「葵先輩好きです!付き合ってください!」
 部活の後輩から告白された。夏の夕陽が照り付ける帰り道の最中だった。
 バレー部の活動後、マネージャー業務を終えて他の部員より遅れて帰ろうとしたところ、待ち構えていた祐樹くんから「駅まで一緒に帰りませんか?」と声をかけられた。彼は自転車通学で、しかも私が乗る駅とは反対方向に帰るはずだから何となくの予感はしていた。自転車を押して駅までの坂を下る彼が、立ち止まり緊張した表情で私を見たときにこれが告白だと確信した。
 祐樹くんは私の目を見て返事を待っている。その横を、体格のいいラグビー部が私たちを横目に見ながら通り抜けていく。この時間帯は部活終わりの生徒が絶え間なく駅にぞろぞろと向かう。例によって今日も人通りは多く、そのほとんどが私たちに好奇的な目を向けている。放課後に夕焼けが燦々と燃える帰り道で男女二人が向き合って立ち止まっている、この状況はどこから見ても告白にしか見えないだろう。
 祐樹くんは変わらず緊張した面持ちで私の次の言葉を待っている。
 中学生のころ同じ学校の男の子から何度か告白されたことがある。その度にこんな私のどこがいいんだろうって不思議に思う。
 私は生徒が途切れるタイミングを待っていつもと同じ言葉を言った。
「ごめんね。祐樹くんとは付き合えない」
 この後男の子はみんなバツが悪そうな顔で謝って去っていった。それから大体学校生活では気まずくなって話すこともなくなってしまう。私は告白をしたことがないから実際のところは分からないけれど、断られるのはきっと傷つくんだろうな、とその度に少し心が重たくなる。だけど祐樹くんの表情を見るとそれほど落ち込んでいないようにも見えた。それどころか彼は私の目を見つめてくる。
「理由、聞いてもいいですか?」
「え、それは……その……」
 今までそんなことを聞かれたことがないから戸惑った。正直に言うことができない理由が私にはあった。
「好きな人がいる、とかですか?」
 神妙な面持ちで祐樹くんが聞くからドキリとした。好きな人、その響きで一人の顔が浮かんでしまった。それを悟られないように私はすぐに首を横に振った。
「ううん。そういうことじゃなくて、まだ私あんまり祐樹くんのこと知らないし……」
 咄嗟にしてはいい言い訳ができたと思う。実際祐樹くんのことを知らないのは本当だった。
 祐樹くんはうつむいている。悪いことを言ったかと様子をうかがっていると、祐樹くんが顔を上げて口を開いた。
「じゃあもっと俺のことを知ってもらえばチャンスがあるってことですよね」
 前言撤回、言い訳は失敗したかもしれない。祐樹くんは目を輝かせている。
「俺、諦めませんから」
 自転車に跨って、駅とは反対方向に坂を駆け上がる祐樹くんの背中は真っ直ぐ夕焼けの中へ消えていった。そんな彼のことを少し羨ましいと思った。

   ○

「マズローは人間の欲求を五つの階層に分け――」
 倫理の授業は相変わらず退屈で私は時々窓の外を見つめる。昔の人の考えを学ぶ意味なんてよく分からない。数学が苦手だったからとりあえず文系を選択したけど好きなわけじゃない。
 グラウンドで男の子たちが体育のサッカーをしている。はしゃぐ声が窓越しに聞こえる。一日の最後の授業だからか、余計に楽しそうに見える。照りつけている太陽の下で彼らはお構いなく走り回っている。私は日焼けが怖くてカーテンを閉めた。
 今年の夏からエアコンがつくようになって良かった。一年生の時は地獄だった。心地の良い温度に眠気を誘われ、私は一つあくびをした。
「安全欲求っていうのは、端的に言うと平和に生きたいってことだな。その次が所属と愛の欲求。これは集団に所属したり、愛し愛されたいってことだな。それから――」
 だな、が口癖の加藤先生は五つに分けられた三角形を一つずつ指してテンポよく順に上っていく。
 加藤先生の授業は端的過ぎて、聞いているだけでは覚えられない。どうせテストが近くなったら教科書を勉強しなおすのだからと、私は授業も聞かずに一番後ろから教室を見渡した。
 隣のハンドボール部の男の子はいつものように部活で疲れて寝ている。前の席の男の子は教科書の端に落書きをしている。加藤先生はそれに気づいているのか気づいていないのか、構わず授業を続けている。よくある光景でそれを眺めるのも飽きてきた。教科書を適当にパラパラとめくって、面白い言葉を探してみるけれど、やっぱり昔の人のいうことはよく分からない。
 チャイムが鳴り、今日最後の授業が終わった。加藤先生は挨拶が済むと足早に去っていく。一日の授業が終わり、生徒たちの喜ぶ声や椅子を引く音で教室は一気に騒がしくなった。
 騒音の中、私が倫理の教科書を鞄の中にしまっていると一人の足音が近づいてくる。
「葵~今日も疲れた~」
「そうだね」
 顔を上げると美玖はいつものように満面の笑みを咲かせて立っている。
「葵、今日部活ないんだよね?帰りどっか寄ろうよ」
「もちろん。どこ行こうか」
「うーん、あとで決めよ」
「うん、分かった」
「それより葵~?」
 美玖は鼻歌を歌いながらにやにやし始めた。そのまま私の顔を見るから、私も少しにやりしてしまう。
「何、美玖?」
 そう聞いても美玖は変わらない表情で鼻歌を歌い続ける。そのまま顔が横に揺れだしたのがおかしくて吹き出してしまった。
「ねえ、何?」
 笑いながらそう聞くと美玖は「私に何か言うことあるでしょ?」と言った。そう言われて一つだけ心当たりがあった。だけど私は「何もないよ」ととぼけて見せる。
「本当に?」
「本当に」
 ふーん、と美玖は私の机に両手をついた。そのままあまりに顔を近づけてくるから、思わず目を逸らしてしまった。
「ほら、心当たりあるでしょ」
「ないってば~」
 すると美玖は声を出さずに口を動かし始めた。何やら口パクをしているようだった。四文字の言葉を頻りに繰り返している。私が理解できずにいると、美玖の口の形に徐々に声が乗り始めた。その声に耳を澄ませても聞こえずにいると、美玖はようやくはっきりとその言葉を口にした。
「こ・く・は・く、昨日バレー部の後輩くんにされたんだって?」
 心当たりが的中した。
「ちょっと美玖、何で知ってるの?」
「テレパシーってやつ?」
「もう嘘はやめて」
「てへ」
 美玖はわざとらしく片目を瞑った。
「どこで聞いたの?」
「さっきの休み時間廊下でラグビー部が話してた」
 あの時の人たちか。私たちの倍くらいありそうな屈強な肉体の集団の姿を目に浮かべた。
 まあ、あれだけの部活終わりの人が通ればいつかは広まってしまうとは思っていたけれど。
「昨日の今日で情報が早すぎるよ」
「大丈夫。あいつらに他には言わないように釘刺しといたから」
「ありがとう」
 私は美玖のそういうところが好きだ。だけどもう色んな人に知られてしまっているかもしれない。教室のクラスメイトの数人が私の方を見てこそこそ話しているのが視界の端に見えた。
「それで?」
 美玖はその場にしゃがみ込み、私の机に置いた手の上に顎を置いてそのまま上目遣いで覗き込んできた。
 それでって何がだろう?私は思ったままを口にした。
「付き合ったの?付き合ってないの?」
 美玖はワクワクした瞳で私の方を見てくる。
「……付き合ってない」
「ええ!?なんで?」
「なんでってそれは……」
 正直に言えない私は美玖の目を見られなかった。
「それはその後輩のことあまり知らないし」
「そんなの気にしなくていいじゃん」
「でもその子まだ一年生だよ?もう七月の頭だけど、正式入部も遅かったし期末試験で部活がなかった期間もあったから実際のところ一か月と少ししか彼と関わっていないもん」
「付き合ってから知っていけばいいじゃない。もしかしたら彼が運命の人かもしれないじゃん」
「いやあ、それはないかな」
 美玖は運命の人と言いながら、真剣な表情を崩さない。それが時間がたって少しおかしかった。
「美玖って意外とロマンチストだよね」
「意外とってなによお。女の子はみんなロマンチストなの」
 美玖は前後に揺れながら言った。子供が駄々をこねているみたいでかわいい。
「葵は彼氏作る気ないの?」 
「彼氏は、ちょっといいかな」
「そっかあ」
「……美玖は彼氏ほしいの?」
「そりゃあほしいよ。高校生活で一人くらい」
 美玖は少しいじけるように言った。そのあと何かに気づいた様子で目を見開いた。
「あ、ねえそうだ!バレー部の晃先輩のこと紹介してよ」
「えっ?」
 私が何も答えられないでいると美玖は顔を近づけて「ダメ?」と犬がエサを待つみたいに私を見つめる。
「ダメじゃないけど……」
 できることなら紹介したくない。
「最近彼女と別れたらしいじゃん。あのバレー部のマネージャーの綺麗な人」
「そうだね、七海先輩と」
「そうそう七海先輩。私たちが入学したころからずっとあの人と付き合ってて美男美女カップルだって騒がれてたから、あんまり話しかけに行くのも悪いかなって思ってたけど、別れた今一回くらい話してみたいなあ。ずっと憧れてたんだ。晃先輩、背が高くて格好いいし、性格も抜群に優しくてバレーもうまいらしいし」
 晃先輩は普通の女の子なら誰だって一度は憧れる理想の先輩。一か月くらい前、引退してしまったけれど本当に尊敬できる人だった。だから紹介したくない。
「でも晃先輩今年受験で忙しいかも」
「お願い!ご飯行きたいって伝えてくれるだけでも!」
 教室に担任の先生が戻ってきた。先生は教卓の前に立つと動かない生徒たちに対して「はい、席について」と柔らかい物腰で言った。美玖はそれに気づくと立ち上がって顔の前で手を合わせた。
「じゃあ、考えておいて」
 自分の席に戻っていく美玖の背中を見送りながら、どうしようかと考えた。

   ○

「はあ、やばい」
「そんな緊張しなくても大丈夫だよ」
 待ち合わせの金時計の下で美玖は頻りに腕を擦ったり、胸に手を当てて鼓動を確かめたりしている。たまに、「おかしなところないよね」とスマホの内カメラを起動し髪を整えては服に汚れがないか入念に確かめ、一通り確認したあとまたカメラを起動して髪を整えている。普段、休日一緒に出かけるときは動きやすい楽な恰好なことが多いから、今日の美玖の服装は新鮮だった。肩を出した薄手の白いワンピースを着て、ミディアムボブの毛先が軽く巻いてある。明るいローズピンクの口元が一層可愛らしさを演出している。
 休日の駅構内は人でごった返している。私たちと同じように人を待つ学生や大人っぽい人たちが金時計の周りだけでなく、それを囲むデパートの壁際にも隙間なく並んでいる。デパートの角の辺りに金髪の女性がいたが、目を逸らした一瞬のうちに消えていて、気付けば違う人が立っていた。久しぶりの再会なのか会うなり抱き合う男女もいた。その中で私たちも人を待っていた。
「はい、美玖さん落ち着いてくださーい。大きく息を吸って、吐いて~。吸って、吐いて~」
 私の声に合わせて美玖が深く呼吸をする。
「ありがとう」
「ちょっとは落ち着いた?」
「うん、大分」とか言いながら美玖はまた胸に手を当てた。
 待ち合わせの時間になる少し前、彼は遠くからやってきた。背が高くて一目で分かった。黒地のTシャツにジーンズを履いたシンプルなファッションでも、彼が着るだけで華があるように見える。すれ違う周りの女の子たちが皆、彼の方へ振り返る。彼女たちの小さな黄色い声が徐々に近づいてくた。
「ごめん、待たせちゃったかな」
 晃先輩は相変わらず爽やかで格好いい。微笑する口元で白い歯が光っている。はっきりとした二重の大きな瞳で私たちの方を見る。その姿を見て美玖は背筋を伸ばした。
「いえいえ、とんでもないです」
「晃先輩、こちらが前に言っていた美玖です」
「み、美玖です。よ、よろしくお願いいたします」
 美玖の頼みを断り切れず結局晃先輩を紹介してしまった。晃先輩とご飯に行きたい子がいると伝えると、彼は快く承諾した。
「そんなに畏まらないでよ。晃です。よろしく」
「はい」
「じゃあ行こうか」
 晃先輩に連れられて駅を出ると、立ち並ぶビルの上から眩しい夏の日差しに照らされた。肌に熱を感じる。顔の輪郭を辿った汗がメイクを落としてしまわないか心配になる。
 駅を出てすぐにあるスクランブル交差点の信号が変わるのを待っていると、私たちの後ろに人が並んでいった。
「晃先輩受験とかで忙しくないですか?誘って迷惑になってないですか?」
「全然迷惑じゃないよ。ちょうど息抜きしたいなって思ってたところだし、行きたいお店もあったしね」
 歩行者信号が青に変わり、スクランブル交差点はたくさんの人が行き交う。そのほとんどが私たちと同じように休暇を楽しんでいるようだが、時々スーツを着て足早に胸を張って歩く大人も紛れている。私たちはその人の波をかき分けて進んだ。
「ええ、あそこ目指してるってことは晃先輩って頭もいいんですか?」
「いや、そんなことないよ。だから今必死に勉強してるよ」
 今日初めてあった二人は志望大学の話なんかをして盛り上がっている。私はその後ろを少し遅れて進む。「二人だと緊張するから付いてきて」と美玖は言ったが、私は必要ないんじゃないかと二人の背中を見て思った。そんな私に気づいてか、美玖は私の方を振り返った。
「葵知ってた?」
「うん。すごいよね」
「スポーツもできて勉強もできて、あと何ができないんですか?」
「買いかぶりすぎだよ」
 高層ビルの隙間を抜けて細い路地に入ると、人通りは途端に少なくなった。ファションブランドのスタイルのいいマネキンがショーケースの中から私たちを見下ろしていた。一方通行の青い標識が指す方向に進むと、タクシーが私たちを追い越した。晃先輩はさりげなく隣の美玖を歩道側に寄せ車道側を歩いている。そういう気づかいができる人だった。
「あ、ここかな」
 地下に向かう階段を下りる晃先輩の背中を私たちも追った。徐々に暗くなり太陽の光が届かなくなる。
 気になっていたカフェがあったが男だけだと入りづらいからそこに一緒に行ってくれないか、というのが晃先輩の提案だった。美玖にそう話すと、スマートでカッコいいと笑った。
 階段を下りた先のスペースにはいくつかの店が並んでいて、晃先輩の気になっていたカフェはその一つだった。ガラス張りのドアから中を覗くと、そこから見える客は女の子ばかりだった。
 晃先輩がドアを開けるとからんころんとベルが鳴り、「いらっしゃいませ。少々お待ちください」と声が聞こえた。白い制服を着た店員が忙しく歩き回っている。店内はモノクロ調の落ち着いた空間が広がる。窓がないため人工的な照明に照らされているが、それが日常から切り取られた非日常的な雰囲気として人気らしい。
 少し待ったあと、はきはきと喋る店員が私たちの方にやってきた。
「予約していた星野です」
 店員に先導され奥の方の席へ案内される。その道中、美玖が私の耳元に寄って囁いた。
「晃先輩の苗字って星野っていうの?めちゃくちゃピッタリな名前じゃん」
「本当そうだね」
 私はそれに静かに同意した。
 席に着き店内を見まわしていると、店員が「本日のおすすめです」と小さな黒板を持ってきた。ビーフシチューやグラタン、夏野菜を使ったカレーなどの名前が並んでいる。店員さんにおすすめを聞いてそれぞれ別のものを頼んだ。
「お待たせしました」
 しばらくして店員が注文した品を持ってきて私たちの前に並べた。私が頼んだビーフシチューは木の長方形のプレートにキッシュやサラダにスープ、食パンと熱された鍋に入ったビーフシチューが均等に配置されていた。
「おしゃれ~」
 美玖は目を輝かせている。それを見て晃先輩が笑った。皆で手を合わせてそれぞれ手を付けた。
 サラダは色とりどりでシーザードレッシングの酸味が野菜の味を引き立てる。キッシュにフォークを縦に入れるとサクッとした感触のあと、柔らかい生地にすっと通った。
「一度この店来てみたかったんだ。だけどおしゃれ過ぎてハードル高くてだから葵ちゃんたちが来てくれて助かった」
「いや、でも晃先輩がここに一人でいても全然違和感ないですよ」
「そうですよ。謙遜しすぎです」
 ビーフシチューは肉の甘味が溶け出し、その中でしっかりと煮込まれたスペアリブと玉ねぎが口の中でとろけた。美玖はグラタンをスプーンですくって口元に運んだ。頬張ると伸びたチーズがその唇から少し垂れた。
 それぞれ頼んだものを分け合って食べた。晃先輩の頼んだカルボナーラはクリーミーで、時々黒コショウのスパイスが効いておいしかった。
 食べ終わった頃合いになって店員に声をかけると食後の飲み物を運んできてくれた。晃先輩と私がアイスコーヒーで、美玖がオレンジジュース。私はミルクと砂糖をカップの中に入れた。かき混ぜてストローで少しずつ飲む。コーヒーの香りが鼻に抜けた。
「晃先輩はどうしてバレーボール始めたんですか?」
「当時から俺背が高くて先輩から強めに誘われてたのと、あとは漫画が流行っててさ」
「え、もしかしてそれってあれですか?主人公がめちゃくちゃ速い速攻?するやつ」
「そうそう!美玖ちゃんよく知ってるね」
「私も読んでたんで。そういうスポーツ系の漫画好きなんですか?」
「すごく好き」
「えー、私もです」
 二人は漫画について熱く語り合う。私は漫画をあまり読まないからあまりよく分からなかった。コーヒーの最後の一口を飲み終えたとき、まだ二人のグラスには半分くらい残っていた。私のグラスの外についた水滴がなんだか虚しかった。空になったグラスを机に置くと美玖が私の方を見た。
「そういえば葵はなんでバレー部のマネージャーしてるの?」
「中学のころは女子バレー部でバレーやってて、プレーするのはもういいかなと思ったけど、やっぱりバレーは好きで」
「ええ、知らなかった」
「葵ちゃんすごくうまいんだよ」
「葵がやってるの見てみたい」
 学校生活や去年の文化祭の話で盛り上がり、気づけば時間はあっという間に過ぎていた。
「そろそろ行こうか」
 晃先輩は伝票を持って立ち上がりレジの方へ歩いていく。私たちはその後ろをついていく。
 店員がレジを伝票を受け取り、操作している間に鞄の中から財布を探していると、「ありがとうございました」と言った店員の声が聞こえた。顔を上げるとすでに晃先輩が支払いを終えていた。
「いくらでしたか?」
 店を出て美玖が聞いた。私と美玖が晃先輩に代金を支払おうとするが、晃先輩はそれを拒否した。
「そんなの悪いですよ」
「そうですよ」
「実家の手伝いでお小遣いももらってるし、それに何と言っても先輩だからね」
「え?晃先輩の実家って……」
 美玖が聞いた。
「お好み焼き屋なんだ。小さな店だけどね。二人とも今度うちに食べに来てよ。それで今日の分はチャラってことで」
 晃先輩は爽やかに笑った。美玖はその姿をじっと見つめていた。
 同じ道を通り、また駅へと戻る。行き交う人々は昼よりも少なかった。駅へ向かう最後のスクランブル交差点の歩行者信号が青に変わった。私たちは横断歩道を渡りながら、今日の感想を語り合う。
「何が一番おいしかった?」
「そうですね……。私はビーフシチューですかね」
「分かる。俺もそれが一番おいしかった」
「葵は?」
「私はカルボナーラかな」
「たしかに!それも捨てがたい」
 私だけ一番が違って、仲間外れになった気分だった。
 少しだけ居心地が悪かった。でもそれが今日の私の役割。二人の背中を見てそう思った。
「どうしたの?美玖ちゃん」
 晃先輩が言った。
 横断歩道の半分ほどで美玖が何かに気づいたようだった。そして美玖はそのまま駆け出した。美玖の向かう先には慌てて空を舞うチラシを追いかける派手な法被を着た青年がいて、彼がチラシを落としたのだと察した。いつの間にか晃先輩も美玖のそばにいて、私は少し遅れて二人の元へ向かった。
 美玖は腰を落として一枚一枚チラシを拾い上げる。美玖のワンピースの先がコンクリートの地面に着いていた。晃先輩もそれに倣った。私もそれに倣おうとしたが、私が着いたころには晃先輩が最後の一つを拾い上げていた。
 青年は晃先輩と美玖に丁寧に礼を言い、またチラシを配りだした。声を張り上げてチラシを配る青年の姿に、二人は安堵して笑っていた。

「晃先輩今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう、美玖ちゃん」
「じゃあね、葵」
「うん、じゃあね美玖」
 駅に着くと、地下鉄で帰る美玖と鉄道で帰る晃先輩と私で二手に分かれた。改札を抜けて階段を上がった先のホームは人がまばらで、電車の中もそれは変わらなかった。晃先輩が「座りなよ」と端の席を指した。私がそこに座ると先輩は吊革につかまってその前に立った。
「美玖と話してどうでした?」
「いい子だよね。面白い子し」
「本当いい子で面白い子ですよ」
 満更でもない言葉を聞いて胸が痛んだ。二人が付き合う姿を想像したら、もっと苦しくなった。
「最近部活は順調?」
「はい。みんな頑張ってますよ。次こそは絶対県大会行くって張り切ってます」
「その言葉聞いて安心したよ」
「たまに練習見に来てくださいね」
「俺なんかが行って迷惑じゃないかな?」
「みんな喜んでくれると思いますよ」
「本当?じゃあたまに行こうかな」
 次の駅に着くと、晃先輩は辺りを見回す。人が通るたびに彼は体を寄せて避けた。数人が乗り込むと電車はまた走り出した。少しの沈黙の後、晃先輩が口を開いた。
「そういえば、祐樹くんから告白されたんだって?」
「え、なんで知ってるんですか?」
「まあ、風の噂でね。それに祐樹、葵ちゃんのことが好きってのバレー部の中じゃ有名だったし」
「そうなんですか?」
「うん。知らなかったの多分葵ちゃんくらいだよ」
「全然知りませんでした」
 そんな素振り私には全然見せなかった。思い返してみても、祐樹くんが私のことを好いている様子は思い浮かばないし、私のことを好きな理由も見つからなかった。
「でも、振ったんだって?」
「はい」
「そっか。でもきっと簡単には諦めてくれないかもね」
「そうかもしれません」
 しばらく、窓に流れる景色を眺めた。低くなった日差しが時々ビルに隠れて車内が明滅する。電車はそのまましばらく私たちを運んだ。
「じゃあ、私ここなので」
「うん、またね」
 最寄り駅に着いて私は電車を降りた。駅のホームに立ち、振り返る。
「今日はごちそうさまでした。あと、もし美玖と付き合うことになったら、絶対幸せにしてあげてくださいね」
「そんな風に思われてないよ」
 そう思ってるのはあなただけですよ。そう言おうとしたとき、音を立てて扉が閉じた。
 私は会釈をして、窓から見える晃先輩のことを立ち止まって見送った。
 きっと二人は結ばれてしまう。そんな予感がした。

   ○

「再来週、晃先輩と今度は二人で出かけることになった」
 朝の教室、肩を掴まれて美玖だと分かった。教室に着くのはいつも私が先、美玖は私より少し遅れてやってくる。自分の席に座る私の耳元で、彼女は囁いた。友達なら喜ぶべきその言葉に私は心を重くした。
「よかったじゃん。どこ行くの?」
 私はできるだけ平静を装う。
「水族館!どこかお出かけしませんかっていったら水族館どうって聞いてきてくれてさあ」
 美玖は声を弾ませた。対照的に私の心はどろっとした粘液にまとわりつかれたようだった。
「晃先輩、もしかしたら美玖のこと気になってるんじゃない?」
「そう思う?」
「だって普通何とも思ってない子を水族館に誘ったりしないと思うよ?」
 私は普通を知らないけれど。
「そうかなあ」
「それに晃先輩、美玖のこと面白くていい子だ、って言ってたよ」
「本当!?」
「うん、本当」
「ええ、どうしよう。めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
 美玖は声を高らかにして、頬を赤く染めた。
「美玖を魅力的に思わない男の人なんかいないよ」
「葵に言われるとなんか自身湧いてきた」
 そう言って美玖は私を抱きしめて、「ありがとう」とその力をさらに強めた。
「私ね、晃先輩に告白しようと思っているんだ」
 耳元で確かにそう聞こえた。美玖の胸の高鳴りが私にも伝わってくるようだった。
「美玖なら絶対にうまくいくよ」
「心の友よ~」
 私は美玖の頭を少し撫でて、彼女の体を遠ざけた。
「うまくいったら教えてね」
 嘘だ。嘘ばっかりつく自分が嫌いだ。うまくいっても教えてほしくなんかない。
 それどころか、うまくいかなければいいなんて思ってる。
 最低だ、私。

 ――ブー、ブー、ブー。
 美玖が告白をすると言っていた日の夜、マナーモードにしていたスマホが繰り返し震えた。画面は予想通り美玖の名前を映し出している。私はその着信を取らずに洗面台で髪を乾かし続けた。濡れた髪を揺らし、隙間にドライヤーで風を当てた。しばらくしてスマホの震えが止まった。私はスマホを裏返してそっと置いた。ため息をつく私が鏡の中にいた。
 スマホを持って自分の部屋に戻った。スマホの画面は見なかった。部屋のドアを開けてすぐ、ベッドに飛び込んだ。寝転がったまま勉強机の上の本棚を左から順に眺めた。何度も何度も。そうして時間が経つのを待った。時間が経ったところで、何かが変わるわけでもないけれど。
 私は起き上がり、スマホの電源を付ける。画面には美玖の着信通知が浮かんでいた。私はその通知に指をつけたまま深く呼吸をした。そして一度指を離し、もう一度通知を押しスマホを耳に当てた。数秒ごとに軽快な音楽が流れる。数度繰り返したあと、それが途中で止まった。
『もしもし!』
 電話が繋がりすぐに聞こえたその一言で美玖がいつもより興奮しているのが分かった。
「もしもし。さっきはごめんね。お風呂入ってた」
 私はできるだけ普段通りを装って答えた。
「全然大丈夫!」
「それでどうしたの?」
 どんな言葉が返ってくるか、分かっている癖に聞いた。できるなら聞きたくなかった。でも私は普段通りに接するしかなかった。この気持ちはばれてはいけない。
『驚かないで聞いてね』
 驚くことにしようと思った。
『実は私、晃先輩と付き合うことになりました』
「ええ!よかったじゃん」
 ちゃんと言葉として聞いて目頭が熱くなった。
『葵には一番に伝えたくてさ』
 その言葉に喜んでいいのか分からなかった。
『本当葵のおかげ』
「そんなことないよ。美玖が魅力的だからだよ」
『いやいや葵が背中押してくれたおかげだって』
「そうかな?」
『そうだよ』
 本当にそんなことはないと思ったが、ありがとうって言っておくね、と冗談めかして言った。美玖はなにそれ、と笑った。
 少しだけ沈黙が過ぎたあと、私は彼女の名前を呼んだ。
「美玖」
『なに?』
 きっと言わなければいけないんだろうなと思って、私は精一杯声を絞り出した。
「おめでとう」
『ありがとう!』
「じゃあまた明日学校で」
『うん!また明日!葵が親友でいてくれて本当によかった!』
 親友か。電話が切れたあと、一人で呟いた。
 私の声、震えてなかったかな。
 ああ、ってかなんで協力しちゃったんだろう。辛くなることなんて分かり切っていたはずなのに。正直にこの気持ちを伝えてしまいたい。でもこれを言ったら美玖はきっと離れて行ってしまう。だからこの気持ちは私の中で一生閉じ込めるつもりでいる。
 私は美玖のことが好き。親友で私の好きな人。
 私は今まで人を好きになったことがなかった。
 中学校の修学旅行で旅館に泊まった夜、みんなが目を輝かせて好きな男の子の話をしているのを横目に見ていた。好きな人がいるか、とあかりちゃんに聞かれたとき私は答えることができなかった。問い詰められても、いないのだからいないと答えるしかなかった。するとあかりちゃんやその周りの女の子は少し嫌な顔をした。でも仕方がなかった。男の子を見ても何とも思わない。告白されても何も感じない。だからなぜあれほど楽しそうに恋の話を語れるのか分からなかったし、それでいいと思った。
 好きな男の子が被っていると知っていながら黙って付き合うことは重罪らしい。それによって崩れた人間関係を私はいくつか知っている。毎日一緒に過ごしていた二人がある日を境に一切関わり合わなくなったりする。お互いの知らないところで悪口を言い合っているのを見る日もあった。
 だから私にとって恋は悪いこととしか思えなくて、生涯誰かを好きになることはないだろうなと思った。
 世界が変わったのは高校一年生のときだった。
 私は電車で一時間かかる地元から少し離れた高校に通いだした。ただ単に学力がちょうどよかった。それと、すでに崩壊して複雑に入り混じった人間関係から解放されて、新たな環境に身を投じたいという思いもあった。その思惑通り、同じ中学から進学したのは、顔と名前しか知らない一度も喋ったことがないようなもう一人だけだった。
 新しい人間関係を築くのは思いのほか難しかった。小学生のころは難しいことは何も考えずに人に話しかけることができていたし、中学生のころは小学校から一緒に上がった同級生ばかりだったからそれほど困ることもなかった。そのため久しく新しい友人を作っていなかった私は、高校生になって隣の席の子にすらどう話しかければいいのか分からなかった。
 私はクラスに馴染めずにいた。入学式が終わったあと、仲睦まじく談笑する生徒たちの輪がいくつも出来上がっていた。私はその外にいた。楽しそうな会話を遮ってまで輪に入り込む勇気が私にはなかった。狭い教室がだだっ広いまっさらな平原に思えて、その中で一人だけ取り残された気がした。そんな私を変えたのは「一緒に話そうよ」その一言だった。
 声をかけてくれたのは美玖だった。美玖は私の手を取って輪の中に招き入れてくれた。
 美玖のおかげで友達ができた。入学式のあと美玖を含めたみんなと途中まで一緒に帰った。菜緒に陽菜、それに美玖。互いに下の名前で呼び合うようになって、美味しそうなタピオカ屋さんに行く約束もした。
 気づけば四人でずっとそばにいるようになって、移動教室は一緒に行くし、お昼ご飯も隣で食べた。たくさん遊びにも行った。放課後カフェに行ったり、休みの日には遊園地で遊んだりもした。一年生のころ私の学校生活にはいつも四人がいた。
 四人でいるのはもちろん楽しかった。でも、美玖がいないと少し違った。菜緒といるのも陽菜といるのも楽しいけど、美玖がいないと何かが欠けてる気がした。
 美玖は私が悩んでいると、いつも気づいて声をかけてくれる。困っている人を見かけたら必ず助けに行く。常に笑顔で眩しくてきらきらしてて誰にでも優しくて、私はずっとその姿を隣で見ていた。四人でいても、なぜか自然と美玖の方を向いてしまう。
 そのうち、美玖のたった一言に喜んで、何気ない仕草に揺らめいてしまうようになった。学年が上がり菜緒と陽菜とクラスが離れて、美玖と二人でいることが多くなると、より一層美玖のことを意識するようになった。それまで誰のことを好きになったこともなかったけど、これが好きという気持ちなんだとすぐに分かった。
 中学生のころ保険の授業で恋愛には色んな形があるのだと知った。だいたい十人に一人がセクシャルマイノリティなんですよって先生に言われて、へえそうなんだ、クラスに三人くらいはいるのかなってあの時は適当に聞いていた。その一人が私だった。残りの二人に美玖はいなかったみたいだ。
 電話をしたときの美玖の声は、聞いたことないくらい嬉しそうだった。
 私は初めて、失恋の苦さを知った。

   ○

「先輩何かあったんですか?」
「え、何が?」
「いや、今日の葵先輩元気がないように見えたんで」
「そんなことないよ」
 なぜ私は告白された日と同じように祐樹くんと地下鉄の駅まで一緒に帰ることになっているのだろう。ぼうっとして適当に生返事をしていたらいつの間にかこうなっていた。
 部活終わりの夕焼けに照らされて祐樹くんは隣で自転車を押している。あの日と同じように。振られた相手と顔合わせるのが辛くないのかな。私は辛かった。朝、私がいつもより少し遅くに教室に入るなり、美玖は私に駆け寄り抱きしめて本当に嬉しいと何度も繰り返していた。私はその度によかったねと返した。だけどいつものように美玖を抱きしめ返すこともできず、手のやり場に困った。
「でも葵先輩、今日はらしくないミスしてましたし」
 今日の練習は散々なミスをした。スポーツドリンクの粉を入れすぎて部員から酷評をもらった。選手が練習している間にスクイズボトル水を汲んでおく仕事を忘れることもあった。最後にはぼうっとしてスパイクで跳ねたボールが私の顔に当たってしまった。必死に謝らせてしまったのが申し訳なかった。こっそりと同期のキャプテンに呼ばれて「体調悪いならもう帰る?」と言わせてしまった。
 晃先輩たちが引退してから、みんな次の大会に向けて気合を入れて練習している。祐樹くんもリベロとして期待されて一年生ながら次の大会のレギュラーに選ばれようとチームを活気づけてる。そんな中で私だけが異物だった。
「ちょっと体調悪くてさ」
 最近ずっと嘘ばかりついている気がする。
「大丈夫ですか?俺、薬とか買って来ますよ」
「いいのいいの大丈夫!そんなに酷くないから」
 祐樹くんが焦って自転車に跨るから、嘘をついた罪悪感が深くなった。祐樹くんが「よかった」と安堵して自転車を降りるから、余計苦しかった。
「何かあったら教えてください。全力で助けますから」
「ありがとう。でも本当に大丈夫だから」
 改札の前で手を振る祐樹くんに手を振り返して私は地下へ降りる。長い階段の半分を抜けた先、強い向かい風が私の髪をなびかせた。私が階段を降り切った時、目の前のホームに電車が着いて扉が開いたが、乗る気になれなくて一本遅らせた。次の電車に乗り込み、途中で鉄道に乗り換えて家へ帰った。
 家の前の門扉は建付けが悪く重たい。
 玄関を抜けてリビングにいるお母さんに一言「ただいま」とだけ言うと、私はすぐにシャワーを浴びた。
 ここならすぐに涙を洗い流せると思った。抑えていた感情が次第に緩み、呼吸が荒くなった。浴室の外に声が漏れだしてしまわないようにシャワーを強くする。勢いよく水が床に跳ねる音で私の声をかき消す。
 私は泣いた。朝からずっと耐えていた。好きな人に恋人ができた。それがこんなに苦しいだなんて思わなかった。
 いつもと変わらず美玖がそばにいたから辛かった。彼の話をするたびに美玖が顔を赤らめるから痛かった。美玖の告白が失敗してしまえばいいと願った自分が許せなかった。私情を部活に持ち込んで失態を犯すのも悔しかった。一日中、いろんな感情が心の中でぶつかりあっていた。その感情たちは外に出る時をずっと探していて、ようやく今、涙と嗚咽に乗って表に現れた。
 ずっと美玖のことが好きだった。いつかはこうなるかもしれないって分かっていた。美玖だって人間なんだから誰かを愛して愛されたいって思うのは当然で、そばにいるだけで気持ちを伝えるのを怖がっていた私が報われないのはごく普通の結果だ。そんなの分かってる。
 でも苦しい辛い痛い悔しい。他にも言葉では表せないネガティブな感情がいくつも頭の中に並んだ。呼吸が乱れてうまく息を吸えなくて頭がぼうっとする。鏡には醜く嗚咽する私が映っていた。
 これ以上泣いてしまわないように、これでこの恋を終わらせてしまうために、ここで涙を枯らしてしまおうと思った。だけど一向に涙が枯れる気配はなかった。深呼吸して心を落ち着かせようとする。それでも無理で、楽しいことを思い浮かべようともした。だけど、その思い出の中には必ず美玖がいた。
 なにが大丈夫だ。こんなにも辛い。

 しばらく泣き続けて、落ち着いてから浴室を出た。一生分の涙さえ出た気もしたが、気が緩めばまた溢れてきそうだった。着替えて髪を乾かしてからリビングに入ると、無邪気に笑う子供がテレビに映っていた。
「ほら見て葵、かわいい」
 ソファにだらしなく横たわるお母さんがテレビを指さして言った。
 テレビで子供は、走り回るうちに小さく転んで頭をぶつけて泣いた。それを見ているお笑い芸人がテレビの端の枠で笑っていた。私は「そうだね」と返した。
「子供はいいわよお。本当かわいい」
 お母さんは一度起き上がりソファの前の机の缶ビールに口をつけ、また横たわった。
「葵も昔は本当かわいかったんだから。あ、ねえそうだ昔のビデオ見る?」
「いい」
 と言った私の言葉を無視してお母さんはソファから起き上がり、テレビの横の引き出しを漁り始めた。コードとビデオカメラを取り出し、テレビのそばにおいた。
「いいって言ってるじゃん」
「いいからいいから。ほら、ごはんキッチンにあるから持っておいで」
 キッチンに行くと、洗い場の横に小さな皿が三つ並べられていた。私はその三つを両手に分けて一回で運んだ。
 キッチンから戻るとお母さんはしゃがんだり背伸びをしたりして、まだ引き出しの開け閉めを繰り返している。私が料理を机に置くころに「あったあった」と一枚のメモリカードをビデオカメラに差し替えた。
 そんなお母さんを横目に私は椅子に座り、箸を取って主菜から食べ始めた。
 お母さんはビデオカメラを操作して「これこれ」と笑った。そのままお母さんはテレビにビデオカメラを繋いで画面を切り替えた。
 コテージのベッドの上で飛び跳ねたり踊ったりする子供の姿がテレビに映った。現代の映像と比べて画質が荒く時々黒い線が入る。
 子供は楽しそうに動き回っている。それを見てお父さんとお母さんの笑う声がテレビから聞こえる。
 こんな時期が私にもあったのか。
 映像の中の私はカメラに気づくと、恥ずかしそうに身をよじらせて顔を隠した。そしてベッドから飛び降り、カメラを撮るお父さんに近づき画面から見切れた。画面はもう一度私の顔を大きく映し出すと大きく揺れながら床の映像に切り替わった。「お母さん、これ」というお父さん声でまた映像は揺れ、それが止まるとお父さんに抱きかかえられた私が幼く笑っていた。そこで映像は途切れた。
「ほらねえ。かわいいわよねえ。葵もこうやって甘えてた時期があったのよ」
 お母さんはテレビの前に座り込み、繋がれたビデオカメラを操作し同じ映像をもう一度見た。それから違う映像を探して「これも可愛い。ほら見て」とテレビの画面を何度も指さした。
 ビデオカメラのメモリカードには、無邪気にはしゃぎ回りお父さんやお母さんに甘える私が何人もいた。こうして見ると昔の私と今の私は別の人みたいに思える。この頃はきっとお母さんのこともお父さんのことも大好きで、一緒に過ごす時間が嬉しかったんだろうな。
「これを見ると子供ほしいと思わない?」
 ビデオカメラを無造作に操作するお母さんの問いに、醤油で和えてある大根を頬張りながら「うん、そうだね」と答えた。すると、お母さんがビデオカメラを置いて私の方を見た。
「葵は今彼氏いないの?」
 お母さんは思いついたように聞いた。一瞬、胸の中のどす黒い感情が渦巻いて涙がこぼれそうになった。さっき少しでも涙を枯らしておいてよかった。私は感情を殺して答えた。
「今はそういうのいいかな」
「そうなの?まあ今はいいかもしれないけどねえ。でも若いからって油断したら駄目よ。周りがどんどん結婚していく中お母さんだけ取り残されてたんだから。なんとか友達の紹介でお父さんと結婚できたけど」
 聞いてもいないのに、お母さんはキッチンに移動しながら流暢に喋った。テレビ画面には誕生日にケーキを食べる私の姿が映し出されている。不器用に口元にクリームを付け、若き日のお母さんがそれを笑いながらそれを拭いている。
「別に将来結婚できなくてもいいし」
 吐き捨てるように私は言った。キッチンからは水の流れる音と食器のぶつかる音が聞こえる。洗い物をしているからか、お母さんは少し声を張った。
「でもほら、向かいのおばあさんそろそろ七十歳超えるみたいなんだけど、ずっと独身でよく一人で寂しそうに庭の手入れしてるでしょう?ああなったらきっと辛いわよ」
「それが楽しいのかもしれないじゃん」
 私は張り合うように、箸を止め語気を強める。
「でも看取ってくれる子供もいなくて、死んでから誰にも気づかれないのはねえ」
 私の苛立ちを気にもしないお母さんの態度に怒りが沸き上がってくる。私はさらに語気を強めた。
「死んだら何も感じないじゃん」
 お母さんは私は言葉を飲み込むように少し黙った。だが帰ってくる言葉の先頭は同じだった。「でも、」そうお母さんが言った瞬間私の中で何かがあふれた。
「でもばっかり!」
 私はお母さんの言葉を遮るようにいつもより大きな声を出した。食器のぶつかる音が止んだ。そして私は言った。
「お母さんちょっとうざいよ」
 鼓動が早まる。胸が仕切りに動くのを感じる。呼吸がしづらい。
「うざいってどうしたの葵?お母さん、葵のために言ってるのよ?」
 お母さんはキッチンから私の方にゆっくり顔を向けた。その表情を横目でみた。お母さんは驚きと戸惑いが混ざったような顔をしている。だがわずかに口角を上げ、笑みを保とうとしているのが分かった。
「ごちそうさま」
 私はそれだけ言って、箸をおき部屋に向かう。ごはんはまだ半分くらい残っていた。
「ちょっと葵!」
 リビングからお母さんの声がしたが、聞こえないふりをした。真っすぐベッドに倒れ込み目を瞑った。まだ鼓動が速い。心臓が繰り返し大きく弾み、鼓動のたびにベッドが軋む音がした。そのまま深く呼吸をして、鼓動が治まるのを待った。
 生まれて初めてお母さんに反発してしまった。「うざい」という響きが舌の上に渋く残っている。でも後悔はしていない。だって結婚が幸せだって誰が決めたんだろう。結婚は人生の墓場だって誰かも言ってたじゃないか。
 向かいのおばちゃんは私が学校から帰るといつもかわいい笑顔で手を振ってくれた。子供をかわいがるみたいに庭のお花に水をあげてた。私にはおばちゃんは満足しているように見えていた。おばちゃんが結婚していなくても、本人がいいと思ってるならそれでいいはずだ。
 結婚することが幸せなの?別に結婚しなくたって子供がいなくたって私が幸せだと思えているならいい。そう言ってくれるのが親の仕事じゃないの?
 誰かに私の幸せを決められたくない。私が望む幸せの中で人生を歩みたい。私の幸せは私のものだ。
 あ、でも私の幸せはもう終わったんだった。

 ベッドの上で仰向けになり目を開けると目尻が少し湿っていて冷たい。電気をつけたまま寝てしまっていたようだった。私は息を殺して部屋を出た。右手のリビングの扉に取り付けられた曇りガラスに明かりが灯っていた。私はそのままリビング横の洗面台に移動し、歯を磨いた。電気は付けなかった。何となく私の存在を悟られたくなかった。
 暗号のような音がリビングから漏れ聞こえているのに気付いた。それはリビングいるお母さんと、いつの間にか帰ってきていたお父さんの話し声だった。私は少しリビングの方に耳を寄せた。
「今日ね、葵にうざいって言われたの」
 嘆くお母さんの声が聞こえた。
「母さん、それも成長には必要なことだよ。喜ばしいことじゃないか」
 なだめるようにお父さんが言った。
「あなたは見てないから言えるのよ。いつも家にいないくせに」
「しょうがないじゃないか。仕事なんだから」
 苛立つ二人は徐々に温度を上げた。そのきっかけは私だった。お父さんもお母さんもいつも喧嘩ばかりしている。お父さんは下請けのプログラマーだとかで、毎晩遅く帰ってきて心のどこかにいつも苛立ちを抱えている。お母さんはそのお父さんに文句を言って、たまに愚痴を私にこぼす。二人の言い合いなど、この家では見慣れた光景だ。
「毎晩毎晩遅く帰って、少しくらい家族の時間作ってよ」
「あのなあ、納品が近いと忙しくなるって結婚するときに言ったろう?分かってくれよ。もう少ししたら時間取れるから」
「分かったわよ」
 ため息混じりにお母さんが言った。
「それで、なんて言って怒らせたんだ?」
「怒らせたなんて人聞きの悪い。私はただ将来結婚する気がないっているから、そんなの寂しいわよって言ったら」
「本人がする気がないって言ってるんだからいいじゃないか」
「でも、将来あの子が子供もいなくて寂しい思いしたら可哀そうでしょう?」
「過保護すぎるのはよくない」
「そうかもしれないけど……」
「まあ、あの子も大人になれば分かってくれるさ」
 私の両親は何一つ分かってくれていない。
 それ以上聞くのが怖くて、すぐに口を濯いでその場を去った。
 自分の部屋に入って扉をそっと閉めた。そしてそのまま扉に寄りかかった。
 ぽつりぽつりと雨の音が外から聞こえてきた。時々何かに当たって甲高い音がする。細く開けた窓の隙間から雨の匂いがした。
 もう日付が変わろうとしている。しかしベッドまで動く気にもなれず、座り込んでさらに背中を扉に預けた。力が抜けていき、このまま扉をすり抜けてしまうかもしれないと思った。
 もし私が男だったら。もし美玖が女の人のことを好きだったら。私がもしも晃先輩になれたら。何度そう願っても神様は叶えてくれなかった。
 最初からこれは報われない恋だったのだ。私はこれからも好きという気持ちも伝えられず、今までと同じように美玖の親友として生きていくしかない。
 これから先、私は誰かを好きになれるだろうか。なったとして、それは男の子か女の子かどっちなんだろう。男の子だったらいいな。そうしたらきっと普通にお出かけを重ねて、普通に告白をして、付き合えても付き合えなくてもいい思い出だったって誰かと笑いあえる気がする。それが運命の人だったら婚約して、お互いの両親に正装で挨拶なんかもして。その姿を見せたらお父さんもお母さんもきっと安心してくれる。
 次に好きになったのがまた女の子だったらどうしよう。また思いを伝えられずに好きな人が恋に落ちていくさまを横で見て歯を食いしばることしかできないのかな。会わせたい人がいると女の人を連れて行ったら両親はどんな顔をするだろうか。
 お父さんもお母さんも私のことちゃんと愛してくれてるのかな。本当に私のことを思ってくれてるのかな。私には、自分たちの娘が結婚しないのがみっともないと思うから結婚させようとしてるようにしか思えなかった。
 胸が締め付けられて、息が苦しい。好きな人に好きと伝えることができないから?好きな相手に振り向いてもらえないから?両親が私の気持ちも考えず自分たちの価値観を押し付けてくるから?多分全部だ。
 そろそろベッドに行けと脳が指令を出すが、体はうまく従わない。腰をつけたまま壁にあるスイッチを手で探して電気を消した。それから私は液体のように床を這ってベッドに移動する。何とかベッドまで移動して横たわり、寝る前にスマホを確認しようと思った。真っ暗な部屋の中で充電器に繋がれたスマホを手探りで探した。四角く固い感触を見つけ、それを手に取って電源を付けた。
 ぱっとスマホが光を放つとそこに、十分前と示された一件の通知が浮かんでいた。
【葵先輩大丈夫ですか?】
 送り主は祐樹くんだった。なんと返すべきか迷った。だけど、寝たふりをして明日変えそうという気は起こらなかった。
【どうしたの急に?笑】
 と返した。
【やっぱり今日元気ないように見えたんで】
 振動と共にすぐに返事が来た。私もすぐに返した。
【気のせいだよ】
【本当ですか?】
【本当だよ笑】
 そう送ったら、少し間があった。しばらくしても返信が来ないから、私はスマホを閉じてひっくり返してベッドに軽く放り投げた。その時、スマホがまた震えた。スマホを拾い上げると、画面にはまた祐樹くんからの通知が浮かんでいた。
【帰りも言いましたけど何かあったら俺、相談乗りますから】
 その言葉が私の胸に深く突き刺さった。胸の中で蠢く感情は常に飛び出る場所を狙っていて、彼らは祐樹くん目を付けた。感情が祐樹くんの言葉が刺した穴から少しずつ漏れ出す。
【電話かけてもいい?】
 衝動的にこの言葉を送った。送ってから鼓動が少し速くなった。今すぐ感情を吐き出さなければ胸が張り裂けてしまう気がした。【はい】と返事が来たころには私は電話をかけていた。祐樹くんはすぐに電話を取った。
「ごめんね急に電話かけて」
『いえ、全然。ビックリはしましたけど嬉しかったです』
 電話で聞く祐樹くんの声はいつもより低く感じて別人に思えた。
『やっぱりなんかあったんですか?』
 落ち着いた祐樹くんの声を聞いて、私はすべてをさらけ出す準備が整った。と、そう思った。はずなのに、喉まで出かかっていた言葉は急に尻込みをした。
「あ、いや祐樹くんこんな夜中に何してるのかなあって」
 暴れていた感情は胸の奥の方へ隠れてしまい、気づけば違う言葉を放っていた。
『寝る準備してました』
「それもそっか」
 祐樹くんの答えに私は何だか気が抜けて笑ってしまった。
『……でも寝れなくなっちゃいました』
 祐樹君が言った。
「どうして?」
 そう聞くと祐樹くんは少しの間黙った。私も何も言わずにいると、彼が沈黙を破った。
『好きな人から電話かかってきたら、眠れなくもなりますよ』
 はっとした。祐樹くんの言葉を聞いて、私が酷なことをしていることに気づいた。
 美玖から優しくされたら私は辛い。手に入らないのに、手の届く場所にある。近くにいるのに、思いは別の人に向かっている。そのもどかしさは私が一番よく知っている。
 私は祐樹くんの優しさに甘えてもどかしい思いをさせてしまっている。それに気づいて申し訳ないと思った。最低だと思った。だがそれに反して私の中にある欲求がふつふつと湧いた。
「祐樹くんさ、まだ私と付き合いたいって思ってくれてる?」
『当たり前ですよ。好きなんですから』
 祐樹くんはすぐに答えた。
 なぜこの人はこんなにも真っ直ぐ想いを伝えられるのか。私は祐樹くんのことが羨ましい。
「ねえ祐樹くん」
『なんですか?』
「私と付き合ってくれないかな?」
 私がそう言うと、電話の向こうでバンっと音が鳴り、祐樹くんは何やら声を上げた。だが、なんと言っているかはよく分からなかった。祐樹くんはスマホを落としたようだった。
「ごめん、何て言った?」
『い、いいんですか?』
 あまり動揺しなさそうな祐樹くんが取り乱しているのが少しおかしかった。
「正直ね、祐樹くんのことまだ好きかは分からないの。だから、その、お試しみたいな感じでもいいなら」
 喋っていながら、自己嫌悪と欲求が激しくぶつかり合った。私は語尾に向かうにつれて歯切れを悪くした。だけど祐樹くんは迷いなく高らかに答えた。
『今はお試しでもいいです。チャンスをくれるなら』
 そして彼は咳払いをした。
『改めてなんですけど。葵先輩、付き合ってください』
 祐樹くんは私と違ってどこまでも真っ直ぐだった。曲がった私とは正反対だ。だけど、私だって同じ人間だ。少しくらい愛を求めてもいいじゃないか。私の心の欠けている部分を誰かに補ってほしかった。
 私が返事をすると、人生で初めての恋人ができた。
 金時計横のデパートのガラスの前でワンピースのスカートを摘み、小さく回ってみる。ガラスに映る私の服は、どことなくこの前美玖が着ていたのと似ていた。
 休日の駅でも朝は少し穏やかだった。ぽつりぽつりと人が並び、エスカレーターの脇で待ち合わせていた女の子は、相手が来た途端に華やかに笑った。相手は男の子だった。
 待ち合わせまで十五分あった。もう一本遅い電車だと時間ぎりぎりになってしまうため、早く着きすぎてしまった。駅の反対側のカフェで時間を潰そうかとも思ったが、それほどの時間はなかった。彼が来た時スマホを見ているのも何となく印象が悪い気がして、周りを見渡した。
 待ち合わせの十分前になって、遠くの方に祐樹くんが見えた。私が小さく手を振ると、祐樹くんは軽く頭を下げて近づいてきた。
「おはようございます。早いですね」
「そちらこそ」
 そばに来た祐樹くんの挨拶はいつもより何だか少し畏まっていて、私も少し緊張した。ぎこちなく私も挨拶を返した。
 祐樹くんは上から下まで私の全身を見渡した。お互いに制服やスポーツブランドのシャツ姿しか見せたことがないからじろじろと見られるのは気恥ずかしかった。
「変かな?」
「すごく似合ってます」
「ありがとう。祐樹くんも似合ってます」
「ありがとうございます」
 緊張した空気を纏いながら、私たちは遊園地へと向かうシャトルバスの方へ向かった。
 あの夜、私は祐樹君と付き合うことになった。だが、まともに祐樹くんと話すのは久しぶりだった。
 付き合い始めてから祐樹くんとは部活で顔を合わせることもあったが、その時の彼は少し素っ気なかった。スマホでやり取りをして、部活がたまたまオフになった週末私たちは隣県の遊園地に行く約束をした。
 シャトルバスに乗り込み、前から一番前の列で席が二つちょうど空いていた。私が窓際、その隣に祐樹くんが座った。私たちを最後にバスは発車した。
「今日行くところ、久しぶりだから楽しみなんだ」
 私は祐樹くんに言った。
「行ったことあるんですか?」
「うん、去年友達と」
 私はその時のことを思い出す。楽しい思い出ばかりだった。
「どうでした?」
「すごく楽しかったよ」
 あの時は隣に美玖がいた。

「意外と人少ないですね」
 夏のこの遊園地は人が少ない。併設されたプールに人が流れるからだ。去年も穴場だからと美玖に誘われ、菜緒と陽菜と一緒に来た。私たちは入口を抜け、アトラクションへと続く長い道のりを歩いている。その横にプールがあって中は人で溢れていた。対して私たちの歩く道はぽつぽつと人が見える程度だった。
「どこ行きましょうか?おすすめのアトラクションありますか?」
 緊張感は霧散することなく、しつこく私たちに付きまとっている。そう言う祐樹くんはやはりどこか固かった。
「コーヒーカップでも乗る?」
 私たちは入り口から少し歩いたところにあるコーヒーカップへ向かった。
 美玖たちと来た時も最初にこれに乗った。美玖は笑いながらカップの中心にあるハンドルを力強く回した。叫び笑い悲鳴、様々な声が混ざり合って、降りたころにはへとへとになっていた。みんなが疲れ切っている様がおかしくてそのあとも私たちはしばらく笑い続けた。
「どれにしますか?」
 コーヒーカップは今も昔もあまり人気がないようで、一切並ぶことなく入ることができた。大きかったり小さかったり様々な模様のコーヒーカップを模した乗り物がいくつもある。その間を祐樹くんとすり抜けていく。
「これとかどう?」
 赤くてふちに波模様の白い線が入ったカップを私は指さした。青いカップは避けた。あの時は葵だから青いカップにしようと美玖が言い出して、青いカップに乗った。
「どうぞ」
 と言って祐樹くんは私を先にカップに乗せてくれた。そのあと祐樹くんが乗り込んだ。他のカップには四人組の中学生や小さな子供を連れた家族が乗っていた。
 従業員の合図でにぎやかな音楽が流れ、カップは動き出した。初めは祐樹くんも私もハンドルを握らなかったから、カップは穏やかに回った。私がハンドルを掴もうとするとき祐樹くんも手をあげたので、私が手を引っ込めると祐樹くんも同時に引っ込めた。互いに手で示してハンドルを譲り合って結局二人で操作することになったが、終始穏やかだった。時々近づく中学生の元気な声がよく響いていた。
 コーヒーカップを降りたとき、あの時は遠心力で首が取れてしまうかとも思ったが、今は多少目が回る程度だった。
「どこか次に乗りたいのありますか?」
「次は祐樹くんが行きたいところ行こうよ」
 適当に歩いた先、祐樹くんが指さしたのは大きな円盤の円周上にブランコが鎖で吊るされたアトラクションだった。ブランコは遥か上空でぐるぐると回り遠心力によって開いたり閉じたりする。美玖たちとは乗った覚えはなかった。
 そこに向かうと私たちはまた並ぶことなく、隣同士のブランコに座った。中身のない会話をしていると円盤は回りながら上昇していく。それに伴ってブランコは外に広がりながら空へ登っていく。下から見たようにブランコは開いたり閉じたりして、気づいたときには回転が緩まり地面に降ろされていた。
「楽しかったですね」
 気まずそうに言う祐樹くんに対して、私は「うん」とだけ言って頷いた。
 次に何に乗るか、何となくどちらも言い出せずにまばらな人たちが流れていく方に動いた。少し歩くと外にテーブルと椅子がオープンカフェのようにたくさん並べられている場所に着いた。そこに座る人たちはそれぞれ何かを頬張っていた。
 テーブルをL字に囲うように屋台が並んでいて、ホットドッグやチュロスの旗が立っていた。 
「何かの飲みます?あと食べ物とか」
「じゃあ買おうかな」
 私たちは左の方の屋台から順番に眺めていく。
「いろいろありますね」
 それぞれの看板に大きく書かれたメニューを声に出しながら回り、誰も並んでないところは避けて、並んでいる人が比較的少ない屋台を選んだ。その屋台はチュロスやアイスクリームなどデザートのようなものをメインとしていた。
「どうする?」
「これ、おいしそうじゃない?」
 列は進み、前に並ぶ手を繋いだカップルがチュロスを頼んだ。仲睦まじい光景を私たちは後ろから眺めた。
「俺たちもチュロスにしますか?」
 屋台から顔を出す店員に呼ばれたときに祐樹くんが言って、私たちは飲み物と、シナモン味とチョコ味のチュロスをそれぞれ頼んだ。値段を提示されたとき、晃先輩の背中が浮かんだ。
「ここは私が払うよ」
 そう言って二人分の代金を払おうとした私の手を祐樹くんが止めた。
「俺が払います」
「いいって。先輩に任せてよ」
「初デートくらい格好つけさせてください。男なんで」
 二人で押し問答をしていると、店員が笑顔のまま困惑しているのに気付いた。結局次のデートで私が奢ると約束をして、祐樹くんに奢ってもらうことになった。「どこにします?」と祐樹くんが聞いて、私は「じゃあここ」と適当に空いてる席を選んだ。
「美味しいね」
「そうですね」
 私たちはお互いに気を使いあって探り探り会話をする。
 屋台の脇に立つ時計は正午を過ぎたころだった。美玖たちと来たときはくだらない会話が延々と続き、気づけば日が暮れようとしていた。こんなんだったら近くのカフェでも良かったなんて笑いながら、美玖と居ればどこに行っても楽しいのだと実感した。
 祐樹くんと私はチュロスを食べている間も会話は続かず、「そろそろ行こうか」という私の一言でまた歩き始めた。時計の針は三十分も進んでいなかった。もともと人と話すのが得意でなかった私にとって、心の見えない相手と過ごすのは正直堪えた。付き合っていくうちにお互いを知っていくのはやっぱり難しいのだと悟った。すれ違う人たちは目を輝かせ、ここでしか味わえない非日常的な体験を堪能している。私たちは隣を歩く相手と向き合うという現実的な困難に直面している。遊園地という空間はその現実をより一層際立たせている。心の傷を癒すために付き合っておいて、何とも身勝手な考えだと思った。
 祐樹くんは今何を考えているのだろうか。私は祐樹くんのことをまだ何も知らない。どんな食べ物が好きで、どんな音楽を聴いて、小さなころの将来の夢は何だったんだろう。祐樹くんは私の何を知っているんだろう。一体彼は私のどこを好きになって、一緒にいたいと思ってくれているのだろう。
 そんなことを考えて祐樹くんを見ていると、ふと彼が何かに視線を向けた。祐樹くんはその先を少しの間眺めた。
「あれ乗りませんか?」 
 祐樹くんが指した高くそびえるジェットコースターに向かった。
 頂点は遠くから見たそれも高く感じたが、近くで見るとさらに高いと思えた。
 このジェットコースターは他のアトラクションと違い短い列ができていた。コーヒーカップにいた四人組の中学生が後ろで楽しそうにはしゃいでいる。時々走るジェットコースターから小さな悲鳴が聞こえる。
 少しの間並んで、私たちの番が来た。隣り合ったシートに座る。後ろには中学生たちが二列に二人ずつ乗り込んだ。賑やかな彼女たちに比べて、私たちは静かだった。その原因は若さの欠如ではないと思う。
 安全バーは上から降ろすタイプではなく、レバーのように下に設置されていて、手前に引くと足だけが挟まれる形になる。上半身はゲーミングチェアのような背もたれに預けることしかできず、少し不安になる。
「少し怖いね」
「そうですね」
 そんな会話をしている間に従業員がレバーを確認しに来た。従業員は前から後ろまで一通り確認し終えると、また前に戻った。
「それではいってらっしゃい!」
 その声に呼応して、後ろの中学生たちが「いってきまーす!」と大きな返事をした。
 ガコン、と音を立てて、車体はゆっくり前に進みだした。鼓動は高鳴る。祐樹くんは緊張しているのか、表情が暗いように見えた。その緊張がジェットコースターによるものなのか、私によるものなのか、どっちだろうと考えた。
 車体は私たちを運びを高く上る。下を見ると地面が遠くなっていく。人が豆粒のような大きさになって、私たちに向かって手を振っている。
 遠くの方にコンビナートで、紅白の煙突の先からもくもくと白い煙が上がっているのが見えた。
 コースは下から眺めていたときよりも実際に乗ったほうが高く感じる。前を見ると、じりじりと頂点が近づいてくる。それに伴って心音が上がる。期待感と高揚感が高まる。あの時は、美玖が隣に座っていた。期待とともに不安が押し寄せ、美玖と目を合わせ伸ばした手と手を繋いだ。
 ついに車体が水平になる。もう頂点は見えない。
 その刹那、重力が消えた。
 軽くなったのも束の間体はすぐに後方に押さえつけられ、急降下した。そしてその時「わああああああ!」と大きな雄叫びのような声が隣から聞こえた。私がそっちを向くと、祐樹くんが大きな口を開けて楽しそうに叫んでいた。それがなんだかおかしくて私も叫んだ。
「きゃあああああ!」
 車体は右へ左へ揺れ時には一回転し、四方八方からの慣性を浴びた。風圧で髪は乱れ、乾いた目から涙が出る。体と共に脳が振られ、考える間もなくすべてのことに笑いがこみあげてきた。車体が乗降口の手前で止まったころには爽快感に満ちていた。前の車体が空の旅へと向かい、私たちを乗せた車体はゆっくりと乗降口へ戻った。
「もう一回乗ろ!」
「もう一回乗りましょう!」
 停止した車体の上でほとんど同時に言った。私がぷっと吹き出し、祐樹くんも吹き出した。そこで緊張の糸が解けた。その時初めて、二人で目を合わせて笑い合った。
 私たちはもう一度同じ列の後ろに並んだ。
「祐樹くんがはしゃいでる姿初めて見たかも」
 隣の祐樹くんの姿を思い出す。進む方向が変わるたびに、大きな叫び声を上げていた。私はその姿を思い出して笑った。
「はしゃがないとジェットコースターなんて乗れないですよ」
 拗ねたように祐樹くんが言った。
「たしかに」
 私が笑うと、祐樹くんも笑った。
「俺、実はすごい緊張してたんです」
「見てれば分かるよ。前より全然喋ってくれないんだもん」
「付き合うのとか初めてで。なんか付き合うってなると意識してしまって」
「もしかして普段の部活で素っ気なかったのも、それで?」
「はい」
 好きだと躊躇なく言えるくせに、付き合ったら緊張してしまうところがなんだかアンバランスでおかしかった。
「笑わないでください」
 そう言った祐樹くんも少し笑っていた。
 それからはお互いにリラックスして遊園地を楽しんだ。別のジェットコースターに乗って水を被ったり、ゴーカートで競争をしたり、お化け屋敷に入ったり。それまでの関係がどうであろうと、案外ほんの些細な出来事で二人の関係は変わっていくのだと知った。
 射的に夢中になって結局何も取れなかったり、小さな子供に交じってメリーゴーランドに乗ったり、自動販売機で買った炭酸が吹きこぼれたり、何でもないことが笑いの種になった。美玖が晃先輩と付き合ってから、初めてちゃんと笑えた気がする。
 祐樹くんが私を好きでいてくれてよかった。そう思った。
 一通り遊び終わって三度目のジェットコースターを乗った後には、日は徐々に落ち、夕陽の赤い光と薄いナイターの証明が園内を照らしていた。気づけばあっという間に時間が過ぎていた。
 閉園が近づき、最後のアトラクションにと園内を歩く人たちは皆早足だった。
「そろそろ帰らないと遅くなっちゃうね」
「そうですね」
 祐樹くんもそう言ったから、私は出口の方へ足を向けた。その私を祐樹くんが「あの」と呼び止めた。私は振り向く。
「最後に観覧車乗りませんか?」
「うん、行こう」
 祐樹くんの指さした先に向かって私たちは歩き出した。あれが怖かった、あれにまた乗りたいと私たちは今日回ったアトラクションの話をしながら、観覧車の列に並んだ。前には男女のカップルが並ぶ。後ろもそうだった。
 従業員の案内に従い青いゴンドラに乗り込んだ。私が左に、祐樹くんが右に行き、向かい合って座った。扉が閉まると、私たちは宙に浮かび出した。沈んでいたはずの夕陽が窓の外に見えて眩しい。私は窓から見える景色の思い出をなぞっていく。どれも忘れられない笑いに溢れた楽しい思い出ばかりだった。
 私たちを乗せたゴンドラは半分くらいの高さまで上がった。それでも祐樹くんは喋らなかった。祐樹くんは私と目が合うと窓の外を向いて、私が窓の外を向くと私を見ているのが目の端に映った。その視線を捕まえて私は聞いた。
「どうしたの?」
「あの、あーいや、何でもないです」
 祐樹くんは噛みしめるようにそう言って、また窓の外を眺めた。
「絶対何かあるでしょ。せっかく仲良くなれたのに、そんなこと言われたら寂しいよ」
 祐樹くんは私を一度見て、「えー?」と言ったり首を傾げたり口角を上げたり挙動不審な動きを見せながらようやく観念したように口を開いた。
「葵先輩、隣座ってもいいですか?」
 予想外の言葉で少し驚いた。私が頷いて右に避けると、祐樹くんは私の左側に座った。近い距離に緊張して、右の窓を見ると背後から祐樹くんの声がした。
「葵先輩と来れて今日は本当によかったです」
 祐樹くんが照れたように言うから、私も何だか面映ゆくて窓を見続けたまま言った。
「私も祐樹くんと来れてよかった」
「楽しかったですか?」
 そう聞く祐樹くんの方を見ると不安げな顔をしていた。
「うん。すっごく楽しかった」
 面と向かって私が言うと祐樹くんはまた照れた。祐樹くんは表情をころころと変える。何事にも動じないと思っていた私の中の祐樹くんのイメージはどんどん崩れ去っていく。それが何だか気恥ずかしくて、私はやっぱりどうしても窓の方を向いてしまう。
 徐々に頂上に近づく。ゴンドラの中には静かで心地いい空気が漂っていた。私の後ろで、祐樹くんは何を見ているのだろうか。
 そう思ったとき、私が椅子に置いていた左手の指先に何かが触れた。それは二、三度跳ねて、私の左手の上に乗った。暖かくて、ごつごつしていた。私はその感触の方に目を向ける。私の左手に手が重なっている。私はその手を辿った。その先には祐樹くんがいた。祐樹くんがまっすぐな目で私を見つめていた。夕陽が彼の瞳に映っている。
 私はそこから目が離せなかった。何秒経ったか分からない。長い時間が経った気がした。一度目を逸らして重なった手を見ても、また顔を上げると彼が私を見ていた。
 私たちは見つめ合った。密室の中でお互いに同じものを感じ取って。祐樹くんは私に顔を近づけて、その途中で目を閉じた。あとは私が目を閉じるだけでいい。そう思って目を閉じた。
 その瞬間、瞼の裏に何かが見えた。
 私は反射的に祐樹くんの体を押しのけてしまった。
 私はすぐに自分が何をしたか自覚した。目を開けると祐樹くんは今まで見せたことのないような悲しそうで焦った表情をしている。その顔を見て途端に血の気が引いた。
「ごめん。突然だったから。こういうのはまだ時間がほしいっていうか」
「すみません。焦り過ぎました」
 祐樹くんは自然と離れて、また向かいの席に座った。私は外の景色を眺めた。さっきまで漂っていた空気は閉じた窓から出て行ってしまった。ふと祐樹くんの方を見ると、彼の目は最後まで夕陽の沈む先を見ていた。
 下に降りると従業員は笑顔で私たちを迎え入れ降ろしてくれた。私たちはそのまま無言で進むと、祐樹くんが言った。
「混んできましたね」
 閉園する前に、と人がぞろぞろ観覧車に集まり長い列をなしていた。祐樹くんは観覧車の中であったことから話題を逸らそうとしているように感じた。
「早めに来てよかったね」
 私もあの出来事から目を逸らして、二人で人の波に逆らって出口へと向かった。そのあと出口を出るまでの会話はあまり覚えていない。
 帰りのシャトルバスは混み合い、何故かあまり喋ってはいけない雰囲気があって祐樹くんと喋ることはなかった。その雰囲気で助かったと思ってしまった。
「ありがとう。今日は楽しかった」
「俺もすごい楽しかったです」
 言葉とは裏腹に駅についても気まずさの残り香がした。今朝顔を合わせたときのような緊張感があった。
「じゃあ、また」
 私が小さく手を振ると、彼は軽く会釈した。
 私は今日、美玖と過ごした思い出を祐樹くんとの思い出で塗り替えてしまおうと思った。
 今日一日、一緒にいて楽しかった。祐樹くんのおかげで久しぶりにあんなに笑えた。
 だけど祐樹くんの唇が近づいたあの時、瞼の裏に美玖の姿が浮かんでしまった。 
 観覧車から見下げた思い出は祐樹くんとのものではなかった。ジェットコースターもコーヒーカップも、お化け屋敷もチュロスを買った屋台も一緒に食べたテーブルにもそこにいるのは美玖だった。
 唇を重ねる想像をしてもやはり私は美玖を浮かべてしまう。
 夏休みが終わって九月に入っても、秋とはとても呼べないじりじりと強い日差しが差す暑い日が続いていた。外からは蝉の声さえ聞こえて来る。昔は九月にもなれば肌寒い気候に秋を感じたような気もしつつ、そこまではっきりとした記憶もなかった。
 新学期初日の朝の教室で、男の子たちはシャツでパタパタあおいでいる。女の子たちは座ったままスカートを揺らして中に空気を送り込んでいる。
「おはよう!久しぶり!」
「久しぶり、美玖」
 いつものように美玖は席に座る私の肩を叩いた。その感触を懐かしく思った。
 夏休みの間、美玖から遊びに誘われることもあったが、部活が忙しいことにして断っていた。だから顔を合わせるのは数少ない登校日以来だった。
 美玖はその時と変わらない愛嬌のある笑顔で私を見つめる。空調のついていない教室が暑いのか、美玖は髪を耳にかけて首筋を手で仰いだ。耳の下に細い汗の線が走っていた。
 いつもはすぐに一度自分の席に向かう美玖は、いつもと違う小さなリュックを手に持ったまま私を見つめ続けた。
「葵?」
 美玖は笑顔で私の名前だけを口にした。
「あ・お・い?」
 私が首を傾げると今度は区切ったように言った。その表情は笑顔であるのだが、どことなく怒っているようにも見えた。笑う口元に対して目が歪だった。
「言うことは?私に?」
 美玖は首を左右に傾けながら倒置法を繰り出した。それでも私は美玖の意図を汲み取れなかった。ただ美玖が何も言わず私を問い詰めるこの光景に既視感があった。
「私は悲しいよ。親友だと思ってたのに」
 美玖はわざとらしく鼻をすすり、自分の席にリュックを置いた。
 美玖にとって親友は近くて、私にとって親友は遠い。同じ距離でも、その捉え方の違いが私たちの間にあった。でもそれはもう昔の話で、今美玖は私のただの親友。だって私にはもう恋人がいるんだから。祐樹くんと付き合い始めて一か月半、私はそう思うようにした。
 美玖はまた私の席のそばに戻って立って言う。
「彼氏できたんだって?」
 そう言われて私は目を見開いてしまったと思う。美玖には知られたくないと思っていた。その理由は、分からなかった。だって親友の美玖に別に知られていようが、知られてなかろうが私の運命は変わりなどしないのだから。続けて美玖は言った。
「しかも、この前振った後輩くんらしいじゃん」
「そこまでなんで知ってるの?」
「バレー部の子に聞いた」
「もう、また?この前はラグビー部だったし」
「それで、なんで今度は後輩くんと付き合おうと思ったの?」
 あなたに振られた傷を癒すためだ、と何故か美玖に言いたくなった。どんな顔をするだろうか、想像しようとして止めた。
「美玖が付き合ってから知っていけばいいって言ったから。もしかしたらほら、あの例の運命の人かもしれないでしょ?」
「ちょっとそれ何か馬鹿にしてない?」
 美玖は唇を尖らせてかわいく拗ねた。
「してない、してない」
「それで、運命の人だった?」
 私はあの日のことを思い出す。心が通い合う瞬間、私は祐樹くん押しのけてしまった。
「うーん。まだ分からないかも」
 私は薄く笑った。
「ていうか葵どうして教えてくれなかったの?告白されたは仕方がないとして、彼氏ができたらさすがに教えてほしかったなあ。いつから付き合ってたの?」
「……一か月半前くらい」
「それってちょうど私が付き合い始めた時期じゃない?」
「すぐあとかな」
 というか美玖と晃先輩が付き合い始めた次の日の夜なのだが。それを言うと勘繰られてしまう気がして言わなかった。
「なら、なおさら言ってよ!と思ったけど、でもそうだよね。そろそろ子離れしないとね……」
「ちょっと親じゃないんだから」
 そう言うと美玖が笑った。
「寂しかったなあ。どうして教えてくれなかったの?」
 美玖は口を尖らせて下を向いた。
 誰にも知られずにひっそりと心の欠けた部分を補ってほしかったから。当然、それも言えるわけがなく、「ごめん」と適当にはぐらかした。
「冗談だよ、冗談!ごめん、そんな謝らないで!」
 美玖は焦ったように私の頭をそっと撫でた。それだけで私の気持ちは嘘のように晴れ、教室の温度が上がった気がした。自然と口角が上がっていたことに気づいて、さらに暑くなって、手で顔をあおいだ。でもこれは美玖だからってわけじゃない。親友だろうが誰だろうが頭を撫でられれば、体の温度も上がる。
「デートしてるの?」
「最近はあんまり」
 祐樹くんとは遊園地の後、少しの間気まずい空気もあったが、部活で顔を合わせているうちに、徐々にまた打ち解けた空気で話せるようになった。それでもまだ私も祐樹くんもお互いにどこかに出かけようと言い出せずにいた。
「そっか部活忙しいって言ってたもんね」
「あ、でも一か月くらい前に遊園地行ったよ。ほら!菜緒と陽菜と四人で行ったところ!」
「え、本当に?あそこ私たちも行ったよ」
「晃先輩と?」
「うん。受験勉強で忙しいからあんまり遊べないんだけど。受験本番が近づいてきたら遊べないからって時間取ってくれてさ」
「優しいね」
「本当優しい。だけど、コーヒーカップで晃くんすごいはしゃいでるところはすごくかわいいの」
 呼び名が変わっていた。別にきっとおかしいことじゃない。仲が深まれば呼び名が変わることくらいある。
「彼って落ち着いたところあるじゃない?だからそのギャップがねえ。あと細かい気づかいもすごくて――」
 美玖は楽しそうに二人の思い出を語る。美玖の中の思い出は晃先輩とのものに変わっていってる。語るたびに口角をあげたり、頬を赤らめたり、斜め上を向いたりする。美玖は私の存在しない遊園地の思い出を語った。
 そのあと、美玖は少し黙って「ねえ、葵?」と言った。
「何?」
 美玖は口をもごもごと動かす。そして私の様子を伺うように言った。
「祐樹くんとキスした?」
「え!?」
 唐突に美玖が聞くから私は露骨に動揺した。
「どうしたの急に」
「いや、キスしたのかなあって」
 観覧車でのことを思い出してしまって、必死に振り払った。
「してない」
 美玖は「ふうん。そうなんだ」とだけ言った。
「……美玖はキスしたの?」
 親友として、知りたいから聞いた。
「聞きたい?」
「聞きたい」
「実は……」
 美玖は顔を近づけて声を潜めた。私は次に美玖の口から何が発せられるか、その口の動きを注意深く観察した。
「しちゃった」
 キス、したんだ。私は心の中で呟いた。
 美玖は口元を緩ませ、それを抑えるために唇に力を入れた。頬はわずかに紅潮し、熱くなった頬を手で押さえてちらちらと私の方を見る。これほど恥じらう美玖を私は見たことがなかった。私の知らない美玖が目の前に立っている。
「晃くんとその日のデートの帰りに散歩しようって駅の周り散歩してさ、それから公園のベンチでおしゃべりしてたの。そのあと会話がなくなったときにね、お互い無言で見つめ合ってたら……いつの間にか吸い込まれてた。私初めてだったけど、ああ今キスするんだって本能で分かっちゃった」
 語る美玖の目は私を見ていない。ここにはいない恋人の姿を見ている。私が立ち止まっている間にも二人は愛を深めているだと知った。
「もう本当すごいどきどきした!」
「美玖、自分が言いたいから聞いたでしょ」
「ばれた?」
「もう!」
 美玖が笑うから、私も笑った。
「はあ。憧れの晃くんと付き合えるなんて本当夢みたい。葵が協力してくれたおかげだよ」
「そんなことないってば」
 私のおかげだ、と言わないでほしい。そう言われると何故か心がざらついた。
 美玖が晃先輩とごはんに行きたいと言ったとき、彼は忙しいらしいと嘘を付いたらどうなっていただろうか。晃先輩に美玖がいい子だと言われたとき、同意しなかったらどうか。ありもしない美玖の悪口を先輩に吹き込んだとしたら。そんなことは何があってもしないだろうけど。
 今となってはもう関係ない。私は私で祐樹くんと幸せになって、美玖は美玖で晃先輩と幸せを感じればいい。美玖と晃先輩の恋は順調に進んでいる。それを微笑ましく見守るのが、親友の役目だ。
 美玖は突然周りを見回してしゃがみ込み、胸ポケットの中から白くて四角い何かを取り出した。
 美玖がそれを広げて正体が分かった。美玖が取り出したのは小さな葉を模した刺繍が小さく施されたハンカチだった。美玖はそれ私だけにこっそり見せた。
「これ晃くんにもらったんだ」
 美玖は広げたハンカチをうっとりと眺めた。私はその顔を眺めた。
「プレゼントが冷める原因になったりするって言うけど、私のこと考えて選んでくれたんだって思うだけで嬉しいんだね」
 美玖はハンカチを両手で掴んで大事そうに胸のあたりに当てがった。
「あ、センスが悪いって言ってるわけじゃないよ。デザインもすっごい気に入ってる」
「私もかわいいと思うよ」
「本当?ありがとう」
 美玖はそう言うと、ハンカチを胸ポケットの中にしまった。
「葵はまだ運命の人かどうか分からないって言ってたけどさ。こういう一つ一つの思い出が二人を運命の人に変えていくんだと思うんだよね。私なんかまだ晃くんと釣り合わないかもしれないけど、これがあると、彼のそばにいていいんだって思えるんだ」
「さすが、ロマンチストだね」
「もう茶化さないで」
 チャイムが鳴ると美玖は机の方に戻っていく。
 親友の惚気話。疎ましく思いながらも微笑ましく聞くのが正解で、私の行動は模範解答だったと思う。
 美玖はもう幸せに向かって歩き出している。私と祐樹くんも前に進まなければいけない。
 祐樹くんといるのは楽しい。祐樹くんがこんな私を好きでいてくれると思うと心があったかくなる。美玖の言う通り、一つ一つの思い出が相手を運命の人に変えていくのなら――。
 私は祐樹くんにメッセージを送るためにスマホを開いた。
 その時スマホが震えて、驚いた。体がびくりとしてしまい教室を見回すが、誰も私を気にしてはいなかった。
 スマホの画面を確認すると祐樹くんではない別の人からのメッセージが浮かんでいた。

   ○

「こうやってご飯食べるのも久しぶりだね」
「そうですね」
「部活引退する前は毎週のように行ってたのに」
 七海先輩はハンバーガーを食べているだけで華がある。七海先輩は小さく一口頬張って、唇の横に付いたマヨネーズを中指の先で取って紙ナプキンで拭った。その合間に口を細めてストローでコーラを飲む。近くの席の男子生徒たちは、ちらちらと七海先輩の顔を覗くように見ている。彼らはまるで私など存在しないかのように、私には目もくれず、七海先輩を一瞥してはこそこそと顔を寄せ合って何かを話している。七海先輩はそんなあらゆる方向からの視線や秘密の会議を気にしている様子もない。
 厨房の中で常に忙しく店員が動き回っている。注文口からはよく通る声が並んでいる客を次々に呼び込んでいる。
 高校から坂を下った先にあるファーストフード店は周辺の学生で溢れかえり騒がしい。私たちを含めここにいる生徒たちは椅子に縛り付けられて持て余したエネルギーを発散している。
 七海先輩が引退する前は部活後や部活のない放課後に共に誘い合ってよく二人でご飯に行くことがあった。部活の相談事をすることもあれば、他愛もない会話をすることもあった。彼女は所謂何でも話せる先輩だった。と言っても、美玖が好きなことは、何でも、の範疇を超えていた。
 今日は久しぶりに連絡してくれた七海先輩と私が部活のない日に待ち合わせてあの頃と同じようにファーストフード店で近況報告がてら会うことになった。
「やっぱり受験勉強忙しいんですか?」
「模試が終わってちょうど落ち着いたところ」
「調子はどうですか?」
「うーん、まずまずかな。第一志望には何とか合格できると思う」
「さすがですね。陽太先輩はちゃんと勉強してますか?同じクラスですよね?」
「多分してると思うよ。教室のゴミを一週間に一回まとめて回収場所に持っていく係を、よくサボって先生に怒られてるけど」
「相変わらずですね」
「本当、元キャプテンなんだからしっかりしてほしいわよね。先生に言われてもゴミ箱の中身を押し込んで、まだ入るのでもったいないと思います、って言って」
「でもそれだと結局持っていくときに、重くなるんじゃないですか?」
「筋肉の塊だからね。気にならないみたい」
 人間性の晃、プレーの陽太。二人が最高学年になるまで、よくそうやって比較されていた。陽太先輩は体格がよくパワーのあるスパイクを持ち、それでいて誰よりも繊細なレシーブで、総合的な視点で見れば圧倒的に誰よりもうまかった。対して晃先輩はコースを狙ったスパイクで陽太先輩と同じくらい点を決めていたが、レシーブが苦手でよく対外試合のサーブで狙われていた。だけど人の良さに関しては圧倒的に晃先輩の方が優れていた。陽太先輩が先生に言われてもゴミを持っていかない姿を想像できるが、晃先輩は先生に言われなくてもゴミを持っていく姿を容易に想像できる。
 晃先輩がエースと呼ばれるようになったのは、陽太先輩がキャプテンという称号を手に入れてからだ。もし晃先輩がキャプテンになっていたら、陽太先輩がエースと呼ばれていただろう。
 全部員の話し合いの末、キャプテンの体格がいい方が相手を威圧できる、キャプテンという立場を与えた方がしっかりするようになるだろうという理由から、陽太先輩がキャプテンになった。その目論見通り、試合相手はキャプテン同士の挨拶の時に適度に恐れおののいてくれたし、部活中はキャプテンらしいと思えるような行動をするようになった。と言ってもキャプテンらしさが何かと言われれば答えられないのだけれど。
 引退してキャプテンという称号をはく奪されて、もしかしたらただのプレーの陽太に戻ってしまったのかもしれない。
 七海先輩はハンバーガーを食べる合間に、細い指先でポテトを摘まむ。その一挙動ですらも美しいと思えてしまう。七海先輩は「うん、美味しい」と満足そうにうなずく。
「なんか七海先輩がこういうの食べてるの不思議に思えます」
「え、どうして?」
「だって健康に良さそうなものしか食べてなさそうなんですもん」
 七海先輩はどうすればその体系を維持できるのか、疑問に思えるほどスリムなスタイルを維持している。地元の小さな事務所からモデルのスカウトが来ているという噂があるほどだった。その噂は七海先輩本人が否定しているが、本当はスカウト来ているのではないかと私は思っている。
「最近は確かにたまにしか食べないかも。でも、葵とは特別」
 そう言って七海先輩は笑って、またポテトを一本つまんだ。
「そういえば最近知ったんだけど、晃、葵の親友と付き合ってるんだって?」
 一瞬動揺した。
「心配しないで。晃の友達として聞きたいだけだから」
 七海先輩は私が彼女に気を使って返事をしないようにした、と捉えたようだった。
 晃先輩と七海先輩は誰もが認める美男美女カップルだった。バレー部の黄色い声援を浴びるエースと誰もが振り返る美貌を持つマネージャー。誰もが羨む理想のカップルだった。私の同級生は誰しもバレーボールに興味はなくとも、二人を一目見ようと一度はバレー部の体験に来たことがあるという逸話があった。
 この人が晃先輩を繋ぎとめてくれれば美玖が彼と付き合うこともなかったのに、と人知れず筋違いな恨みをぶつけたこともある。美玖と晃先輩が付き合わなかったところで、私と美玖が付き合えるわけではないのだけれど。
「はい。私のクラスの美玖って子と付き合ってます」
「へえ。ねえ、美玖ちゃんってどんな子?」
「面白くて優しくて、すごくいい子ですよ」
 いい子だ。私が好きになってしまうほどに。
「本当?よかった。どう美玖ちゃんと晃うまくやれてる?」
「美玖がこの前初めてプレゼントされたって喜んでました」
「晃、何あげたって?」
「ハンカチらしいですよ。美玖が見せてくれました」
「ちゃんとセンスのいいやつだった?」
「はい。小さな葉の刺繍がされたシンプルでかわいいやつでした」
「そういうセンスだけはあるからなあ、あいつ」
 あいつ、という言葉に張り裂けんばかりの愛慕が込められているように感じた。七海先輩はいじけるようにコップから飛び出たストローを人差し指で左右に揺らして窓の方を向いた。窓の下にある席の男の子たちが嬉々として騒いでいる。だが七海先輩はきっと、晃先輩をあの空に浮かべている。七海先輩はきっとまだ晃先輩のことを好きなんだろうな。
 七海先輩はハンバーガーを食べ終わると、包み紙を綺麗に畳んでトレイの脇に置いた。するとその途端、七海先輩の表情が徐々に陰ったように見えた。どうやらそれは私の思い違いではなく、七海先輩は思い詰めたように下を向いた。それは深刻な話の前触れのように感じた。七海先輩は改まったように咳払いをして、おもむろに口を開いた。
「あのさ、美玖ちゃんの周りで何か変なこと起こってない?」
 どんな時でも暖かさを孕んでいる七海先輩の表情は、いつになく真剣だった。
「私は知らないです」
「そう。それならよかった」
「どうしてですか?」
 私が聞くと、七海先輩はさらに顔を曇らせた。私はその顔を見つめた。七海先輩は重々しい口を開いた。
「実はね、私が晃と付き合ってたとき、嫌がらせにあうことがあってね」
「え?」
 それから話された嫌がらせは陰湿なものだった。直接的に対峙することは決してなく、学校のロッカーにおいていった教科書をゴミ箱に捨てられたり、上履きがグラウンドの端の方に放り投げられたりしていたらしい。
「高校生にもなってそんなことするなんて信じられません」
 一瞬、七海先輩の表情が固まったが、すぐに表情を崩して「本当ね」と言った。七海先輩は当時のことを思い出してショックを受けているのだろう。七海先輩はさらに思いつめたような表情になる。
「あとね、こんなものも」
 七海先輩は鞄の中で何かを探した。私は七海先輩が鞄の中から取り出した黒い紙を受け取り、そして絶句した。それは元から黒かったわけではない。わずかに隙間に白かったころの面影が見える。そのほとんどが黒く染まった紙は狂気の集合体だった。目を凝らすとその狂気の正体が分かった。紙は何十、何百の小さな『死ね』『別れろ』という字で埋め尽くされ、そしてその一番下に『誰かに喋ったら殺す』と書きなぐられていた。
「私、これ見たとき本当怖くて」
 七海先輩の声は震え目が潤んでいる。彼女の中に恐怖がよみがえっているのだろう。
「誰かに相談とかは?」
 七海先輩は静かに首を横に振った。
「この紙を持って先生に相談に行こうとしたの。そうしたら……」
 七海先輩はそこで言葉を詰まらせる。その表情に暖かさは見る影もなく、悲壮感だけが漂っている。七海先輩はその顔を手で覆い隠した。そして彼女は言った。
「誰かに階段から突き落とされて」
 手の隙間から鼻をすすっているのが聞こえた。
「幸いねっ、怪我はなかったんだけどっ。それ以来っ、誰にも相談できなくて」
 七海先輩の言葉はすすり泣く音で跳ねながら、私の元へ真っすぐに届いた。私は手に持っていた黒い狂気を握りしめた。
「もしかしてこれ、私とご飯を行ってくれてた時期もずっとそんな目にあってたんですか?」
 葵先輩は目を伏せて頷いた。
 私は怒りに震えた。久しく情熱を失っていた心がうちから燃え上がるのを感じた。
「許せないです。やった人も私のことも」
「どうして?葵は何も悪くない」
「だって先輩がそんな目にあってるなんて気づけなくて。その時気づけてたら力になれたのに」
「葵は優しいね」
 七海先輩は弱々しく微笑む。
「七海先輩には本当に感謝しているので」
 七海先輩には何度も助けられてきた。同期との関係がうまくいかなかった泣いていたとき、話を聞いてくれた。その上で全員で話し合う機会を作ってくれた。代が変わって私がマネージャーを仕切るようになって不安でいっぱいだった私に「葵なら大丈夫」と背中を押してくれた。
「七海先輩がいなければ、バレー部を続けられてないです」
「そう言ってくれて嬉しい」
 目に涙を浮かべながら、ようやくいつもの七海先輩の表情に戻った。
「やった人に心当たりはあるんですか?」
「私たちが部活を引退したときに別れたあたりからぴたりと止んだから、多分晃のことが好きな子の仕業なんだと思うけど、それ以上は何とも」
「なるほど」
「あ、でも……」
「何ですか?」
「もしかしたら葵たちの同級生なのかも」
「どうして分かるんですか?」
「嫌がらせが始まったの。葵たちが入学してきたあとなの」
「それなら、確かにそうかもしれません」
「実はね、そういう目にもしかしたらあうかもしれないから気を付けてって、葵から美玖ちゃんに伝えてもらおうと思って今日は呼んだの。特に同級生の仕業なら余計危ないかもしれないから」
「やっぱり七海先輩って優しいですね」
「そんなことないよ」
 七海先輩は優しく微笑してそう言ってさらに続けた。
「もし美玖ちゃんが困ってたら、私に教えて。きっと力になれるから」

 日が暮れて店を出ると、心なしか少し涼しくなったような気がする。後ろから風が吹き、それに押されるように私たちは地下鉄の駅に向かった。階段を下りて、私たちはホームにちょうど到着した電車に早足で歩く。体を動かすと、少し暑く感じた。
「ふう、間に合ったね」
 私たちを乗せて電車は出発した。襟元をぱたぱたとあおぐ七海先輩には色気があった。七海先輩がつり革を持ったときに制服の袖から見える細く白い二の腕をきれいだと思った。何をしても画になるなあ、とその姿を見て感心した。
 車内は空調が寒いくらいに効いていて、早歩きで熱くなった体もすぐに冷えた。
「そういえば、祐樹くんと付き合ってるんだって?」
 唐突に七海先輩が言った。
「バレー部の誰かに聞きました?」
「そう。よく分かったね」
「今日の朝、親友にもそうやって言われたので」
「そうなんだ。でも、二人が付き合ってるのなんか微笑ましいな」
「どうしてですか?」
「だって祐樹くんが葵のこと好きなの有名だったから?」
「それ誰かにも言われたんですけど全然知りませんでした」
 晃先輩にも同じことを言われたとさすがに言えなかった。
「そうなの?すごく分かりやすかったのに。祐樹くんみんなに葵のこと好きだ好きだって言いふらしてたよ」
 祐樹くんがなぜそれほど私を好きになってくれたのか、私は見当もつかなかった。
「……どうして彼は私のことを好きになってくれたんでしょうか?」
「知らないの?」
「そんな話、したことがなかったので」
「本人に聞くのが一番よ」
 七海先輩は静かに微笑んで言った。
 地下鉄に乗って三駅目で七海先輩は電車降りた。電車はもう少し、私を乗せて運んだ。
 その中で私は決意に震えて、つり革を強く掴んだ。こんなに心が綺麗な七海先輩に嫌がらせをするなんて許せない。それに、もし美玖をこれからそんな目に合わせようとするならたたではおかない。美玖に悲しい思いは絶対させないよう私が守る。そう心に誓った。
 でもその前に祐樹くんとの関係を前に進めたい。私はつり革を持った自分の腕に頭を乗せた。
 私はスマホのメッセージアプリから祐樹くんの名前を探した。最後は彼からのメッセージで止まっていた。
【今週末のオフの日、予定空いてる?】
 そう送信すると、すぐにスマホが震えた。
 待ち合わせ時間の十分前に映画館の前に着くと、すでに祐樹くんが待っていた。
「早いね」
「今日は葵先輩より絶対早く来たかったんで」
「次は負けないよ」
「俺だって負けません」
 最初の時とは違い、お互いに軽く冗談が言い合えるのが嬉しかった。細いエスカレーターを上って中に入り、券売機で見る予定だった映画チケットを買った。
「ポップコーン買う?」
 私が言うと祐樹くんは頷き、二人で列の後ろにならんだ。
「どっち味が好き?」
 祐樹くんが言いかけたたとき「待って」と私は言った。
「せーので言おうよ」
「「せーの、キャラメル」」
 あまりに声が揃って笑った。後ろのカップルもそんな私たちを見て笑っていて、少し恥ずかしくなった。
「じゃあ大きいキャラメル味のポップコーン一つ頼みましょうか」
「うん、そうしよう」
 私たちの番が来て、ポップコーン一つとそれぞれ飲み物を買った。代金を請求されて、祐樹くんが出そうとしたが、その手を私が止めた。
「だめ。今日は私の番でしょ?」
 遊園地の屋台で奢ってもらう光景を思い出す。
「俺が払います」
「先輩の言うこと聞きなさい」
 私は祐樹くんの手を制止しながら代金を出した。
 チケットを渡して指定したシアターまで廊下を歩く。廊下は外の光が届かず、ほの暗い。
 シアターの中は廊下よりも少し暗かった。上映時間にはまだ時間があり、座席に座る人は少なかった。チケットを見ながら私たちは指定の席に座って、ポップコーンを間に置いた。オレンジの淡い光でほのかに照らされるシアター、スクリーンに映画の予告編が流れる。面白そうなコメディ映画の予告で笑っていると、隣の祐樹くん笑っていた。上映時間が近づくと徐々に人は増え、人影が頭を下げて前を通り抜けていく。
 予告編が流れなくなると、シアター全体が暗くなって映画が始まった。余命宣告された女性が残された時間を愛する人とどう過ごすのかを描いた映画だった。女性の相手は当然のように男性だった。愛に性別は関係ないなんてみんな言ってるけど結局いつだってヒットするのは男と女のラブストーリーだ。映画の最初の方はそう心の中で文句を垂れていたけれど結局最後は泣いてしまった。祐樹くんはもっと泣いていた。「見ないでください」と祐樹くんは肩の袖で一生懸命涙をぬぐった。純粋な人だな、と思った。
「どこかでご飯食べますか?」
「今日、私の行きたいところでもいい?」
「いいですけど、どこ行くんですか?」
「内緒」
 私たちは大通り沿いを、映画館から十分ほど歩く。映画館から離れていくにつれ、徐々に都会っぽさが失われていく。ガラス張りの高いビルの数々が、小さな商業ビルに変わり、さらに先の方には住宅街が見えた。ビルと住宅街、その境界線にある建物の前で私は足を止めた。
 二階建ての小さな建物には木の引き戸に曇りガラスが張られている。その中で動く人影が見え、張り上げた声が聞こえる。
「ここが葵先輩の行きたいのお店ですか?」
「うん」
 私は一呼吸おいて「入ろうか」と言った。
 引き戸を開けると、「いらっしゃい!」とカウンターの中から白髪で短髪の店主が声を張り上げた。
 店内には、左手にカウンター、右手から奥にかけて座敷席がそれぞれ十席ほどある。カウンターにはスーツを着たサラリーマン風の男の人、手前の座敷には小さな子供を一人連れた家族が座っている。席のさらに奥には階段がある。
 内装は木目調の落ち着いた雰囲気であるが、店主がその雰囲気を覆すほどの明るさを放っている。私たちは案内されるがままに店内を進み、奥の座敷に座った。机の中心には大きな鉄板がある。
「ほいほいほいっと。はいこれお水ね」
 慌ただしく店主がやってきて、小さなお盆に乗せた二つの水の入ったコップを私たちの前に置いた。水が少し跳ねて、机に水滴が付いた。
「おっと、ごめんな!」
 店主はカウンターの方から台拭きを取りに行った。
「元気な人ですね」
「でしょ」
「『でしょ』?」
 祐樹くんは訝しげに首を傾げた。店主が戻ってきて膝をついたとき、私と目が合った。
「あれもしかして嬢ちゃん、バレー部の子じゃないかい?」
「覚えててくださって嬉しいです」
「おお!よく来てくれたな!」
 机を拭きながら店主が言った。祐樹くんが感嘆する店主と私を交互に見る顔の動きが目の端に見えた。
「また食べに来てくれて嬉しいなあ。今日は彼氏さん連れてきたのかい?」
 私は祐樹くんの方を一度見て「はい」と答えた。店主はすでに水滴が拭き取られて綺麗になった机を拭き続けている。
「そうかいそうかい。いいねえ若いってのは」
 店主がそう言うと、座席に座る家族の父親が「すいませーん」と声を上げた。
「おっと、呼ばれてるから行かねえと。晃は最近塾で忙しいみてえだからいねえけど、まあゆっくりしていってな」
 せっかちな店主は階段の方を指さして言ってから私たちの元を離れ、「はい。何でしょう?」と家族の机に到達する前に大きな声を上げた。その背中を目で追っていると、祐樹くんが尋ねた。
「葵先輩、ここって?」
「ここね、晃先輩の実家なんだ」
「へえ、てことはここが食事会やったところなんですね」
 祐樹くんは店内を見回した。
 このお好み焼き屋は晃先輩のお父さんが一人で経営している。白髪ではつらつとした短髪の店主こそが晃先輩のお父さんである。
 この店にはバレー部の先輩たちの引退後にみんなで食べに来たことがあった。そのときは店を貸し切って大いに盛り上がったが、まだ入部して間もない一年生を誘うのは酷だろうとその食事会は二、三年生で行われた。だから祐樹くんがここに来るのはおそらく初めてで、祐樹くんの反応を見るにそれは正しかった。
「この階段上がると、晃先輩の部屋があるらしいよ」
 私は席の横にある階段を指差した。
「へえ」
「食事会のときみんなで晃先輩の部屋覗きに行こうってことになってすごい面白かったんだよ。みんなで押し入ろうとして晃先輩が必死で止めてさ。先輩のお父さんも行け行け!ってみんなの背中押して」
 その三か月前のやり取りを懐かしく思って、思い出すと今でも笑みがこぼれてしまう。
「楽しそうですね」
 そういう祐樹くんは何だかいつもより少しぶっきらぼうに見えた。店内を照らす照明による陰影のせいだろうか。
「何食べる?」
 机の端に置かれたメニュー表を立てて開いて、二人でそれを眺める。以前と変わらず、達筆な字でメニューが書かれている。このメニュー表の字は習字を習っていた晃先輩が書いたらしい。
「どれがおすすめですか?」
「そうだねえ。全部おいしいんだけど……。あ、これ!これね、前、晃先輩がおすすめしてくれたやつ。おもちとチーズが入ってるやつなんだけど、すごいおいしいかった」
 私はメニュー表を指差して言った。
「あとこのもんじゃも晃先輩が焼いてくれて美味しかったよ」
「じゃあ、両方とも頼みましょうよ」
 店主を呼んで、お好み焼きを二つともんじゃ焼きを頼んだ。店主は嵐のようにやってきて去っていく。
 視線を祐樹くんに戻すと、祐樹くんはやはり不機嫌そうに口を尖らせているように見えた。
「どうしたの?」
「いや、何でもないです」
「そう?」
「はい」
 祐樹くんがカウンター内の厨房の中を覗く。中で店主は忙しく動いて冷蔵庫を開けたり閉めたりしている。
「何か晃先輩と印象違いますね。晃先輩はクールって感じなのに、お父さんは元気はつらつって感じで」
「確かにね。まあどっちもいい人なのは間違いないけど」
「それは確かに間違いないですね」
 少しした後、店主が大きな黒い器を持ってきた。
「お待たせ!これもんじゃね!」
 そう言って私たちの机に乗せた器は座敷の家族の机に乗っているものよりも明らかに大きく、その上、器の淵をはみだすほどの量の具材が入っていた。
「これ、量おかしく――」
 そこまで私が言いかけたとき、店主は人差し指を口に当てて、にかっと笑った。店主はそれだけすると、新たに入ってきた客の対応へ向かった。
 あんないい人からはいい人が生まれるだろうな、と思って実際そうだったことに気づく。 
「本当いい人ですね」
「本当だね」
「じゃあ、食べましょうか」
「うん。そうしよう」
 大きな黒の器から具材を鉄板に落とす。それを二人で夢中になってコテで細かく刻んだ。『もんじゃの作り方』とこれまた達筆で書かれた紙に従いながら、水分が飛んでしなしなになった具材をドーナツ状に並べる。その中心に汁を垂らす。ジュウっと気持ちいい音が聞こえる。具材の隙間から汁が逃げて私たちは慌てながら汁を中心に押し込むが結局諦めて、すべて混ぜた。
 それでもちゃんと美味しくて私たちは声を揃えて感嘆した。
 それから頼んだお好み焼き二つとサービスのもう一つを平らげ、私たちはお腹も心も満たされた時間を過ごした。不機嫌そうに見えた祐樹くんも食べ始めてからは終始笑顔で、きっとそう見えたのは気のせいだった。
「「ごちそうさまでした」」
「おう、また来てな!葵ちゃん!祐樹!」
 店主は外まで顔を出してダイナミックに激しく左右に手を振った。私たちが駅に向かって歩き出しても、後ろを振り返ると店主は手を振っていた。しばらくすると、中にいる客に呼ばれたのか「はいよ!」と言って店の中へ戻ってきた。
「美味しかったね」
「はい。また来たいです」
 また同じ大通り沿いを通って駅まで歩く。私たちはオレンジ色の夕陽に照らされて、後ろの歩道には長い影ができた。空は暗くなり始め、薄っすら星が見える。横を車が通り抜けたとき、そういえば行きも帰りも祐樹くんが車道側を歩いてくれていたことに気が付いた。
 住宅街は遠のき、徐々に景色は都会に染まっていく。私たちは商業ビルの群れに囲まれる。そしてその隙間に、小さな公園を見つけた。
「ねえ、あそこで少し話さない?」
 私はベンチを指さした。
「夜になるとちょっと寒いですね」
「そうだね」
 ベンチに座ると、肌寒い風が頬を撫でた。その風は秋の予感を孕んでいる気がした。
 少し話そうと私が誘ったくせに、喋りだせないでいた。静かに時間が流れて、初めて二人で遊園地に行った日のことを勝手に思い出した。私は喋り出すタイミングを失い、間を埋めるために凍えた腕をさすった。その静寂を切り裂いたのは祐樹くんだった。
「葵先輩って」
 祐樹くんはそこで言葉を止めた。
「何?」
「やっぱり何でもないです」
 祐樹くんはそっぽを向いたから、私は「気になる」と彼の顔を覗き込んだ。すると祐樹くんはまた顔を逸らした。私が覗き込もうと何度も顔の位置を変えていると、祐樹くんは四回目で逃げるのを止めた。
「葵先輩って晃先輩のこと好きだったんですか?」
 頭の中に疑問符が浮かんだ。祐樹くんがどうやってその結論に至ったのかわからなかった。
「なんで?」
「葵先輩、俺と付き合ってくれた日、元気なかったじゃないですか。その日がちょうど晃先輩が付き合い始めた時期と重なるって同期から聞いて」
 妙に鋭くてどきりとした。晃先輩が付き合い始めた時期というのは、当然ながら美玖が付き合い始めた時期と等しい。女の子が男の子を好きなる、という先入観さえなければ、祐樹くんは私の心理を見事に言い当てたことになる。
「今日、晃先輩の話するとき、すごい楽しそうだったから。もしかしたらと思って」
「あ、だからちょっと今日機嫌悪く見えたの?」
 言ってからデリカシーのない言い方だったかなと口をつぐんだが、もう遅かった。
「すみません。自分ではそんなことないと思ってたんですけど、俺、意外と嫉妬深いのかもしれないです」
 日は沈み、さっきまであったオレンジが消えてなくなっていた。その代わりに祐樹くんの顔が赤みがかっているのが、公園を照らすわずかな灯りでも分かった。
 決別のため。それが祐樹くんを晃先輩の実家へ連れてきた理由だった。晃先輩が育ったあの場所で、彼に嫉妬することなど忘れて祐樹くんと食事を楽しむことができれば、私たちはきっとうまくやっていける。そんな自信が持てると思った。だから私は晃先輩の名前を言ってみた。その名前に負の感情を乗せないように、わざとらしく、楽しそうに彼の名前を言ってみた。
 その私の行動が、祐樹くんの嫉妬の原因になっていたのかと気づいた。
「違うよ」
 私がそう言うと、祐樹くんはほっとした表情を浮かべたのが横顔で分かった。次に来た沈黙は私が破った。
「あのさ!」
 思ったよりも大きな声が出て、祐樹くんは私を見て少し驚いたような顔をした。私は恥ずかしくなって声を落とした。
「ずっと気になってたことがあるんだ」
「何ですか?」
「祐樹くんはどうして私のことを好きになってくれたの?」
「突然ですね」
 私が祐樹くんの目を見つめ続けると、彼はその真っすぐな目を逸らした。そしてもう一度彼の目が私の目を見た。祐樹くんは一回深く呼吸をして口を開いた。
「葵先輩のこと知りたいって思ったんです」
「知りたい?」
「普段葵先輩って自分の気持ちを押し殺してるように見えて。何か辛そうなときに無理して笑ってるように見えるときとかがあって、本当はこの人何考えてるんだろうって思ったんです。もしそれが正しくて、無理して笑ってるなら、俺が助けてあげないとって。そう思ってたら、どんどん先輩のこと知りたいって思うようになって、気づいたときには好きになってました」
 曇りない眼で祐樹くんは私の目を見つめた。
 私は少し驚いた。ずっと一人だと思っていた。親友のことを好きになって誰にも相談できずにいた。誰にも気づいてもらえないと思っていた。祐樹くんは心のうちに留めていたの孤独の存在に気づいてくれていたのか。そう思うと胸が無性にあったかくなった。
「葵先輩はどうして俺と付き合ってくれたんですか?」
 祐樹くんが聞いた。
 私はその答えを用意してきた。それが正しかったと今確信した。
「こんなに真っすぐ私を好きでいてくれる人だったら――」
 最初は心の傷を癒すためだった。でも今は違うと思える。
「祐樹くんだったら私を幸せにしてくれるかなって思ったの」
 この言葉は嘘じゃない。祐樹くんはきっと私のことを幸せにしてくれる。
 今日、晃先輩に嫉妬なんてしなかった。ただ祐樹くんといるのが楽しかった。一つ一つの思い出が祐樹くんを運命の人に変えていく。私も祐樹くんの運命の人に変わっていく。私たちはきっとうまくやっていける。
 祐樹くんの口角が暗闇の中で小さく上がった。私の口角もきっと上がっている。
「祐樹くん、敬語やめにしない?」
「いいんですか?」
「だって恋人同士でいつまでも敬語っていうのも変でしょ?」
「分かりまし……、あ、分かった」
 照れくさそうに言う祐樹くんの表情が、愛らしく思える。
「ねえ、祐樹くん」
「なに?」
「キス、したい?」
「へっ!?はっ!?」
 祐樹くんは分かりやすく戸惑う。その姿に私は微笑して、そのまま目を閉じた。
 温かな感触が唇に触れた。
 顔を離して目を開けると祐樹くんは顔を赤くして目を逸らした。その仕草を愛おしいと思った。
「な、なんか照れくさいですね」
「あ、また敬語」
「ほんとだ」
 二人で笑いあった。
「祐樹くん」
「なに」
「好きだよ」
 私は、初めて人に好きだと言った。

 家の建付けの悪い門扉は、いつもよりも軽く感じた。
 玄関と廊下を抜け、リビングに入る。リビングの扉は少し重たかった。中で、お母さんはソファに寝転がりテレビを見ている。いつも通りの光景だった。そんなお母さんにいつも通り「ただいま」と声をかけた。
「おかえり。ご飯いらないっていうから葵の分作ってないけど」
「うん。食べてきたから大丈夫」
「ふーん。それならよかった。何食べてきたの?」
「お好み焼き」
「あら、もしかして前言ってた先輩のお店?」
「そう。晃先輩のお父さんがやってるお店」
「美味しかった?」
「うん」
「それなら私も今度行ってみようかしら」
 お母さんはそういうと、またテレビに集中し、お笑い芸人の漫才を見て鼻で笑った。話している間、お母さんは一度も私の方を見なかった。私がお母さんに初めてちょっとした反発をしてしまってから、彼女との距離感を妙に意識するようになった。お母さんは私のあの小さな反逆を、ただ私が少しイライラしていただけだと捉えたのだと思う。あれから少しの間、気まずくなることもあったが、気づけば元の関係性に戻った。正確にいえば、元の関係に戻ったとお母さんは思っているのだと思う。だけど私の口の中にはまだあの時の渋味が残っている。
 私は自分の部屋に戻るため、廊下に足をふみいたところでふと立ち止まった。廊下の方から私は顔を出して、お母さんの姿を見ると、彼女はまだテレビに夢中になっている。そんなお母さんを振り向かせたくなって、私は「お母さん」と口に出した。
「何?」
「私、恋人できた」
 ソファでテレビを見ていたお母さんは、俊敏に振り返った。ソファの背もたれに手を置いて、乗り出すようにリビングと廊下の間に立つ私の方を見ている。
「葵、今なんて言った?」
「恋人ができた」
 その言葉を確認するとお母さんの表情はみるみる明るくなった。
「そう良かったわねえ。お父さんと一緒に心配してたのよ。孫の顔が見れないんじゃないかって」
「もう失礼じゃない?」
「もしかして、今日ご飯一緒に行った子?」
「うん」
「どんな子なの?」
「バレー部の後輩の子だよ」
「あら、やるじゃない葵」
 お母さんは顔の皺がくっきりと浮き出るほど大きく笑った。この人もこんなに笑うのかと、初めて知った。その時玄関の扉が開く音がして、廊下の方からご機嫌な鼻歌が聞こえた。
「ただいま~」
 廊下の暗がりからお父さんが現れた。
「おかえり」
「お、どうした葵?こんなところで立ち止まって」
 私はリビングの方へ一度避けて、そこをお父さんが通り抜けた。
「お父さん、今日帰るの早いね」
「ようやく仕事がひと段落してなあ」
「よかったわねえ」
「あれ、お母さん今日機嫌よくないか?」
「うふふ」
「なんだよ。少し気味が悪いぞ」
「ちょっと失礼ねえ」
 お父さんはスーツをハンガーにかけて、ネクタイを外しながら言うと、お母さんは皺をくっきりとさせたままキッチンに去っていく。お父さんは困り顔で私を見て肩をすくめた。すると、キッチンの方からお母さんの声がした。
「お父さん聞いて、葵に彼氏ができたんですって」
「お、そうなのか葵」
「もう、お母さん。勝手に言わないで」
「ごめんね葵、つい嬉しくて」
「どんな子なんだ?」
「バレー部の後輩なのよねえ」
「お母さん!」
 キッチンの方から、お母さんはお父さんのごはんを机に運んでくる。お父さんはご飯が並べられた近くの椅子に座って、「うまそうだ」と呟いた。
「葵、彼氏できるのは初めてか?」
「うん」
「そうか。そいつはちゃんとした男か?」
「すごくいい人だよ」
「もし変な男だったら俺がぶっ飛ばしてやるからな」
「ちょっとお父さん」
 お父さんはシャツの腕をまくってファイティングポーズをとって、もう一度ごはんを運びに来たお母さんがそれをなだめた。
「今日、赤飯はないのか?」
「もうお父さんからかわないで」
「彼氏と食べてきたからいらないわよねえ」
「お母さんも」
 わざとらしく、怒って見せても、ぷっと笑ってしまった。
「今度二人に紹介するね」
 それだけ言って、私は自分の部屋に戻った。
 私に彼氏ができただけで、この家はこんなにも明るくなる。温くて幸せな家庭。会話と笑顔に溢れて、絵にかいたように愛が溢れる素敵な家族。私がこの家の歯車を止めていた。その歯車が、きちんと動き出して本来の姿に戻った。
 私のことを好きになってくれた男の子と一緒になる。これがみんなが幸せになれる唯一の方法だったのだ。
 これでいい。
 これでいいんだ。
 いつも通りの朝、でもなかった。今日はいつもより遅い。だけど足取りは軽い。踏み出した足が次々と前に進む。九月の残暑さえ心地いいと感じる。いつもより少しだけいい朝だった。教室に入ると美玖が見えた。私は一直線に美玖の元へ向かった。
「美玖、おはよう!」
「おはよう。珍しいね」
「何が?」
「葵が私よりも遅いの珍しいじゃん」
「確かに」
 私がいつも美玖よりも早く来ていたのは、美玖と話したかったからだった。美玖と一緒の時間を過ごしたかったから、できるだけ早く来て美玖が来たらずっと話ができるようにした。自分から声をかけるのは緊張してしまうから、遅れてくる美玖に気づかないふりをして声をかけてもらえるようにした。でも、その時間は私には必要ない。これからは祐樹くんと前に進んでいく。私はそう決めた。
 美玖の席のそばに私が立った。
「あれ、葵何かいいことあった?」
「ん?秘密」
「何よ~教えてよ」
 今の私には祐樹くんの彼女として、美玖の親友としてやっていける、そんな確信があった。
「嘘だよ。何でもない」
「本当に?」
「本当に。それより今日の数学の宿題やった?教科書の問題解くやつ」
「……あ、やってないかも」
 美玖は鞄の中を少し漁った。
「……というか教科書忘れちゃって」
「珍しい。美玖が教科書忘れるなんて滅多にないのに」
「うん。ついうっかり。見せてもらってもいい?」
 美玖は申し訳なさそうに笑った。
「もちろん」
 美玖は私の教科書の問を見て、問題をノートに書き写していく。それが終わると、ありがとうと私に教科書を返した。それを受け取ってから私は聞いた。
「あのさ、美玖の周りで変なこととか起きてない?」
「え、どうして?」
「何もないならいいんだけど」
「……何もないよ」
「ならよかった」
 美玖はいつも通り笑った。
 七海先輩は私たちの同学年に犯人がいるかもと言っていた。本当にそうならば、学年の違う七海先輩よりも恐らく関係性が近い美玖の方が危険になりそうな気がするが、七海先輩に嫌がらせした犯人もさすがに自らの行いを反省したのだろうか。
 いや、きっとそうだ。私の人生が上手く回りだしたのだ。一ついいことが起きれば、次々といい方へ運命は転がっていくのだ。私は祐樹くんと幸せになって、美玖は晃先輩と幸せになって、美玖も私も親友として互いの幸福を喜び合い、分かち合う。家族との絆も深め、これ以上望みようもないくらいの幸せを私は手にしている。
 美玖が知らないなら、知らないままの方がきっといい。私の世界が幸福に変わっていく。

   ○

 公園に子供の笑い声、軋むブランコの音、そして跳ねるボールの音。バレーボールは肌寒い風に吹かれながら宙を舞い、たまに揺れながら私たちの間を行き来する。私がレシーブしたボールを祐樹がトスをして、それを私が強く打つと今度は祐樹がレシーブして私がトスをする。それをしばらく繰り返している。
「葵先輩、やっぱりうまいね」
「ほんとにっ!?」
 ちょうど強く打ったところで答えて、変に語尾が力がこもった。そうしたら祐樹が笑った。
「ちょっと、今何で笑ったの?」
「葵先輩の言い方、面白かったんでっ!」
「自分も、なってるじゃんっ!」
 どっちも強く力を込めるたびに、どちらも変な喋り方になってそれが妙に面白くて二人して笑った。私たちの関係は秋のあの日から徐々に好転している。初めてのデートの緊張感は見る影もなく、お互い心のうちが見せ合えるようになってきた。
「ちょっと休憩にしない?」
「そうだね」
 私たちは近くの木の下にあるベンチに向かった。ベンチには十二月の寒さに充てられた落ち葉が乗っていて、祐樹がそれを払った。
「どうぞお嬢さま」
「ありがとう、執事さん」
 胸に片手を当ててベンチにもう片方の手を向ける祐樹に従い、私がベンチに座ると、ちょっと待っててと祐樹が自動販売機に向かった。飲み物を奢るのは、今日は祐樹の番だった。こんな冗談が言い合えるようになるとは、付き合った当初は想像もできなかった。ましてあれだけ畏まっていた二人が休日公園でバレーボールをするなんて。
「何笑ってるの?」
 戻ってきた祐樹が私に微糖のコーヒーを差し出しながら言った。私がコーヒーを受け取りながら「何でもなーい」ととぼけると、祐樹は指を弾いて私のおでこに軽く当てた。痛くもないが思わず「いて」と声を出してしまった。祐樹はいたずらっぽい顔をして、そのまま隣に座った。
「コーヒーありがとう」
「どういたしまして」
 もらった缶を両手で包み込んで温もりを感じる。かれこれ一時間くらいボールを打ち合っていたおかげで体は暖かいが、手の先は冷たかった。
「腕、大丈夫?」
「うーん、ちょっと痛い」
「やっぱり久しぶりにバレーやると痛くなるよね」
「それに冬だしね」 
 セーターの袖をまくると、腕が赤くなっていて少しかゆくて痛い。
「バレーするの中学のとき以来?」
「ほとんどそうだね。部活の練習をたまに手伝うくらい。こんなにやったのは久しぶり」
 コーヒーの缶を開けると、気持ちのいい音がした。飲み口から薄い湯気が香りとともに立ち上る。口を付けて少しだけすすった。
「そういえば、葵先輩って中学と高校の距離、結構離れてるよね。なんでこの高校選んだの?」
「うーん、まあ学力がちょうどよかったのと、あとは新しい環境に飛び込んでみたかったからさ」
「へえ、なんとなく分かるかも。俺も同じような理由で高校選んだから」
「似た者同士だね」
 ぎこちなく展開されていた何気ない会話も、滞ることなくすらすらと流れる。それが当たり前になった。
「同じ中学の人は何人くらい同じ高校通ってるの?」
「同じ中学校の人は一人だけだよ。正直、顔と名前しか知らない女の子なんだけど」
「少ないね」
「ここから遠いからね」
「祐樹はどれくらい同じ中学校の人いるの?」
「同級生にはいないんだよね」
「そうなんだ」
「後輩にもいないなあ。先輩にはいるだけど、ほらあの元生徒会長の」
「へえ。あの人と同じ学校だったんだ」
 私たちの高校で生徒会長といえばあの人しかいない、と強い印象が植え付けられている。彼は今の三年生で、去年彼が二年生だったころの選挙で断トツで票を獲得して生徒会長になった。同級生にはもともと日々の行動で積み上げた信頼があるらしいが、高校生とは思えぬほど冗談を交えた流暢な演説で下級生、上級生からも拍手喝采を浴びた。去年から付いたエアコンも、全国的に設置の増えているというデータを提示しながら彼が校長先生に直訴したからだと噂が流れている。実際のところはどうなのか知らないが、彼がやったと聞けば妙な説得力があった。
「うん。中学生のときも生徒会長やってたんだけど、その時もすごかったよ」
「どんなこと?」
「うーん例えば、ほら、運動会とか文化祭の始まる前と後で先生の長い話あるじゃん?あれが生徒たちに必要なのか!余韻に浸って語り合う時間の方が重要じゃないのか!って熱弁ふるったら最終的にどの先生も三十秒くらいで終わらせるようになったり」
「すごいね。私の中学の先生も本当に話長くて退屈だった」
「あの人のおかげでイベント系はかなり楽しくなった気がする」
「そういえば私たちの高校の先生も話短いけど、もしかして……」
「かも」
 祐樹が笑うと、頭上の木から枯れ葉が一枚揺れながら彼の頭に乗った。祐樹がその頭を差し出してくるので、私はその枯れ葉を摘まんで地面に落とした。
「どうも」
「いえいえ。それなら先輩も一人だけってことは結構珍しんだね」
「うん。……あ!」
「何?」
「あと七海先輩もだ」
「そうなの?それなら一番に言わないとダメじゃん」
 冗談っぽく言った。
「中学のころ、あんまりあの人のこと知らなくて」
「え、そうなの?七海先輩どこにいてもすごく目立ちそうなのに」
「いやあ、なんかあの人中学校の時と印象全然違うからさ」
「へえ、どんな感じだったの?」
「演劇部の部長やってたけど、今みたいにそんな注目されるような人じゃなかったていうか。ちょっとぽっちゃりもしてたし」
「演劇部の部長やってたんだ、七海先輩」
「知らなかったんですか?」
「うん。あんまりそういう話したことなかったな」
 七海先輩と何度もご飯に行ったが、彼女の中学時代の話を聞いたことがなかった。でもよく考えると、私もあまり中学時代の話をしたことはなかったかもしれない。中学生のころバレー部の選手であったことは、高校のバレー部のマネージャーになったときに披露したが、それ以外特段人に話すようなことはなかった。
「見てみたいなあ。七海先輩の演技」
「うまかったですよ。文化祭でしか見たことないんですけど」
「ええ、なんかずるい」
「いいでしょ」
 祐樹が眉を上げるから私は彼のおでこを軽く小突いた。祐樹が小さく「いて」と漏らして、私たちは笑った。
 強い風が吹いて、思わず縮み上がる。
「うー、寒い」
「そろそろ帰りましょうか。お嬢様」
 祐樹はそう言うと立ち上がり、私に手を伸ばした。
「それやめて」
 私はそう言いながら、彼の手を掴んだ。
 帰り道、隣を歩く祐樹を見て思う。
 祐樹は私のことをもっと知りたいと言ってくれた。今彼は私のことをどれくらい知ってくれているのだろう。きっと私がコーヒーが好きなことも、アイドルグループが好きなことも、小説が好きなことも祐樹は知っている。いつか私は、美玖を好きだったことも話せるのだろうか。
 祐樹は涙脆くて、真面目そうに見えて冗談が好きで、緊張しいだと私は知っている。だけど、仲のいいと思っていた七海先輩ですら知らないことがたくさんあるんだ。祐樹について知らないことはきっとまだたくさんあって、祐樹が知らない私のこともたくさんある。それを知っていくことがだんだん好きに変わっていくんだ。そんな愛の形もあるのだと私は知った。
 ゆっくり、一歩ずつ私たちは前に進む。

   ○

 体が震え、気を抜けば鼻水が零れ落ちそうになる極寒の中、高校のグラウンドで体育の先生が出席を取っているのを座って待っている。
「寒いからって長距離走やる意味あるのかなあ」
「それも新年早々」
 隣に座る斎藤さんと池田さんが凍えながら小さくこぼした。本当にそう思う。先生は健康のためだとか言うけれど、きっとそれは建前だ。先生も誰かに言われているからそう言うしかないのだろうけど。体育着の長ズボンを買っておけばよかったと今になって思う。太ももの当たりに冷たい空気が入り込んでくる。
 出席を取り終わって、皆でスタートラインに並ぶ。その中で美玖を探した。
「美玖、一緒に走ろう」
「うん」
 美玖を誘って、一緒に後ろの方に並ぶ。前までは意識してしまって、何をするにもなかなか自分から誘うことができなかった。いつもなら美玖が誘ってくれるところを今日は私から誘うことができたことが少しうれしかった。
 だけど、これからグラウンドに描かれたトラックを三週しなければならないと思うと憂鬱だった。せめて景色が変わってくれればとも思うが、コンクリートの校舎と敷地を取り囲む高い金網がずっと目に入ってしまう。
 先生の笛の合図で一斉に進み出ると、運動部の子たちが先頭争いを繰り広げた。いくら体育の持久走といえど、手を抜いたら顧問の先生に怒られてしまうらしい。運動部の先頭集団が私たちとみるみる距離を離していく。しかしその中で陸上部の子がペースを上げ独走状態になった。
「今日最後の授業で良かったね。この後授業があったら大変だった」
「本当だね」
 後ろの方で喋りかけると、美玖ははこれから続く道のりがよほど憂鬱なのか、返事が素っ気ない。私も憂鬱だ。
「おーい!ちゃんと走れよ!」
 ゆっくりと話しながら走っていると、先生から檄が飛んだ。
「もうちょっとだけ速く走ろうか」
「そうだね」
 少し体が温まり、息が切れてくる。話していると怒られるから、私たちは黙って走った。一周を走ったあたりで後ろから人の息が迫ってくるのが分かった。それは独走していた陸上部の子の息だった。その子の背中が見えたと思ったら、すぐに遠いところまで行ってしまう。
「すごいね」
 美玖に話しかけたが、返答はなかった。走りながら、校舎の方をちらちらと見ている。
「どうしたの?美玖」
「え、あ、いやなんでもないよ」
 それでもやはり校舎の方を気にしているように見えた。
 三周が終わると、休憩という名の説教が始まった。要するに黙って一人で走りなさい、ということだった。
 もう一度長距離走が始まると、喋りながら走れる雰囲気ではなくて、美玖と離れて一人で走った。バレー部のプレイヤーだったころを思い出して一生懸命走ってみるが、さすがに体力が落ちていて、タイムは中学生のころより遅かった。
「疲れたね」
「うん、疲れた」
 美玖の返事はやはり素っ気なくて、疲れていると言いつつも、授業が終わると美玖はいつもより速足で更衣室に向かった。そして更衣室に入ると美玖はすぐに制服の胸ポケットの中を確認してほっとした表情になった。
「美玖?」
「何でもない」
 美玖はやっと心がこもったような返事をしてくれた。だけど制服に着替えて教室に戻る間はずっと浮かない顔をして、帰りのホームルームの間も、美玖は落ち着かない様子だった。挨拶が終わった途端にみんなが体育の愚痴をこぼしている間にも、美玖は自分の席で鞄の中で何かを探していた。そこを探し終わると、今度はロッカーの方へ向かい、中を荒く確認しているようだった。やはりその様子は明らかにおかしい。
 私はそっと美玖に近づいて聞いた。
「何か探してるの美玖?」
 私の声に美玖がびくりと反応する。
「なんだ葵か。何にも探してないよ」
 美玖がそう言って鞄を背中の後ろに隠したとき、何かが音を立てて落ちた。
「それ……」
 ノートのページ一面に広がる黒。美玖はそれをすぐに隠したが、私はそれに見覚えがあった。
「葵……助けて」
 小さな声で言った美玖の目尻から涙が一つ零れた。
 私はノートを美玖のロッカーに隠して、怯えた美玖を連れて人気のない踊り場に移動する。上の階には部活で使われないような図書室や理科室くらいしかなく、そこならば一先ずは誰かに見られる可能性は低そうだった。
「何があったか聞かせて?」
 私がそう聞くと、美玖の目が潤んだ。
「最初は教科書がなくなってもすぐに見つかるくらいの軽い嫌がらせだったから我慢してたの。でもだんだん探しても見つからなかったり、壊されてたりするようになったことが増えて、さすがにそろそろ誰かに相談しようと思ったんだけど、さっきの昼休み『死ね』とか『別れろ』ってノートに書かれてるのに気づいて。晃くんのことを好きな人がやってるんだと思うんだけど、その一番下に『誰かに言ったら殺す』って書いてあってどうしようと思って。今の時間は何も取られてなかったんだけど」
 心に溜まっていた美玖の不安が一気に解放されたようで頭が整理できず思ったことを喋っているようだった。ノートに書かれていたのは、七海先輩から見せてもらった嫌がらせの紙の内容とほとんど同じだった。七海先輩のときと同じ手口。美玖に嫌がらせをしているのはきっと同じ人だ。
「嫌がらせはいつ頃から?」
「確か、九月ごろから」
 滅多にものを忘れない美玖が教科書を忘れたと言っていたときのことを思い出す。あれは美玖が教科書を忘れたのではなく、誰かに隠されていたのか。ずっとそばにいながら、私は自分の幸せに浮かれて親友が苦しい思いをしていることに気が付けなかった。そんな自分を無性に恥じた。
「晃先輩はこのこと?」
 美玖は首を横に振った。
「まだ、知らないと思う。最近受験が近づいてきて晃先輩に会えてなかったから。もうすぐ会うんだけど、私隠せる自信ないよ。晃くんに迷惑かけたくない」
 美玖の声はどんどん弱弱しくなる。
 階段の下からたまに喋り声が聞こえる。もし、美玖が私に相談している姿を嫌がらせの犯人に見られてしまったら、七海先輩のように直接的な危害を加えられてしまうかもしれない。周りを警戒する。時々通る人影がすべて怪しく思えてしまう。目線を階段の下に落としていると、人影が一つ止まった。
「何してるの?」
 声がして心臓がはねた。その人影はだんだん近づいてきて、顔が見えた。
「どうしたの葵?深刻そうな顔して」
 私は胸を撫でおろした。そこに立っていたのは七海先輩だった。七海先輩は階段を上ってくる。
「受験本番も近いし、今から上の図書室で勉強しようと思ってたんだけど。……あれ、もしかして、あなたが葵の親友の美玖ちゃん?」
 美玖はゆっくり頷いた。笑顔の七海先輩に対して美玖は何とか取り繕おうとするが、嫌がらせの恐怖を吐き出した直後で怯えた感情を上手く隠せていないようだった。
 その様子を見て、七海先輩がはっとした。
「まさか」
 七海先輩は私の顔を見た。私は美玖の顔を見てから一度頷いた。
「美玖ちゃん、私が晃の前の彼女ってことは知ってる?」
「はい」
 美玖の声は弱弱しく小さい。
「美玖ちゃん、今嫌がらせにあってるのよね?」
「何で知ってるんですか?」
「実はね、私も晃と付き合ってたときに嫌がらせにあってたの」
「え?」
「辛かったわよね」
 七海先輩がなだめるように言うと、美玖は唇を噛みしめて頷いた。目が潤んだように見えたが、初対面の人前で泣くのは我慢しているのだろう。その様子を七海先輩はいつもの暖かい表情で見守っていた。
 すると安心したのか、美玖はぼろぼろと涙を流し始めた。初めは涙を指で拭っていたが、次第にそれでは足りなくなった。美玖は胸ポケットから小さな葉の刺繍のついたハンカチで涙を拭き出した。晃先輩からもらったハンカチ。だから体育が終わって胸ポケットをすぐ確認していたのかと気づいた。
 美玖が落ち着くまで七海先輩は待っていた。私は落ち着くまで美玖の頭を撫でていた。
「嫌がらせのこと誰かに話した?」
 美玖を首を横に振った。
「それなら、私たち以外に相談するのは辞めた方がいいと思うの。特に先生には」
「どうしてですか?」
 美玖が聞いたが、私はその理由を知っていた。
「嫌がらせの証拠を持って職員室行こうとしたら、階段から突き落とされたことがあるの」
 美玖は口を開けて言葉を失っていた。
「だから先生に言うのは、誰がやったか分かってから。それまではここにいる私たち以外には言わない方がいい。分かった?」
 美玖はこくりと頷いた。
「何やってるんだ?やることないなら帰れよー」
「はーい。今から図書室で勉強しようと思って」
 顔だけ知っている名前の知らない先生が階段の下から私たちに向かって言って、七海先輩が答えた。
「あんまり人目につくのもまずいわね」
 そう言って七海先輩は私たちを階段の上の方に誘導した。
「嫌がらせの犯人は多分晃を好きな人だと思う。だからとりあえずはその人が飽きるのを待つ。それか……」
 七海先輩は口をつぐんだ。
「こんなことは言いたくないけど、別れるしかないのかも。別れるまで嫌がらせはやまなかったから」
 美玖は「そんな……」と小さな声で漏らした。
「本当はもっと力になってあげたいんだけど、受験も近くて勉強しなくちゃいけないから。それが終わったらちゃんと私も何かできることを探すから、それまでは葵が力になってあげて」
 七海先輩が私の手を力強く握った。

   ○

「おはよう美玖」
「おはよう、葵」
 毎朝私は欠かさず美玖に挨拶をするが、美玖は日に日にに弱弱しくなっていく。私が守らなければ死んでしまうのではないかとすら思うほどに。
 美玖が嫌がらせを受けているのを知ってから一週間たったが、次の嫌がらせはされていない、と美玖は言っていた。美玖のことだから私に迷惑をかけないよう隠している可能性もあるかもしれないけれど。
 私はどうやって美玖を守っていけばいいんだろうか。いつもの明るい笑顔はどこかへ行ってしまって、臆病な子犬のようになった美玖を見て、嫌がらせの犯人が許せなくなる。
 美玖は私に近づいて小さな声で言った。
「晃くん、受験が終わって今日に部活行くらしいの。前晃くんと話したとき、嫌がらせのこと自体は気づかれてないと思うんだけど、何かがおかしいとは気づいたみたい。嫌がらせに気づかれるのは時間の問題かもしれないけど、とりあえず私について何か聞かれても知らないふりをしといてほしい」
「分かった。何も言わない」
「ありがとう」
 美玖は何とか取り繕おうとしているが、その声はやはり細かった。

「ナイストス!」
 晃先輩のスパイクしたボールは体育館の床に高く跳ね、バスケのゴールの端に当たって遠くの方へ飛んでいく。黄色い声ではなく、野太い野性味のある歓声が体育館の中に響いた。美玖の言った通り晃先輩は練習に来た。元キャプテンの陽太先輩も一緒だった。
 リベロの祐樹がレシーブをしてセッターがトスを上げて、スパイカーがネットの向こう側にみんなが順番にスパイクを打ち込んでいる。陽太先輩と晃先輩のときだけ、床に跳ねるときの音が違った。
 恋人が辛いことに気づかず呑気にバレーをする晃先輩を見て少し腹が立ったが、私も初めは気づけなかったわけだし、何より美玖が晃先輩が気づかないことを望んでいるのだと心を落ち着かせた。
 いつも通りの生活をした方がいい、相談したことがばれたらもっと酷い目にあうかもしれないと七海先輩の助言を受けて、私は習慣を崩さず部活に出ることにした。
「五分休憩にしようか」
 キャプテンが言って、プレイヤーたちは体育館の端によって水分を補給している。二月の寒さでも、動くと体が熱くなるらしい。みんな半袖半ズボンで、汗をかいている人さえいる。私は半袖半ズボンどころか、長袖のジャージを二枚着こんでいる。それでもまだ寒く感じる。
 皆が休んでいる水分補給をする中、祐樹が体育館の外のトイレに行ったのを見計らって、私は晃先輩に近づいた。晃先輩はシャツをあおぎながらスクイズボトルから水を飲んでいる。
「久しぶりだけど、やっぱりすごいですね」
「いや全然だよ」
 晃先輩は首を横に振った。
「受験終わったらしいですね」
「美玖ちゃんから聞いた?推薦で合格したからさ、みんなよりも少し早く終わったんだ」
「やっぱりすごいですね」
「たまたま運がよかっただけだよ」
 この人は何でもできるのに、いつも謙遜をする。
「陽太先輩も推薦ですか?」
「いや、陽太はまだ試験残ってるよ。いつも先生に怒られてるから推薦で出願させてもらえなかったって。今日は気分転換らしい」
「そういえば教室のゴミを回収場所に出しに行くのをさぼって怒られてるって聞きました」
 そう言うと、晃先輩はふふっと笑って「陽太らしい」と言った。晃先輩はもう一度水を飲んだ。
「葵ちゃんに聞こうと思ってたんだけど、美玖ちゃんが最近元気ないみたいなんだけど?何か知らない?」
「知らないです」
 美玖の予想通り、晃先輩は私に美玖のことについて聞いてきた。彼は深刻な表情ではなかった。まだ嫌がらせだとは思いもしてないのだろう。私はイメージしてきた通りにとぼけた。
「そっか」
 晃先輩は少し落ち込んだような表情をした。
 その姿を見て、やっぱり晃先輩は知っておいた方がいいと思った。この人はきっと美玖が何を相談したとしても迷惑だなんて思わない。むしろ美玖を助けてくれるはずだ、とそう思った。美玖との約束があるから直接的には言わない。でも遠回しに言って、気づくのが早まるくらいならいいだろう。
「晃先輩って高校入ってから誰かに告白されたりしましたか?」
「え、どうしたの急に?」
「何となく、気になって」
「二人だけだよ」
「七海と美玖の二人ですか?」
「うん」
「それだけですか?」
「……それだけだったと思う」
「本当に?」
「……本当に」
「ほかに晃先輩のこと好きって噂の人とか!」
「ちょっと落ち着いて葵ちゃん」
「すみません」
 自分が前のめりになっているのに気が付いて、私は一つ深呼吸した。
 さすがに遠回しすぎるのだろうか。
 できるだけ早く気づいてあげてほしい。私はそう思って大きなヒントを口にしてしまった。
「あの七海先輩に嫌がらせをした人に心当たりありますか?」
「嫌がらせ?何のこと?」
 そのときぱんっと手を叩く音が聞こえた。
「練習再開!」
 キャプテンが言った。陽太先輩じゃなくて、私と同い年のキャプテンの声だった。それを聞いて、みんながコートの方へ戻っていく。
「晃行くぞ!」
 陽太先輩がそう言って晃先輩の体をコートの方へ押していく。その振り返り際で晃先輩が言った。
「ごめん、また後で話そう」
 みんなが輪になって集合して次のメニューの準備をしている。私はスクイズボトルの中身を確認して、少ないものがあればタンクから水を汲まなければいけない。当然夏よりは水の消費が少なく、中身はあまり減っていなかったので私はそのままにした。
 晃先輩は七海先輩が嫌がらせにあっていたことにピンと来ていないようだった。
 たしかに私も七海先輩から告白されるまで嫌がらせされていたことを知らなかったわけだし、晃先輩にも別れるまで隠し通していたということだろうか。
 美玖はあれだけ心を痛めていた。どれだけ隠そうとしても晃先輩に何かがあったことまでは気づかれてしまった。私たちが入学してから、次の年に晃先輩たちが引退するまでの一年とちょっと。その間七海先輩はどれだけつらい思いを押し殺して来たんだろう。

   ○

「無理しなくていいからね」
「うん」
 体育着で体育館に移動する途中で美玖に言った。どれだけ辛くても日常は進む。個人の事情などお構いなしに今日も体育の授業は開催される。嫌がらせは未だにないが、いつ何をされるか分からない。その状況が美玖の心を蝕んでいた。
「やっと葵がバレーする姿見れるね」
 美玖は無理して笑うように見えた。美玖を守ってあげたい。でもどうやって?その答えがずっと見つからないでいる。私にはそばにいることしかできない。
 軽い準備体操のあと、授業が始まった。
「まず最初はトスの練習をしましょう」
 先生が頭上でボールを手に持って真上に投げて同じ場所でキャッチする。まずはこれでトスの感覚をつかむのだ、と中学生のころバレーを始めたばかりのときに同じことをやった。生徒たちは先生の真似をして、頭上にボールを投げる。退屈だったけれど、私もそれを真似た。時々生徒同士がぶつかり合いそうになって、気を付けるように先生が指示をする。
「じゃあ次は二人一組になって」
 当然、私は美玖と組んで、今度はみんな相手に向かってトスの姿勢でボールを投げた。
「これで合ってる?」
「もう少しおでこのあたりに持つといいかも」
 美玖に聞かれて、できるだけ普段通り答えた。美玖もできるだけ普段通りを装っているように感じた。
「はい、今度はトスしてみよう」
 指でボールを吸収するように手に収めて、膝を使ってボールを上に上げる。美玖も最初は難しそうだったが、だんだんとこつを掴んでいってそれなりに筋がよかった。うまく私の元にボールが届いたとき、少し嬉しそうな顔をして安心した。
「最後はスパイクの練習をしてみようか。ここに並んで」
 レシーブの練習を挟んでその指示があった。みんなはネットの前に順番に並ぶ。私は美玖と一緒に並んだ。しかし、先生が何故か私を見ていた。
「じゃあスパイクはバレー部に見本を見せてもらいましょう。葵さんお願いね」
「私マネージャーなんですけど」
「中学の時やってたの先生知ってるわよ」
「でも……」
「このクラスにはほかに誰も居ないから。ね!葵さんお願い。」
 私は美玖を見た。大丈夫、行って。美玖はそう言うかのように優しく微笑んだ。
「ありがとう。葵さん。じゃあ行くわよ」
 先生がボールをトスの姿勢で投げた。ボールが頂点に達したとき、私は踏み込み始める。
 右、左、右左。かかとから踏み込んで腕を大きく上に振り上げ空へ飛ぶ。背中を反らし左手を空に添え、肩からしならせるようにボールに合わせて右腕を振る。ぱんと空気がはじけてドライブ回転のかかったボールはコートのライン上にバウンドした。
 なんとか、未経験と疑われることのないくらいのスパイクは打てた。授業用にかなり低いネットだったけれど。
「みんな拍手!」
 先生が言ってみんなが拍手した。美玖はみんなよりも大きく拍手してくれているような気がした。
 みんなが列に並び順番にスパイクを打つ。部活の時とは違い、先生がボールを投げてトスをする。みんなは空振りをしたり、ネットにぶつけたりする。私も昔はそうだったな、と懐かしく思った。列は順調に進んでいたが、あるときその進みが止まった。
「次は誰?」
 先生が言ったとき、その先頭に美玖が並んでいた。
「美玖さん?」
 先生の問いかけに美玖は反応しない。瞳孔と口が開き、美玖はその場でふらふらと揺れる。
 私は美玖に駆け寄った。美玖は体を預けるように私の方へ倒れ込んだ。私はぐったりとしたその体を支えた。
「美玖?美玖!」
 その問いかけに美玖はピクリとも反応しない。
「揺らさないで」
 先生が近づいてきて、その指示で床に寝かせた。少しして美玖は意識を取り戻したが、先生の背中から近づいてはいけない雰囲気が醸し出されていた。何か話をしていたが、聞こえず、まだ歩くのもおぼつかない美玖を先生が保健室まで運び、私は寄り添うことすらできなかった。とりあえず続けててと、バレー部の私が投げてトスをすることになった。その間ずっと上の空だった。
 授業が終わるころに帰ってきた先生は終わりの挨拶をするだけでそれ以外美玖については何も言わなかった。授業が終わったあと、個人的に先生に聞きに行くと、軽い貧血と聞いて少し安心した。ただ、今まで美玖が倒れることなんてなかった。私の想像以上に美玖の心は蝕まれているのではないだろうか。そんな不安もよぎった。
「更衣室の制服を保健室にいる美玖さんに届けに行ってくれない?」
 先生にそう入れて、私は体育館を出て更衣室に入り、美玖の制服を探した。
 あった。嫌がらせの対象になっているかもしれないと一抹の不安はあったが、美玖の制服はちゃんと棚の一番端に置いてあった。制服には手を出さないところに、誰にもばれないようにする犯人の狡猾さが感じ取れた。
 私は自分の制服に着替え、美玖の制服をもって更衣室を出た。そのとき私は更衣室で美玖が胸ポケットを確認しているのを思い出した。大切なものが入っている美玖の胸ポケット。私は恐る恐るポケットの中を確認した。
 だが、ない。美玖のハンカチがない。近くに落ちていないだろうか。そう思って私は更衣室の中に引き返し、ハンカチを探した。しかし、置いてあった場所にも、床にも落ちていない。
 最悪な予想が頭に浮かぶ。体育の間に誰かに盗まれてしまったかもしれない。いや、でもまだ、他の荷物に入れているだとか、家に置いてきたとかの可能性もある。
 私はそう願って保健室に向かった。
 保健室の扉を開けると先生の姿はなかった。
 二つあるベッドのうち奥の方のカーテンが閉まっていた。窓から浅い太陽の光が差し込んでいるが、そこに温みはなく、冷たく保健室の中を照らし、カーテンが光っているかのように反射していた。
「美玖いる?」
 私の問いかけに、「葵?」と反応があった。声のした奥のベッドに向かいカーテンを開けると、ベッドに横たわる美玖の姿があった。美玖は、病人のようにやつれてしまっているように見えた。顔色も悪く、唇も青い。
「大丈夫?」
「ちょっとはよくなったよ。でも今日はお母さんに迎えに来てもらって早退する」
「それがいいと思う。無理は体によくないよ」
「うん」
「これ、制服」
「ありがとう」
 私が制服を差し出すと、美玖はゆっくりと両手でそれを受け取った。
「次も授業あるよね。葵はもう行って?もうすぐ保健室の先生も帰ってくると思うし、大丈夫だから」
「……うん。分かった」
 できることならもう少しここにいたかった。
「ありがとね。葵」
「全然大したことしてないよ。じゃあ行くね」
「授業遅刻しないようにね」
「うん」
 私は保健室を出ようとした。
「ねえ、葵?」
 私は呼ばれて振り返る。
「胸ポケットに何か入ってなかった?」
「やっぱりそこにハンカチ入れてた?」
「うん。ずっとそばに置いておきたくて。やっぱりってことは、確認してくれたんだよね。きっと」
 その言葉ですべてを察した。
「盗られちゃったみたい」
 もう笑うことしかできない、そんな表情だった。美玖はなんとか暗い雰囲気にならないよう明るく振舞おうとしている。
「晃先輩になんて言えばいいかな?」
 私はその問いになんと返せばいいかわからなかった。美玖は明るく見せる作り笑いの裏でどんな苦しみに耐えているだろうか。
「ごめん。こんなこと葵に言っても仕方ないよね」
 私はずっと黙っていた。何を言っても美玖の心の傷を癒すことはできない。私にはもう何もできないのかもしれない。
 私は諭すように言った。
「美玖、もしかしたらやっぱり私たちだけで解決するのは無理なのかも。先生の力を借りるとか」
「でも七海先輩が先生に言うなって」
「だけど……」
「ちょっとあんまり無理させないで」
 保健室の先生が保健室の入り口に立って言った。私が何とも言う前に「ほら、帰った帰った」そう言って私を追い出した。
 ぴしゃりと閉まった扉から最後に見えた美玖の顔は、私がスパイクの見本を見せに行った時と同じだった。

 それから一つ授業が終わって、もう一つ授業が終わっても、美玖のことを考えた。もう美玖のお母さんは迎えに来たんだろうか?無事に帰れただろうか?体調はよくなっただろうか?でもいくら体調がよくなっても心の傷はどうだろう。大切なものを失った痛みを私はこれから癒してあげられるだろうか。
「こら、掃除さぼってないでちゃんとやりなさい」
 気づけば掃除の時間になっていて、担任の先生に叱られた。だけど集中できるわけがなかった。私はぼうっと突っ立って、箒で教室の同じところをずっと掃いていた。
「何か悩み事?」
 今先生に助けを求めるべきなのではないかと思った。だが、美玖は嫌がっていた。
「いえ、ごめんなさい。ちゃんと掃除します」
「よろしくね」
「はい」 
「あ、そうだ葵さん。罰としてってわけじゃないんだけど、ゴミ箱の中身を回収場所に持って行ってくれないかな?」
「……分かりました」
「ごめんね。今日係の子が休みだから」
 そう言うと担任の先生は廊下の掃除の様子を見に行った。
 私はしぶしぶゴミ箱の方へ向かった。ゴミ箱の中身は押し込めば意外とあと一週間分くらいは入りそうだとも思ったが、持ち上げてみると意外と重い。陽太先輩はもう一週ためてこの倍の量を持っていると考えるとすごいと思った。私にはとても持てないと思った。
 外に出て回収場所に向かうと、そこには小さな列ができていた。私はその後ろに並んだ。中々前に進まず、手持ち無沙汰で流れる時間の中で美玖のことが何度も頭を過る。私に何かできることはないだろうか。
「会長こんにちは」
「元生徒会長だよ」
 後ろから声がして、ちょうど一つ後ろに並んでが元生徒会長だったことに気が付いた。後輩らしき女子生徒が、手に顎を乗せて探偵が推理をするときのような姿勢の彼に声をかけている。その様子に聞き耳を立てて、少しでも気を紛らわそうと思った。
「何か悩んでるんですか?」
「いやあ、回収場所に列ができるのって無駄だろう?何とかできないかなと思って」
 元生徒会長は顔をしかめながら、「時間帯を分けたりできないのかな」と呟いた。
「もう卒業なんだから、おとなしくしておいてください」
「大学が決まってから暇でねえ。それよりさぼらず掃除しなよ」
「はーい」
 猫なで声でそう言うと女の子は去っていった。たまに振り返ると、元会長は時々ひらめいたような顔をしては、うーんと頭を悩ませたりしている。その姿に声をかけていいものか迷ったが、私は意を決して振り返った。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
 その返答に私はある一つの仮説を立てた。できるならば、違っていてほしいと願った。