるから」
私は着替えの入った鞄で男の側頭部を殴打した。中身が衣類だけでは殺傷能力は低いが、掴んだ腕を離させるくらいの効果はあった。私はそれで何度も殴った。男は顔を守りながら「やめてくれ!」と懇願する。だけど私はやめなかった。抱え込んでいたすべての怒りが噴火したように湧き出て男を襲った。
そしてしばらく殴打し続けて、力が入らなくなってきたとき、男が私の武器を掴み、そのまま奪い取ろうとする。私は少しの間抵抗したが、諦めて鞄を男の方に押し付けて離した。男は力余って後方に倒れ込んだ。私は鞄をおいてその場から逃げた。
ここにも居場所はない。
走り続けて息は切れ、足りない酸素を補おうと心臓が激しく動いている。私の足はそれでも止まらない。そうしていないとおかしくなりそうだった。
自分がどうしたいのか分からない。
もうこれから傷つけることも傷つくこともないように一人になろうと自分で決めた。だけど私の心は傷だらけだった。私はただ、美玖を好きになっただけ。ただ恋をしただけなのに。
どれだけ走っても、十七歳は自分で思っている以上に無力で、誰かが助けにきてくれるのは所詮空想の話だった。
金もなく、責任能力もないただの女子高生は、夜の誰もいない公園で一人でうずくまっていたところを呆気なく警察に補導された。ついでに鞄が届いていないかと警察に聞いたが、見つからなかった。あの男が持って帰ったのかもしれないと想像して少し吐き気がした。どの服が入っていたかも覚えていない。
交番で椅子に座る私を父親が迎えにきて、暗い雰囲気を払拭しようと私に仕切りに話しかけていたが、一切口を利かなかった。父親はそれを咎めたりもしなかった。そんな父親も家が近くなると、観念したのか話しかけるのをやめた。
家に帰ると母親が待ち構えていて、お互い何を喋るのも憚られて彼女ともまた一切口を利かなかった。
私はついに独りになった。
東館、西館を繋ぐ一階の渡り廊下の真ん中の入り組んだ小さなスペースに購買がある。昼休みに入ってすぐはそれなりの列ができるから、私は少し時間を置いてから入った。
番重に並べられたパンたちと、奥の四角い冷蔵庫に入る飲み物たち。コンビニで買うより少しだけ安いから、育ち盛りの運動部の生徒があらかた買い占めてしまい、すでにかなり減っていて、残りは数個しか残っていない。
購買に行くのは久しぶりで三年生になってから初めてだった。購買のおばちゃんは相変わらずしわくちゃな笑顔がかわいくて、いっぱい食べやあよ、と優しく語りかけてくれる。
六個入りのクリームパンとコーヒーの代わりに甘いカフェオレを買った。お金を払ってから少し甘すぎるかなと思った。
渡り廊下には風で入り込んだ桜の花びらがまだ少し残っていた。中庭に咲く桜の木は緑の葉に覆われていて、名前の知らない広葉樹と同じような完全なただの木に成り代わってしまっている。それが寂しいと思いつつ、春しか見られないからこれほど桜に心を動かされるんだろうとも思った。
階段を上って、教室へ帰る。その途中の廊下で、誰かに後ろから抱き着かれた。顔を向けると、美玖がいた。
「葵!久しぶり~!新しいクラスでもうまくやれてる?」
美玖とは三年生になって違うクラスになった。だけど久しぶりに会ったのは、私が美玖を避けていたからだと思う。
「なんとかやってるよ」
「私がいなくなってさみしい?」
「どうかな?」
「この~。寂しいって言ってよ~」
美玖はすっかり元気を取り戻した。嫌がらせを受けていたときの弱弱しさはとっくに消えた。
「ねえ、葵と同じ中学だった遠藤美咲って子いたじゃない?私その子と仲良くなってよかったら今度三人で遊ぼうってなったんだけどどうかな?」
「ごめん。もう三年生だし、受験勉強しなくちゃいけないから」
「そうだよね。受験が終わったらたくさん遊ぼうね」
「うん。それまで楽しみにしてる」
「そういえば葵、彼氏と別れたんだって?」
「相変わらず情報早いね」
「葵が落ち着いたら、いつでも話聞くから。愚痴りたいことがあったら何でも言って」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
優しくしないで。その優しさが痛い。私の心の深い傷がまた深くなる。
「本当に?」
「本当」
「でも葵って一人で抱え込むところあるからなあ」
「そうかな?」
「うん。だから私は心配」
「心配してくれなくても大丈夫だよ」
「分かった。でも本当何でも言ってね。葵に助けられてきたんだから私も葵を助けたい」
「大丈夫だって!」
私の張り上げた声に反応して、廊下にいる生徒たちが一斉に私の方を向いた。美玖は困惑していた。
「ごめん。ちょっと慣れない受験勉強にいらいらしてるのかも。まだ半年以上も先なのにね」
「分かった。私もう行くね」
美玖は優しく微笑んで頷いて、廊下を歩いて行った。その背中を見ていた。美玖は私の方を振り返らなかった。
美玖とクラスが離れてよかった。もう授業中、集中できなくなることもなくなる。休み時間に無駄に鼓動が高まることもなくなる。疲れたと愚痴をこぼすこともない。
私は美玖が好きだという自分の気持ちに一度は蓋をした。久しぶりに蓋を開けたら、いつの間にか美玖への思いは隠し切れないほど大きくなっていた。蓋ももうぼろぼろで、溢れ出る気持ちをもう塞ぐこともできない。
美玖が晃先輩と付き合えたと喜んでいるとき私は喜べなかった。
私がいたはずの遊園地の思い出が晃先輩とのものに変わっていくのはさみしかった。
美玖が晃先輩とキスをしたと聞いたときショックだった。
晃先輩が私の知らない美玖をたくさん引き出して嫉妬した。
遠くで目が合うと逸らしてしまった。たくさん話しかけてくれると、そんなはずないのに期待してしまった。ハグをするたびドキドキして心臓の音が聞こえていないか心配になった。頭を撫でられると全部がどうでもよくなった。
美玖とまた遊園地に行きたい。恋愛映画だけじゃなくてアクションとかサスペンスも見に行きたい。おいしいご飯を食べに行って分け合いたい。美しい景色を見たい。桜も紅葉も雪化粧も移り変わる季節を一緒に感じたい。
美玖の腕の中で好きだと言われたかった。愛し合いたかった。手を繋いで並木通りを歩きたかった。公園のベンチでキスがしたかった。私がいなくちゃだめだと思われたかった。私だけを見ていてほしかった。私の言葉に顔を赤らめてほしい。私しか知らない美玖を見せてほしい。
全部、もう叶わない。
だって美玖には恋人がいるんだから。
そばにいるから辛いんだ。近くにいるから美玖の眩しい光に充てられてしまう。自分から可能性をどこかへ完全に捨て去って、遠くの方に逃げてしまえば、美玖が晃先輩と幸せそうに笑う背中を微笑ましく見守ることができる。
もう気持ちを誤魔化すことができない。好き。好き。好き。美玖のことが大好き。
だから私は美玖を遠ざけることにした。この気持ちが消えるまで。
これが私の出した答え。
私の初恋はこれで終わる。
その日の帰りの足取りは重かった。初夏の暑さに吹き出る汗が体にまとわりつき、大丈夫と張り上げた声に困惑した美玖の表情が瞬きをするたびに現れた。
電車はいつもより人が少ない。図書室で時間を潰して人が少なくなる時間帯を選んだ。私の姿を誰にも見られたくないと思った。何故だかは分からない。とにかく人と会いたくなかった。
家に着いたとき、夕暮れ時で辺りは薄暗くなっていた。カーテンの隙間から灯りが漏れていて家に入るのが怖かった。いつかは軽く思えた門扉も今日は重い。玄関を抜けてリビングに入ると、「おかえり~」と間延びしたお母さんの声が聞こえた。祐樹くんと付き合ってからいつもお母さんはこんな感じだった。
その声に腹が立って「ただいま」の声が少し低かったかもしれない。
リビングにお母さんがテレビを見ながらソファに座っていた。その視線がテレビをはずれ、私を追っている。
「何?」
「葵、何か嫌なことあった?」
「別に」
「本当に?」
「うん」
「葵が嫌なことあったときはお母さんすぐに分かっちゃうんだから」
何を言ってるんだこの人は?私が苦しんでいるとき、何も気づいてくれなかったくせに。祐樹くんと別れたことも知らない。美玖のことを好きだったことさえも。お母さんは私の何も知らない。
「何があったかは知らないけど葵はいい子だから、きっと大丈夫よ」
何もかも分かったような顔に無性に腹が立った。
「お母さんに何が分かるの?」
振り絞るように小さな声で言った。
「え?」
お母さんには聞こえてなかったようで、まだ穏やかな笑顔を浮かべている。もう限界だった。
「お母さんに何が分かるの!」
私は叫んだ。お母さんはその場から動けずにいる。
「私の理解しようともしてくれないで、分かった気にならないでよ!私のどこがいい子なの?今だってこうやってお母さんのこと怒鳴りつけてる」
「お母さんそんなに変なこと言った?」
「いつもお母さんは無神経だよね。私の気持ちも考えないで好き勝手言ってさ」
「考えてるわよ。お母さんが色々言うのは、大人になってから葵が困らないように言ってるの」
「今の私の気持ちを考えてよ。どうしていつも自分が正しいみたいな言い方をするの?私が言ったこといちいち否定して。私の言ったこと一回でも認めてくれたことあった?自分が間違ってるなんて一ミリも考えないんだ」
「どうしたの葵?そんなこと言う子じゃないでしょ?」
「そんなこと言う子だから言ってんだよ。私はずっとずっとずっと言ってやりたかった。今まで言わなかっただけ」
「葵落ち着いて、女の子なんだから。ね?」
「今そんなの関係ないだろ!女なんだからって何なんだよ。どいつもこいつも男だ女だって。男も女も関係なくただの人間だろ!私が結婚するとかしないとか、好きにさせてよ。お母さんが決めることじゃないじゃん。お父さんもお母さんも、ただ自分の娘が結婚しないのがみっともないと思ってるだけでしょ?自分の幸せのためじゃん」
「違う。葵のためを思って言ってるの」
「そういうのがうざいんだって。嘘つくなよ。私のためって体裁はいいんだよ。全部全部自分のためだろうが」
「親にそんな口聞いたらだめでしょう?今日の葵、おかしいわよ」
「おかしくなんかねえよ。これも私だって言ってんだよ」
脳裏に七海先輩の姿が浮かんだ。
「どうしたの、本当に?悩みがあるなら打ち明けて」
「お母さんに悩みなんか話せるわけないでしょ」
「どうしてそんなこと言うの?悩み聞くくらい私にでもできるわ」
「今まで散々私の言うこと否定してきたくせに、その自覚ないんでしょ?そういうところだよ。あんたのそういう無神経なところが嫌いなんだよ」
お母さんは何かを言おうとして、飲み込んだ。そのあと少し黙ってぽつりとつぶやいた。
「ここまで育ててそんな風に言われるなんて思わなかった」
その言葉は私に向かって直接放たれたわけじゃない。吐き捨てるように壁に向かって言った言葉が跳ね返って私の方に来た。
「待ってよ。なんで私が悪いみたいになってるの?」
「だって他の家なんて高校通わせてもらえない子だっているのよ?お父さんもお母さんもあなたのためを思って一生懸命やってきたの」
「なんで今他の家の話すんだよ。あんたたちと私の話をしてんだろ。他の家なんて関係ねえよ」
お母さんは何も言わなかった。だから私は抑えきれない感情任せに思いついた言葉をそのまま吐き出した。
「あんたたちが生みたいから生んだくせに。私は生んでなんて頼んでない。生まれたから仕方なく生きてるだけ。生きててよかったなんて一度も思ったことない」
お母さんが泣いている。そんな姿初めて見た。
思ってもいない出鱈目な言葉だった。けれど私はその言葉を引っ込めることもできず、謝ることもできなかった。
「こんな家で生きてるくらいなら死んだ方がまし」
頬に痛みと音。私の視界は横を向いた。そのまま私は平手打ちをした母親の顔を睨め付ける。やりたくてやってるわけじゃない。そう表情で物語ろうとしているのが腹立たしい。頬の痛みを感じなくなるほど、私の中で燃え盛る怒りの炎が荒れ狂うように私の内側を燃やし、どす黒く変色していく。体が私じゃない何者かに支配されていく心地がした。
私はその場を離れ自分の部屋の扉を荒々しく開けて、学校の鞄をひっくり返し中身を全部出した。転がった教科書の端が床で無造作に折れ曲がっている。私は着替えを適当に鞄の中に詰めた。
「何してるの!」
そう言われても無視した。腕を掴まれたが振り払った。家を飛び出し、ひたすら走った。「葵!」と叫び続けていた声も次第に遠くなっていく。
何もかもに腹が立った。手を繋ぐカップル、公園で遊ぶ子供、それを見守る夫婦、胸を張って歩くスーツを着たサラリーマン。全員が全員幸せそうな顔をしている。心の中で彼らにいくら呪いをかけても、一切その顔を崩さなかった。
しばらく走り続けて見渡す限り同じような家が立ち並ぶ住宅街に来た。見覚えはなく、ここがどこかもうわからない。
だが、他に行く場所なんてなかった。
祐樹くんと別れて、美玖を拒絶した。他に泊めてもらえるような友達もいない。家にも帰れない。私は立ち尽くした。
「どうしたの君?おじさんでよかったら話聞くよ?」
スーツを着た中年の男が私に声をかけた。乾燥してめくれた唇、清潔感のない無造作な髪、額に垂れる汗。にやけた口元と見開いた目に下心が見え透いていた。無視して進むと男が私の腕を掴んだ。
「おじさんのうちそこにあるから」
私は着替えの入った鞄で男の側頭部を殴打した。中身が衣類だけでは殺傷能力は低いが、掴んだ腕を離させるくらいの効果はあった。私はそれで何度も殴った。男は顔を守りながら「やめてくれ!」と懇願する。だけど私はやめなかった。抱え込んでいたすべての怒りが噴火したように湧き出て男を襲った。
そしてしばらく殴打し続けて、力が入らなくなってきたとき、男が私の武器を掴み、そのまま奪い取ろうとする。私は少しの間抵抗したが、諦めて鞄を男の方に押し付けて離した。男は力余って後方に倒れ込んだ。私は鞄をおいてその場から逃げた。
ここにも居場所はない。
走り続けて息は切れ、足りない酸素を補おうと心臓が激しく動いている。私の足はそれでも止まらない。そうしていないとおかしくなりそうだった。
自分がどうしたいのか分からない。
もうこれから傷つけることも傷つくこともないように一人になろうと自分で決めた。だけど私の心は傷だらけだった。私はただ、美玖を好きになっただけ。ただ恋をしただけなのに。
どれだけ走っても、十七歳は自分で思っている以上に無力で、誰かが助けにきてくれるのは所詮空想の話だった。
金もなく、責任能力もないただの女子高生は、夜の誰もいない公園で一人でうずくまっていたところを呆気なく警察に補導された。ついでに鞄が届いていないかと警察に聞いたが、見つからなかった。あの男が持って帰ったのかもしれないと想像して少し吐き気がした。どの服が入っていたかも覚えていない。
交番で椅子に座る私を父親が迎えにきて、暗い雰囲気を払拭しようと私に仕切りに話しかけていたが、一切口を利かなかった。父親はそれを咎めたりもしなかった。そんな父親も家が近くなると、観念したのか話しかけるのをやめた。
家に帰ると母親が待ち構えていて、お互い何を喋るのも憚られて彼女ともまた一切口を利かなかった。
私はついに独りになった。