君に憑く、死神の正体

 ゆかりに言われ、私たちは校庭の隅っこに移動した。運動部の元気な掛け声もすっかり聞こえなくなり、みんなグラウンドを整備したり、ボールを片付けたりしている。
 ゆかりと話すのは実に二か月ぶりだ。あの〝くじ作り事件〟が起きてから、一度も話していない。高遠とはたまに「おはよう」などの挨拶を交わしていたが、ゆかりは私と渡世と目も合わせようとしなかった。そのせいか、急にふたりになって非常に気まずい。

「紬……ごめんなさい!」

 どう話を切り出そうか迷っていると、ゆかりが私に頭を下げた。私の頭はさらに混乱した。

「三か月前、渡世くんのことで紬に迷惑かけて嫌味も言った。私、紬にとってすごく嫌な女だったよね。……ごめん。ずっと謝りたかったの」

 ゆかりはおへその上で重なっている両手をぎゅっと握って、今にも泣きそうな顔をして言った。

「いいよ。もう前のことだし。私も、ゆかりの気持ちに気づいてなにも協力できなかった。ごめん」
「なんで紬が謝るの。紬はなにも悪くない」

 違う。私はそんなに優しい人間じゃない。ゆかりが渡世のことを好きだって知って、いい気持ちではなかった。くじを作った時だって、渡世がゆかりを好きじゃないと言ったのを聞いてどこかで安心していた。ゆかりが高遠と付き合った時も、また渡世とふたりの日常に戻れるとほっとした。嫌な女だったのは私のほうだ。

「……ゆかりの言ってること、当たってたんだ」
「え?」
「私ね、渡世のことなにも知らなかった。……渡世にとって、私ってどんな存在だったのかな」

 ゆかりは難しそうな顔をした。そりゃあそうだ。いきなりこんなこと聞かれたって、ゆかりがわかるわけない。ゆかりは大きなため息を吐くと、さっきの申し訳なさそうな顔とは打って変わって、怖い顔をして口を開いた。

「そんなのわかってるでしょ。渡世くんにとって、紬は大切な人。渡世くんは紬のことが好きだよ。なにがあったか知らないけど、今も紬に会いたいと思ってるんじゃないの? ……まったく、仮にも失恋した相手なのに、なんで私がこんなこと言ってあげてるんだろ」

 ボソボソ話している後半部分は聞き取れなかったが、前半部分ははっきり聞こえた。渡世が私に、会いたいと思ってる……そんなの、考えたこともなかった。

「前は紬のこと応援できなかったけど今ならできる。紬変わったよ。前までなにしてても楽しそうじゃなかったけど、渡世くんが来てから人間らしくなった。渡世くんの隣にいる紬は……私から見ても、可愛かったよ」

 クラスでダントツのモテ女子のゆかりに可愛いと言われる日がくるとは思わなくて、私は口を半開きにしたまま固まった。ゆかりが私を慰めるだけでなく褒めてくれている。いったい私は、どんな表情で渡世の隣にいたのだろう。渡世も私のことを、少しは可愛いって思ってくれたりしたかな。思っても、きっと渡世は口に出してはくれなさそうだけど。

「でも今の紬は前の紬に戻ってる。笑ってるようで笑ってない、周りに期待してない目をしてる。渡世くんがいなくなったからだよね? 会える距離にいるなら会いに行きなよ。いつまでそうやって死んだ目をしてるつもりなの? 会えない理由でもあるの?」

 距離にしたら、渡世は全然遠くへいっていない。でももうすぐ、絶対に届かないほど遠い場所に行ってしまう。その現実が受け入れられなくて、見届ける勇気もなくて……私はただ立ち止まっている。

「……不安なの」
「不安?」
「渡世に会ってもいいのか、不安でたまらないんだ。向こうはそれを望んでなかったらどうしようとか、自分が後戻りできなくなったらとか……会う前から、いろんなことを考えちゃって」

 私がこれ以上踏みこむと、自分も渡世も傷つけることになると思う。果たしてそれが正解なのか、子供の私には難しすぎる問題だ。

「不安なんて、好きな人の顔見ればどっかいくって!」

 ゆかりの出した答えは、至ってシンプルなものだった。

「好きな人に会えたらさ、結局嬉しいんだよ。どんな状況でも。本当に惚れたもん負けっていうかさ。人間ってちょろいよね。同じくらい……好きって、偉大だよね。好きな人を見ると、心が動くでしょう? それが悲しいでも嬉しいでも、とにかく一目見ただけでなにか感じる。紬にもそんな経験あったんじゃない?」

 好きな人を見ると心が動く――。痛いほど、私は体験した。嬉しいも、悲しいも、怒りも。あらゆる感情が、渡世を見ると込み上げる場面があった。

「なんとも思ってない人を見たって心は動かないの。心が動いてるうちは、多分まだその人に対してなにかある。それが好きなのか嫌いなのか、感情の答えは自分で出すしかないけど。……確認しなよ。紬が今、渡世くんを見たらどう思うのかを。会えなくなったら、その気持ちすら確認できなくなるんだよ」

 ゆかりの言葉は現実から逃げていた私の目を覚まさせて、背中を押すには十分すぎるものだった。

「……そうだね。私、ちゃんと確認したい」
「うん。そうして。……ちなみにね、私、やっと渡世くんを見てもなにも思わなくなってきたの。多分、高遠くんが全力で愛してくれてるおかげだね」

 ふふ、と、ゆかりは控えめに笑った。ここへきて、初めて見せる笑顔だった。高遠は、ゆかりの渡世への恋心を自分で塗り替えることに成功したみたい。心の中で、私は高遠におめでとうと言っておいた。

 ゆかりに後押しされ、私はその足である場所へ向かった。病院ではない。渡世が本当に私との面会を謝絶しているなら、私は病院より先に行くべきところがある。
 十一月の秋の終わり、一度だけ来た場所。あの時は押すことのなかったインターフォンを人差し指で押すと、扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。

「はーい……あら、紬ちゃん!」

 晩ご飯を作っている最中だったのか、開いた扉からエプロンをつけたおばさんが出てきた。そう、私は今、渡世の家に来ている。

「こんばんは。すみません、突然訪問して」
「いいえ。先日はどうもありがとう。……今日は、全のことで?」

 私は黙って頷いた。おばさんは中に入るよう私に言ったが、そんなに長話をするつもりはなかったので申し訳ないが断らせてもらった。この後、私は渡世のいる病院に行く気でいる。早くしないと面会時間が過ぎてしまう。

「あの、渡世と面会させてほしいんです。この前ちょっと言い合いになって、渡世に面会を謝絶すると言われて……どうにかならないでしょうか」

 前は頭が混乱していて、きちんとした面会手続きをせずに病室へ駆け込んでしまった。帰り際に病院の看護師さんに注意をされたような記憶がある。目をつけられていたら同じ手は使えない。本当に渡世が面会を拒否していたら手続きをしても会えないかもしれないし、ご両親に協力してもらいたかった。

「……そう。喧嘩でもした? ごめんね。全、あんな状況だから不安定で。でも、こうやってまた会おうとしてくれてありがとう」

 不安定だったのは渡世より私のほうだったのに。おばさんはそんなことを知らず、私にお礼を言ってくれた。疲れているのか、よく見るとおばさんの目にはひどい隈があった。前よりやつれているように見える。

「たしかに全は今、家族以外の面会を断っている状況にあるわ」
「やっぱりそうでしたか……でも、どうしても会いたいんです」
「……そうよね。どうしたらいいかしら……私が全に説得して――」
「行きなさい。朝倉さん。私が許可しよう。病院にはこちらからうまく連絡しておく」
「! おじさん」

 ずっと私たちの会話を聞いていたのか、渡世のお父さんが後ろから現れて、おばさんの声を遮ってそう言った。

「……いいんですか?」
「ああ。君には感謝しているんだ。学校に行くようになってから、全は本当に楽しそうだった。この十七年間でいちばん、笑うようになったんだ。具合が悪い日も学校に行きたがって、帰ってくるといつも君の話をしていた」
「渡世が私の話を?」

『全からあなたの話を聞いたことがあるわ』と前回おばさんは言っていたが、たいして話してはいないと思っていた。いつも話していたなんて……毎日、ただ平凡に過ごしていただけでおもしろい話はほとんどなかったのに。でも渡世にとっては、その普通の毎日が普通じゃなくて、かけがえのないものだったんだ。
 
「……あいつは昔からずっと〝明日がくるのが怖い〟と言っていたんだ。いつ病気が悪化するかわからない。いつ死ぬかわからない。余命宣告をされてからも、ずっと怖かったはずだ。明日がくるということは……生きられる日が短くなるということだから」
「……っ!」

 おじさんの話を私と一緒に黙っていたおばさんが、耐えきれず手で口元を覆って声を殺して泣いている。おじさんも凛とした態度でいるが、実際は死ぬほどつらいはずだ。明日が来るのが怖いのは、きっとふたりも同じなのだろう。
 
「でも……君と出会ってから、全はこう言っていた。〝明日が楽しみだ〟と。きっと君に会うことが待ち遠しかったんだろうな。明日を楽しみにしている全を見て、私たちも毎日を大切にしようと改めて思いなおしたよ」

 死へのカウントダウンともいえる〝明日〟を、渡世が楽しみになるようになった。それは私と出会えたからだと、おじさんは言ってくれた。

「……私も一緒です。毎日がつまらなくて、適当にやり過ごして……明日を待ち遠しいと思うことなんてなかった。でも渡世に会ってからは、学校へ行くのが楽しみになりました」

 学校へ行くと渡世に会える。たったそれだけ、されどそれだけの理由。

「そして今日からは、〝病院に行けば渡世に会える〟ことを楽しみに、明日を待ち遠しいと思えるようになりたいです。渡世にも明日を楽しみに思う気持ちを忘れさせたくない。だから――行ってきます!」

 私はご両親に笑顔を見せると、そのまま走り出した。行先はもちろん、渡世のいる病院だ。私が到着するまでのあいだに、おじさんがうまく連絡してくれるだろう。
 病院の面会時間はたしか十九時までだったはず。今は十八時半。ギリギリだ。
 五分でも一分でもいい。なにも話せなくてもいい。渡世の顔が見たい。

 十八時五十分。私は駅前の総合病院に到着した。面会手続きをしてもらおうと受付に行くと、渡世の名前を出した段階で事情を把握したのか、そのまますんなり通してくれた。

 四階のいちばん端。渡世の名前が書かれた扉を開ける。
 渡世は今日もやっぱり、窓の外を眺めていた。見慣れていたはずの横顔を、約一か月ぶりに見る。そして気づく。自分の心が動いたことに。風に揺れているカーテンみたいに、穏やかな速度で、渡世に会えた喜びがじわじわ広がっていく。

 ゆかりの言っていた通りだ。どんな状況であっても、好きな人を見ると嬉しくなっちゃう。

「渡世」

 扉が開かれたことに気づいていないのか、反対方向を見つめている渡世に声をかけると、渡世は私を見て鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「……朝倉、なんで」
「おばさんとおじさんに協力してもらって」

 にやりと笑って扉を閉めると、渡世は小さな声で「やられた」と呟いた。

「俺、クビにしたはずだけど」
「そうね。でもそれを承認した覚えありませんけど」

 言い返すと渡世は黙った。彼は私に会えて、あまり喜んでいるようには見えなかった。渡世は私を見ても、心が動かなかったのかもしれない。前見た時より弱弱しくなっている渡世を見ると、状態が悪くなっていることを実感させられる。

「……どんなに拒否したって、お前は絶対に今日、俺のところへ来るんだな。今回は大丈夫かもって思ってたけど……」
「……なんの話?」
「いや……それより、お前も俺に話があってきたんだろ?」
「え? まぁ……うん」

 体調はどうですか。どうして私を拒否したのですか。
 今の渡世は、明日が怖いですか――って、話したいことなんてたくさんありすぎてわからない。

「俺もお前に話したいことがある。……時間、あるか?」

 そう言って、渡世は変わらずにテーブルに置かれていたマフラーを手に取ると、自分の首に巻き付けた。

** *

 面会時間は過ぎたというのに、渡世は私を病院の屋上に連れてきた。勝手に病室を出て大丈夫なのかと聞いたが、渡世は「大丈夫」の一点張りだった。普段からよく屋上に行っているのか、慣れた足取りで屋上へ向かうと、ギィっと音を立てて扉を開ける。
 その瞬間、冷たい風が吹きつけてきた。星ひとつない暗い空の下、私たちは屋上から町の景色を眺める。

「……で、話って?」

 私は渡世のほうを向いて問いかけた。
 渡世はしばらく口をつぐんだ後、じっと私を見つめた。

「俺になくて、お前にあるものってなんだと思う?」

 こんなところへ連れてきてまでなんのクイズだと思いつつ頭を捻る。

「……なんだろう。それなりのコミュニケーション能力とか?」
「おい。俺だって本気を出せば人と仲良くなれる」
「えぇ。嘘だぁ」

 自分から誰かと関わろうとしないくせに、と言おうとすると、渡世は真面目な顔と声色で言う。

「未来だ。お前には未来がある」
「……未来」

 これから先、生き続ける限りあるもの。
 渡世はあと少しで宣告された半年を迎える。私と違って、未来がないと言いたいらしい。

「……私の未来もないと一緒だよ。だって私、渡世が死んだら死ぬんでしょ? それが渡世が視た私の未来じゃない」

 あの時はそんなはずがないと笑い飛ばせて、渡世のことをやばいやつだと思っていた。誰がこんな会ったばかりのやつを後追いするのかと。
 でも今は? 私は渡世が死んだあと、後を追わないと言い切れる? 好きな人を失った経験なんて人生で一度もない。今だって、目の前にいる渡世がいなくなるなんて思えないのだ。

「そうだ。あれは、実際に俺が何度も見てきたお前の未来の話だ。俺に会わなければ、お前の未来はもっと続くはずだったのに。……俺がずっと、お前を九月から二月に縛り付けてるんだ」
「……どういうこと?」

 渡世は言った。「今から初めて、未来透視の種明かしをする」と。

「俺がお前と今日屋上に来るのは、これで七度目なんだ」

 目が覚めた。
日付は八月十日。晴天。病院で出される朝食のメニューは、白米、味噌汁、鮭、ひじき、ヨーグルト。テレビから聞こえる占いの結果は――。

「……最下位、山羊座。一位、牡牛座」
『一位は牡牛座のあなた。新たな恋の予感がするかも! 最下位は残念、山羊座のあなた。困難に立ち向かうことになるでしょう』
「えぇっ! すごい! 全くん、どうしてわかったの!?」

 朝食を運んできてくれた看護師さんが、占い結果を先に言い当てた俺を見て驚いている。

「俺、天才なんで」

 真顔のまま看護師さんにそう告げて、俺はまずひじきに手をつけた。〝天才〟って、なんて都合のいい言葉なのか。おかしなことを言っても、この言葉ひとつで片付けられる。

 ――本当は、知っていただけなのに。

 俺は今日という日を、既に六回経験している。これで七回目だ。
 どうしてこんなことが自分の身に起きているのか、どんな原理なのかは考えたってわからない。
ただ、すべては……俺が余命宣告をされた、最初の八月十日から始まった。

** *

「だんだん症状が悪化してきている。このままでは、持ってあと半年……」

 医者にそう言われた時、俺は思ったより冷静にいられた自分に驚いた。
 隣にいる母は肩を震わせ、鼻水をすすっている。

「そんな、先生。どうにかならないんですか!」

 父が医者に抗議する声も、俺にはどこか他人事のように思えた。自分のことなのにおかしな話だ。きっとこの時の俺は、現実を受け入れていなかったのだと思う。

 その日の夜。真っ暗な病室にひとりでいると、急にさっきの医者の言葉が現実的に思えてきた。母の涙も父の必死な訴えも、全部俺のためだったのだと理解する。

「……ああ、死ぬんだ。俺」

 誰もいない病室で俺は呟いた。
 死ぬってどんな感じなのだろう。発作が起きて、意識を失って、二度と目覚めることがないのだろうか。
 
 ぞわりと全身が震えた。目を閉じることが、急にものすごく恐ろしくなった。当たり前にくるはずの明日が、もしかしたら一生こないかもしれない。

 ――怖いんだ。死ぬことが。

 幼い頃から心臓の悪かった俺は、いつ死んでもおかしくないと思っていた。まともに学校へ行くことも、外で遊ぶこともできない。家や病室の窓から、楽しそうな声を聞いて、楽しそうに駆け回る姿を眺めるだけ。
 俺は一生そうやって過ごして、大人になる前に死ぬのだと、物心ついた時からどこかでそう思っていた。だから、死ぬことへの覚悟はできていたはずだ――が。

「……いざ言われると、結構きついもんだな」

 気づかぬうちに頬が濡れている。その日、俺は十年ぶりに涙を流した。

 俺と家族の意思で、残りの時間は病院を退院して、家で過ごすことに決めた。もちろん、緊急事態の時はすぐに病院へ行くこと、毎日決められた薬を飲むことは言わずもがなの絶対条件で。
 入院生活を続けて僅かでも余命を伸ばしながら移植を待つこともできたが、俺はその道を選ばなかった。できるかもわからない手術を寝て待つより、せめて最後くらい好きに生きようと思ったからだ。

「全、なにかしてみたいことある? 行きたいところとか……」

 お茶を飲んでいた俺に、母が言う。
 余命宣告をされていから一週間後、退院手続きが終わり実家に帰ってきた。自分の荷物はほとんどなかったため、荷物の整理はすぐに終わった。

「……」

 母の質問に、俺は頭を悩ませる。
 好きに生きたいとは言ったものの、好きに生きるってなんだろうか。よく考えたら、俺はやりたいことも、行ってみたい場所も特にないことに気づいた。

「……あ」

 ――前言撤回。ひとつだけ、思い当たるものがある。

「学校に行って、普通の高校生活を送ってみたい。周りの同年代のやつらがやってる当たり前のことを、俺も経験しておきたい」

 それは、学校に毎日通うこと。
 窓から見ていた景色の向こう側に、俺も行ってみたいと思った。

「……そう。じゃあ、二学期から通えるように、高校に連絡しないとね」

 母はすぐに俺の願いを叶えるために動いてくれた。
 俺は入院中、やることがないのでよく勉強をしていた。最初は両親に教わりながら、たまに同じ入院患者の人たちにも教わったり――そして最終的に、テキストを見て独学で勉強を進めるようになった。

 どうやら俺は頭がよかったらしく、学校に通わずともそれなりに勉強ができた。学校に行っていたら、学年でなかなかいい成績を残せていたと思う。天才というのは、あながち嘘ではない。
 高校は受験だけしており、一応受かっていた。まったく登校していないが、学校側も俺の事情は知っていたため、特になにかを言われることもなかった。

「おお、お前が渡世か! 背が高いなぁ。先生より身長あるんじゃないか?」

 二学期から学校へ通うことが決まり、俺は夏休み中に一度学校を訪ねることになった。そこで担任の小堀先生と初対面する。小堀先生は愉快な先生で、俺とは真逆の性格だった。

「二学期からよろしくな。うちのクラスは和気藹々としてるから、渡世もすぐ溶け込めると思うぞ」
「……はあ」

 正直、俺は人づきあいが苦手だ。幼い頃から関わって来たのは親族と病院関係者だけ。クラスのみんなの輪に溶け込める自分など想像つかない。それに、溶け込みたいとも思わない。俺はただ、学校っていう世界をこの目で見て、体験したいだけ。そんなのひとりでもできる。
 大体――仲良くなったところで、どうせ俺は一緒に卒業もできない。
 未来のない俺と、輝かしい未来のあるほかのクラスメイト。俺たちには、とんでもなく分厚い壁があるのだ。……わかりあえるはずがない。

「あ、それとな、渡世はすごいやつだって噂を病院の人から聞いたんだけど――」
「……噂? どんなのですか?」
「人の心が読める超能力者だって」

 俺は昔から人間観察が趣味で、そのうちその人の行動や癖を見抜けるようになった。嘘をつくときは声がいつもより高くなるとか、嫌なことがあった日は貧乏ゆすりの速度が速くなるとか、そういう細かいことで。
 だから、病院ではたしかに〝渡世くんは超能力者なんじゃないか〟と言われたりしていた。それが先生の耳にも入ったようだ。

「これって……本当なのか?」

 まるで機密情報を聞き出すように、小堀先生は小声で俺に聞いた。大人になってもこんな噂を笑い飛ばさずに真面目に聞き入れている先生を見て、俺はちょっと笑いそうになった。

「さあ、どうでしょう?」
「うわぁっ! なんだその不敵な笑みは!」

 年上なのにからかい甲斐がある。

「……あ。そうだ。先生、お願いがあるんですが」
「ん? なんだ? 俺にできることならいくらでも聞くぞ」
「今の噂、学校で広めてくれませんか?」
「……どういうことだ?」

 俺は小堀先生に頼んで、〝渡世全は人の心が読める超能力者で、いろいろあって学校を長期休んでいた〟という噂を流してもらうことにした。
 最初は確実にクラスメイトの興味を引いてしまい、変な奴だと思われそうだがそれでよかった。興味なんて最初だけだろうし、俺がひとりで行動していたって、変な奴だと思われていたらみんな〝あいつはああいう奴なんだ〟と勝手に解釈して放っておいてくれそうだ。

 なんの前情報もないまま急に登校すると、今までなにしてたのかとか、こっちの事情も知らずにずかずかと踏みこんでくるやつが絶対現れる。俺は最初によくわからない噂を植え付けておくことで、みんなを俺から遠ざけたかった。
それと――病気のことを、誰にも知られたくなかったのだ。入院して休んでいたなんて知られたら、かわいそうな目で見られる。毎日同情の目を向けられては、俺は学校に行きたくなくなるだろう。できることなら、俺は限界まで学校生活を楽しみたい。

「渡世くんって、人の心が読めるらしいよ」
「えぇ? 嘘でしょ。そんなの」
「でも、その能力を買われていろんな場所に引っ張りだこだったって」
「あぁ~! だから学校休んでたってこと?」
「……話しかけたら心読まれるのかな? なんか話しかけづらくね?」

 二学期。俺が学校に登校すると、想像通りクラスメイトは俺に奇異の目を向けてきた。聞こえないと思っているヒソヒソ話もばっちり俺の耳に入っている。教室の喧騒は、思ったより耳障りではなかった。

 ――小堀先生、俺の頼みを聞いてくれたんだな。

 俺の得体のしれない噂はあっという間に広まっていて、狙い通り、効果は抜群だった。
 俺自身が周りと仲良くしたい感じを一切出していないからか、誰も話しかけてこようとしない。話したいと思っても、最初に声をかける勇気がないのだろう。「お前が行けよ」「いや、あんたが話しかけなよ」というコントのようなやりとりを、俺は何度も耳にしていた。結果、誰も話しかけてこないのがオチだ。

 しかし、登校開始して三日後、俺は小堀先生によってひとりのクラスメイトと強制的にとある接点を持つことになった。

「今日の放課後雑用係決めるぞ~。朝倉と渡世、じゃんけんな」

 小堀先生が、出席番号の最初と最後でじゃんけんをさせて、自分の仕事の手伝いをさせる係を決めるという遊びを始めだしたのだ。

 それによって、俺はこのクラスで一番遠い席にいる女子――朝倉紬と、定期的にじゃんけんをすることになった。
小堀先生の意図はわからないが、じゃんけんするくらいなら別に俺もいいやと思っていたので、面倒とは思いながらも従っていた。

 じゃんけんはいつも俺が勝っていた。最初の二回はまぐれだったが、三回じゃんけんをすると朝倉の細かい癖を見抜けてきた。癖を見抜いたあとは、その法則に従って勝てる手を出すだけだ。俺が連勝するたびに、勝手に噂の信憑性は上がっていき、朝倉は不満そうに眉をひそめるようになった。

 ――あ、今日も怒ってるな。

 雑用が嫌なのか、俺に勝てないことがよほど不服なのか。じゃんけんが終わると、朝倉は自分の出した負けた手を見つめながら、いつも眉間に皺を寄せている。

 朝倉は、クラスメイトの中では目立たないが、ある意味目立つやつでもあった。なにしろ、よくわからないやつといえる。
 誰かと楽しそうに話していると思ったら、ひとりでどこかに消えていったり。あの女子と仲がいいのかと思うと、全然違うグループと一緒にいたり。女子が好きそうな恋バナや、好きな俳優やアイドルの話で盛り上がっている時は、適当に相槌を打って張り付けたような笑顔を浮かべている。そして、いつの間にかすぅっとその輪を抜けていく。

 みんなと適度に仲がいいが、誰とも深く関わろうとしない。ひとりでいる時が、いちばん肩の力が抜けている。

 朝倉は、なんにも興味のない人間なのだと数週間見ているだけで理解できた。
 他人に興味のない人間は今までも見たことがある。でも、朝倉の場合、自分にもさほど興味がない。

 教室内でみんなが盛り上がっているなか、俺たちはひとり、自分の席で窓の向こうを眺めている。
 教室の廊下側、いちばん前の席にいる朝倉と、窓際、いちばん後ろの席にいる俺。確実に、俺たちはクラスで浮いていた。朝倉は……自分はうまく立ち回っていると思っていそうだけど。
「プリント。まだ出してないよね?」

 初めて朝倉と話したのは、九月下旬のこと。じゃんけんで負けた朝倉が、俺のプリントを直接回収しにきた時のことだ。

「……ああ。悪い。忘れてた」

 俺は引き出しからプリントを取り出し、朝倉に差し出す。

「いつもおつかれさま」

 黙ってプリントを受け取る朝倉に、俺はおもわず声をかけた。朝倉は少し驚いた顔をして、その後不服そうに口を開いた。

「たまには渡世がやってもいいんだよ。雑用係。ほら、かわりにこのプリント持ってってくれてもいいし」

 回収したプリントの束を、朝倉は丸ごと俺に押し付けてくる。俺は苦笑を漏らしながら、プリントを朝倉へと押し返した。

「俺に雑用係をやらせたかったら、朝倉はまずじゃんけんに勝つとこから始めないと」
「……ねぇ、どうしていつも私に勝てるの? 渡世、私の心が読めるから、次に出す手がわかってるんじゃないの?」

 驚いた。朝倉は俺の噂なんか信じてなさそうに思えたのに。案外、子供らしいかわいいところもあるんだな。

「さあな」

 俺は朝倉に癖を教えてやらずにその場を去った。面倒な雑用なんてやりたくない。朝倉には申し訳ないが、これからも俺は連勝記録を更新し続けてやる。

 一週間後。久しぶりにまたじゃんけん勝負が行われた。
 ちょっと間があいたからか、今日の朝倉はいつもより気合が入っているように見える。
 小堀先生の合図でじゃんけんをすると、結果はやっぱり俺の勝ち。
 朝倉はうらめしそうな顔をして、俺のことをじっと睨みつけている。

 ――癖を直さないと勝機はないぞ。朝倉。

 心の中で朝倉に告げながら、無意識に俺は笑ってしまっていた。そんな俺の態度が挑発的に見えたのか、朝倉はさらに悔しそうな顔をしている。

「ズルしてるよね!?」

 その日の放課後、まだクラスメイトが教室に残っているというのに、朝倉が俺の席までやってきた。いっせいに、みんなの視線がこちらに向いた。

「してない」
「嘘! だってこんなに勝つなんておかしいもん」
「お前が弱いだけだろう。それに、ズルしたって証拠は?」
「そ、それは……!」

 朝倉は口ごもった。

「……渡世、今私がなにを考えてるかわかる?」
「〝渡世、むかつくなぁ〟」
「当たってる! やっぱり私の心を読んでるんじゃない。それはズルでしょう!」
「今の朝倉が俺に苛立っているのなんて、実際に心を読めなくてもあきらかにわかるだろ。それに俺に能力があったとしても、俺はそれを有効活用しているだけでズルではない」

 徹底的に言い負かすと、朝倉は言い返せなくなった。

「紬、やめときなってー。渡世くんに勝てるわけないんだからぁ」

 俺の隣の席の女子が、茶化すように朝倉を宥めた。
 
「でも悔しいんだもん。ここまできたら一回でもいいから渡世に勝ちたい」

 だが、朝倉は一歩も退かない。なんにも興味がなさそうだったくせに、俺とのじゃんけんにここまで熱くなっている。今日、朝倉の新たな一面を知った。朝倉は意外に負けず嫌いである。

「じゃあ、ヒントだけ。……お前、癖があるんだよ。じゃんけんをする時。俺はその癖を見抜いてるから、お前が出す手がわかる」
「……なるほど!」

 俺が勝つからくりがわかった朝倉は、今までにないほど目を輝かせている。

「で、どんな癖?」
「それは自分で考えろ」

 最後まで種明かしはせず、俺はそのまま教室を後にした。

 ――それからだ。俺と朝倉の距離が、急速に縮み始めたのは。

 朝倉は自分で癖を研究しては、俺に報告しにくるようになった。そしてそれが間違っていると、俺に答えを教えてくれとせがむ。俺はそんな朝倉を見ているのがおもしろくて、いつまで経っても教えてやらなかった。教えなければ、この楽しい時間がまた過ごせると思ったからだ。朝倉は、唯一俺が学校で興味を持ったクラスメイトだった。

 ある日、保健体育の授業中、病気のせいで見学を余儀なくされていた俺は、クラスメイトが投げたボールを思い切り顔面にぶつけてしまった。
 念のため保健委員に保健室に連れていかれ、しばらくひとりで休んでいると、授業中だったはずの朝倉が具合を見にきてくれた。

「お前、授業抜け出して大丈夫なのか?」
「えっ? ……うん。お腹が痛いってことにした。私以外誰も渡世のお見舞いにはこなさそうだし、かわいそうだなって。すぐ戻るから大丈夫。」

 あっけらかんと、朝倉はそう答える。

「ていうか渡世、いつも体育休んでるんだって? どっか悪いところでもあるの?」
「ああ……。運動するの嫌いなんだ」

 咄嗟に嘘をつく。運動は好き嫌いを決める前にできなくなったから、正直なんとも思ってない。

「なにそれ。そんな理由で許してもらえるわけ?」
「ああ。俺はさ、天才だから。朝倉と違って特別なんだよ」
「またそんな嫌味言って。……元気そうでよかった。じゃあ、そろそろ戻るね」
「……朝倉!」

俺は朝倉が戻るのをなぜか寂しく感じて、朝倉に「このままサボらないか」なんて馬鹿げた提案をした。

 朝倉は驚いていたが、「今まで一度もサボったことないから、挑戦するのもアリかな」とか言って、その日は初めてふたりで午後の授業をサボった。
 帰り道、偶然朝倉の母親に遭遇して、なぜかそのまま朝倉の家に行くことになった。
 朝倉の家は駄菓子屋を営んでおり、俺は初めての駄菓子屋に柄にもなくテンションが上がりっぱなしだった。
 見たことのない小さなお菓子、十円で買えるものもある。その空間は、一気に俺の少年心に火をつけた。
 気づけばあれもこれも手にとっていて、全部レジに持っていった。そこで〝じゃんけん勝負〟の貼り紙を見つけた。店員とじゃんけんして勝てば、好きな駄菓子をオマケでもらえるシステムらしい。

「店員さん、勝負してもらっていいですか?」

にやりと笑いながら、俺は朝倉に勝負を挑む。俺はじゃんけんで朝倉には負けなしだ。

「……の、望むところよ」

 にやりと笑いながら、俺は朝倉に勝負を挑む。俺はじゃんけんで朝倉には負けなしだ。結果、俺はきなこ棒を無料で一本追加することに成功した。
 朝倉の部屋に上がって、他愛もない話をして、俺たちの距離はさらに縮んだ。

帰りのHRのたった数秒、じゃんけんをする仲だった俺たちが、いつしか一緒に雑用をするようになり、その流れで一緒に帰るようになった。
 クラスで浮いていた端っこにいる、はみ出し者の俺たちは、なるべくしてなったかのように、似た者同士肩を並べた。

 ――ああ、まずいな。こんなはずじゃなかったのに。

 誰とも仲良くなる気なんてなかった。
 関わる気もなかった。
 未来のない俺が、未来のある人と仲良くしたって、その先にはなにもない。

 でも俺は、朝倉といる時間が楽しくて、気づけばかけがえのないものになっていた。俺たちにその先がなかったとしても、〝今〟だけは……この時間を、失いたくない。朝倉は俺の大事な――友達、だから。そう、友達だ。朝倉も、俺のことをそう思っているはずだ。初めてできた、気の合う友達だって。

「渡世くん、なにしてるの?」

 十一月になると、森田がやたらと俺に話しかけるようになった。
 森田はクラスの人気者で、特に男子から人気がある。そんな森田がなぜ急に俺に構いだすのか、最初はよくわからなかった。

 俺は朝倉以外の相手と話すのは、いまだに苦手だ。というか、自分から話したいと思うのが朝倉しかいない。だから、積極的に会話を続ける気にもならなかった。
 森田は朝倉にもよく話しかけるようになった。そうなれば、いつも朝倉と一緒にいる俺も、必然的に森田と一緒にいることになる。……若干の居心地の悪さを感じた。

 修学旅行が近づいてきたある日、俺と朝倉は小堀先生に頼まれて、部屋決めのくじを作ることになった。
 どういうわけか――森田と、森田を好きで有名な陽気なクラスメイト、高遠も一緒に。

 ……そういえば、俺が修学旅行に行かないこと、まだ朝倉に話してなかったな。

 なんて思いながら、俺は用意された白い紙にひたすらクラスメイトの苗字を書く作業を続けた。
 目の前の席では、朝倉と高遠が仲良さげに同じ作業をしている。それを見ていると、胸の奥がちくりと痛み、なんだか不愉快な気分になった。これが嫉妬というものだったなんて、当時の俺は気づかなかった。なにしろ、初めて自分に生まれた感情だったから。羨ましいはあっても、妬ましいなんて感情、今まで抱いたことがなかったのだ。

「渡世くんは修学旅行なにするか決まってる?」

 朝倉と高遠を見てもやもやしているなんて知る由もない森田が、にこにこしながら俺に話題を振ってくる。

「もし自由行動決まってないなら……私と一緒に周らない?」

 恥ずかしそうに頬を染めて言う森田の姿は、たしかに思春期の男の目から見ると可愛く見えるのかもしれない。でも、俺はなんとも思わなかった。

「あーっ! 渡世、抜け駆けだぞ! ……あのさ、森田はなんで渡世に構うわけ? まさか――こいつのこと好き、とか?」

 朝倉と喋っていた高遠が、急に俺たちの会話に割り込んできた。

――森田が俺のことを好きなはずないだろう。高遠がまた馬鹿なことを言っている。

心の中で悪態をついて、俺は無言でペンを動かした。しかし、返ってきた言葉は俺の予想だにしないもので。

「……そうだよ。私、渡世くんのことが好きなの」

 ぴたりと、ペンを動かす手が止まる。今まで完璧に書いていたクラスメイトの苗字が初めて歪んだ。

「……え」

 誰より先に驚きの声を上げたのは、俺でも高遠でもなく朝倉だった。

「どうして紬が驚くの。私が渡世くんを好きだってこと、見てたらわかるじゃない」
「い、いや……そうなのかなとは思ったけど……それに、まさか私と高遠がいる場所で告白すると思わないんじゃん。ねぇ?」

 焦ったような顔をして、朝倉が高遠に同意を求めるが、高遠は高遠で口をあんぐりと開けたまま呆然として固まっている。

 森田が、俺を好き?

 ああ、だからいきなり朝倉と仲良くして、俺に近づいたのか。今日だって、俺と作業をしたくて居残ったのか。高遠が森田を好きで、一緒に居残りしたのと同じように。

 誰かに好かれることなんて初めてで、俺はこんなアプローチ方法があることも知らなかった。恋愛なんて無縁の世界にいた俺は、あまりに鈍感だった。

「で、渡世くんの返事は?」

 森田と、ついでに朝倉の視線も痛い。俺はこういう時、なんて答えるのが正解なのかわからなかった。

「いや、森田さんのことはまだよく知らないから」
「じゃあじゃあっ! 付き合う上で知って行けばいいじゃない? 近々修学旅行っていう特大イベントもあるし、そこで私と渡世くん、お互いのことをもっと知れば――」
「その前に、俺は修学旅行に行かないし」
「えぇっ!?」

 朝倉と森田の声が教室内に響いた。高遠はというと、まだ魂が抜けている。
 俺は修学旅行に行かない旨をその場で適当に説明した。家庭の事情、とかいう理由をつけて。本当は、いつ発作が出るかわからないから行けないだけだ。

「そんなのやだ! 私、渡世くんと行けるの楽しみにしてたのに……っ!」

 そんなこと言われても……大体俺は、行けたとしても森田と一緒に周る気なんてない。

「渡世くんが来ないなら、全部意味ないじゃん……!」

 森田はよほどショックだったのか、作業を放り投げて教室から出て行ってしまった。

「えっ、森田!?」
 
 放心状態だった高遠が我に返り、慌てて森田を追いかけた。教室には俺と朝倉のふたりだけが残る。作業はまだ終わっておらず、俺は気まずい空気のまま、またペンを走らせた。

「……なんで俺が修学旅行に行かないことで、森田さんがあんなに怒るんだろうな」

 純粋に疑問に思い、ぼそっと呟く。

「……ゆかり、修学旅行までに渡世と付き合って、渡世と修学旅行を楽しみたかったんだよ。高校生活の思い出として」
「へぇ……俺と付き合えるなんて確証もないのに?」
「わからないけど自信あったんじゃない? ゆかりって可愛いからモテるしさ。フラれるとか考えてなかったんだと思うよ。現に振ってないじゃん。……渡世はどうするつもりなの?」
「……断るよ。俺、森田さんに対してなんの感情もないし」

 というか、告白の返事をする前に向こうが出ていったから、振る時間をもらえなかっただけだ。
 朝倉は俺が森田を振ると言っても、ずっと不満げな顔を浮かべていた。そして少し機嫌が悪そうに口を開いた。

「修学旅行、来ないんだね」
「……ああ」
「そっか。……なんだ。私もちょっと楽しみにしてたのに。ゆかりの気持ち、若干わかるかも」

 寂しそうに呟き、俯く朝倉の顔を見ると、なんだかとても罪悪感が芽生えた。もしかすると朝倉は、俺との修学旅行を楽しみにしてくれていたのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎる。

「ごめん。俺も行きたかったんだけど」
「しょうがないよ。ていうか、なんで渡世が謝るの。私は私なりに楽しんでくるよ」
「お前……俺がいなくても楽しめるのか?」
「もう。渡世以外友達いないみたいな言い方しないでよね」

 朝倉が渇いた笑いを漏らす。たしかに朝倉は俺と違って、ほかのやつとも一応うまくはやっている。だから、旅行に行ってもそれなりの時間は過ごせるだろう。
 だけど、俺はこの時なぜかショックだった。俺がいないと楽しくないと、朝倉に言ってほしかったのだと思う。この時点で俺はきっと、朝倉に依存し始めていた。それに――。

「最近俺、よく朝倉のこと考えるんだ。学校が終わって家に帰ってからも、休日も。ふとした時いつも、お前のことが頭に浮かぶ」

 朝倉がそばにいない時、俺は朝倉のことばかり考えるようになっていた。
 なにしてるんだろうとか、あいつは今、この夕焼けを見てるのだろうかとか。そんなくだらないことだけど。
何気なく放った俺の言葉を聞いて、朝倉は目を丸くしていた。

「それ、私も一緒」
「……一緒?」
「うん。私も最近、気づいたら勝手に渡世のこと考えちゃってる」

 驚いた。どうやら俺たちは同じ症状に悩まされていたらしい。

「これって、なんなんだろうな」
「なんなんだろうね」
「……」
「……」

 俺たちはふたりとも、恋愛に関してはずぶの素人だった。こんなことを言い合っている段階で、俺たちはもう友達の枠を超えていて――でもその先に進んでいることを、どちらも言葉にしようとしなかった。なんなら俺は言葉にしたくなかった。もう戻れない気がしたからだ。

あと数か月でこの世を去る人間が、土壇場で恋を知ってしまうなんて。

「……朝倉は重罪だな」
「えっ? 急になんの話!?」
「ははっ」

 俺の中にある死ぬことへの恐怖は、朝倉と一緒にいるたびに増していき――朝倉に会える明日が楽しみな反面、怖くもあった。だって、必ず終わりがくる。それは決定事項だ。
 その後、俺は森田に改めて告白の返事をしに行った。朝倉の言っていた通り、修学旅行はダメだったけど、告白を断られるとは思っていなかったようで、森田に大泣きされてしまった。森田を泣かせたことでクラスメイトからヘイトを集めてしまったが、朝倉だけはいつもと変わらず俺と一緒にいてくれた。俺は全然それだけで満足だった。朝倉さえいれば、学校は楽しい。この学校という場所で――唯一の、俺の居場所。

 この時の俺は、正常な判断ができなかった。人を好きになったことが初めてで、自分の感情をうまくコントロールできなかった。

 だから、朝倉に無理をさせてしまった。

 修学旅行当日、俺は朝倉の見送りに行った。いつも別れる信号で、駅に向かう朝倉に「楽しんで来いよ」と声をかけるつもりだった。
 でも、大きな荷物を抱えてこちらに向かってくる朝倉を見ると、また俺の中にもやもやした感情が渦巻いた。俺がいないのに、どうして朝倉は修学旅行に行くのか。俺の知らないところで、俺の知らない彼女が笑っているのかと思うと、言うはずだった言葉が喉の奥でつかえる。

「……行かないでくれ。朝倉」
「……渡世?」
「俺が行けないのに、行かないでくれよ」
「……」

 情けない声を出して、情けない姿を朝倉に晒した。
 俺は彼女の両腕にしがみついて、朝の路上で必死に朝倉を引き留めた。嫌だったんだ。好きな人が、届かない場所に行ってしまうのが。
 俺には時間がない。限りある時間の中で、少しでも多く一緒にいたい。
 完全にひとりよがりで、身勝手すぎる欲望だ。しかし、朝倉はそんな俺の願いを聞いてくれた。あまりに必死だったから、なにかあると思ったのだろう。

 朝倉は修学旅行に行かなかった。いや、行けなかった。

 事情を説明するために朝倉の家に引き返すと、おばさんが驚いた顔で店先まで出てきた。きっと修学旅行のために、いろいろ一緒に準備したのだろう。そう思うと、大事な娘の高校生活での思い出をひとつ潰してしまったことを、今になって死ぬほど申し訳なく思った。
 俺のただならぬ空気を察してか、おばさんもそれ以上なにも言ってこなかった。

 その時の朝倉は、なんともいえない顔をしていたのをよく覚えている。
 俺に同情しているような、悲しそうな――とにかく、困った顔をしていた。

 ああ、俺は自分のわがままを押し付けて、朝倉に迷惑をかけてしまった。
 朝倉からしてみたら、俺がいないことなんてたいしたことじゃなかったんだ。
 急に不安が押し寄せて、俺は家に帰ろうとした。そんな俺を朝倉が引き留めて、結局、修学旅行に行くはずだった二日間は、ずっと朝倉とふたりで過ごした。夜はさすがに自分の家に帰っていたけど……。
 場所は家の近くの公園だったり、朝倉の家だったり。適当な場所で時間を潰した。

「……ごめん」
「うん。大丈夫」
「本当にごめん。朝倉」
「大丈夫だってば。もう、何回謝るの」

 罪悪感でいっぱいの俺は、せっかくふたりでいられた時間のほとんどを謝罪に費やした。

「……俺のこと、嫌いになっただろ?」
「……まさか。むしろその逆。渡世って、私がいなきゃだめなんだなって実感させられたよ。それにさ――嫌いだったら、今一緒にいるわけないでしょう?」

 不安定になっている俺を元気づけるように、朝倉は優しく俺に笑いかけた。その笑顔に、どれだけ救われたかわからない。

「俺、朝倉がいないとだめだ」
「うん。知ってる」
「でも――朝倉は、俺がいなくても大丈夫でいてほしい」
「……なんでそんなこと言うの?」

 朝倉は、こんなになるまで俺に好意を抱かないでほしいと思った。俺は朝倉に会えなくなる未来を知っている。だけど、彼女はそんなこと知らない。

「そんなの無理だよ。私だって、渡世がいないとだめだよ。私をこんなふうにしたのは渡世なんだから、責任とってよね」

 気恥ずかしそうに俯く朝倉の横顔は、今まで見た中でいちばん綺麗で、気が付いたら俺は彼女を思い切り抱きしめていた。朝倉は黙ってそれを受け入れてくれた。
 言葉にしなくても互いの気持ちが伝わる。鼓動の音で、どれだけ互いを意識しているかがわかる。好きだ、とは言わなくても――たしかに想いは通じ合っていた。

 ――ここから、俺たちが堕ちるまではあっという間だった。