私は今まで人を好きになったことがなかった。
 中学校の修学旅行で旅館に泊まった夜、みんなが目を輝かせて好きな男の子の話をしているのを横目に見ていた。好きな人がいるか、とあかりちゃんに聞かれたとき私は答えることができなかった。問い詰められても、いないのだからいないと答えるしかなかった。するとあかりちゃんやその周りの女の子は少し嫌な顔をした。でも仕方がなかった。男の子を見ても何とも思わない。告白されても何も感じない。だからなぜあれほど楽しそうに恋の話を語れるのか分からなかったし、それでいいと思った。
 好きな男の子が被っていると知っていながら黙って付き合うことは重罪らしい。それによって崩れた人間関係を私はいくつか知っている。毎日一緒に過ごしていた二人がある日を境に一切関わり合わなくなったりする。お互いの知らないところで悪口を言い合っているのを見る日もあった。
 だから私にとって恋は悪いこととしか思えなくて、生涯誰かを好きになることはないだろうなと思った。
 世界が変わったのは高校一年生のときだった。
 私は電車で一時間かかる地元から少し離れた高校に通いだした。ただ単に学力がちょうどよかった。それと、すでに崩壊して複雑に入り混じった人間関係から解放されて、新たな環境に身を投じたいという思いもあった。その思惑通り、同じ中学から進学したのは、顔と名前しか知らない一度も喋ったことがないようなもう一人だけだった。
 新しい人間関係を築くのは思いのほか難しかった。小学生のころは難しいことは何も考えずに人に話しかけることができていたし、中学生のころは小学校から一緒に上がった同級生ばかりだったからそれほど困ることもなかった。そのため久しく新しい友人を作っていなかった私は、高校生になって隣の席の子にすらどう話しかければいいのか分からなかった。
 私はクラスに馴染めずにいた。入学式が終わったあと、仲睦まじく談笑する生徒たちの輪がいくつも出来上がっていた。私はその外にいた。楽しそうな会話を遮ってまで輪に入り込む勇気が私にはなかった。狭い教室がだだっ広いまっさらな平原に思えて、その中で一人だけ取り残された気がした。そんな私を変えたのは「一緒に話そうよ」その一言だった。
 声をかけてくれたのは美玖だった。美玖は私の手を取って輪の中に招き入れてくれた。
 美玖のおかげで友達ができた。入学式のあと美玖を含めたみんなと途中まで一緒に帰った。菜緒に陽菜、それに美玖。互いに下の名前で呼び合うようになって、美味しそうなタピオカ屋さんに行く約束もした。
 気づけば四人でずっとそばにいるようになって、移動教室は一緒に行くし、お昼ご飯も隣で食べた。たくさん遊びにも行った。放課後カフェに行ったり、休みの日には遊園地で遊んだりもした。一年生のころ私の学校生活にはいつも四人がいた。
 四人でいるのはもちろん楽しかった。でも、美玖がいないと少し違った。菜緒といるのも陽菜といるのも楽しいけど、美玖がいないと何かが欠けてる気がした。
 美玖は私が悩んでいると、いつも気づいて声をかけてくれる。困っている人を見かけたら必ず助けに行く。常に笑顔で眩しくてきらきらしてて誰にでも優しくて、私はずっとその姿を隣で見ていた。四人でいても、なぜか自然と美玖の方を向いてしまう。
 そのうち、美玖のたった一言に喜んで、何気ない仕草に揺らめいてしまうようになった。学年が上がり菜緒と陽菜とクラスが離れて、美玖と二人でいることが多くなると、より一層美玖のことを意識するようになった。それまで誰のことを好きになったこともなかったけど、これが好きという気持ちなんだとすぐに分かった。
 中学生のころ保険の授業で恋愛には色んな形があるのだと知った。だいたい十人に一人がセクシャルマイノリティなんですよって先生に言われて、へえそうなんだ、クラスに三人くらいはいるのかなってあの時は適当に聞いていた。その一人が私だった。残りの二人に美玖はいなかったみたいだ。
 電話をしたときの美玖の声は、聞いたことないくらい嬉しそうだった。
 私は初めて、失恋の苦さを知った。

   ○

「先輩何かあったんですか?」
「え、何が?」
「いや、今日の葵先輩元気がないように見えたんで」
「そんなことないよ」
 なぜ私は告白された日と同じように祐樹くんと地下鉄の駅まで一緒に帰ることになっているのだろう。ぼうっとして適当に生返事をしていたらいつの間にかこうなっていた。
 部活終わりの夕焼けに照らされて祐樹くんは隣で自転車を押している。あの日と同じように。振られた相手と顔合わせるのが辛くないのかな。私は辛かった。朝、私がいつもより少し遅くに教室に入るなり、美玖は私に駆け寄り抱きしめて本当に嬉しいと何度も繰り返していた。私はその度によかったねと返した。だけどいつものように美玖を抱きしめ返すこともできず、手のやり場に困った。
「でも葵先輩、今日はらしくないミスしてましたし」
 今日の練習は散々なミスをした。スポーツドリンクの粉を入れすぎて部員から酷評をもらった。選手が練習している間にスクイズボトル水を汲んでおく仕事を忘れることもあった。最後にはぼうっとしてスパイクで跳ねたボールが私の顔に当たってしまった。必死に謝らせてしまったのが申し訳なかった。こっそりと同期のキャプテンに呼ばれて「体調悪いならもう帰る?」と言わせてしまった。
 晃先輩たちが引退してから、みんな次の大会に向けて気合を入れて練習している。祐樹くんもリベロとして期待されて一年生ながら次の大会のレギュラーに選ばれようとチームを活気づけてる。そんな中で私だけが異物だった。
「ちょっと体調悪くてさ」
 最近ずっと嘘ばかりついている気がする。
「大丈夫ですか?俺、薬とか買って来ますよ」
「いいのいいの大丈夫!そんなに酷くないから」
 祐樹くんが焦って自転車に跨るから、嘘をついた罪悪感が深くなった。祐樹くんが「よかった」と安堵して自転車を降りるから、余計苦しかった。
「何かあったら教えてください。全力で助けますから」
「ありがとう。でも本当に大丈夫だから」
 改札の前で手を振る祐樹くんに手を振り返して私は地下へ降りる。長い階段の半分を抜けた先、強い向かい風が私の髪をなびかせた。私が階段を降り切った時、目の前のホームに電車が着いて扉が開いたが、乗る気になれなくて一本遅らせた。次の電車に乗り込み、途中で鉄道に乗り換えて家へ帰った。
 家の前の門扉は建付けが悪く重たい。
 玄関を抜けてリビングにいるお母さんに一言「ただいま」とだけ言うと、私はすぐにシャワーを浴びた。
 ここならすぐに涙を洗い流せると思った。抑えていた感情が次第に緩み、呼吸が荒くなった。浴室の外に声が漏れだしてしまわないようにシャワーを強くする。勢いよく水が床に跳ねる音で私の声をかき消す。
 私は泣いた。朝からずっと耐えていた。好きな人に恋人ができた。それがこんなに苦しいだなんて思わなかった。
 いつもと変わらず美玖がそばにいたから辛かった。彼の話をするたびに美玖が顔を赤らめるから痛かった。美玖の告白が失敗してしまえばいいと願った自分が許せなかった。私情を部活に持ち込んで失態を犯すのも悔しかった。一日中、いろんな感情が心の中でぶつかりあっていた。その感情たちは外に出る時をずっと探していて、ようやく今、涙と嗚咽に乗って表に現れた。
 ずっと美玖のことが好きだった。いつかはこうなるかもしれないって分かっていた。美玖だって人間なんだから誰かを愛して愛されたいって思うのは当然で、そばにいるだけで気持ちを伝えるのを怖がっていた私が報われないのはごく普通の結果だ。そんなの分かってる。
 でも苦しい辛い痛い悔しい。他にも言葉では表せないネガティブな感情がいくつも頭の中に並んだ。呼吸が乱れてうまく息を吸えなくて頭がぼうっとする。鏡には醜く嗚咽する私が映っていた。
 これ以上泣いてしまわないように、これでこの恋を終わらせてしまうために、ここで涙を枯らしてしまおうと思った。だけど一向に涙が枯れる気配はなかった。深呼吸して心を落ち着かせようとする。それでも無理で、楽しいことを思い浮かべようともした。だけど、その思い出の中には必ず美玖がいた。
 なにが大丈夫だ。こんなにも辛い。

 しばらく泣き続けて、落ち着いてから浴室を出た。一生分の涙さえ出た気もしたが、気が緩めばまた溢れてきそうだった。着替えて髪を乾かしてからリビングに入ると、無邪気に笑う子供がテレビに映っていた。
「ほら見て葵、かわいい」
 ソファにだらしなく横たわるお母さんがテレビを指さして言った。
 テレビで子供は、走り回るうちに小さく転んで頭をぶつけて泣いた。それを見ているお笑い芸人がテレビの端の枠で笑っていた。私は「そうだね」と返した。
「子供はいいわよお。本当かわいい」
 お母さんは一度起き上がりソファの前の机の缶ビールに口をつけ、また横たわった。
「葵も昔は本当かわいかったんだから。あ、ねえそうだ昔のビデオ見る?」
「いい」
 と言った私の言葉を無視してお母さんはソファから起き上がり、テレビの横の引き出しを漁り始めた。コードとビデオカメラを取り出し、テレビのそばにおいた。
「いいって言ってるじゃん」
「いいからいいから。ほら、ごはんキッチンにあるから持っておいで」
 キッチンに行くと、洗い場の横に小さな皿が三つ並べられていた。私はその三つを両手に分けて一回で運んだ。
 キッチンから戻るとお母さんはしゃがんだり背伸びをしたりして、まだ引き出しの開け閉めを繰り返している。私が料理を机に置くころに「あったあった」と一枚のメモリカードをビデオカメラに差し替えた。
 そんなお母さんを横目に私は椅子に座り、箸を取って主菜から食べ始めた。
 お母さんはビデオカメラを操作して「これこれ」と笑った。そのままお母さんはテレビにビデオカメラを繋いで画面を切り替えた。
 コテージのベッドの上で飛び跳ねたり踊ったりする子供の姿がテレビに映った。現代の映像と比べて画質が荒く時々黒い線が入る。
 子供は楽しそうに動き回っている。それを見てお父さんとお母さんの笑う声がテレビから聞こえる。
 こんな時期が私にもあったのか。
 映像の中の私はカメラに気づくと、恥ずかしそうに身をよじらせて顔を隠した。そしてベッドから飛び降り、カメラを撮るお父さんに近づき画面から見切れた。画面はもう一度私の顔を大きく映し出すと大きく揺れながら床の映像に切り替わった。「お母さん、これ」というお父さん声でまた映像は揺れ、それが止まるとお父さんに抱きかかえられた私が幼く笑っていた。そこで映像は途切れた。
「ほらねえ。かわいいわよねえ。葵もこうやって甘えてた時期があったのよ」
 お母さんはテレビの前に座り込み、繋がれたビデオカメラを操作し同じ映像をもう一度見た。それから違う映像を探して「これも可愛い。ほら見て」とテレビの画面を何度も指さした。
 ビデオカメラのメモリカードには、無邪気にはしゃぎ回りお父さんやお母さんに甘える私が何人もいた。こうして見ると昔の私と今の私は別の人みたいに思える。この頃はきっとお母さんのこともお父さんのことも大好きで、一緒に過ごす時間が嬉しかったんだろうな。
「これを見ると子供ほしいと思わない?」
 ビデオカメラを無造作に操作するお母さんの問いに、醤油で和えてある大根を頬張りながら「うん、そうだね」と答えた。すると、お母さんがビデオカメラを置いて私の方を見た。
「葵は今彼氏いないの?」
 お母さんは思いついたように聞いた。一瞬、胸の中のどす黒い感情が渦巻いて涙がこぼれそうになった。さっき少しでも涙を枯らしておいてよかった。私は感情を殺して答えた。
「今はそういうのいいかな」
「そうなの?まあ今はいいかもしれないけどねえ。でも若いからって油断したら駄目よ。周りがどんどん結婚していく中お母さんだけ取り残されてたんだから。なんとか友達の紹介でお父さんと結婚できたけど」
 聞いてもいないのに、お母さんはキッチンに移動しながら流暢に喋った。テレビ画面には誕生日にケーキを食べる私の姿が映し出されている。不器用に口元にクリームを付け、若き日のお母さんがそれを笑いながらそれを拭いている。
「別に将来結婚できなくてもいいし」
 吐き捨てるように私は言った。キッチンからは水の流れる音と食器のぶつかる音が聞こえる。洗い物をしているからか、お母さんは少し声を張った。
「でもほら、向かいのおばあさんそろそろ七十歳超えるみたいなんだけど、ずっと独身でよく一人で寂しそうに庭の手入れしてるでしょう?ああなったらきっと辛いわよ」
「それが楽しいのかもしれないじゃん」
 私は張り合うように、箸を止め語気を強める。
「でも看取ってくれる子供もいなくて、死んでから誰にも気づかれないのはねえ」
 私の苛立ちを気にもしないお母さんの態度に怒りが沸き上がってくる。私はさらに語気を強めた。
「死んだら何も感じないじゃん」
 お母さんは私は言葉を飲み込むように少し黙った。だが帰ってくる言葉の先頭は同じだった。「でも、」そうお母さんが言った瞬間私の中で何かがあふれた。
「でもばっかり!」
 私はお母さんの言葉を遮るようにいつもより大きな声を出した。食器のぶつかる音が止んだ。そして私は言った。
「お母さんちょっとうざいよ」
 鼓動が早まる。胸が仕切りに動くのを感じる。呼吸がしづらい。
「うざいってどうしたの葵?お母さん、葵のために言ってるのよ?」
 お母さんはキッチンから私の方にゆっくり顔を向けた。その表情を横目でみた。お母さんは驚きと戸惑いが混ざったような顔をしている。だがわずかに口角を上げ、笑みを保とうとしているのが分かった。
「ごちそうさま」
 私はそれだけ言って、箸をおき部屋に向かう。ごはんはまだ半分くらい残っていた。
「ちょっと葵!」
 リビングからお母さんの声がしたが、聞こえないふりをした。真っすぐベッドに倒れ込み目を瞑った。まだ鼓動が速い。心臓が繰り返し大きく弾み、鼓動のたびにベッドが軋む音がした。そのまま深く呼吸をして、鼓動が治まるのを待った。
 生まれて初めてお母さんに反発してしまった。「うざい」という響きが舌の上に渋く残っている。でも後悔はしていない。だって結婚が幸せだって誰が決めたんだろう。結婚は人生の墓場だって誰かも言ってたじゃないか。
 向かいのおばちゃんは私が学校から帰るといつもかわいい笑顔で手を振ってくれた。子供をかわいがるみたいに庭のお花に水をあげてた。私にはおばちゃんは満足しているように見えていた。おばちゃんが結婚していなくても、本人がいいと思ってるならそれでいいはずだ。
 結婚することが幸せなの?別に結婚しなくたって子供がいなくたって私が幸せだと思えているならいい。そう言ってくれるのが親の仕事じゃないの?
 誰かに私の幸せを決められたくない。私が望む幸せの中で人生を歩みたい。私の幸せは私のものだ。
 あ、でも私の幸せはもう終わったんだった。

 ベッドの上で仰向けになり目を開けると目尻が少し湿っていて冷たい。電気をつけたまま寝てしまっていたようだった。私は息を殺して部屋を出た。右手のリビングの扉に取り付けられた曇りガラスに明かりが灯っていた。私はそのままリビング横の洗面台に移動し、歯を磨いた。電気は付けなかった。何となく私の存在を悟られたくなかった。
 暗号のような音がリビングから漏れ聞こえているのに気付いた。それはリビングいるお母さんと、いつの間にか帰ってきていたお父さんの話し声だった。私は少しリビングの方に耳を寄せた。
「今日ね、葵にうざいって言われたの」
 嘆くお母さんの声が聞こえた。
「母さん、それも成長には必要なことだよ。喜ばしいことじゃないか」
 なだめるようにお父さんが言った。
「あなたは見てないから言えるのよ。いつも家にいないくせに」
「しょうがないじゃないか。仕事なんだから」
 苛立つ二人は徐々に温度を上げた。そのきっかけは私だった。お父さんもお母さんもいつも喧嘩ばかりしている。お父さんは下請けのプログラマーだとかで、毎晩遅く帰ってきて心のどこかにいつも苛立ちを抱えている。お母さんはそのお父さんに文句を言って、たまに愚痴を私にこぼす。二人の言い合いなど、この家では見慣れた光景だ。
「毎晩毎晩遅く帰って、少しくらい家族の時間作ってよ」
「あのなあ、納品が近いと忙しくなるって結婚するときに言ったろう?分かってくれよ。もう少ししたら時間取れるから」
「分かったわよ」
 ため息混じりにお母さんが言った。
「それで、なんて言って怒らせたんだ?」
「怒らせたなんて人聞きの悪い。私はただ将来結婚する気がないっているから、そんなの寂しいわよって言ったら」
「本人がする気がないって言ってるんだからいいじゃないか」
「でも、将来あの子が子供もいなくて寂しい思いしたら可哀そうでしょう?」
「過保護すぎるのはよくない」
「そうかもしれないけど……」
「まあ、あの子も大人になれば分かってくれるさ」
 私の両親は何一つ分かってくれていない。
 それ以上聞くのが怖くて、すぐに口を濯いでその場を去った。
 自分の部屋に入って扉をそっと閉めた。そしてそのまま扉に寄りかかった。
 ぽつりぽつりと雨の音が外から聞こえてきた。時々何かに当たって甲高い音がする。細く開けた窓の隙間から雨の匂いがした。
 もう日付が変わろうとしている。しかしベッドまで動く気にもなれず、座り込んでさらに背中を扉に預けた。力が抜けていき、このまま扉をすり抜けてしまうかもしれないと思った。
 もし私が男だったら。もし美玖が女の人のことを好きだったら。私がもしも晃先輩になれたら。何度そう願っても神様は叶えてくれなかった。
 最初からこれは報われない恋だったのだ。私はこれからも好きという気持ちも伝えられず、今までと同じように美玖の親友として生きていくしかない。
 これから先、私は誰かを好きになれるだろうか。なったとして、それは男の子か女の子かどっちなんだろう。男の子だったらいいな。そうしたらきっと普通にお出かけを重ねて、普通に告白をして、付き合えても付き合えなくてもいい思い出だったって誰かと笑いあえる気がする。それが運命の人だったら婚約して、お互いの両親に正装で挨拶なんかもして。その姿を見せたらお父さんもお母さんもきっと安心してくれる。
 次に好きになったのがまた女の子だったらどうしよう。また思いを伝えられずに好きな人が恋に落ちていくさまを横で見て歯を食いしばることしかできないのかな。会わせたい人がいると女の人を連れて行ったら両親はどんな顔をするだろうか。
 お父さんもお母さんも私のことちゃんと愛してくれてるのかな。本当に私のことを思ってくれてるのかな。私には、自分たちの娘が結婚しないのがみっともないと思うから結婚させようとしてるようにしか思えなかった。
 胸が締め付けられて、息が苦しい。好きな人に好きと伝えることができないから?好きな相手に振り向いてもらえないから?両親が私の気持ちも考えず自分たちの価値観を押し付けてくるから?多分全部だ。
 そろそろベッドに行けと脳が指令を出すが、体はうまく従わない。腰をつけたまま壁にあるスイッチを手で探して電気を消した。それから私は液体のように床を這ってベッドに移動する。何とかベッドまで移動して横たわり、寝る前にスマホを確認しようと思った。真っ暗な部屋の中で充電器に繋がれたスマホを手探りで探した。四角く固い感触を見つけ、それを手に取って電源を付けた。
 ぱっとスマホが光を放つとそこに、十分前と示された一件の通知が浮かんでいた。
【葵先輩大丈夫ですか?】
 送り主は祐樹くんだった。なんと返すべきか迷った。だけど、寝たふりをして明日変えそうという気は起こらなかった。
【どうしたの急に?笑】
 と返した。
【やっぱり今日元気ないように見えたんで】
 振動と共にすぐに返事が来た。私もすぐに返した。
【気のせいだよ】
【本当ですか?】
【本当だよ笑】
 そう送ったら、少し間があった。しばらくしても返信が来ないから、私はスマホを閉じてひっくり返してベッドに軽く放り投げた。その時、スマホがまた震えた。スマホを拾い上げると、画面にはまた祐樹くんからの通知が浮かんでいた。
【帰りも言いましたけど何かあったら俺、相談乗りますから】
 その言葉が私の胸に深く突き刺さった。胸の中で蠢く感情は常に飛び出る場所を狙っていて、彼らは祐樹くん目を付けた。感情が祐樹くんの言葉が刺した穴から少しずつ漏れ出す。
【電話かけてもいい?】
 衝動的にこの言葉を送った。送ってから鼓動が少し速くなった。今すぐ感情を吐き出さなければ胸が張り裂けてしまう気がした。【はい】と返事が来たころには私は電話をかけていた。祐樹くんはすぐに電話を取った。
「ごめんね急に電話かけて」
『いえ、全然。ビックリはしましたけど嬉しかったです』
 電話で聞く祐樹くんの声はいつもより低く感じて別人に思えた。
『やっぱりなんかあったんですか?』
 落ち着いた祐樹くんの声を聞いて、私はすべてをさらけ出す準備が整った。と、そう思った。はずなのに、喉まで出かかっていた言葉は急に尻込みをした。
「あ、いや祐樹くんこんな夜中に何してるのかなあって」
 暴れていた感情は胸の奥の方へ隠れてしまい、気づけば違う言葉を放っていた。
『寝る準備してました』
「それもそっか」
 祐樹くんの答えに私は何だか気が抜けて笑ってしまった。
『……でも寝れなくなっちゃいました』
 祐樹君が言った。
「どうして?」
 そう聞くと祐樹くんは少しの間黙った。私も何も言わずにいると、彼が沈黙を破った。
『好きな人から電話かかってきたら、眠れなくもなりますよ』
 はっとした。祐樹くんの言葉を聞いて、私が酷なことをしていることに気づいた。
 美玖から優しくされたら私は辛い。手に入らないのに、手の届く場所にある。近くにいるのに、思いは別の人に向かっている。そのもどかしさは私が一番よく知っている。
 私は祐樹くんの優しさに甘えてもどかしい思いをさせてしまっている。それに気づいて申し訳ないと思った。最低だと思った。だがそれに反して私の中にある欲求がふつふつと湧いた。
「祐樹くんさ、まだ私と付き合いたいって思ってくれてる?」
『当たり前ですよ。好きなんですから』
 祐樹くんはすぐに答えた。
 なぜこの人はこんなにも真っ直ぐ想いを伝えられるのか。私は祐樹くんのことが羨ましい。
「ねえ祐樹くん」
『なんですか?』
「私と付き合ってくれないかな?」
 私がそう言うと、電話の向こうでバンっと音が鳴り、祐樹くんは何やら声を上げた。だが、なんと言っているかはよく分からなかった。祐樹くんはスマホを落としたようだった。
「ごめん、何て言った?」
『い、いいんですか?』
 あまり動揺しなさそうな祐樹くんが取り乱しているのが少しおかしかった。
「正直ね、祐樹くんのことまだ好きかは分からないの。だから、その、お試しみたいな感じでもいいなら」
 喋っていながら、自己嫌悪と欲求が激しくぶつかり合った。私は語尾に向かうにつれて歯切れを悪くした。だけど祐樹くんは迷いなく高らかに答えた。
『今はお試しでもいいです。チャンスをくれるなら』
 そして彼は咳払いをした。
『改めてなんですけど。葵先輩、付き合ってください』
 祐樹くんは私と違ってどこまでも真っ直ぐだった。曲がった私とは正反対だ。だけど、私だって同じ人間だ。少しくらい愛を求めてもいいじゃないか。私の心の欠けている部分を誰かに補ってほしかった。
 私が返事をすると、人生で初めての恋人ができた。