その日の放課後、七海先輩を前に三人で話した人気のない踊り場に呼び出した。相変わらず綺麗で、見惚れてしまうほど美しい。そして暖かい表情。いつも通りの七海先輩が踊り場に立っている。
「こんなところで話って何、葵?私本当に受験直前だから」
「すみません。多分すぐ終わるので」
「美玖ちゃんの嫌がらせの件?」
「それもあるというか、結局はそれというか。七海先輩に聞きたいことがあって」
「何、聞きたいことって?」
「それは、その」
 言葉に詰まる。どんな言い方をすればいいか分からない。もしあてが外れていれば、私は七海先輩の信頼を大きく裏切ることになる。だけど、どうしてもこの疑問を振り払うことはできなかった。それに七海先輩だったらきっと間違ってても許してくれる。だから、言おう。そう思った。
「七海先輩、本当に嫌がらせされてましたか?」
 お母さんにうざいと言ってしまったときのような渋い味がした。
「晃先輩と話したとき七海先輩の嫌がらせに一切気づかなかったって言ってて。付き合っててそんなことあるのかなって」
 晃先輩が部活に来た日、部活が終わった後、私は改めて話を聞いた。それでも晃先輩は七海先輩の嫌がらせのことを一切知らなかった。
「必死で隠してたからね」
 七海先輩は下を向いて、髪をくるくると指に巻き付けた。その動作一つすら美しい。
「確かにそうなのかもしれません。でも私、そこに違和感を感じてしまって他の人にも話を聞いたんです」
「誰に?」
「七海先輩、元生徒会長と同じ中学校ですよね。彼にも話を聞いたんです。その時聞いた話が今の七海先輩からは想像できなくて。本当のことを教えてほしいんです」
 私は七海先輩の顔を見れなかった。七海先輩は何も言わなかった。だから私は続けて言った。
「中学生のころ、好きな男の子の恋人をいじめてたって本当ですか?」
  そんなことするわけがないと言ってほしかった。いつもの暖かい声で否定してほしかった。
「もし、万が一それが本当なら美玖に嫌がらせをしているのが七海先輩の可能性もあると思って」
 私は下を向いたまま、返答を待った。けれど沈黙に耐えられなくなった。
「なんて、そんなわけないですよね。ごめんなさい変なこと聞いて」
 それでも、七海先輩からの返答はなかった。
「どうして何も言ってくれないんですか?」
 七海先輩は一つ深いため息をついた。七海先輩は頭をかき乱し舌打ちをして小さな奇声を上げ私を睨み、宙に向けて「うざっ」と呟いた。
 七海先輩は下を向く。その肩が震えだした。それと同時に発する笑い声が徐々に大きくなった。七海先輩は仰ぐように大きな声でしばらく笑った。そして笑い声が止まり私の方を向いたとき、顔つきが変わった。丸く大きかった瞳が鋭利に光っていた。
「葵も美玖ちゃんも素直ねえ。私が先生に言うなって言ったら言わないし、いつも通り生活した方がいいって言ったら本当にそうするんだもん。先生にチクろうとしたら突き落とされたってそんなことありえないでしょ。下手したら人殺しだよ?それを誰にも見られずに無理があるわ。って自分でも思ってたんだけど、案外騙されるものね。本当私が卒業するまでこのままばれないかと思って逆に心配しちゃった」
 七海先輩はふっと鼻で笑った。
「美玖ちゃんに嫌がらせしてたのは私。葵の言う通り晃と付き合ってたころい嫌がらせなんてされてない。全部自作自演であの時見せた紙も自分で作った。これで満足?」
 知らない。こんな七海先輩は知らない。
「どうしたの、葵?変な顔して」
「七海先輩はそんな人じゃないですよね」
 私はすがる思いでいった。
「葵がそんな人じゃないって思ってただけでしょ?勝手に私を決めないで」
 目の前にいる人は誰だ?皮を被っただけの偽物じゃないのか。でも顔も声も疑いようもなく私が見てきた七海先輩のものだった。私は信じがたいこの目の前の事実を受け入れるしかなかった。
「なんで……そんなことしたんですか?」
「なんで?」
 七海先輩はまた鼻で笑った。
「葵はさ。どれだけ認めてほしくても私のことなんて誰も認めてくれないって思ったことある?」
 いつもの落ち着いた声だった。だがそこに暖かみはなく、感じたことのない冷たさがあった。冬に触れる鉄のような無機質な冷たさだった。
「私にだってそれくらい……」
「それなら、毎晩寝る前に布団で声を殺して泣いたことは?」
 七海先輩は嘲笑しながら、過去を思い出すように放った。
「何食べてもゲロ吐くようになったことある?」
 私は何も答えられなかった。
「中学生の頃の私の写真見せてもらった?私、中学のころすごい太っててさ。毎日毎日デブだブタだって罵られてた。私が近く通るだけで男子たちが揺れるって騒ぎだして、女子たちもそれ見てこそこそ笑ってんの。それでも私は笑ってた。だってちょっと私が何か言っただけでマジギレすんなよって悪者扱い。『いじる』って言葉あるでしょ?あれと『いじめ』の違いって分かる?やられてる側が笑ってるかどうかだよ。あいつら私が笑ってやってるから『いじめ』じゃなくて『いじる』で済んでたんだよ」
 七海先輩は嘲笑する。
「あの時期私は毎晩泣いてた。辛かったから。でも笑うしかなかった。どれだけ悲しくても表ではへらへらして。心と体がばらばらでおかしくなりそうだった。食べたもの吐くようになったのもそれから。喉なんてもうぼろぼろ。でもね、その時にも一人だけいたんだ、私のことを笑わないでいてくれる男の子が。優しくて他の子と喋るときと同じ態度で喋ってくれた。だからその男の子に彼女ができたとき悔しくて、私はその彼女のこと『いじって』やったんだよ。その時『ひどい!もうやめてよ』ってあの女が笑ってくれれば『いじめ』でも何でもなかったんだよ。なのにあの女ときたら。今まで私は散々いじらせてやってたのに、どうして私がやり返したら笑ってくれないの?」
 そんなのおかしいでしょ?と七海先輩は肩をすくめた。
「中学卒業してから絶対に幸せを手にしてやるって死に物狂いで努力した。必死でメイク覚えてどうやったら人に好かれるか考え抜いた。痩せたのはゲロ吐いてたら勝手に痩せていったけど。意外と元はかわいかったみたいで、男も女もちやほやしてくれるの。そうやって私は今のステータスを手に入れたの。でも何か足りなかった。それは理想の彼氏。人間って独りよがりじゃだめなのよ。だから新入生の中に誰にでも優しくて人気者の晃を見つけたときびびっときたの。この人がいれば完璧だと思った。晃もきっとそう思ってくれた。だから私の告白を受け入れてくれた。誰もが憧れる理想のカップル。それでいいじゃない。なんで嫌がらせしたかだっけ?それはね美玖ちゃんを助けてあげようと思ったの。晃の隣に立ってるのは私じゃないといけないの。ここまで辛い思いを乗り越えた私だからこそあそこに立っていられるの。あの子は晃に相応しくない。晃の隣は完璧じゃないといけないの。完璧でいるのって疲れるんだよ。美玖ちゃんがいつかぼろを出して振られたときに、身の丈に合った恋をしないからだって馬鹿にされたらかわいそうでしょ?だから嫌がらせされて別れるしかなかった、って言い訳を作ってあげたの」
「そんな理由で……」
「そんな理由?」
 七海先輩は呆れたように声を荒げた。
「私にとっては大事なことなの」
「だからって人を傷つけもいいんですか?」
「このまま付き合い続けたら美玖ちゃんはこれからもっと大きな傷を負うことになるのよ?晃の隣は私に任せてってあの子に言っておいてくれない?」
 呆れて何も言えなかった。
「話はこれで終わり?私受験勉強しなくちゃいけないから」
 七海先輩は私とすれ違い、図書室のある三階への階段を上った。その歩いている姿はやはり七海先輩で、さっきまでのは幻想だったのだと心で強く唱えた。
「七海先輩、あんなに私に優しくしてくれたじゃないですか」
「後輩に優しい先輩って魅力的でしょ?」
 七海先輩は振り向いた。その姿はどこからどう見ても七海先輩だ。発する言葉だけが違う。
「全部嘘だったんですか?『葵なら大丈夫』って背中を押してくれたことも」
「その言葉のおかげで頑張れたでしょ?」
 そう言うと七海先輩は私に背中を向けて階段を上っていく。私はその背中をもう一度呼び止めた。
「何?」
「ハンカチはどうしたんですか?」
「さあね」
 七海先輩は私に一度目を向けてからすぐにまた逸らして進んだ。
 ハンカチに入っている刺繡を教えたのは私だ。あの時踊り場で美玖のハンカチが制服の胸ポケットに入っているのを知ったから体育の時間に更衣室に忍び込んで盗ったんだ。
「待ってください!美玖のハンカチ返してください!」
「うっさいな」
 美玖が晃先輩にもらった大切なもの。ハンカチをうっとりと眺める美玖の顔が脳裏に浮かび、私の心を突き動かす。立ち去ろうとする七海先輩の体を抱き着いて止めた。
 七海先輩は私の腕を必死に振りほどこうとする。私は精一杯その腕に力を込めた。
「あれは美玖の本当に大切なものなんです!」
「離せよ!」
「嫌です!返してください!」
「ああ!もううぜえな!」
 七海先輩が思い切り振り払った腕に押されて、私は階段から転がり落ちた。
「そんなんとっくに捨てたわよ!よくもまあただの友達のためにそんな頑張れるわね」
 私は急いで外に向かって走った。
 すれ違う生徒たちが振り向く。先生が私に向かって何か言っている。関係ない。私は走る。今日ゴミを回収場所に持って行った。もしかしたらもうゴミが回収されているかもしれない。だから私は走った。靴を履き替えるのも煩わしい。上履きのまま外へ出た。とにかく走れ、私。
 回収場所の近くにはすでに収集車が止まっていた。
「待ってください!」
 私は叫んだ。金網で四角く囲われた回収場所には、掃除の時よりも袋でまとめられたゴミが減っている。減った分はすでにめきめきと音を立てて収集車の中で潰れている。
「お嬢ちゃんどうしたんだい?」
 私の声で二人組の作業員の手が止まった。そのうちの背の高い方が言った。
 もうすでに収集車の中にハンカチが回収されているかもしれない。
「おいおい!あぶねえぞ」
 収集車に近づこうとした私を今度は髭の生えた作業員の手が止めた。
「この中に友達の大切にしていたものがあるかもしれないんです!」
「大切なもの?」
 二人の作業員は顔を見合わせた。
「悪いがこいつの中に入れちまったもんはもう無理だ」
「そんな……」
 もしすでに収集車の中に放り込まれてしまっていたら。そう思って私はぞっとした。
「でも残りのやつからなら探してやるからよ。そん中にあるかもしれないだろ?どんなのなんだい?」
「小さな葉の刺繍が入ったハンカチです」
「よし分かった」
 二人の作業員は黄色いゴミ袋を開けて中身を確認し始めてくれた。私も遅れて中身を確認する。
 もし見つからなかったら、美玖になんと伝えればいい。私がもっと早く気づいていれば、美玖の大切なハンカチがなくなることもなかったかもしれないのに。あのハンカチには晃先輩との思い出が刻まれている。替えになるものなどない。私のせいで、美玖の思い出が消えてしまうかもしれない。
 そんなのはだめだ、絶対。見つける。必ず見つけ出して美玖に届けるんだ。

「残念だったな、嬢ちゃん」
 結局、金網の中に残っていたゴミの中にハンカチは見つからなかった。すでに収集車の中でぼろぼろに粉砕されてしまったのだろうか、と胸が痛くなる。
「まあ、そんなに大切だったらまた買うだわな」
「はい。そうします。ありがとうございました」
 買って解決できないのだ、と思いながらもそう言うしかなかった。
「いいって、いいって。じゃあな嬢ちゃん」
 二人はそう言うと残りのゴミを手際よく収集車に放り込んだ。
 校舎の方に歩きながら頭の中を負の感情がぐるぐると巡る。
 ごめん美玖。ごめん。本当にごめん。どんな道をたどっても結局行きつく先は美玖への謝罪の言葉だった。どうやって償えばいい。失われた思い出をどうやって取り戻せばいい。もうどうしようもないじゃないか。どんな顔をすればいい。
 美玖は七海先輩のことを信用していた。多分私が信用していたから、信用していたんだ。全部私のせいじゃないか。私が七海先輩に騙されず、すぐに先生に助けを求めていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。私は足を止めた。歩く気力もなかった。その場に座り込んで、無力な自分を嘆いた。
「何してんの、葵?」
 顔を上げると運動着姿の陽太先輩がいた。
「何でもないです。先輩こそ何してるんですか?」
「いやあ受験勉強さぼってランニングでもしようかと思ってさ」
「楽しそうでいいですね」
「なんだよその言い方」
「ごめんなさい。ちょっと嫌なことがあって」
「え?なになに?」
「教えません」
「え~気になるじゃん」
 興味津々に聞く陽太先輩の頬を一発殴ってしまいそうだったから、私はその場を去った。
 その時ふと思い出した。まだ一つだけ可能性が見えた。私はまた走った。さっきよりも速く。校舎に入り階段を駆け上がった。その途中で転んだ。擦りむいて一瞬傷んだが、走っているうちにすぐに気にならなくなった。
 私は教室の扉を開けた。その一番後ろにゴミ箱を見つけた。私はゴミ箱に駆け寄ってその中を見ると、中身がぎゅうぎゅうに押し込まれていた。七海先輩のクラスの、陽太先輩が回収場所に運ぶのをさぼったであろうゴミ箱。七海先輩が、もしここに捨てたなら。私はその中を漁った。押し固められたごみは思ったよりも固く、ビニールや何かのクリームやひもみたいものが手に絡まる。そんなの気にならない。美玖の大切なもの。それは私の大切なものでもあるんだ。
 あってくれ、心の中でそう強く願った。

   ○

 日も暮れた閑静な住宅街の一軒家のインターホンを押した。
 扉が開いて、中からは美玖が出てきた。
「葵?」
「体調よくなったの?」
「おかげさまで」
「うん。とりあえずは体調はよくなってそうで安心した」
 美玖は小さく笑った。
「心配で来てくれたの?」
「うん」
「ありがとう」
 美玖の笑顔はやはり小さい。だから早く満面に咲かせてあげたいと思った。
「あとこれ」
 私は鞄からハンカチを差し出した。葉の刺繡が入ったハンカチ。美玖は目を丸くして、私の顔とハンカチを交互に見た。
「職員室の落とし物のところに届いてた」
「絶対嘘だ」
「嘘じゃないって」
「本当なの?」
「本当だってば」
「じゃあどうして葵の顔こんなに汚れてるの?」
 美玖は私の頬にそっと触れて、目の下を擦った。
「ありがとう」
 美玖は私を抱き寄せた。苦しいくらいに。
「嫌がらせの犯人も私がとっちめてやったから」
 私は美玖の頭を撫でた。美玖の体は小刻みに震える。耳元で鼻をすする音がする。私の肩が湿って、ほんのりと温かい。
「晃先輩からもらったハンカチ、今までも大切なものだったけど、もっと大切なものになった」
 涙ながらに言う美玖を私は撫で続けた。美玖は私の肩での上で声にならない声で泣いた。今だけはこのまま泣かせてあげたい。
 美玖は徐々に落ち着くと私の体から離れた。涙と鼻水で美玖の顔が覆われている。
「ちょっと何で私のこと見てにやにやしてるの?」
「だって美玖の顔すごい汚れてるんだもん」
「葵もでしょ」
 今度は二人して笑いあった。
「きっと一生懸命探してくれたんだよね。ありがとう」
「だから落とし物のところに届いてたんだって」
「はいはい。ありがとう」
 美玖に徐々に明るさが戻ってきた。
「ねえ、葵見て?」
 美玖が空を指さした。私はその方向を見ると、夜空の真ん中にきれいな満月が一つ浮かんでいた。思わず見惚れてしまう。
「すごい綺麗」
「だよね。すごい月が綺麗だよね」
 美玖は私の方を見て目配せをする。
「何きょとんとしてるの?夏目漱石だよ!夏目漱石!ほら日本人は愛してるの代わりに月が綺麗ですね訳したってやつ。知ってるよね?」
「知ってるよ」
「よかった。知らなかったら私めちゃくちゃ恥ずかしいやつじゃん。……でも、やっぱり直接言わないのはずるいよね」美玖はそう呟くと、大きく息を吸った。
「本当私、葵のこと大好き!」
 満面の笑みが咲いて、その時何かが私の中を駆け抜けた。
「ありがとう。私もだよ。明日は倒れないようにちゃんとよく食べてよく寝るんだよ」
「うん。分かった。ありがとう」
 気持ちを悟られないように美玖に手を振って、住宅街を抜けて駅まで帰る。街灯が私を薄く照らし、時々車のライトが私をはっきりと照らす。あの綺麗な月はどのくらい私を照らしてくれているだろう。
 足が軽い。足だけじゃない。全身が羽が生えたように軽い。このまま空を飛べてしまうんじゃないだろうか。胸から湧き出る衝動を抑えることができず、私は衝動に体を任せた。私は走り出す。足を止められない。駅についても、まだ走っていたかった。最寄り駅を通り過ぎて、次の駅に向かって走ることにした。
 好きと言われた、たったこれだけのことで、なんでこんなに嬉しいんだろう。いや、たったこれだけのことじゃない。むしろ私の中で一番大事なこと。
 胸が弾む。そわそわする。じっとしていられない。緩んだ口が戻らない。
 美玖の言葉に特別な意味なんてない。それでもその一言には世界を変えてしまうほどの魔力がある。私の中のすべてが一斉に覆された。
 ああ、やっぱり私は美玖が好きなんだ。

   ○

 私たちも三年生になって、最後の大会が終わった。県大会出場まであと一歩だった。
 それから数日が経った。いつもの部活の時間に引退会と称して体育館に集まり、私の同期が一人一人後輩へのメッセージを述べている。私は列の一番端にいた。プレイヤーが終わったあとに最後に何かを喋らなければならない。
 去年、七海先輩も何か喋っていた。今となっては七海先輩の言葉に何の感情も湧かない。私が憧れた何でも話せる先輩は完全なる偶像で、目指していたマネージャー像はとうに崩れ去っていた。掲げていた目標がなくなった私は、自分に価値を見出せなくなった。途中で辞めるのが何となく嫌だった。それだけが最後まで続けていた理由だった。惰性の日々を過ごすのが申し訳ないと思いながら、真剣にやっているという体裁だけは崩さぬように一生懸命やっているふりをした。そういうことだけはうまかった。
 プレイヤーは泣きながらしゃべって、何を言っているかも聞き取りづらい。それだけかけてきた思いがあるのだと思った。私にも昔はあった気がした。
 最後に私の番が来た。私はマネージャーとしてどんな言葉を残せばいいか分からなかった。だから適当に当たり障りのないことを言ったと思う。何を言ったかあまり思い出せないし、当然涙を流すことはできなかった。

 帰り道は告白されたときと同じ、夕焼けの差す時間だった。歩く私と自転車を押して歩く祐樹。二人で駅まで坂を下るこの状況も、違和感がなくなってきた。ちょうど告白されたときからもうすぐ一年になる。その間、ほとんどの日々を二人で歩いてきた。相変わらず部活終わりの生徒もいるが、注目されることもなくなった。
 三年生は引退会が終わった後、帰ってしまった。そのあと残された一年生と二年生は次の大会へ向けて練習を始めた。私は図書室に寄って、それが終わるのを待って祐樹と一緒に帰っている。
 坂に吹き込む五月の風は暑くもなく寒くもない。ついでに強くもなく弱くもない。
「七海先輩の引退会の言葉よかったね」
「そう?」
「うん。頑張ろうと思った」
 偽物の言葉だったことが申し訳なくなる。
「もっと練習して、次こそは県大会行ってみせるから見に来てね」
「もう私には応援することしかできないけど」
「絶対いいところ見せるから」
「期待してる」
「葵先輩にそうやって言われたら頑張れる」
 祐樹は私に屈託のない笑顔を向けた。その笑顔が夕陽よりも眩しいから余計言い出せなくなった。
「もうすぐ一年だね。俺が告白してから」
「そうだね」
「色んな事があったね」
「うん」
「遊園地行ったり、映画見たり」
「楽しかったね」
「大会近くて最近は遊べてなかったし、これから受験で忙しくなるかもしれないけど、たまには遊んでね」
 何も言えずに頷いた。
 結局言い出すことができずに坂を下り切って地下鉄の駅前まで来た。私は相変わらず意気地がなかった。
「部活終わりに一緒に帰ることはなくなっちゃうかもしれないけど、葵先輩またね」
 私はまたね、と言わなかった。
 部活終わりに一緒に帰るのはこれで最後。部活終わりでなくとも最後だ。
「え?」
 私の小さく言った言葉に祐樹から笑顔が消え失せ、戸惑いの表情で不安そうにこちらを見ている。
「それって冗談?葵先輩の冗談とか珍しい」
 今度はへらへらと笑った。
「別れてほしいの」
 今度ははっきりと言った。
「冗談じゃないってこと?」
 私は頷く。
「なにか不満があるなら言ってほしい。俺頑張って直すから」
「そういうことじゃ……」
「じゃあしばらく会わないようにするとか。ほらよく言うじゃん。しばらく距離開けたらやっぱりお互い必要だって思ったって話とか」
「ごめん」
「いきなり急に別れようなんて言われたってそんな簡単に納得できないよ」
「ごめん」
「理由も教えてくれないの?」
「ごめん」
「何だよそれ」
 私に向かってじゃなく、地面に向かっていった。
「葵先輩に好きって言われたことなかったら俺すごく不安だったんだよ。いつ別れよって言われるのかびくびくしてた。でも二人で初めて映画を観たあの日、葵先輩が好きって言ってくれたから、嬉しかった。これからずっととは言わないけど、もうしばらく一緒にいられると思ってた」
「ごめん。祐樹くん」
「いや、すみません。俺みっともなかったですよね」
 そんなことない、そういう暇もなく、祐樹くんは自転車に乗って去っていった。
 祐樹くんが私のことを好きだと言ってくれて嬉しかった。一緒にいるのは楽しかった。優しくされると心が温まった。
 でも違った。
 好きって苦しいんだ。ぎゅっと胸が締め付けられる。
その人のことしか考えられなくなって、世界の中心を変えてしまう。美玖の言ったことが全部正しく思えて、どんな些細な一言でも気持ちが揺らいでしまう。
 美玖が好きっていう気持ちに蓋をして、ずっと祐樹くんのことが好きで美玖は親友なんだって思い込もうとしてた。でも無理だ。『好き』という言葉に特別な意味がなくても、好きな人のその言葉一つで恋心は簡単に再び息を吹き返してしまう。
「葵のこと大好き」
 三か月前に美玖に言われた言葉がいつでも鮮明に聞こえる。やっぱり私はどうしようもなく美玖のことが好き。見ないふりをしていたんだ。
 私の世界の中心は美玖にある。そのことに気づいてしまった。だから私はもう祐樹くんと付き合うことはできない。
 部活を途中でやめるのは嫌で、別れたあと気まずくなるのも嫌。そんな自分勝手な理由で引退まで別れを引き延ばした。
 あとで聞いた話によると、祐樹くんは部活を辞めようとしたらしい。頑張る理由がなくなった、そう言っていると別の後輩から聞いた。何とか同期が引き留めて部活を続けることになったが、以前のようなやる気はなくなってしまったらしい。
 私は祐樹くんの好意を弄んでいた。