いつも通りの朝、でもなかった。今日はいつもより遅い。だけど足取りは軽い。踏み出した足が次々と前に進む。九月の残暑さえ心地いいと感じる。いつもより少しだけいい朝だった。教室に入ると美玖が見えた。私は一直線に美玖の元へ向かった。
「美玖、おはよう!」
「おはよう。珍しいね」
「何が?」
「葵が私よりも遅いの珍しいじゃん」
「確かに」
私がいつも美玖よりも早く来ていたのは、美玖と話したかったからだった。美玖と一緒の時間を過ごしたかったから、できるだけ早く来て美玖が来たらずっと話ができるようにした。自分から声をかけるのは緊張してしまうから、遅れてくる美玖に気づかないふりをして声をかけてもらえるようにした。でも、その時間は私には必要ない。これからは祐樹くんと前に進んでいく。私はそう決めた。
美玖の席のそばに私が立った。
「あれ、葵何かいいことあった?」
「ん?秘密」
「何よ~教えてよ」
今の私には祐樹くんの彼女として、美玖の親友としてやっていける、そんな確信があった。
「嘘だよ。何でもない」
「本当に?」
「本当に。それより今日の数学の宿題やった?教科書の問題解くやつ」
「……あ、やってないかも」
美玖は鞄の中を少し漁った。
「……というか教科書忘れちゃって」
「珍しい。美玖が教科書忘れるなんて滅多にないのに」
「うん。ついうっかり。見せてもらってもいい?」
美玖は申し訳なさそうに笑った。
「もちろん」
美玖は私の教科書の問を見て、問題をノートに書き写していく。それが終わると、ありがとうと私に教科書を返した。それを受け取ってから私は聞いた。
「あのさ、美玖の周りで変なこととか起きてない?」
「え、どうして?」
「何もないならいいんだけど」
「……何もないよ」
「ならよかった」
美玖はいつも通り笑った。
七海先輩は私たちの同学年に犯人がいるかもと言っていた。本当にそうならば、学年の違う七海先輩よりも恐らく関係性が近い美玖の方が危険になりそうな気がするが、七海先輩に嫌がらせした犯人もさすがに自らの行いを反省したのだろうか。
いや、きっとそうだ。私の人生が上手く回りだしたのだ。一ついいことが起きれば、次々といい方へ運命は転がっていくのだ。私は祐樹くんと幸せになって、美玖は晃先輩と幸せになって、美玖も私も親友として互いの幸福を喜び合い、分かち合う。家族との絆も深め、これ以上望みようもないくらいの幸せを私は手にしている。
美玖が知らないなら、知らないままの方がきっといい。私の世界が幸福に変わっていく。
○
公園に子供の笑い声、軋むブランコの音、そして跳ねるボールの音。バレーボールは肌寒い風に吹かれながら宙を舞い、たまに揺れながら私たちの間を行き来する。私がレシーブしたボールを祐樹がトスをして、それを私が強く打つと今度は祐樹がレシーブして私がトスをする。それをしばらく繰り返している。
「葵先輩、やっぱりうまいね」
「ほんとにっ!?」
ちょうど強く打ったところで答えて、変に語尾が力がこもった。そうしたら祐樹が笑った。
「ちょっと、今何で笑ったの?」
「葵先輩の言い方、面白かったんでっ!」
「自分も、なってるじゃんっ!」
どっちも強く力を込めるたびに、どちらも変な喋り方になってそれが妙に面白くて二人して笑った。私たちの関係は秋のあの日から徐々に好転している。初めてのデートの緊張感は見る影もなく、お互い心のうちが見せ合えるようになってきた。
「ちょっと休憩にしない?」
「そうだね」
私たちは近くの木の下にあるベンチに向かった。ベンチには十二月の寒さに充てられた落ち葉が乗っていて、祐樹がそれを払った。
「どうぞお嬢さま」
「ありがとう、執事さん」
胸に片手を当ててベンチにもう片方の手を向ける祐樹に従い、私がベンチに座ると、ちょっと待っててと祐樹が自動販売機に向かった。飲み物を奢るのは、今日は祐樹の番だった。こんな冗談が言い合えるようになるとは、付き合った当初は想像もできなかった。ましてあれだけ畏まっていた二人が休日公園でバレーボールをするなんて。
「何笑ってるの?」
戻ってきた祐樹が私に微糖のコーヒーを差し出しながら言った。私がコーヒーを受け取りながら「何でもなーい」ととぼけると、祐樹は指を弾いて私のおでこに軽く当てた。痛くもないが思わず「いて」と声を出してしまった。祐樹はいたずらっぽい顔をして、そのまま隣に座った。
「コーヒーありがとう」
「どういたしまして」
もらった缶を両手で包み込んで温もりを感じる。かれこれ一時間くらいボールを打ち合っていたおかげで体は暖かいが、手の先は冷たかった。
「腕、大丈夫?」
「うーん、ちょっと痛い」
「やっぱり久しぶりにバレーやると痛くなるよね」
「それに冬だしね」
セーターの袖をまくると、腕が赤くなっていて少しかゆくて痛い。
「バレーするの中学のとき以来?」
「ほとんどそうだね。部活の練習をたまに手伝うくらい。こんなにやったのは久しぶり」
コーヒーの缶を開けると、気持ちのいい音がした。飲み口から薄い湯気が香りとともに立ち上る。口を付けて少しだけすすった。
「そういえば、葵先輩って中学と高校の距離、結構離れてるよね。なんでこの高校選んだの?」
「うーん、まあ学力がちょうどよかったのと、あとは新しい環境に飛び込んでみたかったからさ」
「へえ、なんとなく分かるかも。俺も同じような理由で高校選んだから」
「似た者同士だね」
ぎこちなく展開されていた何気ない会話も、滞ることなくすらすらと流れる。それが当たり前になった。
「同じ中学の人は何人くらい同じ高校通ってるの?」
「同じ中学校の人は一人だけだよ。正直、顔と名前しか知らない女の子なんだけど」
「少ないね」
「ここから遠いからね」
「祐樹はどれくらい同じ中学校の人いるの?」
「同級生にはいないんだよね」
「そうなんだ」
「後輩にもいないなあ。先輩にはいるだけど、ほらあの元生徒会長の」
「へえ。あの人と同じ学校だったんだ」
私たちの高校で生徒会長といえばあの人しかいない、と強い印象が植え付けられている。彼は今の三年生で、去年彼が二年生だったころの選挙で断トツで票を獲得して生徒会長になった。同級生にはもともと日々の行動で積み上げた信頼があるらしいが、高校生とは思えぬほど冗談を交えた流暢な演説で下級生、上級生からも拍手喝采を浴びた。去年から付いたエアコンも、全国的に設置の増えているというデータを提示しながら彼が校長先生に直訴したからだと噂が流れている。実際のところはどうなのか知らないが、彼がやったと聞けば妙な説得力があった。
「うん。中学生のときも生徒会長やってたんだけど、その時もすごかったよ」
「どんなこと?」
「うーん例えば、ほら、運動会とか文化祭の始まる前と後で先生の長い話あるじゃん?あれが生徒たちに必要なのか!余韻に浸って語り合う時間の方が重要じゃないのか!って熱弁ふるったら最終的にどの先生も三十秒くらいで終わらせるようになったり」
「すごいね。私の中学の先生も本当に話長くて退屈だった」
「あの人のおかげでイベント系はかなり楽しくなった気がする」
「そういえば私たちの高校の先生も話短いけど、もしかして……」
「かも」
祐樹が笑うと、頭上の木から枯れ葉が一枚揺れながら彼の頭に乗った。祐樹がその頭を差し出してくるので、私はその枯れ葉を摘まんで地面に落とした。
「どうも」
「いえいえ。それなら先輩も一人だけってことは結構珍しんだね」
「うん。……あ!」
「何?」
「あと七海先輩もだ」
「そうなの?それなら一番に言わないとダメじゃん」
冗談っぽく言った。
「中学のころ、あんまりあの人のこと知らなくて」
「え、そうなの?七海先輩どこにいてもすごく目立ちそうなのに」
「いやあ、なんかあの人中学校の時と印象全然違うからさ」
「へえ、どんな感じだったの?」
「演劇部の部長やってたけど、今みたいにそんな注目されるような人じゃなかったていうか。ちょっとぽっちゃりもしてたし」
「演劇部の部長やってたんだ、七海先輩」
「知らなかったんですか?」
「うん。あんまりそういう話したことなかったな」
七海先輩と何度もご飯に行ったが、彼女の中学時代の話を聞いたことがなかった。でもよく考えると、私もあまり中学時代の話をしたことはなかったかもしれない。中学生のころバレー部の選手であったことは、高校のバレー部のマネージャーになったときに披露したが、それ以外特段人に話すようなことはなかった。
「見てみたいなあ。七海先輩の演技」
「うまかったですよ。文化祭でしか見たことないんですけど」
「ええ、なんかずるい」
「いいでしょ」
祐樹が眉を上げるから私は彼のおでこを軽く小突いた。祐樹が小さく「いて」と漏らして、私たちは笑った。
強い風が吹いて、思わず縮み上がる。
「うー、寒い」
「そろそろ帰りましょうか。お嬢様」
祐樹はそう言うと立ち上がり、私に手を伸ばした。
「それやめて」
私はそう言いながら、彼の手を掴んだ。
帰り道、隣を歩く祐樹を見て思う。
祐樹は私のことをもっと知りたいと言ってくれた。今彼は私のことをどれくらい知ってくれているのだろう。きっと私がコーヒーが好きなことも、アイドルグループが好きなことも、小説が好きなことも祐樹は知っている。いつか私は、美玖を好きだったことも話せるのだろうか。
祐樹は涙脆くて、真面目そうに見えて冗談が好きで、緊張しいだと私は知っている。だけど、仲のいいと思っていた七海先輩ですら知らないことがたくさんあるんだ。祐樹について知らないことはきっとまだたくさんあって、祐樹が知らない私のこともたくさんある。それを知っていくことがだんだん好きに変わっていくんだ。そんな愛の形もあるのだと私は知った。
ゆっくり、一歩ずつ私たちは前に進む。
○
体が震え、気を抜けば鼻水が零れ落ちそうになる極寒の中、高校のグラウンドで体育の先生が出席を取っているのを座って待っている。
「寒いからって長距離走やる意味あるのかなあ」
「それも新年早々」
隣に座る斎藤さんと池田さんが凍えながら小さくこぼした。本当にそう思う。先生は健康のためだとか言うけれど、きっとそれは建前だ。先生も誰かに言われているからそう言うしかないのだろうけど。体育着の長ズボンを買っておけばよかったと今になって思う。太ももの当たりに冷たい空気が入り込んでくる。
出席を取り終わって、皆でスタートラインに並ぶ。その中で美玖を探した。
「美玖、一緒に走ろう」
「うん」
美玖を誘って、一緒に後ろの方に並ぶ。前までは意識してしまって、何をするにもなかなか自分から誘うことができなかった。いつもなら美玖が誘ってくれるところを今日は私から誘うことができたことが少しうれしかった。
だけど、これからグラウンドに描かれたトラックを三週しなければならないと思うと憂鬱だった。せめて景色が変わってくれればとも思うが、コンクリートの校舎と敷地を取り囲む高い金網がずっと目に入ってしまう。
先生の笛の合図で一斉に進み出ると、運動部の子たちが先頭争いを繰り広げた。いくら体育の持久走といえど、手を抜いたら顧問の先生に怒られてしまうらしい。運動部の先頭集団が私たちとみるみる距離を離していく。しかしその中で陸上部の子がペースを上げ独走状態になった。
「今日最後の授業で良かったね。この後授業があったら大変だった」
「本当だね」
後ろの方で喋りかけると、美玖ははこれから続く道のりがよほど憂鬱なのか、返事が素っ気ない。私も憂鬱だ。
「おーい!ちゃんと走れよ!」
ゆっくりと話しながら走っていると、先生から檄が飛んだ。
「もうちょっとだけ速く走ろうか」
「そうだね」
少し体が温まり、息が切れてくる。話していると怒られるから、私たちは黙って走った。一周を走ったあたりで後ろから人の息が迫ってくるのが分かった。それは独走していた陸上部の子の息だった。その子の背中が見えたと思ったら、すぐに遠いところまで行ってしまう。
「すごいね」
美玖に話しかけたが、返答はなかった。走りながら、校舎の方をちらちらと見ている。
「どうしたの?美玖」
「え、あ、いやなんでもないよ」
それでもやはり校舎の方を気にしているように見えた。
三周が終わると、休憩という名の説教が始まった。要するに黙って一人で走りなさい、ということだった。
もう一度長距離走が始まると、喋りながら走れる雰囲気ではなくて、美玖と離れて一人で走った。バレー部のプレイヤーだったころを思い出して一生懸命走ってみるが、さすがに体力が落ちていて、タイムは中学生のころより遅かった。
「疲れたね」
「うん、疲れた」
美玖の返事はやはり素っ気なくて、疲れていると言いつつも、授業が終わると美玖はいつもより速足で更衣室に向かった。そして更衣室に入ると美玖はすぐに制服の胸ポケットの中を確認してほっとした表情になった。
「美玖?」
「何でもない」
美玖はやっと心がこもったような返事をしてくれた。だけど制服に着替えて教室に戻る間はずっと浮かない顔をして、帰りのホームルームの間も、美玖は落ち着かない様子だった。挨拶が終わった途端にみんなが体育の愚痴をこぼしている間にも、美玖は自分の席で鞄の中で何かを探していた。そこを探し終わると、今度はロッカーの方へ向かい、中を荒く確認しているようだった。やはりその様子は明らかにおかしい。
私はそっと美玖に近づいて聞いた。
「何か探してるの美玖?」
私の声に美玖がびくりと反応する。
「なんだ葵か。何にも探してないよ」
美玖がそう言って鞄を背中の後ろに隠したとき、何かが音を立てて落ちた。
「それ……」
ノートのページ一面に広がる黒。美玖はそれをすぐに隠したが、私はそれに見覚えがあった。
「葵……助けて」
小さな声で言った美玖の目尻から涙が一つ零れた。
私はノートを美玖のロッカーに隠して、怯えた美玖を連れて人気のない踊り場に移動する。上の階には部活で使われないような図書室や理科室くらいしかなく、そこならば一先ずは誰かに見られる可能性は低そうだった。
「何があったか聞かせて?」
私がそう聞くと、美玖の目が潤んだ。
「最初は教科書がなくなってもすぐに見つかるくらいの軽い嫌がらせだったから我慢してたの。でもだんだん探しても見つからなかったり、壊されてたりするようになったことが増えて、さすがにそろそろ誰かに相談しようと思ったんだけど、さっきの昼休み『死ね』とか『別れろ』ってノートに書かれてるのに気づいて。晃くんのことを好きな人がやってるんだと思うんだけど、その一番下に『誰かに言ったら殺す』って書いてあってどうしようと思って。今の時間は何も取られてなかったんだけど」
心に溜まっていた美玖の不安が一気に解放されたようで頭が整理できず思ったことを喋っているようだった。ノートに書かれていたのは、七海先輩から見せてもらった嫌がらせの紙の内容とほとんど同じだった。七海先輩のときと同じ手口。美玖に嫌がらせをしているのはきっと同じ人だ。
「嫌がらせはいつ頃から?」
「確か、九月ごろから」
滅多にものを忘れない美玖が教科書を忘れたと言っていたときのことを思い出す。あれは美玖が教科書を忘れたのではなく、誰かに隠されていたのか。ずっとそばにいながら、私は自分の幸せに浮かれて親友が苦しい思いをしていることに気が付けなかった。そんな自分を無性に恥じた。
「晃先輩はこのこと?」
美玖は首を横に振った。
「まだ、知らないと思う。最近受験が近づいてきて晃先輩に会えてなかったから。もうすぐ会うんだけど、私隠せる自信ないよ。晃くんに迷惑かけたくない」
美玖の声はどんどん弱弱しくなる。
階段の下からたまに喋り声が聞こえる。もし、美玖が私に相談している姿を嫌がらせの犯人に見られてしまったら、七海先輩のように直接的な危害を加えられてしまうかもしれない。周りを警戒する。時々通る人影がすべて怪しく思えてしまう。目線を階段の下に落としていると、人影が一つ止まった。
「何してるの?」
声がして心臓がはねた。その人影はだんだん近づいてきて、顔が見えた。
「どうしたの葵?深刻そうな顔して」
私は胸を撫でおろした。そこに立っていたのは七海先輩だった。七海先輩は階段を上ってくる。
「受験本番も近いし、今から上の図書室で勉強しようと思ってたんだけど。……あれ、もしかして、あなたが葵の親友の美玖ちゃん?」
美玖はゆっくり頷いた。笑顔の七海先輩に対して美玖は何とか取り繕おうとするが、嫌がらせの恐怖を吐き出した直後で怯えた感情を上手く隠せていないようだった。
その様子を見て、七海先輩がはっとした。
「まさか」
七海先輩は私の顔を見た。私は美玖の顔を見てから一度頷いた。
「美玖ちゃん、私が晃の前の彼女ってことは知ってる?」
「はい」
美玖の声は弱弱しく小さい。
「美玖ちゃん、今嫌がらせにあってるのよね?」
「何で知ってるんですか?」
「実はね、私も晃と付き合ってたときに嫌がらせにあってたの」
「え?」
「辛かったわよね」
七海先輩がなだめるように言うと、美玖は唇を噛みしめて頷いた。目が潤んだように見えたが、初対面の人前で泣くのは我慢しているのだろう。その様子を七海先輩はいつもの暖かい表情で見守っていた。
すると安心したのか、美玖はぼろぼろと涙を流し始めた。初めは涙を指で拭っていたが、次第にそれでは足りなくなった。美玖は胸ポケットから小さな葉の刺繍のついたハンカチで涙を拭き出した。晃先輩からもらったハンカチ。だから体育が終わって胸ポケットをすぐ確認していたのかと気づいた。
美玖が落ち着くまで七海先輩は待っていた。私は落ち着くまで美玖の頭を撫でていた。
「嫌がらせのこと誰かに話した?」
美玖を首を横に振った。
「それなら、私たち以外に相談するのは辞めた方がいいと思うの。特に先生には」
「どうしてですか?」
美玖が聞いたが、私はその理由を知っていた。
「嫌がらせの証拠を持って職員室行こうとしたら、階段から突き落とされたことがあるの」
美玖は口を開けて言葉を失っていた。
「だから先生に言うのは、誰がやったか分かってから。それまではここにいる私たち以外には言わない方がいい。分かった?」
美玖はこくりと頷いた。
「何やってるんだ?やることないなら帰れよー」
「はーい。今から図書室で勉強しようと思って」
顔だけ知っている名前の知らない先生が階段の下から私たちに向かって言って、七海先輩が答えた。
「あんまり人目につくのもまずいわね」
そう言って七海先輩は私たちを階段の上の方に誘導した。
「嫌がらせの犯人は多分晃を好きな人だと思う。だからとりあえずはその人が飽きるのを待つ。それか……」
七海先輩は口をつぐんだ。
「こんなことは言いたくないけど、別れるしかないのかも。別れるまで嫌がらせはやまなかったから」
美玖は「そんな……」と小さな声で漏らした。
「本当はもっと力になってあげたいんだけど、受験も近くて勉強しなくちゃいけないから。それが終わったらちゃんと私も何かできることを探すから、それまでは葵が力になってあげて」
七海先輩が私の手を力強く握った。
○
「おはよう美玖」
「おはよう、葵」
毎朝私は欠かさず美玖に挨拶をするが、美玖は日に日にに弱弱しくなっていく。私が守らなければ死んでしまうのではないかとすら思うほどに。
美玖が嫌がらせを受けているのを知ってから一週間たったが、次の嫌がらせはされていない、と美玖は言っていた。美玖のことだから私に迷惑をかけないよう隠している可能性もあるかもしれないけれど。
私はどうやって美玖を守っていけばいいんだろうか。いつもの明るい笑顔はどこかへ行ってしまって、臆病な子犬のようになった美玖を見て、嫌がらせの犯人が許せなくなる。
美玖は私に近づいて小さな声で言った。
「晃くん、受験が終わって今日に部活行くらしいの。前晃くんと話したとき、嫌がらせのこと自体は気づかれてないと思うんだけど、何かがおかしいとは気づいたみたい。嫌がらせに気づかれるのは時間の問題かもしれないけど、とりあえず私について何か聞かれても知らないふりをしといてほしい」
「分かった。何も言わない」
「ありがとう」
美玖は何とか取り繕おうとしているが、その声はやはり細かった。
「ナイストス!」
晃先輩のスパイクしたボールは体育館の床に高く跳ね、バスケのゴールの端に当たって遠くの方へ飛んでいく。黄色い声ではなく、野太い野性味のある歓声が体育館の中に響いた。美玖の言った通り晃先輩は練習に来た。元キャプテンの陽太先輩も一緒だった。
リベロの祐樹がレシーブをしてセッターがトスを上げて、スパイカーがネットの向こう側にみんなが順番にスパイクを打ち込んでいる。陽太先輩と晃先輩のときだけ、床に跳ねるときの音が違った。
恋人が辛いことに気づかず呑気にバレーをする晃先輩を見て少し腹が立ったが、私も初めは気づけなかったわけだし、何より美玖が晃先輩が気づかないことを望んでいるのだと心を落ち着かせた。
いつも通りの生活をした方がいい、相談したことがばれたらもっと酷い目にあうかもしれないと七海先輩の助言を受けて、私は習慣を崩さず部活に出ることにした。
「五分休憩にしようか」
キャプテンが言って、プレイヤーたちは体育館の端によって水分を補給している。二月の寒さでも、動くと体が熱くなるらしい。みんな半袖半ズボンで、汗をかいている人さえいる。私は半袖半ズボンどころか、長袖のジャージを二枚着こんでいる。それでもまだ寒く感じる。
皆が休んでいる水分補給をする中、祐樹が体育館の外のトイレに行ったのを見計らって、私は晃先輩に近づいた。晃先輩はシャツをあおぎながらスクイズボトルから水を飲んでいる。
「久しぶりだけど、やっぱりすごいですね」
「いや全然だよ」
晃先輩は首を横に振った。
「受験終わったらしいですね」
「美玖ちゃんから聞いた?推薦で合格したからさ、みんなよりも少し早く終わったんだ」
「やっぱりすごいですね」
「たまたま運がよかっただけだよ」
この人は何でもできるのに、いつも謙遜をする。
「陽太先輩も推薦ですか?」
「いや、陽太はまだ試験残ってるよ。いつも先生に怒られてるから推薦で出願させてもらえなかったって。今日は気分転換らしい」
「そういえば教室のゴミを回収場所に出しに行くのをさぼって怒られてるって聞きました」
そう言うと、晃先輩はふふっと笑って「陽太らしい」と言った。晃先輩はもう一度水を飲んだ。
「葵ちゃんに聞こうと思ってたんだけど、美玖ちゃんが最近元気ないみたいなんだけど?何か知らない?」
「知らないです」
美玖の予想通り、晃先輩は私に美玖のことについて聞いてきた。彼は深刻な表情ではなかった。まだ嫌がらせだとは思いもしてないのだろう。私はイメージしてきた通りにとぼけた。
「そっか」
晃先輩は少し落ち込んだような表情をした。
その姿を見て、やっぱり晃先輩は知っておいた方がいいと思った。この人はきっと美玖が何を相談したとしても迷惑だなんて思わない。むしろ美玖を助けてくれるはずだ、とそう思った。美玖との約束があるから直接的には言わない。でも遠回しに言って、気づくのが早まるくらいならいいだろう。
「晃先輩って高校入ってから誰かに告白されたりしましたか?」
「え、どうしたの急に?」
「何となく、気になって」
「二人だけだよ」
「七海と美玖の二人ですか?」
「うん」
「それだけですか?」
「……それだけだったと思う」
「本当に?」
「……本当に」
「ほかに晃先輩のこと好きって噂の人とか!」
「ちょっと落ち着いて葵ちゃん」
「すみません」
自分が前のめりになっているのに気が付いて、私は一つ深呼吸した。
さすがに遠回しすぎるのだろうか。
できるだけ早く気づいてあげてほしい。私はそう思って大きなヒントを口にしてしまった。
「あの七海先輩に嫌がらせをした人に心当たりありますか?」
「嫌がらせ?何のこと?」
そのときぱんっと手を叩く音が聞こえた。
「練習再開!」
キャプテンが言った。陽太先輩じゃなくて、私と同い年のキャプテンの声だった。それを聞いて、みんながコートの方へ戻っていく。
「晃行くぞ!」
陽太先輩がそう言って晃先輩の体をコートの方へ押していく。その振り返り際で晃先輩が言った。
「ごめん、また後で話そう」
みんなが輪になって集合して次のメニューの準備をしている。私はスクイズボトルの中身を確認して、少ないものがあればタンクから水を汲まなければいけない。当然夏よりは水の消費が少なく、中身はあまり減っていなかったので私はそのままにした。
晃先輩は七海先輩が嫌がらせにあっていたことにピンと来ていないようだった。
たしかに私も七海先輩から告白されるまで嫌がらせされていたことを知らなかったわけだし、晃先輩にも別れるまで隠し通していたということだろうか。
美玖はあれだけ心を痛めていた。どれだけ隠そうとしても晃先輩に何かがあったことまでは気づかれてしまった。私たちが入学してから、次の年に晃先輩たちが引退するまでの一年とちょっと。その間七海先輩はどれだけつらい思いを押し殺して来たんだろう。
○
「無理しなくていいからね」
「うん」
体育着で体育館に移動する途中で美玖に言った。どれだけ辛くても日常は進む。個人の事情などお構いなしに今日も体育の授業は開催される。嫌がらせは未だにないが、いつ何をされるか分からない。その状況が美玖の心を蝕んでいた。
「やっと葵がバレーする姿見れるね」
美玖は無理して笑うように見えた。美玖を守ってあげたい。でもどうやって?その答えがずっと見つからないでいる。私にはそばにいることしかできない。
軽い準備体操のあと、授業が始まった。
「まず最初はトスの練習をしましょう」
先生が頭上でボールを手に持って真上に投げて同じ場所でキャッチする。まずはこれでトスの感覚をつかむのだ、と中学生のころバレーを始めたばかりのときに同じことをやった。生徒たちは先生の真似をして、頭上にボールを投げる。退屈だったけれど、私もそれを真似た。時々生徒同士がぶつかり合いそうになって、気を付けるように先生が指示をする。
「じゃあ次は二人一組になって」
当然、私は美玖と組んで、今度はみんな相手に向かってトスの姿勢でボールを投げた。
「これで合ってる?」
「もう少しおでこのあたりに持つといいかも」
美玖に聞かれて、できるだけ普段通り答えた。美玖もできるだけ普段通りを装っているように感じた。
「はい、今度はトスしてみよう」
指でボールを吸収するように手に収めて、膝を使ってボールを上に上げる。美玖も最初は難しそうだったが、だんだんとこつを掴んでいってそれなりに筋がよかった。うまく私の元にボールが届いたとき、少し嬉しそうな顔をして安心した。
「最後はスパイクの練習をしてみようか。ここに並んで」
レシーブの練習を挟んでその指示があった。みんなはネットの前に順番に並ぶ。私は美玖と一緒に並んだ。しかし、先生が何故か私を見ていた。
「じゃあスパイクはバレー部に見本を見せてもらいましょう。葵さんお願いね」
「私マネージャーなんですけど」
「中学の時やってたの先生知ってるわよ」
「でも……」
「このクラスにはほかに誰も居ないから。ね!葵さんお願い。」
私は美玖を見た。大丈夫、行って。美玖はそう言うかのように優しく微笑んだ。
「ありがとう。葵さん。じゃあ行くわよ」
先生がボールをトスの姿勢で投げた。ボールが頂点に達したとき、私は踏み込み始める。
右、左、右左。かかとから踏み込んで腕を大きく上に振り上げ空へ飛ぶ。背中を反らし左手を空に添え、肩からしならせるようにボールに合わせて右腕を振る。ぱんと空気がはじけてドライブ回転のかかったボールはコートのライン上にバウンドした。
なんとか、未経験と疑われることのないくらいのスパイクは打てた。授業用にかなり低いネットだったけれど。
「みんな拍手!」
先生が言ってみんなが拍手した。美玖はみんなよりも大きく拍手してくれているような気がした。
みんなが列に並び順番にスパイクを打つ。部活の時とは違い、先生がボールを投げてトスをする。みんなは空振りをしたり、ネットにぶつけたりする。私も昔はそうだったな、と懐かしく思った。列は順調に進んでいたが、あるときその進みが止まった。
「次は誰?」
先生が言ったとき、その先頭に美玖が並んでいた。
「美玖さん?」
先生の問いかけに美玖は反応しない。瞳孔と口が開き、美玖はその場でふらふらと揺れる。
私は美玖に駆け寄った。美玖は体を預けるように私の方へ倒れ込んだ。私はぐったりとしたその体を支えた。
「美玖?美玖!」
その問いかけに美玖はピクリとも反応しない。
「揺らさないで」
先生が近づいてきて、その指示で床に寝かせた。少しして美玖は意識を取り戻したが、先生の背中から近づいてはいけない雰囲気が醸し出されていた。何か話をしていたが、聞こえず、まだ歩くのもおぼつかない美玖を先生が保健室まで運び、私は寄り添うことすらできなかった。とりあえず続けててと、バレー部の私が投げてトスをすることになった。その間ずっと上の空だった。
授業が終わるころに帰ってきた先生は終わりの挨拶をするだけでそれ以外美玖については何も言わなかった。授業が終わったあと、個人的に先生に聞きに行くと、軽い貧血と聞いて少し安心した。ただ、今まで美玖が倒れることなんてなかった。私の想像以上に美玖の心は蝕まれているのではないだろうか。そんな不安もよぎった。
「更衣室の制服を保健室にいる美玖さんに届けに行ってくれない?」
先生にそう入れて、私は体育館を出て更衣室に入り、美玖の制服を探した。
あった。嫌がらせの対象になっているかもしれないと一抹の不安はあったが、美玖の制服はちゃんと棚の一番端に置いてあった。制服には手を出さないところに、誰にもばれないようにする犯人の狡猾さが感じ取れた。
私は自分の制服に着替え、美玖の制服をもって更衣室を出た。そのとき私は更衣室で美玖が胸ポケットを確認しているのを思い出した。大切なものが入っている美玖の胸ポケット。私は恐る恐るポケットの中を確認した。
だが、ない。美玖のハンカチがない。近くに落ちていないだろうか。そう思って私は更衣室の中に引き返し、ハンカチを探した。しかし、置いてあった場所にも、床にも落ちていない。
最悪な予想が頭に浮かぶ。体育の間に誰かに盗まれてしまったかもしれない。いや、でもまだ、他の荷物に入れているだとか、家に置いてきたとかの可能性もある。
私はそう願って保健室に向かった。
保健室の扉を開けると先生の姿はなかった。
二つあるベッドのうち奥の方のカーテンが閉まっていた。窓から浅い太陽の光が差し込んでいるが、そこに温みはなく、冷たく保健室の中を照らし、カーテンが光っているかのように反射していた。
「美玖いる?」
私の問いかけに、「葵?」と反応があった。声のした奥のベッドに向かいカーテンを開けると、ベッドに横たわる美玖の姿があった。美玖は、病人のようにやつれてしまっているように見えた。顔色も悪く、唇も青い。
「大丈夫?」
「ちょっとはよくなったよ。でも今日はお母さんに迎えに来てもらって早退する」
「それがいいと思う。無理は体によくないよ」
「うん」
「これ、制服」
「ありがとう」
私が制服を差し出すと、美玖はゆっくりと両手でそれを受け取った。
「次も授業あるよね。葵はもう行って?もうすぐ保健室の先生も帰ってくると思うし、大丈夫だから」
「……うん。分かった」
できることならもう少しここにいたかった。
「ありがとね。葵」
「全然大したことしてないよ。じゃあ行くね」
「授業遅刻しないようにね」
「うん」
私は保健室を出ようとした。
「ねえ、葵?」
私は呼ばれて振り返る。
「胸ポケットに何か入ってなかった?」
「やっぱりそこにハンカチ入れてた?」
「うん。ずっとそばに置いておきたくて。やっぱりってことは、確認してくれたんだよね。きっと」
その言葉ですべてを察した。
「盗られちゃったみたい」
もう笑うことしかできない、そんな表情だった。美玖はなんとか暗い雰囲気にならないよう明るく振舞おうとしている。
「晃先輩になんて言えばいいかな?」
私はその問いになんと返せばいいかわからなかった。美玖は明るく見せる作り笑いの裏でどんな苦しみに耐えているだろうか。
「ごめん。こんなこと葵に言っても仕方ないよね」
私はずっと黙っていた。何を言っても美玖の心の傷を癒すことはできない。私にはもう何もできないのかもしれない。
私は諭すように言った。
「美玖、もしかしたらやっぱり私たちだけで解決するのは無理なのかも。先生の力を借りるとか」
「でも七海先輩が先生に言うなって」
「だけど……」
「ちょっとあんまり無理させないで」
保健室の先生が保健室の入り口に立って言った。私が何とも言う前に「ほら、帰った帰った」そう言って私を追い出した。
ぴしゃりと閉まった扉から最後に見えた美玖の顔は、私がスパイクの見本を見せに行った時と同じだった。
それから一つ授業が終わって、もう一つ授業が終わっても、美玖のことを考えた。もう美玖のお母さんは迎えに来たんだろうか?無事に帰れただろうか?体調はよくなっただろうか?でもいくら体調がよくなっても心の傷はどうだろう。大切なものを失った痛みを私はこれから癒してあげられるだろうか。
「こら、掃除さぼってないでちゃんとやりなさい」
気づけば掃除の時間になっていて、担任の先生に叱られた。だけど集中できるわけがなかった。私はぼうっと突っ立って、箒で教室の同じところをずっと掃いていた。
「何か悩み事?」
今先生に助けを求めるべきなのではないかと思った。だが、美玖は嫌がっていた。
「いえ、ごめんなさい。ちゃんと掃除します」
「よろしくね」
「はい」
「あ、そうだ葵さん。罰としてってわけじゃないんだけど、ゴミ箱の中身を回収場所に持って行ってくれないかな?」
「……分かりました」
「ごめんね。今日係の子が休みだから」
そう言うと担任の先生は廊下の掃除の様子を見に行った。
私はしぶしぶゴミ箱の方へ向かった。ゴミ箱の中身は押し込めば意外とあと一週間分くらいは入りそうだとも思ったが、持ち上げてみると意外と重い。陽太先輩はもう一週ためてこの倍の量を持っていると考えるとすごいと思った。私にはとても持てないと思った。
外に出て回収場所に向かうと、そこには小さな列ができていた。私はその後ろに並んだ。中々前に進まず、手持ち無沙汰で流れる時間の中で美玖のことが何度も頭を過る。私に何かできることはないだろうか。
「会長こんにちは」
「元生徒会長だよ」
後ろから声がして、ちょうど一つ後ろに並んでが元生徒会長だったことに気が付いた。後輩らしき女子生徒が、手に顎を乗せて探偵が推理をするときのような姿勢の彼に声をかけている。その様子に聞き耳を立てて、少しでも気を紛らわそうと思った。
「何か悩んでるんですか?」
「いやあ、回収場所に列ができるのって無駄だろう?何とかできないかなと思って」
元生徒会長は顔をしかめながら、「時間帯を分けたりできないのかな」と呟いた。
「もう卒業なんだから、おとなしくしておいてください」
「大学が決まってから暇でねえ。それよりさぼらず掃除しなよ」
「はーい」
猫なで声でそう言うと女の子は去っていった。たまに振り返ると、元会長は時々ひらめいたような顔をしては、うーんと頭を悩ませたりしている。その姿に声をかけていいものか迷ったが、私は意を決して振り返った。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
その返答に私はある一つの仮説を立てた。できるならば、違っていてほしいと願った。
「美玖、おはよう!」
「おはよう。珍しいね」
「何が?」
「葵が私よりも遅いの珍しいじゃん」
「確かに」
私がいつも美玖よりも早く来ていたのは、美玖と話したかったからだった。美玖と一緒の時間を過ごしたかったから、できるだけ早く来て美玖が来たらずっと話ができるようにした。自分から声をかけるのは緊張してしまうから、遅れてくる美玖に気づかないふりをして声をかけてもらえるようにした。でも、その時間は私には必要ない。これからは祐樹くんと前に進んでいく。私はそう決めた。
美玖の席のそばに私が立った。
「あれ、葵何かいいことあった?」
「ん?秘密」
「何よ~教えてよ」
今の私には祐樹くんの彼女として、美玖の親友としてやっていける、そんな確信があった。
「嘘だよ。何でもない」
「本当に?」
「本当に。それより今日の数学の宿題やった?教科書の問題解くやつ」
「……あ、やってないかも」
美玖は鞄の中を少し漁った。
「……というか教科書忘れちゃって」
「珍しい。美玖が教科書忘れるなんて滅多にないのに」
「うん。ついうっかり。見せてもらってもいい?」
美玖は申し訳なさそうに笑った。
「もちろん」
美玖は私の教科書の問を見て、問題をノートに書き写していく。それが終わると、ありがとうと私に教科書を返した。それを受け取ってから私は聞いた。
「あのさ、美玖の周りで変なこととか起きてない?」
「え、どうして?」
「何もないならいいんだけど」
「……何もないよ」
「ならよかった」
美玖はいつも通り笑った。
七海先輩は私たちの同学年に犯人がいるかもと言っていた。本当にそうならば、学年の違う七海先輩よりも恐らく関係性が近い美玖の方が危険になりそうな気がするが、七海先輩に嫌がらせした犯人もさすがに自らの行いを反省したのだろうか。
いや、きっとそうだ。私の人生が上手く回りだしたのだ。一ついいことが起きれば、次々といい方へ運命は転がっていくのだ。私は祐樹くんと幸せになって、美玖は晃先輩と幸せになって、美玖も私も親友として互いの幸福を喜び合い、分かち合う。家族との絆も深め、これ以上望みようもないくらいの幸せを私は手にしている。
美玖が知らないなら、知らないままの方がきっといい。私の世界が幸福に変わっていく。
○
公園に子供の笑い声、軋むブランコの音、そして跳ねるボールの音。バレーボールは肌寒い風に吹かれながら宙を舞い、たまに揺れながら私たちの間を行き来する。私がレシーブしたボールを祐樹がトスをして、それを私が強く打つと今度は祐樹がレシーブして私がトスをする。それをしばらく繰り返している。
「葵先輩、やっぱりうまいね」
「ほんとにっ!?」
ちょうど強く打ったところで答えて、変に語尾が力がこもった。そうしたら祐樹が笑った。
「ちょっと、今何で笑ったの?」
「葵先輩の言い方、面白かったんでっ!」
「自分も、なってるじゃんっ!」
どっちも強く力を込めるたびに、どちらも変な喋り方になってそれが妙に面白くて二人して笑った。私たちの関係は秋のあの日から徐々に好転している。初めてのデートの緊張感は見る影もなく、お互い心のうちが見せ合えるようになってきた。
「ちょっと休憩にしない?」
「そうだね」
私たちは近くの木の下にあるベンチに向かった。ベンチには十二月の寒さに充てられた落ち葉が乗っていて、祐樹がそれを払った。
「どうぞお嬢さま」
「ありがとう、執事さん」
胸に片手を当ててベンチにもう片方の手を向ける祐樹に従い、私がベンチに座ると、ちょっと待っててと祐樹が自動販売機に向かった。飲み物を奢るのは、今日は祐樹の番だった。こんな冗談が言い合えるようになるとは、付き合った当初は想像もできなかった。ましてあれだけ畏まっていた二人が休日公園でバレーボールをするなんて。
「何笑ってるの?」
戻ってきた祐樹が私に微糖のコーヒーを差し出しながら言った。私がコーヒーを受け取りながら「何でもなーい」ととぼけると、祐樹は指を弾いて私のおでこに軽く当てた。痛くもないが思わず「いて」と声を出してしまった。祐樹はいたずらっぽい顔をして、そのまま隣に座った。
「コーヒーありがとう」
「どういたしまして」
もらった缶を両手で包み込んで温もりを感じる。かれこれ一時間くらいボールを打ち合っていたおかげで体は暖かいが、手の先は冷たかった。
「腕、大丈夫?」
「うーん、ちょっと痛い」
「やっぱり久しぶりにバレーやると痛くなるよね」
「それに冬だしね」
セーターの袖をまくると、腕が赤くなっていて少しかゆくて痛い。
「バレーするの中学のとき以来?」
「ほとんどそうだね。部活の練習をたまに手伝うくらい。こんなにやったのは久しぶり」
コーヒーの缶を開けると、気持ちのいい音がした。飲み口から薄い湯気が香りとともに立ち上る。口を付けて少しだけすすった。
「そういえば、葵先輩って中学と高校の距離、結構離れてるよね。なんでこの高校選んだの?」
「うーん、まあ学力がちょうどよかったのと、あとは新しい環境に飛び込んでみたかったからさ」
「へえ、なんとなく分かるかも。俺も同じような理由で高校選んだから」
「似た者同士だね」
ぎこちなく展開されていた何気ない会話も、滞ることなくすらすらと流れる。それが当たり前になった。
「同じ中学の人は何人くらい同じ高校通ってるの?」
「同じ中学校の人は一人だけだよ。正直、顔と名前しか知らない女の子なんだけど」
「少ないね」
「ここから遠いからね」
「祐樹はどれくらい同じ中学校の人いるの?」
「同級生にはいないんだよね」
「そうなんだ」
「後輩にもいないなあ。先輩にはいるだけど、ほらあの元生徒会長の」
「へえ。あの人と同じ学校だったんだ」
私たちの高校で生徒会長といえばあの人しかいない、と強い印象が植え付けられている。彼は今の三年生で、去年彼が二年生だったころの選挙で断トツで票を獲得して生徒会長になった。同級生にはもともと日々の行動で積み上げた信頼があるらしいが、高校生とは思えぬほど冗談を交えた流暢な演説で下級生、上級生からも拍手喝采を浴びた。去年から付いたエアコンも、全国的に設置の増えているというデータを提示しながら彼が校長先生に直訴したからだと噂が流れている。実際のところはどうなのか知らないが、彼がやったと聞けば妙な説得力があった。
「うん。中学生のときも生徒会長やってたんだけど、その時もすごかったよ」
「どんなこと?」
「うーん例えば、ほら、運動会とか文化祭の始まる前と後で先生の長い話あるじゃん?あれが生徒たちに必要なのか!余韻に浸って語り合う時間の方が重要じゃないのか!って熱弁ふるったら最終的にどの先生も三十秒くらいで終わらせるようになったり」
「すごいね。私の中学の先生も本当に話長くて退屈だった」
「あの人のおかげでイベント系はかなり楽しくなった気がする」
「そういえば私たちの高校の先生も話短いけど、もしかして……」
「かも」
祐樹が笑うと、頭上の木から枯れ葉が一枚揺れながら彼の頭に乗った。祐樹がその頭を差し出してくるので、私はその枯れ葉を摘まんで地面に落とした。
「どうも」
「いえいえ。それなら先輩も一人だけってことは結構珍しんだね」
「うん。……あ!」
「何?」
「あと七海先輩もだ」
「そうなの?それなら一番に言わないとダメじゃん」
冗談っぽく言った。
「中学のころ、あんまりあの人のこと知らなくて」
「え、そうなの?七海先輩どこにいてもすごく目立ちそうなのに」
「いやあ、なんかあの人中学校の時と印象全然違うからさ」
「へえ、どんな感じだったの?」
「演劇部の部長やってたけど、今みたいにそんな注目されるような人じゃなかったていうか。ちょっとぽっちゃりもしてたし」
「演劇部の部長やってたんだ、七海先輩」
「知らなかったんですか?」
「うん。あんまりそういう話したことなかったな」
七海先輩と何度もご飯に行ったが、彼女の中学時代の話を聞いたことがなかった。でもよく考えると、私もあまり中学時代の話をしたことはなかったかもしれない。中学生のころバレー部の選手であったことは、高校のバレー部のマネージャーになったときに披露したが、それ以外特段人に話すようなことはなかった。
「見てみたいなあ。七海先輩の演技」
「うまかったですよ。文化祭でしか見たことないんですけど」
「ええ、なんかずるい」
「いいでしょ」
祐樹が眉を上げるから私は彼のおでこを軽く小突いた。祐樹が小さく「いて」と漏らして、私たちは笑った。
強い風が吹いて、思わず縮み上がる。
「うー、寒い」
「そろそろ帰りましょうか。お嬢様」
祐樹はそう言うと立ち上がり、私に手を伸ばした。
「それやめて」
私はそう言いながら、彼の手を掴んだ。
帰り道、隣を歩く祐樹を見て思う。
祐樹は私のことをもっと知りたいと言ってくれた。今彼は私のことをどれくらい知ってくれているのだろう。きっと私がコーヒーが好きなことも、アイドルグループが好きなことも、小説が好きなことも祐樹は知っている。いつか私は、美玖を好きだったことも話せるのだろうか。
祐樹は涙脆くて、真面目そうに見えて冗談が好きで、緊張しいだと私は知っている。だけど、仲のいいと思っていた七海先輩ですら知らないことがたくさんあるんだ。祐樹について知らないことはきっとまだたくさんあって、祐樹が知らない私のこともたくさんある。それを知っていくことがだんだん好きに変わっていくんだ。そんな愛の形もあるのだと私は知った。
ゆっくり、一歩ずつ私たちは前に進む。
○
体が震え、気を抜けば鼻水が零れ落ちそうになる極寒の中、高校のグラウンドで体育の先生が出席を取っているのを座って待っている。
「寒いからって長距離走やる意味あるのかなあ」
「それも新年早々」
隣に座る斎藤さんと池田さんが凍えながら小さくこぼした。本当にそう思う。先生は健康のためだとか言うけれど、きっとそれは建前だ。先生も誰かに言われているからそう言うしかないのだろうけど。体育着の長ズボンを買っておけばよかったと今になって思う。太ももの当たりに冷たい空気が入り込んでくる。
出席を取り終わって、皆でスタートラインに並ぶ。その中で美玖を探した。
「美玖、一緒に走ろう」
「うん」
美玖を誘って、一緒に後ろの方に並ぶ。前までは意識してしまって、何をするにもなかなか自分から誘うことができなかった。いつもなら美玖が誘ってくれるところを今日は私から誘うことができたことが少しうれしかった。
だけど、これからグラウンドに描かれたトラックを三週しなければならないと思うと憂鬱だった。せめて景色が変わってくれればとも思うが、コンクリートの校舎と敷地を取り囲む高い金網がずっと目に入ってしまう。
先生の笛の合図で一斉に進み出ると、運動部の子たちが先頭争いを繰り広げた。いくら体育の持久走といえど、手を抜いたら顧問の先生に怒られてしまうらしい。運動部の先頭集団が私たちとみるみる距離を離していく。しかしその中で陸上部の子がペースを上げ独走状態になった。
「今日最後の授業で良かったね。この後授業があったら大変だった」
「本当だね」
後ろの方で喋りかけると、美玖ははこれから続く道のりがよほど憂鬱なのか、返事が素っ気ない。私も憂鬱だ。
「おーい!ちゃんと走れよ!」
ゆっくりと話しながら走っていると、先生から檄が飛んだ。
「もうちょっとだけ速く走ろうか」
「そうだね」
少し体が温まり、息が切れてくる。話していると怒られるから、私たちは黙って走った。一周を走ったあたりで後ろから人の息が迫ってくるのが分かった。それは独走していた陸上部の子の息だった。その子の背中が見えたと思ったら、すぐに遠いところまで行ってしまう。
「すごいね」
美玖に話しかけたが、返答はなかった。走りながら、校舎の方をちらちらと見ている。
「どうしたの?美玖」
「え、あ、いやなんでもないよ」
それでもやはり校舎の方を気にしているように見えた。
三周が終わると、休憩という名の説教が始まった。要するに黙って一人で走りなさい、ということだった。
もう一度長距離走が始まると、喋りながら走れる雰囲気ではなくて、美玖と離れて一人で走った。バレー部のプレイヤーだったころを思い出して一生懸命走ってみるが、さすがに体力が落ちていて、タイムは中学生のころより遅かった。
「疲れたね」
「うん、疲れた」
美玖の返事はやはり素っ気なくて、疲れていると言いつつも、授業が終わると美玖はいつもより速足で更衣室に向かった。そして更衣室に入ると美玖はすぐに制服の胸ポケットの中を確認してほっとした表情になった。
「美玖?」
「何でもない」
美玖はやっと心がこもったような返事をしてくれた。だけど制服に着替えて教室に戻る間はずっと浮かない顔をして、帰りのホームルームの間も、美玖は落ち着かない様子だった。挨拶が終わった途端にみんなが体育の愚痴をこぼしている間にも、美玖は自分の席で鞄の中で何かを探していた。そこを探し終わると、今度はロッカーの方へ向かい、中を荒く確認しているようだった。やはりその様子は明らかにおかしい。
私はそっと美玖に近づいて聞いた。
「何か探してるの美玖?」
私の声に美玖がびくりと反応する。
「なんだ葵か。何にも探してないよ」
美玖がそう言って鞄を背中の後ろに隠したとき、何かが音を立てて落ちた。
「それ……」
ノートのページ一面に広がる黒。美玖はそれをすぐに隠したが、私はそれに見覚えがあった。
「葵……助けて」
小さな声で言った美玖の目尻から涙が一つ零れた。
私はノートを美玖のロッカーに隠して、怯えた美玖を連れて人気のない踊り場に移動する。上の階には部活で使われないような図書室や理科室くらいしかなく、そこならば一先ずは誰かに見られる可能性は低そうだった。
「何があったか聞かせて?」
私がそう聞くと、美玖の目が潤んだ。
「最初は教科書がなくなってもすぐに見つかるくらいの軽い嫌がらせだったから我慢してたの。でもだんだん探しても見つからなかったり、壊されてたりするようになったことが増えて、さすがにそろそろ誰かに相談しようと思ったんだけど、さっきの昼休み『死ね』とか『別れろ』ってノートに書かれてるのに気づいて。晃くんのことを好きな人がやってるんだと思うんだけど、その一番下に『誰かに言ったら殺す』って書いてあってどうしようと思って。今の時間は何も取られてなかったんだけど」
心に溜まっていた美玖の不安が一気に解放されたようで頭が整理できず思ったことを喋っているようだった。ノートに書かれていたのは、七海先輩から見せてもらった嫌がらせの紙の内容とほとんど同じだった。七海先輩のときと同じ手口。美玖に嫌がらせをしているのはきっと同じ人だ。
「嫌がらせはいつ頃から?」
「確か、九月ごろから」
滅多にものを忘れない美玖が教科書を忘れたと言っていたときのことを思い出す。あれは美玖が教科書を忘れたのではなく、誰かに隠されていたのか。ずっとそばにいながら、私は自分の幸せに浮かれて親友が苦しい思いをしていることに気が付けなかった。そんな自分を無性に恥じた。
「晃先輩はこのこと?」
美玖は首を横に振った。
「まだ、知らないと思う。最近受験が近づいてきて晃先輩に会えてなかったから。もうすぐ会うんだけど、私隠せる自信ないよ。晃くんに迷惑かけたくない」
美玖の声はどんどん弱弱しくなる。
階段の下からたまに喋り声が聞こえる。もし、美玖が私に相談している姿を嫌がらせの犯人に見られてしまったら、七海先輩のように直接的な危害を加えられてしまうかもしれない。周りを警戒する。時々通る人影がすべて怪しく思えてしまう。目線を階段の下に落としていると、人影が一つ止まった。
「何してるの?」
声がして心臓がはねた。その人影はだんだん近づいてきて、顔が見えた。
「どうしたの葵?深刻そうな顔して」
私は胸を撫でおろした。そこに立っていたのは七海先輩だった。七海先輩は階段を上ってくる。
「受験本番も近いし、今から上の図書室で勉強しようと思ってたんだけど。……あれ、もしかして、あなたが葵の親友の美玖ちゃん?」
美玖はゆっくり頷いた。笑顔の七海先輩に対して美玖は何とか取り繕おうとするが、嫌がらせの恐怖を吐き出した直後で怯えた感情を上手く隠せていないようだった。
その様子を見て、七海先輩がはっとした。
「まさか」
七海先輩は私の顔を見た。私は美玖の顔を見てから一度頷いた。
「美玖ちゃん、私が晃の前の彼女ってことは知ってる?」
「はい」
美玖の声は弱弱しく小さい。
「美玖ちゃん、今嫌がらせにあってるのよね?」
「何で知ってるんですか?」
「実はね、私も晃と付き合ってたときに嫌がらせにあってたの」
「え?」
「辛かったわよね」
七海先輩がなだめるように言うと、美玖は唇を噛みしめて頷いた。目が潤んだように見えたが、初対面の人前で泣くのは我慢しているのだろう。その様子を七海先輩はいつもの暖かい表情で見守っていた。
すると安心したのか、美玖はぼろぼろと涙を流し始めた。初めは涙を指で拭っていたが、次第にそれでは足りなくなった。美玖は胸ポケットから小さな葉の刺繍のついたハンカチで涙を拭き出した。晃先輩からもらったハンカチ。だから体育が終わって胸ポケットをすぐ確認していたのかと気づいた。
美玖が落ち着くまで七海先輩は待っていた。私は落ち着くまで美玖の頭を撫でていた。
「嫌がらせのこと誰かに話した?」
美玖を首を横に振った。
「それなら、私たち以外に相談するのは辞めた方がいいと思うの。特に先生には」
「どうしてですか?」
美玖が聞いたが、私はその理由を知っていた。
「嫌がらせの証拠を持って職員室行こうとしたら、階段から突き落とされたことがあるの」
美玖は口を開けて言葉を失っていた。
「だから先生に言うのは、誰がやったか分かってから。それまではここにいる私たち以外には言わない方がいい。分かった?」
美玖はこくりと頷いた。
「何やってるんだ?やることないなら帰れよー」
「はーい。今から図書室で勉強しようと思って」
顔だけ知っている名前の知らない先生が階段の下から私たちに向かって言って、七海先輩が答えた。
「あんまり人目につくのもまずいわね」
そう言って七海先輩は私たちを階段の上の方に誘導した。
「嫌がらせの犯人は多分晃を好きな人だと思う。だからとりあえずはその人が飽きるのを待つ。それか……」
七海先輩は口をつぐんだ。
「こんなことは言いたくないけど、別れるしかないのかも。別れるまで嫌がらせはやまなかったから」
美玖は「そんな……」と小さな声で漏らした。
「本当はもっと力になってあげたいんだけど、受験も近くて勉強しなくちゃいけないから。それが終わったらちゃんと私も何かできることを探すから、それまでは葵が力になってあげて」
七海先輩が私の手を力強く握った。
○
「おはよう美玖」
「おはよう、葵」
毎朝私は欠かさず美玖に挨拶をするが、美玖は日に日にに弱弱しくなっていく。私が守らなければ死んでしまうのではないかとすら思うほどに。
美玖が嫌がらせを受けているのを知ってから一週間たったが、次の嫌がらせはされていない、と美玖は言っていた。美玖のことだから私に迷惑をかけないよう隠している可能性もあるかもしれないけれど。
私はどうやって美玖を守っていけばいいんだろうか。いつもの明るい笑顔はどこかへ行ってしまって、臆病な子犬のようになった美玖を見て、嫌がらせの犯人が許せなくなる。
美玖は私に近づいて小さな声で言った。
「晃くん、受験が終わって今日に部活行くらしいの。前晃くんと話したとき、嫌がらせのこと自体は気づかれてないと思うんだけど、何かがおかしいとは気づいたみたい。嫌がらせに気づかれるのは時間の問題かもしれないけど、とりあえず私について何か聞かれても知らないふりをしといてほしい」
「分かった。何も言わない」
「ありがとう」
美玖は何とか取り繕おうとしているが、その声はやはり細かった。
「ナイストス!」
晃先輩のスパイクしたボールは体育館の床に高く跳ね、バスケのゴールの端に当たって遠くの方へ飛んでいく。黄色い声ではなく、野太い野性味のある歓声が体育館の中に響いた。美玖の言った通り晃先輩は練習に来た。元キャプテンの陽太先輩も一緒だった。
リベロの祐樹がレシーブをしてセッターがトスを上げて、スパイカーがネットの向こう側にみんなが順番にスパイクを打ち込んでいる。陽太先輩と晃先輩のときだけ、床に跳ねるときの音が違った。
恋人が辛いことに気づかず呑気にバレーをする晃先輩を見て少し腹が立ったが、私も初めは気づけなかったわけだし、何より美玖が晃先輩が気づかないことを望んでいるのだと心を落ち着かせた。
いつも通りの生活をした方がいい、相談したことがばれたらもっと酷い目にあうかもしれないと七海先輩の助言を受けて、私は習慣を崩さず部活に出ることにした。
「五分休憩にしようか」
キャプテンが言って、プレイヤーたちは体育館の端によって水分を補給している。二月の寒さでも、動くと体が熱くなるらしい。みんな半袖半ズボンで、汗をかいている人さえいる。私は半袖半ズボンどころか、長袖のジャージを二枚着こんでいる。それでもまだ寒く感じる。
皆が休んでいる水分補給をする中、祐樹が体育館の外のトイレに行ったのを見計らって、私は晃先輩に近づいた。晃先輩はシャツをあおぎながらスクイズボトルから水を飲んでいる。
「久しぶりだけど、やっぱりすごいですね」
「いや全然だよ」
晃先輩は首を横に振った。
「受験終わったらしいですね」
「美玖ちゃんから聞いた?推薦で合格したからさ、みんなよりも少し早く終わったんだ」
「やっぱりすごいですね」
「たまたま運がよかっただけだよ」
この人は何でもできるのに、いつも謙遜をする。
「陽太先輩も推薦ですか?」
「いや、陽太はまだ試験残ってるよ。いつも先生に怒られてるから推薦で出願させてもらえなかったって。今日は気分転換らしい」
「そういえば教室のゴミを回収場所に出しに行くのをさぼって怒られてるって聞きました」
そう言うと、晃先輩はふふっと笑って「陽太らしい」と言った。晃先輩はもう一度水を飲んだ。
「葵ちゃんに聞こうと思ってたんだけど、美玖ちゃんが最近元気ないみたいなんだけど?何か知らない?」
「知らないです」
美玖の予想通り、晃先輩は私に美玖のことについて聞いてきた。彼は深刻な表情ではなかった。まだ嫌がらせだとは思いもしてないのだろう。私はイメージしてきた通りにとぼけた。
「そっか」
晃先輩は少し落ち込んだような表情をした。
その姿を見て、やっぱり晃先輩は知っておいた方がいいと思った。この人はきっと美玖が何を相談したとしても迷惑だなんて思わない。むしろ美玖を助けてくれるはずだ、とそう思った。美玖との約束があるから直接的には言わない。でも遠回しに言って、気づくのが早まるくらいならいいだろう。
「晃先輩って高校入ってから誰かに告白されたりしましたか?」
「え、どうしたの急に?」
「何となく、気になって」
「二人だけだよ」
「七海と美玖の二人ですか?」
「うん」
「それだけですか?」
「……それだけだったと思う」
「本当に?」
「……本当に」
「ほかに晃先輩のこと好きって噂の人とか!」
「ちょっと落ち着いて葵ちゃん」
「すみません」
自分が前のめりになっているのに気が付いて、私は一つ深呼吸した。
さすがに遠回しすぎるのだろうか。
できるだけ早く気づいてあげてほしい。私はそう思って大きなヒントを口にしてしまった。
「あの七海先輩に嫌がらせをした人に心当たりありますか?」
「嫌がらせ?何のこと?」
そのときぱんっと手を叩く音が聞こえた。
「練習再開!」
キャプテンが言った。陽太先輩じゃなくて、私と同い年のキャプテンの声だった。それを聞いて、みんながコートの方へ戻っていく。
「晃行くぞ!」
陽太先輩がそう言って晃先輩の体をコートの方へ押していく。その振り返り際で晃先輩が言った。
「ごめん、また後で話そう」
みんなが輪になって集合して次のメニューの準備をしている。私はスクイズボトルの中身を確認して、少ないものがあればタンクから水を汲まなければいけない。当然夏よりは水の消費が少なく、中身はあまり減っていなかったので私はそのままにした。
晃先輩は七海先輩が嫌がらせにあっていたことにピンと来ていないようだった。
たしかに私も七海先輩から告白されるまで嫌がらせされていたことを知らなかったわけだし、晃先輩にも別れるまで隠し通していたということだろうか。
美玖はあれだけ心を痛めていた。どれだけ隠そうとしても晃先輩に何かがあったことまでは気づかれてしまった。私たちが入学してから、次の年に晃先輩たちが引退するまでの一年とちょっと。その間七海先輩はどれだけつらい思いを押し殺して来たんだろう。
○
「無理しなくていいからね」
「うん」
体育着で体育館に移動する途中で美玖に言った。どれだけ辛くても日常は進む。個人の事情などお構いなしに今日も体育の授業は開催される。嫌がらせは未だにないが、いつ何をされるか分からない。その状況が美玖の心を蝕んでいた。
「やっと葵がバレーする姿見れるね」
美玖は無理して笑うように見えた。美玖を守ってあげたい。でもどうやって?その答えがずっと見つからないでいる。私にはそばにいることしかできない。
軽い準備体操のあと、授業が始まった。
「まず最初はトスの練習をしましょう」
先生が頭上でボールを手に持って真上に投げて同じ場所でキャッチする。まずはこれでトスの感覚をつかむのだ、と中学生のころバレーを始めたばかりのときに同じことをやった。生徒たちは先生の真似をして、頭上にボールを投げる。退屈だったけれど、私もそれを真似た。時々生徒同士がぶつかり合いそうになって、気を付けるように先生が指示をする。
「じゃあ次は二人一組になって」
当然、私は美玖と組んで、今度はみんな相手に向かってトスの姿勢でボールを投げた。
「これで合ってる?」
「もう少しおでこのあたりに持つといいかも」
美玖に聞かれて、できるだけ普段通り答えた。美玖もできるだけ普段通りを装っているように感じた。
「はい、今度はトスしてみよう」
指でボールを吸収するように手に収めて、膝を使ってボールを上に上げる。美玖も最初は難しそうだったが、だんだんとこつを掴んでいってそれなりに筋がよかった。うまく私の元にボールが届いたとき、少し嬉しそうな顔をして安心した。
「最後はスパイクの練習をしてみようか。ここに並んで」
レシーブの練習を挟んでその指示があった。みんなはネットの前に順番に並ぶ。私は美玖と一緒に並んだ。しかし、先生が何故か私を見ていた。
「じゃあスパイクはバレー部に見本を見せてもらいましょう。葵さんお願いね」
「私マネージャーなんですけど」
「中学の時やってたの先生知ってるわよ」
「でも……」
「このクラスにはほかに誰も居ないから。ね!葵さんお願い。」
私は美玖を見た。大丈夫、行って。美玖はそう言うかのように優しく微笑んだ。
「ありがとう。葵さん。じゃあ行くわよ」
先生がボールをトスの姿勢で投げた。ボールが頂点に達したとき、私は踏み込み始める。
右、左、右左。かかとから踏み込んで腕を大きく上に振り上げ空へ飛ぶ。背中を反らし左手を空に添え、肩からしならせるようにボールに合わせて右腕を振る。ぱんと空気がはじけてドライブ回転のかかったボールはコートのライン上にバウンドした。
なんとか、未経験と疑われることのないくらいのスパイクは打てた。授業用にかなり低いネットだったけれど。
「みんな拍手!」
先生が言ってみんなが拍手した。美玖はみんなよりも大きく拍手してくれているような気がした。
みんなが列に並び順番にスパイクを打つ。部活の時とは違い、先生がボールを投げてトスをする。みんなは空振りをしたり、ネットにぶつけたりする。私も昔はそうだったな、と懐かしく思った。列は順調に進んでいたが、あるときその進みが止まった。
「次は誰?」
先生が言ったとき、その先頭に美玖が並んでいた。
「美玖さん?」
先生の問いかけに美玖は反応しない。瞳孔と口が開き、美玖はその場でふらふらと揺れる。
私は美玖に駆け寄った。美玖は体を預けるように私の方へ倒れ込んだ。私はぐったりとしたその体を支えた。
「美玖?美玖!」
その問いかけに美玖はピクリとも反応しない。
「揺らさないで」
先生が近づいてきて、その指示で床に寝かせた。少しして美玖は意識を取り戻したが、先生の背中から近づいてはいけない雰囲気が醸し出されていた。何か話をしていたが、聞こえず、まだ歩くのもおぼつかない美玖を先生が保健室まで運び、私は寄り添うことすらできなかった。とりあえず続けててと、バレー部の私が投げてトスをすることになった。その間ずっと上の空だった。
授業が終わるころに帰ってきた先生は終わりの挨拶をするだけでそれ以外美玖については何も言わなかった。授業が終わったあと、個人的に先生に聞きに行くと、軽い貧血と聞いて少し安心した。ただ、今まで美玖が倒れることなんてなかった。私の想像以上に美玖の心は蝕まれているのではないだろうか。そんな不安もよぎった。
「更衣室の制服を保健室にいる美玖さんに届けに行ってくれない?」
先生にそう入れて、私は体育館を出て更衣室に入り、美玖の制服を探した。
あった。嫌がらせの対象になっているかもしれないと一抹の不安はあったが、美玖の制服はちゃんと棚の一番端に置いてあった。制服には手を出さないところに、誰にもばれないようにする犯人の狡猾さが感じ取れた。
私は自分の制服に着替え、美玖の制服をもって更衣室を出た。そのとき私は更衣室で美玖が胸ポケットを確認しているのを思い出した。大切なものが入っている美玖の胸ポケット。私は恐る恐るポケットの中を確認した。
だが、ない。美玖のハンカチがない。近くに落ちていないだろうか。そう思って私は更衣室の中に引き返し、ハンカチを探した。しかし、置いてあった場所にも、床にも落ちていない。
最悪な予想が頭に浮かぶ。体育の間に誰かに盗まれてしまったかもしれない。いや、でもまだ、他の荷物に入れているだとか、家に置いてきたとかの可能性もある。
私はそう願って保健室に向かった。
保健室の扉を開けると先生の姿はなかった。
二つあるベッドのうち奥の方のカーテンが閉まっていた。窓から浅い太陽の光が差し込んでいるが、そこに温みはなく、冷たく保健室の中を照らし、カーテンが光っているかのように反射していた。
「美玖いる?」
私の問いかけに、「葵?」と反応があった。声のした奥のベッドに向かいカーテンを開けると、ベッドに横たわる美玖の姿があった。美玖は、病人のようにやつれてしまっているように見えた。顔色も悪く、唇も青い。
「大丈夫?」
「ちょっとはよくなったよ。でも今日はお母さんに迎えに来てもらって早退する」
「それがいいと思う。無理は体によくないよ」
「うん」
「これ、制服」
「ありがとう」
私が制服を差し出すと、美玖はゆっくりと両手でそれを受け取った。
「次も授業あるよね。葵はもう行って?もうすぐ保健室の先生も帰ってくると思うし、大丈夫だから」
「……うん。分かった」
できることならもう少しここにいたかった。
「ありがとね。葵」
「全然大したことしてないよ。じゃあ行くね」
「授業遅刻しないようにね」
「うん」
私は保健室を出ようとした。
「ねえ、葵?」
私は呼ばれて振り返る。
「胸ポケットに何か入ってなかった?」
「やっぱりそこにハンカチ入れてた?」
「うん。ずっとそばに置いておきたくて。やっぱりってことは、確認してくれたんだよね。きっと」
その言葉ですべてを察した。
「盗られちゃったみたい」
もう笑うことしかできない、そんな表情だった。美玖はなんとか暗い雰囲気にならないよう明るく振舞おうとしている。
「晃先輩になんて言えばいいかな?」
私はその問いになんと返せばいいかわからなかった。美玖は明るく見せる作り笑いの裏でどんな苦しみに耐えているだろうか。
「ごめん。こんなこと葵に言っても仕方ないよね」
私はずっと黙っていた。何を言っても美玖の心の傷を癒すことはできない。私にはもう何もできないのかもしれない。
私は諭すように言った。
「美玖、もしかしたらやっぱり私たちだけで解決するのは無理なのかも。先生の力を借りるとか」
「でも七海先輩が先生に言うなって」
「だけど……」
「ちょっとあんまり無理させないで」
保健室の先生が保健室の入り口に立って言った。私が何とも言う前に「ほら、帰った帰った」そう言って私を追い出した。
ぴしゃりと閉まった扉から最後に見えた美玖の顔は、私がスパイクの見本を見せに行った時と同じだった。
それから一つ授業が終わって、もう一つ授業が終わっても、美玖のことを考えた。もう美玖のお母さんは迎えに来たんだろうか?無事に帰れただろうか?体調はよくなっただろうか?でもいくら体調がよくなっても心の傷はどうだろう。大切なものを失った痛みを私はこれから癒してあげられるだろうか。
「こら、掃除さぼってないでちゃんとやりなさい」
気づけば掃除の時間になっていて、担任の先生に叱られた。だけど集中できるわけがなかった。私はぼうっと突っ立って、箒で教室の同じところをずっと掃いていた。
「何か悩み事?」
今先生に助けを求めるべきなのではないかと思った。だが、美玖は嫌がっていた。
「いえ、ごめんなさい。ちゃんと掃除します」
「よろしくね」
「はい」
「あ、そうだ葵さん。罰としてってわけじゃないんだけど、ゴミ箱の中身を回収場所に持って行ってくれないかな?」
「……分かりました」
「ごめんね。今日係の子が休みだから」
そう言うと担任の先生は廊下の掃除の様子を見に行った。
私はしぶしぶゴミ箱の方へ向かった。ゴミ箱の中身は押し込めば意外とあと一週間分くらいは入りそうだとも思ったが、持ち上げてみると意外と重い。陽太先輩はもう一週ためてこの倍の量を持っていると考えるとすごいと思った。私にはとても持てないと思った。
外に出て回収場所に向かうと、そこには小さな列ができていた。私はその後ろに並んだ。中々前に進まず、手持ち無沙汰で流れる時間の中で美玖のことが何度も頭を過る。私に何かできることはないだろうか。
「会長こんにちは」
「元生徒会長だよ」
後ろから声がして、ちょうど一つ後ろに並んでが元生徒会長だったことに気が付いた。後輩らしき女子生徒が、手に顎を乗せて探偵が推理をするときのような姿勢の彼に声をかけている。その様子に聞き耳を立てて、少しでも気を紛らわそうと思った。
「何か悩んでるんですか?」
「いやあ、回収場所に列ができるのって無駄だろう?何とかできないかなと思って」
元生徒会長は顔をしかめながら、「時間帯を分けたりできないのかな」と呟いた。
「もう卒業なんだから、おとなしくしておいてください」
「大学が決まってから暇でねえ。それよりさぼらず掃除しなよ」
「はーい」
猫なで声でそう言うと女の子は去っていった。たまに振り返ると、元会長は時々ひらめいたような顔をしては、うーんと頭を悩ませたりしている。その姿に声をかけていいものか迷ったが、私は意を決して振り返った。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
その返答に私はある一つの仮説を立てた。できるならば、違っていてほしいと願った。