ゆかりに言われ、私たちは校庭の隅っこに移動した。運動部の元気な掛け声もすっかり聞こえなくなり、みんなグラウンドを整備したり、ボールを片付けたりしている。
ゆかりと話すのは実に二か月ぶりだ。あの〝くじ作り事件〟が起きてから、一度も話していない。高遠とはたまに「おはよう」などの挨拶を交わしていたが、ゆかりは私と渡世と目も合わせようとしなかった。そのせいか、急にふたりになって非常に気まずい。
「紬……ごめんなさい!」
どう話を切り出そうか迷っていると、ゆかりが私に頭を下げた。私の頭はさらに混乱した。
「三か月前、渡世くんのことで紬に迷惑かけて嫌味も言った。私、紬にとってすごく嫌な女だったよね。……ごめん。ずっと謝りたかったの」
ゆかりはおへその上で重なっている両手をぎゅっと握って、今にも泣きそうな顔をして言った。
「いいよ。もう前のことだし。私も、ゆかりの気持ちに気づいてなにも協力できなかった。ごめん」
「なんで紬が謝るの。紬はなにも悪くない」
違う。私はそんなに優しい人間じゃない。ゆかりが渡世のことを好きだって知って、いい気持ちではなかった。くじを作った時だって、渡世がゆかりを好きじゃないと言ったのを聞いてどこかで安心していた。ゆかりが高遠と付き合った時も、また渡世とふたりの日常に戻れるとほっとした。嫌な女だったのは私のほうだ。
「……ゆかりの言ってること、当たってたんだ」
「え?」
「私ね、渡世のことなにも知らなかった。……渡世にとって、私ってどんな存在だったのかな」
ゆかりは難しそうな顔をした。そりゃあそうだ。いきなりこんなこと聞かれたって、ゆかりがわかるわけない。ゆかりは大きなため息を吐くと、さっきの申し訳なさそうな顔とは打って変わって、怖い顔をして口を開いた。
「そんなのわかってるでしょ。渡世くんにとって、紬は大切な人。渡世くんは紬のことが好きだよ。なにがあったか知らないけど、今も紬に会いたいと思ってるんじゃないの? ……まったく、仮にも失恋した相手なのに、なんで私がこんなこと言ってあげてるんだろ」
ボソボソ話している後半部分は聞き取れなかったが、前半部分ははっきり聞こえた。渡世が私に、会いたいと思ってる……そんなの、考えたこともなかった。
「前は紬のこと応援できなかったけど今ならできる。紬変わったよ。前までなにしてても楽しそうじゃなかったけど、渡世くんが来てから人間らしくなった。渡世くんの隣にいる紬は……私から見ても、可愛かったよ」
クラスでダントツのモテ女子のゆかりに可愛いと言われる日がくるとは思わなくて、私は口を半開きにしたまま固まった。ゆかりが私を慰めるだけでなく褒めてくれている。いったい私は、どんな表情で渡世の隣にいたのだろう。渡世も私のことを、少しは可愛いって思ってくれたりしたかな。思っても、きっと渡世は口に出してはくれなさそうだけど。
「でも今の紬は前の紬に戻ってる。笑ってるようで笑ってない、周りに期待してない目をしてる。渡世くんがいなくなったからだよね? 会える距離にいるなら会いに行きなよ。いつまでそうやって死んだ目をしてるつもりなの? 会えない理由でもあるの?」
距離にしたら、渡世は全然遠くへいっていない。でももうすぐ、絶対に届かないほど遠い場所に行ってしまう。その現実が受け入れられなくて、見届ける勇気もなくて……私はただ立ち止まっている。
「……不安なの」
「不安?」
「渡世に会ってもいいのか、不安でたまらないんだ。向こうはそれを望んでなかったらどうしようとか、自分が後戻りできなくなったらとか……会う前から、いろんなことを考えちゃって」
私がこれ以上踏みこむと、自分も渡世も傷つけることになると思う。果たしてそれが正解なのか、子供の私には難しすぎる問題だ。
「不安なんて、好きな人の顔見ればどっかいくって!」
ゆかりの出した答えは、至ってシンプルなものだった。
「好きな人に会えたらさ、結局嬉しいんだよ。どんな状況でも。本当に惚れたもん負けっていうかさ。人間ってちょろいよね。同じくらい……好きって、偉大だよね。好きな人を見ると、心が動くでしょう? それが悲しいでも嬉しいでも、とにかく一目見ただけでなにか感じる。紬にもそんな経験あったんじゃない?」
好きな人を見ると心が動く――。痛いほど、私は体験した。嬉しいも、悲しいも、怒りも。あらゆる感情が、渡世を見ると込み上げる場面があった。
「なんとも思ってない人を見たって心は動かないの。心が動いてるうちは、多分まだその人に対してなにかある。それが好きなのか嫌いなのか、感情の答えは自分で出すしかないけど。……確認しなよ。紬が今、渡世くんを見たらどう思うのかを。会えなくなったら、その気持ちすら確認できなくなるんだよ」
ゆかりの言葉は現実から逃げていた私の目を覚まさせて、背中を押すには十分すぎるものだった。
「……そうだね。私、ちゃんと確認したい」
「うん。そうして。……ちなみにね、私、やっと渡世くんを見てもなにも思わなくなってきたの。多分、高遠くんが全力で愛してくれてるおかげだね」
ふふ、と、ゆかりは控えめに笑った。ここへきて、初めて見せる笑顔だった。高遠は、ゆかりの渡世への恋心を自分で塗り替えることに成功したみたい。心の中で、私は高遠におめでとうと言っておいた。
ゆかりに後押しされ、私はその足である場所へ向かった。病院ではない。渡世が本当に私との面会を謝絶しているなら、私は病院より先に行くべきところがある。
十一月の秋の終わり、一度だけ来た場所。あの時は押すことのなかったインターフォンを人差し指で押すと、扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。
「はーい……あら、紬ちゃん!」
晩ご飯を作っている最中だったのか、開いた扉からエプロンをつけたおばさんが出てきた。そう、私は今、渡世の家に来ている。
「こんばんは。すみません、突然訪問して」
「いいえ。先日はどうもありがとう。……今日は、全のことで?」
私は黙って頷いた。おばさんは中に入るよう私に言ったが、そんなに長話をするつもりはなかったので申し訳ないが断らせてもらった。この後、私は渡世のいる病院に行く気でいる。早くしないと面会時間が過ぎてしまう。
ゆかりと話すのは実に二か月ぶりだ。あの〝くじ作り事件〟が起きてから、一度も話していない。高遠とはたまに「おはよう」などの挨拶を交わしていたが、ゆかりは私と渡世と目も合わせようとしなかった。そのせいか、急にふたりになって非常に気まずい。
「紬……ごめんなさい!」
どう話を切り出そうか迷っていると、ゆかりが私に頭を下げた。私の頭はさらに混乱した。
「三か月前、渡世くんのことで紬に迷惑かけて嫌味も言った。私、紬にとってすごく嫌な女だったよね。……ごめん。ずっと謝りたかったの」
ゆかりはおへその上で重なっている両手をぎゅっと握って、今にも泣きそうな顔をして言った。
「いいよ。もう前のことだし。私も、ゆかりの気持ちに気づいてなにも協力できなかった。ごめん」
「なんで紬が謝るの。紬はなにも悪くない」
違う。私はそんなに優しい人間じゃない。ゆかりが渡世のことを好きだって知って、いい気持ちではなかった。くじを作った時だって、渡世がゆかりを好きじゃないと言ったのを聞いてどこかで安心していた。ゆかりが高遠と付き合った時も、また渡世とふたりの日常に戻れるとほっとした。嫌な女だったのは私のほうだ。
「……ゆかりの言ってること、当たってたんだ」
「え?」
「私ね、渡世のことなにも知らなかった。……渡世にとって、私ってどんな存在だったのかな」
ゆかりは難しそうな顔をした。そりゃあそうだ。いきなりこんなこと聞かれたって、ゆかりがわかるわけない。ゆかりは大きなため息を吐くと、さっきの申し訳なさそうな顔とは打って変わって、怖い顔をして口を開いた。
「そんなのわかってるでしょ。渡世くんにとって、紬は大切な人。渡世くんは紬のことが好きだよ。なにがあったか知らないけど、今も紬に会いたいと思ってるんじゃないの? ……まったく、仮にも失恋した相手なのに、なんで私がこんなこと言ってあげてるんだろ」
ボソボソ話している後半部分は聞き取れなかったが、前半部分ははっきり聞こえた。渡世が私に、会いたいと思ってる……そんなの、考えたこともなかった。
「前は紬のこと応援できなかったけど今ならできる。紬変わったよ。前までなにしてても楽しそうじゃなかったけど、渡世くんが来てから人間らしくなった。渡世くんの隣にいる紬は……私から見ても、可愛かったよ」
クラスでダントツのモテ女子のゆかりに可愛いと言われる日がくるとは思わなくて、私は口を半開きにしたまま固まった。ゆかりが私を慰めるだけでなく褒めてくれている。いったい私は、どんな表情で渡世の隣にいたのだろう。渡世も私のことを、少しは可愛いって思ってくれたりしたかな。思っても、きっと渡世は口に出してはくれなさそうだけど。
「でも今の紬は前の紬に戻ってる。笑ってるようで笑ってない、周りに期待してない目をしてる。渡世くんがいなくなったからだよね? 会える距離にいるなら会いに行きなよ。いつまでそうやって死んだ目をしてるつもりなの? 会えない理由でもあるの?」
距離にしたら、渡世は全然遠くへいっていない。でももうすぐ、絶対に届かないほど遠い場所に行ってしまう。その現実が受け入れられなくて、見届ける勇気もなくて……私はただ立ち止まっている。
「……不安なの」
「不安?」
「渡世に会ってもいいのか、不安でたまらないんだ。向こうはそれを望んでなかったらどうしようとか、自分が後戻りできなくなったらとか……会う前から、いろんなことを考えちゃって」
私がこれ以上踏みこむと、自分も渡世も傷つけることになると思う。果たしてそれが正解なのか、子供の私には難しすぎる問題だ。
「不安なんて、好きな人の顔見ればどっかいくって!」
ゆかりの出した答えは、至ってシンプルなものだった。
「好きな人に会えたらさ、結局嬉しいんだよ。どんな状況でも。本当に惚れたもん負けっていうかさ。人間ってちょろいよね。同じくらい……好きって、偉大だよね。好きな人を見ると、心が動くでしょう? それが悲しいでも嬉しいでも、とにかく一目見ただけでなにか感じる。紬にもそんな経験あったんじゃない?」
好きな人を見ると心が動く――。痛いほど、私は体験した。嬉しいも、悲しいも、怒りも。あらゆる感情が、渡世を見ると込み上げる場面があった。
「なんとも思ってない人を見たって心は動かないの。心が動いてるうちは、多分まだその人に対してなにかある。それが好きなのか嫌いなのか、感情の答えは自分で出すしかないけど。……確認しなよ。紬が今、渡世くんを見たらどう思うのかを。会えなくなったら、その気持ちすら確認できなくなるんだよ」
ゆかりの言葉は現実から逃げていた私の目を覚まさせて、背中を押すには十分すぎるものだった。
「……そうだね。私、ちゃんと確認したい」
「うん。そうして。……ちなみにね、私、やっと渡世くんを見てもなにも思わなくなってきたの。多分、高遠くんが全力で愛してくれてるおかげだね」
ふふ、と、ゆかりは控えめに笑った。ここへきて、初めて見せる笑顔だった。高遠は、ゆかりの渡世への恋心を自分で塗り替えることに成功したみたい。心の中で、私は高遠におめでとうと言っておいた。
ゆかりに後押しされ、私はその足である場所へ向かった。病院ではない。渡世が本当に私との面会を謝絶しているなら、私は病院より先に行くべきところがある。
十一月の秋の終わり、一度だけ来た場所。あの時は押すことのなかったインターフォンを人差し指で押すと、扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。
「はーい……あら、紬ちゃん!」
晩ご飯を作っている最中だったのか、開いた扉からエプロンをつけたおばさんが出てきた。そう、私は今、渡世の家に来ている。
「こんばんは。すみません、突然訪問して」
「いいえ。先日はどうもありがとう。……今日は、全のことで?」
私は黙って頷いた。おばさんは中に入るよう私に言ったが、そんなに長話をするつもりはなかったので申し訳ないが断らせてもらった。この後、私は渡世のいる病院に行く気でいる。早くしないと面会時間が過ぎてしまう。