「なかなかいいとこだろう?」
茶色と黒と白を基調とした引き戸の一軒家。自分の家と作りが似ていて、昔ながらの家って感じで親近感がわいた。
「さ、どーぞ」
渡世が引き戸を開けて、中に案内してくれる。
緊張しつつ靴を揃えるのを忘れずに、私は渡世の後ろに隠れるようにして廊下を進んだ。
「ただいま」
リビングへ続く扉を開けると、そこでは渡世の両親と思われる人たちがくつろいでいた。
「おかえり全。こんな時間までなにしてた――って、その子は!?」
渡世のお母さんが振り向き際に私を見つけて、驚いて立ち上がった。新聞を読んでいたお父さんも視線を新聞から私へと移すと、眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。
「クラスメイト。今日、うちに泊めてもいい?」
今日はお泊りコース確定なのね。お母さんに連絡しておかないと。渡世の家だって言えば許しは出そうだが、帰ったら根掘り葉掘り聞かれそうだ。
「はっ、初めまして。渡世くんの友人の朝倉紬といいます」
噛みそうになりながら挨拶をすると、名前を聞いたおばさんが「ああ、あなたが!」と声を上げる。
「全からあなたの話を聞いたことがあるわ。いらっしゃい。うちは大歓迎よ」
意外だ。渡世が家で私の話をしていたなんて。
「君、今日は修学旅行じゃなかったのか?」
厳格そうなお父さんが、そう言って眼鏡を光らせる。
「えっと……サボッちゃいました」
正直に事の経緯を説明すると、ご両親は当たり前に驚いていた。
「全。あなたが無理に引き留めたんじゃないの?」
「今回は違う。朝倉の意思。……だよな?」
「えっ? まぁ、そうです」
たしかに渡世は私を引き留めにきたんじゃない。見送りに来てくれていた。それを私が勝手に引き返して――今に至る。それより今、なんか引っかかる言い方をされたような。
「朝倉さんのご両親もいいって言ってるならうちは大丈夫よ。ね? お父さん」
「まあそうだな。きちんと連絡だけ入れておきなさい」
「は、はい! 今すぐ!」
渡世のお父さん、小堀先生より学校の先生感あるなぁ……。
お母さんに連絡すると、想像通り渡世の家ならってことで許された。どれだけ渡世のことがお気に入りなのか。お父さんにはさすがに〝男子の家〟というのは内緒にしておくからと電話を切る間際に言われた。
「紬ちゃん、晩ご飯お鍋でもいい?」
「全然なんでも! どうぞお構いなく!」
「ふふふ。全がお友達を呼ぶなんて初めてなの。わかってたらもっと豪華なお料理用意してたんだけどね」
おしとやかな口調と笑顔を見せると、おばさんは台所のほうへ向かった。なにか手伝おうかと思ったが、実家でもたいして料理をしない私が変に手伝うと作業の邪魔になるだけと思い、おとなしくその場に居座ることにした。
渡世の家は既にこたつが用意されていて、私は遠慮がちにこたつの中へ少しだけ冷えた体を潜り込ませる。ぽかぽかとした熱が体を温めてくれて、緊張も自然とほぐれていく。
おじさんは新聞を、渡世はつきっぱなしのクイズ番組を無言で眺めていた。私も特に話すことなく、たいして興味のないクイズ番組を見てその場をやり過ごす。無言でも心地よく感じるのは、渡世というか渡世家特有なのかも。
「はーい。もうすぐ完成するからね」
おばさんがこたつの上に鍋のセットを置き、鍋用のコンロに火をつけた。渡世がお茶や食器を運ぶのを手伝いに行こうと立ち上がったので私も立とうとすると、「客なんだから座ってろ」と言われこたつの中に戻された。
鍋や食器の準備を終え、リビングにみんなが集まる。
手を合わせて「いただきます」と合掌すると、各々好きな鍋の具材に手をつけ始めた。……渡世は肉より野菜やきのこが多めで、胡麻だれよりポン酢派のようだ。
「紬ちゃん、全と仲良くしてくれてありがとうね。この子学校に慣れてないんだけど、ちゃんとやれてるかしら?」
「もちろん! 最初に渡世が――じゃなくて、渡世くんが学校に来た時はものすごい話題になってましたよ。うちのクラスにすごい奴がいるーって」
私が渡世が未来透視ができることで有名人だった話をすると、ご両親はふっと笑った。
「なんか変に噂が回っちゃってね。困ったものだわ」
「最初は渡世くんも困ってましたよ。未来透視してくれーっていろんな人から頼まれて」
「最初に頼んできたのはお前だろ」
「そうだったっけ。でもあれはそっちがじゃんけんにいつも勝つから――」
いつものように言い合いしている私たちを、おばさんが微笑ましそうに見つめている。
「でも、いつから渡世はそんな特殊能力を持つようになったんですか?」
「そうねぇ……そんなに前じゃないのよ。昔から観察力は鋭かったけど」
「母さん。俺の昔の話なんてしなくていい。面白みもないし」
「はいはい。ごめんね」
本当に世界を周っていたのかとか、小さい頃の渡世の話をいろいろ掘り下げたかったのだが、渡世によって阻止されてしまった。普通の生活を送れなかったことは渡世にとってあまりいい思い出ではないのかもしれない。
「今は渡世が超能力者だってことはみんな忘れたみたいに、普通に男子高校生やってますよ」
「あら。ですって、お父さん」
表情で反応はするものの会話に参加しないおじさんにおばさんが話しかける。
「……朝倉さん、だったかな。全は学校で浮いていないか? ほら、なかなか難しい奴だろう。誰に似たのか仏頂面でとっつきにくい。家に呼ぶような友達がいるとは思わなかったよ」
仏頂面は父親からそのまま引き継がれたのだと思うけど、そこは敢えてスルーすることにした。というかツッコむ勇気もない。
「そうですか? 最近はよく笑うし、難しくもないですよ。たまによくわからない発言をしますけど、それも渡世節って感じで楽しんでます」
そう言って、しっかり火の通った湯気の立つ牛肉をはふはふしながら口に頬張ると、渡世のご両親は箸を止めてどこか驚いた顔をしている。
「……あれ。私、変なこと言いました?」
「……いいや。全は本当に楽しくやってるんだなとわかって安心したよ。君のようないい友達ができてよかった。学校生活に慣れていないから内心心配だったんだ」
「ありがとう、朝倉さん」。
おじさんは初めて私へ笑いかけると、グツグツと音を立てる鍋に箸を伸ばした。
――なんだ。優しいお父さんじゃん。
「ついでに言うと俺たちは友達ってより、ほかの理由で一緒にいるんだ。な?」
私がほっこりした気持ちになっていると、渡世がにやりと笑って同意を求めてくる。
そして私は思い出した。私たちが一緒にいるようになったそもそもの原因を。
『俺を死なせなければいい。俺が死ななければ、お前だって死ななくて済む』
お互い自分が死なないために、一緒にいるようになった。私は自分が死にたくなくて渡世の名ばかりのボディガードを引き受けた。
全部、渡世が視た未来を回避するためにやってることだ。だけど今、私が渡世と一緒にいる理由は果たしてそれだけなのか。
「やだ。なぁに? ほかの理由って。……あ、まさか」
「わざわざそんなことを聞くのは野暮だろう。全もその辺の男子高校生と一緒ってわけだ」
「ふふ。そうね。……本当にありがとね。紬ちゃん」
私が黙っている間になにか話が別の方向にいっている気がする。これって、私たちが付き合っていると思われているのでは……。
すっかり勘違いして嬉しそうな顔を浮かべるおばさんを見ると、訂正するのも気が引ける。どうしようと渡世を横目で見ると、知らん顔で味噌汁をすすっていた。自分でふった話題のくせに逃げるなんてずるい。でも言い逃げは渡世の得意分野だってことを私は知っている。
四人でこたつに入って囲った鍋はあっという間になくなった。シメの雑炊を食べ終えると、私は渡世の部屋に移動した。
二階の一番奥にある渡世の部屋の中は殺風景で物がほとんどない。まるでホテルの一室みたいにすっきりしており、ある意味〝いい宿〟と呼ぶに相応しい部屋だ。
「風呂が沸くまでなにかするか?」
渡世はそう言うが、ゲームもテレビもない部屋でなにをすればいいのやら。その時、私はふと自分の荷物の中身を思い出しキャリーバッグを広げた。ホテルでみんなと暇つぶしにやろうと思っていた遊び道具一式を取り出すと、机の上にそれらをドサッと置く。
「トランプ、ウノ、占い本……お前、ホテルで遊ぶ気満々だったんだな」
渡世は苦笑する。
「ずーっとおしゃべりするより、こういうのやってたほうが時間経つでしょ?」
楽しもうと思っていたってよりは、その場を持たすためだけに持参しただけだ。渡世はそんな私の意図に気づいたようで、「お前らしい」と呟いた。
「あ、それにこれもあるよ。ほら」
ほかに持ってくるものといえばお菓子だ。スーパーで買ったスナック菓子やチョコレートとは別に、私は家から駄菓子も持ってきていた。バスの中で小腹が空いた時に小さいサイズの駄菓子はちょうどいいと思ったから。
駄菓子を広げると、渡世の目が微かに輝いたように見えた。
「これ食べながら遊ぼうよ」
「そうだな。悪くない」
渡世の中での駄菓子ブームはまだ健在らしい。
私たちは駄菓子をつまみに、ふたりでカードゲームをして楽しんだ。渡世はすごく強くて、私はなにをしても一勝もすることができなかった。
やっぱりズルしている! と言ったが、渡世は「これは実力だ」と鼻で笑った。
一通り遊んだあと、私たちは順番にお風呂に入った。一番風呂を勧められたがそんなに厚かましいことはできないと全力で拒否し、私は最後にお風呂に入らせてもらうことにした。
最後だと、時間を気にせずに洗面台で髪を乾かしたりスキンケアができる。持ってきていたファストファッション店で買った新品のルームウェアに着替え、使い捨てのプチプラ化粧水を顔に塗り終えたところで、私は渡世の部屋へと戻った。
先にお風呂を済ませていた渡世は、部屋でひとり占い本を読んでいた。
「楽しい? その本」
「普段読むことがないから新鮮ではあるな」
「へぇ。自分は未来透視とかするのに、スピリチュアルを勉強したりはしないの?」
「俺のと占いはまた別だ。朝倉は占いが好きなのか?」
渡世はページをめくり、さっと目を通してはすぐ次のページへいく。読み込んでいるわけではなさそうだ。
「全然。むしろ嫌い。この本がお母さんが〝旅行で盛り上がると思うから〟って買ってきただけ」
「へぇ。なんで嫌いなんだ?」
「なんでって言われても。あ、嫌いっていうのは語弊があったかも。ただ信じないだけ」
恋愛運とか仕事運とか健康運とかいろいろあるけど、全部根拠がない。そんなものに自分の人生を左右されるなんて嫌だ――って、それを言えば渡世の未来透視だって同じだ。今の私には占いを馬鹿にする権利はないかもしれないということを今さら自覚する。
そう思うと、渡世ってすごいな。たった一言で私の今までの考えをひっくり返すんだもん。……それとも、私は元々こういうのを内心では気にしていて、頑なに信じないようにしていただけなのか。
「朝倉って誕生日、四月だよな」
渡世は占いを信じる信じない問題とはまったく脈絡のない質問を投げかけてきた。さっきまでスムーズにページをめくっていた渡世の手がとあるページで止まっている。なにか気になるページを見つけたようだ。
「うん。あれ、渡世に誕生日教えたことあるっけ」
「連絡先に誕生日登録してたらこっちにも表示されるだろ。それで知った」
ああ、今ってそんな機能になってるんだっけ。
渡世の誕生日は表示されていないから、渡世は自分のプロフィールに誕生日を登録していないのだろう。
「渡世はいつなの?」
「一月四日。……ほら、これ見てみろ」
渡世は占い本のあるページを指さして私に見せる。
そこには一月四日生まれの人と相性がいい誕生日がずらっと並んで書かれていた。この占い本のタイトルをよくよく思い出す。〝365日誕生日占い〟。……なるほど。渡世は自分の誕生日のページを見つけて手を止めたのか。
「どれどれっと」
前のめりになって指さされた箇所を見ると、相性がいい欄に私の誕生日が載っていた。しかも、恋愛・結婚相手として相性がいいという項目に。
「相性いいみたいだ。俺たち」
なんの根拠もないその結果を見て、渡世は嬉しそうにしている。その笑顔を見るとむずがゆいというか、こそばゆい感覚に襲われた。
正直意外だった。渡世がこんな占い本に書かれていることで喜ぶなんて。
「こんなすぐ仲良くなれたんだから、たしかに相性はいいかもね」
本当は少し――いや、結構私も嬉しい。でもそんな気持ちを知られるのは恥ずかしくて、かわいげのない私はかわいげのない返答をしてしまう。
「お、信じる気になったか?」
「……嫌だ! ていうか、なんか渡世にうまく嵌められた気分!」
「頑固だな。嬉しく思ったり、信じたいと思えたものだけでも信じたらいいだろ。……ちなみに俺はこれ、信じようと思うけど?」
そこまで言われると、私も信じたくなってしまうわけで。相手が渡世だからそう思うのか、渡世の口がうまいからか。だけど間違いないのは、私はこのなんの信憑性もない占い結果ひとつにドキドキさせられてしまったということ。
「……まぁ、天才渡世様がそう言うなら、生まれて初めて信じてみようかな」
「はは。よろしい」
最後まで素直な可愛い反応はできなかった。でも、渡世は満足げな顔を浮かべて私の頭を優しくポンッと撫でた。
「そろそろ寝るか」
占い本は思ったより読み応えがあって、気が付くと二十三時半になっていた。朝から遊んでいたせいか、この時間になるともうちょうどいい眠気が襲ってきた。渡世は小さなテーブルを部屋の隅に移動させ、空いたスペースに客用の布団を敷いてくれた。そこで寝ようとすると、渡世にベッドで寝るように言われ、そこはお言葉に甘えることにした。
電気が消され、部屋は真っ暗になった。渡世は蛍光灯を点けないタイプ。私と同じだ。
布団の中に入ると微かに渡世の香りがして、私はまたこそばゆい気持ちになった。ベッドの下で寝ている渡世に背を向けるように横を向くと、背中の向こう側で渡世もまた体勢を変えているのか、布団をもぞもぞとさせる音が聞こえた。
同級生の男子の部屋で、ふたりきりで一夜を共に過ごす。
まさか私が高校生活でこんな体験をするとは思っていなかった。なにか起きるわけじゃないとわかっている。それでもドキドキしてしまうのが女子高生の性というものだ。いや、たぶん大人になっても、気になる男の人と部屋にふたりきりになったら緊張するだろう。
「……朝倉、起きてる?」
暗くて静かな部屋の中で、少し掠れた渡世の声がした。
「起きてるよ。どうしたの?」
「言い忘れたことがあって。……ありがとう。俺のために。修学旅行、行かせてやれなくてごめんな」
顔を見なくても、申し訳なさそうにする渡世の顔が安易に想像できる声色だ。
「なに言ってるの。私は私のために行かなかっただけ。渡世のいない旅行ってつまんなそうだったから」
旅行に行けない渡世が可哀想だから残ったわけじゃない。大体、渡世は自分から行かない選択をしたのだから、可哀想もなにもない。行かないでと引き留められたわけでもない。よって、今日の行動は全部自分のためだ。
「修学旅行じゃなくたって、沖縄にはまたいつか行けるよ。渡世も急だったのに一日付き合ってくれてありがとう」
「うん。でも、ごめんな」
それから、渡世がなにか言うことはなかった。なにを謝っているのかわからない。ただ、このまま会話が終わってしまうのは寂しいと思った。
「ねぇ、私からもいい?」
「なんだ?」
「最近忘れてたけど……私に死神ってまだ憑いてる?」
修学旅行の夜といえば、恋バナと怖い話。そう思って、死神の話を振ってみた。渡世からすると怖くもなんともないのだろうけど、とにかく話題はなんでもよかった。
「言ったろ。なにしても離れない死神だって」
「憑いてるってことね。でもさ、この死神、もはや守護霊じゃないかとも思うんだよね」
「……どうしてそう思うんだ?」
「だって、渡世に死神が憑いてるって聞いてから、嫌なことあんまりないもん。私に存在を知ってもらえたことで、死神から守護霊に変化したのかも」
「なんだそれ。死神は死神だろ」
「もう、渡世ったら夢がないなぁ」
「死神相手に夢を見るお前がどうかしてる」
いろんなものが視える渡世は、私と違って現実的だった。どんな姿をした死神なのか聞きたかったが、渡世の寝息が聞こえてきたので、私も黙って目を閉じた。
目が覚める。見慣れない天井を見て、渡世の家に泊まったことを寝ぼけた頭の中で思い出す。
渡世は既に起きていたのか、部屋に渡世の姿はなかった。床に敷かれた布団セットは綺麗に折りたたまれていた。
しばらくすると、渡世は部屋に戻ってきた。今、渡世のお母さんが朝ごはんを用意してくれているらしい。お父さんはもう仕事に行ってしまったようだ。挨拶ができなかった。また来ることがあれば、改めてお礼を言わないと。
朝ごはんが出来上がるまでの間に、私は洗顔や歯磨き、着替えなどを済ました。鍋を囲ったぶりのリビングへ行くと、白ご飯に具沢山のお味噌汁に焼き鮭といった、理想の朝ごはんセットが用意されていた。いつも焼いたトースト二枚にジャムかマーガリンをそのまま置いてどこかへ行くうちの母親とは大違いだ。まぁ、店番があるから朝忙しいのはわかっているので、仕方ないのだけど。
「昨日はちゃんと眠れたか?」
「うん。ぐっすり」
「そうか。よかった」
他愛もない話をしながら、朝ごはんを食べ終える。
さて、今日はなにをしようかと思っていると、渡世は用事があるみたいだった。私と渡世の青春ごっこは、どうやらここで終わりみたい。
「ごめんね。紬ちゃんが一緒にいてくれるって知ってたら用事をズラしたのに。あ、そんなに時間はかからないから、家で待っててくれてもいいのよ」
「いえ! そんなご迷惑はかけられません。こちらこそ、急に押し掛けたのにいろいろとありがとうございます。ご飯もすっごく美味しかったです」
用事があるなら長居するのもよくないと思い、私は早々に家に帰ることにした。渡世は家まで送ると言ってきたが、用事があるのにバタバタさせるのも悪くて丁重にお断りしておいた。
玄関で靴を履いて、私は玄関先まで見送りにきてくれた渡世と渡世のお母さんに改めてお礼と、最後に大事なことをひとつ。
「渡世、躓いて転ぶとか階段から落ちるとかしないように。お母さんも、渡世のことよくみといてくださいね」
「……俺は小さな子供か」
私がいない時は、渡世のお母さんにボディガードになってもらわないと。変な心配をする私の言葉を聞いて、渡世のお母さんはおかしそうに笑っていた。
「それじゃあ、お邪魔しました! 渡世、また学校で」
ほとんど使うことのなかった荷物を持って、私は渡世家を後にした。スマホのナビを使って、私は一日ぶりの我が家へと帰宅する。
駄菓子屋の店番をしていたお母さんは目が合うなり怒るどころかにやにやして、渡世となにをして遊んだのか、どうしてそうなったのかしつこく聞いてきた。適当にあしらったものの、修学旅行をサボるなんてことをしでかした娘を怒らない器の大きさは純粋にすごいしありがたかった。
部屋に戻って、ほとんど返しておらずたまっていたメッセージを開く。
クラスメイトから心配のメッセージと、楽しそうに旅行を満喫している写真が送られてきていた。不思議と羨ましいとは少しも思わなかった。
なにもない平日は、特にやることもなくつまらなかった。だけど、旅行に行っても同じくらいつまらなかったような気がする。
――私、渡世がいないとほとんどのことがつまらなくなってない?
ふとした時に頭に浮かぶのは、渡世の顔、渡世の言葉。
気づかぬ間に、渡世が私の脳内スペースをどんどん侵食している。
「……これって、もう始まりまくってんじゃん」
いつかの渡世の言葉を思い出し、私は枕に顔を埋めた。
私は彼が好きなのか? これが、恋というものなのか? 初めてだからわからない。
ただこれだけは言える。私は今日もまた、渡世のことを考えている。
秋の初めに香った、金木犀の切ない香りを思い出した。外ではあの頃よりずっと、冷たい風が吹き始めている。
答えのわからない胸の高鳴りともやもやを抱えたまま、秋が終わりを告げた。
十二月になった。みんな首にマフラーを巻き、ブレザーの上にコートを羽織っている。この光景を見ると本格的に冬がきたことと、二学期も終わりに近づいていることを実感する。
私が修学旅行を休んだことは、クラスの誰もたいして気にしていない。修学旅行の思い出話で盛り上がっていたのも最初の一週間くらいで、今となってはもうみんなの関心はクリスマスや冬休みどうするかというほうへ向いている。ちなみにゆかりと高遠カップルは順調に続いているようだ。
特に変わったこともなく半月が過ぎて、冬休み間近となった。
渡世に不運も起きていない。しかし、冬は要注意だ。雪で滑ったとか、餅を喉につまらせるとか危険はそこらじゅうに転がっている。
「だからね、冬休みはボディガード強化期間にしようと思うの。どう?」
休み時間、お弁当を食べる渡世に相談してみた。
「心配するな。俺は餅が好きじゃないから食べることはない」
「じゃあ雪が降ったら?」
「そうだな。積もったら一緒に雪だるまでも作るか?」
「えっ。楽しそう! ……って、そうじゃないんだって」
うまく乗せられた。
ボディーガードを強化することに、渡世はあまり前向きじゃないのだろうか。
「朝倉の気持ちは嬉しいよ。でも俺、クリスマスから少し家を空けるんだ。冬休みは婆ちゃんの家で過ごそうと思って」
「あっ……そうなんだ」
渡世はクリスマスも、冬休みも予定があることを知り、ちょっと残念な気持ちになった。どこかは一緒に楽しめるかななんて、勝手に期待していた。
「……俺の誕生日」
「えっ?」
「一月四日。お前が暇なら、祝ってくれてもいいぞ」
渡世の誕生日は、ちょうど冬休みが終わる直前だ。その日は家族と過ごすと思って誘うのは控えていたが、まさか渡世のほうから誘ってくれるとは。
「ひ、暇だから、祝ってあげてもいいかな」
自販機で買ったホットココアで両手を温めながら、私は渡世にそう返した。
「じゃあ、約束な」
差し出された私の人差し指くらいありそうな渡世の細長い小指に、自分の小指を絡める。私は基本的に遊びたい人としか休日出かけない。だから、クラスメイトに誘われても適当な理由をつけて行かないことが多かった。夏休みも冬休みも、家でダラダラ過ごすほうが私には有意義に思えていた。そのため、いつもカレンダーな真っ白である。けれど今年の冬休みの一月四日。私の真っ白なカレンダーに、初めてしるしがついた。
終業式をして、クリスマスがきて、お正月を迎えて。
町のディスプレイは見るたびにイベントに合わせて姿を変えているのに、私はなんの代り映えもない冬休みを過ごしていた。
年明け、めずらしく渡世から電話がきた。新年の挨拶と、四日の予定を決めるためだった。
そして迎えた一月四日。
今日は私の家で渡世の誕生日会を開くことになっている。渡世は夕方に家に来るので、それまでに私は予約していたホールケーキとプレゼントを買いに行った。料理はお母さんが用意してくれており、テーブルには普段お母さんが作らないロールキャベツにスペアリブの煮込み料理など、少々手間のかかる料理が食欲のそそるにおいを発しながら並んでいた。私の誕生日より気合が入っていそうな勢いだ。
「紡が誰かの誕生日会するなんて、小学生以来だもんね。はりきっちゃった」
ずっとキッチンにいたからか、額にうっすらと汗を浮かべてお母さんは言った。
今まで、お母さんがどうして渡世をこんなに気に入ってるんだろうと思っていたけど、私は自分のその考えが少し間違っていることに気づいた。
きっと、渡世を気に入ってるだけじゃない。今まで何事にも無関心で、人間関係に希薄だった私に変化があったことを、お母さんは喜んでいるんだ。
嬉しそうに準備をするその表情は、渡世のお母さんとどこか似ていた。ああ、きっと渡世も私と同じだったんだろうな。
完全に外が暗くなる前に、渡世がうちへやって来た。
「久しぶり。朝倉」
「……久しぶり」
渡世は黒いロングコートに深緑のニット、そして細身の黒いジーンズを履いていた。制服の時よりもっと大人っぽく見えて、数秒ほど見惚れてしまったのは絶対誰にも秘密だ。
「どうした? ぼーっとして」
「え? ううん。なんでもない。さ、上がって!」
一週間とちょっとぶりに渡世に会えて、私はテンションが上がっていた。渡世に会えたことが、思ったよりずっと嬉しかったのだと思う。その嬉しさを噛みしめるように、目の前にいる渡世を凝視してしまった。
「ハッピーバースデー!」
リビングにやって来た渡世をお母さんとお父さんと一緒にクラッカーでお祝いする。突然の大きな音にも渡世は驚いたりしなかったが、はにかんだ顔で「ありがとう」と言った。喜んではくれたみたいだ。
お父さんは渡世と初対面だったため、どこがドギマギした様子で挨拶をしていた。渡世のほうがどっしり構えて挨拶を返していたから、これじゃあどっちが大人かわからないとお母さんが笑っていた。
渡世の家で鍋を囲んだように、今日は私の家でみんなでご馳走を囲む。渡世はどの料理も美味しそうに食べており、お母さんは腕を振るった甲斐があったと大満足していた。
「それより、うちで過ごしてよかったの? 渡世くんのご両親もお祝いしたかったんじゃない?」
「いえ。両親はむしろ〝行ってこい〟って喜んで見送ってくれました」
「あらあら。優しいご両親ね。いつかお礼を言わないと。この前も渡世くんの家にはご迷惑かけちゃったから」
お母さんが渡世とそんな話をしていると、お父さんが不思議そうな顔をする。
「この前ってなんだ?」
「お、お父さんには秘密! ねぇ、そろそろケーキ食べようよ!」
あぶない。お父さんには渡世の家に泊まったことは内緒にしていたんだった。誤魔化すようにお母さんにケーキの話題を振ると、お母さんも状況を察してお父さんの質問をスルーして冷蔵庫へと向かった。
火の灯ったろうそくが刺さったホールケーキをお母さんが運んでくる。部屋の電気を消して、ハッピーバースデーを歌い終えると渡世がろうそくの火を消した。なんの変化球もないベタな祝い方だ。
私の選んだ甘さ控えめのチョコレートケーキは渡世の舌に合ったようで、まるで私が作ったかのようにべた褒めしながら食べてくれた。普段あまり量を食べないイメージのある渡世が誰よりもご飯とケーキを食べていたことに驚きつつも、無理をしていないか心配にもなった。
「じゃあ、ここからはお若いふたりの時間ね」
ケーキを食べ終わると、お母さんがにやにやとやらしい笑みを浮かべてそう言った。思ったよりご飯の時間が長引いてしまったので、そろそろ渡世も帰らなくてはならない時間だ。
私は渡世にプレゼントを渡そうと思ったが、家で渡すのが恥ずかしくて渡世に外を散歩しないかと提案した。帰り道のどこかのタイミングでプレゼントを渡そうと思ったのだ。
お母さんが家にある駄菓子を好きなだけ持って行っていいよと言ったので、家を出る前に渡世は真剣な顔をして駄菓子を選んでいた。新商品が出ているとか、前に来た時に買ったのとは別の味が食べたいとか、時折目を輝かせて私に駄菓子の話を熱弁する渡世は、今日十七歳になったばかりというのにもっと子供に見えた。普段はずっと大人に見えるのに。
袋いっぱいの駄菓子を抱えた渡世と外に出る。一月の夜風は思ったよりも冷たくて、私は開けっ放しにしていた白いダウンジャケットのファスナーをいちばん上まで締めた。
「ちょっとそこに寄らない?」
いつも私たちが解散する信号までの道中に小さな公園がある。
私はそこに渡世を誘い、自販機で温かいココアとコーヒーを買ってベンチに座った。空にはたくさんの星が浮かんでいる。寒いけど、温かい飲み物を飲みながら夜空を見つめるのも悪くないななんて思った。今までの私は、星を見たって心が動くことなどなかったのに。
横を見ると、渡世も星を見上げていた。同じ空を眺めながら、渡世は今なにを考えているのだろう。
「渡世、これあげる。誕生日プレゼント」
渡世の視線が星から私へと移った。
「ああ。ありがとう。……開けていいか?」
「うん。言っとくけど、大した物じゃないからあんまり期待しないでよ」
私から紙袋を受け取って、渡世はラッピングされた包みを丁寧に解いていく。
「……マフラーだ」
中身を見て渡世が呟いた。私は誕生日プレゼントにシンプルなマフラーを選んだ。黒に近いネイビー色のマフラーだ。ちょっと大人びた色が渡世にぴったりだと思い、迷うことなくこれに決めた。マフラーにした理由は――。
「十二月になったらみんなマフラーしてたのに、渡世はしてなかったから。これからもっと寒くなるし絶対必要と思って」
周りがみんなマフラーをしている中で、渡世だけいつも首元が寂しそうだったからだ。
理由を聞いた渡世は黙って、新品のマフラーを見つめている。
「あ、もしかしてマフラー巻かない主義だったり? だとしたらごめ――」
「いいや。そんなことない。……ありがとう。早速使わせてもらう」
一瞬、プレゼントのチョイスをミスしたかと焦ったが大丈夫のようだ。
渡世は言葉通りその場で自分の首にマフラーを巻くと、口元まで巻き付いたところを片手で下げて、自慢げに微笑む。
「似合うか?」
「うん。似合うと思って選んだもん」
そんな渡世に、私も自慢げに笑ってみせる。
「ありがとう。ずっとずっと、大切にする」
大事そうにマフラーをぎゅっと掴む渡世の瞳はとても優しくて、空に浮かぶ星みたいに輝いていた。マフラーのことを言っているのに、まるで自分に言われているかにように錯覚してしまう。心臓がドキドキする。
「……渡世の言ってること、当たってたと思う」
「……?」
気づけば私は、今の素直な気持ちを渡世にぶつけていた。
「会えない時間、渡世のことばっかり考えてた。今日渡世の顔を見た時にね、すっごく嬉しかったの。同時によくわからない気持ちが込み上げてきて……でも、今までわからないと思っていたその気持ちがなんなのか、やっとわかった気がする」
恋をしたことがないからこの気持ちの正体がわからない。私はずっとそうやって〝わからない〟を言い訳にしていた。この気持ちに気づくことも、正体を知ることも怖かった。だって――。
「渡世の未来透視は、当たってたよ。……まだ半分だけど」
私が渡世を好きになる。それを正解にしてしまうと、そのあとに起きることも当たるんじゃないかって思ったから。
「……だろ? 俺の予想は当たるんだ」
「……うん」
「なんでそんな暗い顔するんだよ」
「だって、本当に当たるなら渡世は――」
「馬鹿。そうならないために、お前は俺のボディガードになったんだろ」
軽く頭をどつかれた。痛くはない。笑っている渡世を見ると、私の怖い気持ちも消えていく。
「そうだね。それに、あとちょっとだもん。桜が咲く頃には、私たちは未来に勝ったことになるね」
「ああ。そうだ」
私は渡世が好きだ。
もう、渡世がいない日常が考えられない。悔しいけど、渡世の言う通りになった。今の私から渡世をとったら、なにを楽しみに生きて行けばいいのかわからない。
「朝倉」
渡世は私の名前を呼ぶと、私の手を握った。手袋もしてなければカイロを持っているわけでもない。温かいドリンクは外の寒さに負けてすっかり冷たくなっていて、私たちの冷めきった手を温めるのは互いの体温だけ。
私も渡世の手を握り返して、自然と上目遣いで渡世を見上げた。渡世は瞳を細めると、慈しむような眼差しで私を見た。なにも言わなくても、私はその目を見るだけで渡世の気持ちがわかった気がした。
「俺も、お前と同じ気持ち。ずっと前から、お前のことだけ考えてる」
言葉にまでされたら、ちょっと照れくさい。 どうして渡世が私を好きになってくれたのかわからない。だけど私も、気づけば渡世を好きになっていた。好きになった理由なんて、明確に探すほうが難しいのかもしれない。
私はなにも言えず、ただ小さく頷いた。好きだとか、付き合おうとか、そういう言葉は口にしないけど――私たちは、たしかに同じ気持ちなのだ。
今はそれだけでいい。それを知れただけでいい。関係を変えたいとか前に進みたいとか、そういうことは何故か思わなかった。たぶん、今のままでじゅうぶん満たされているからだ。渡世と一緒にいるだけで幸せなのに、これ以上のことを知るには恋愛経験ゼロの私には早すぎる。
「今日、今まででいちばん最高の誕生日だった。絶対に忘れない」
噛みしめるように渡世は言った。
「うん。来年も一緒に祝えたらいいなぁ」
「……そうだな」
できればこの先ずっと、渡世と一月四日を過ごせたらいいのに。
本格的に冷え込む前に、私たちは手を繋いだまま歩き始めた。ついさっきまでただの仲良しなクラスメイトだったはずが、手を繋いでいるだけでまったく別の関係に見えるから不思議だ。
「ここまででいい。送ってくれてありがとな。ボディガードさん」
渡世は冗談っぽく言う。私がボディガードというのは事実なのに、そう呼ばれるとさっきより距離が遠くなった気がしてどこか寂しい。私だけが変に盛り上がっているように思えて、繋いだ手は自分から離してしまった。
「じゃあ、また来週ね」
三日後には三学期が始まる。またすぐ会える。別れを惜しむ場面じゃない。
そう言い聞かせて、私は渡世に手を振った。
「……じゃあな、朝倉」
渡世の返事を聞いて、私は背を向けて歩き出した。
体に吹つける風は冷たいのに、繋いでいた手と顔が熱い。家に帰るまでに真っ赤になっているであろう顔を普通に戻しておかないと、絶対にお母さんにからかわれる。
帰りにひとりで公園に寄ってココアでも飲みなおそうかな。なんてことを考えていると、なぜかふと、以前渡世が言っていた言葉を思い出した。
『朝倉。ここで……俺が赤信号なのに急に道路に飛び出したらどうする?』
『朝倉は――死にたいと思ったことはあるか?』
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。渡世といる時のドキドキとはまったく違う緊張が走る。
なんでこんなことを突然思い出したのか。それは――別れ際の渡世が、あの時と同じ顔で笑っていたから。
嫌な予感がして、私は来た道を引き返した。走った先で、渡世が信号を渡っている姿が目に入る。
信号の色は赤だった。一台の車のライトが渡世の姿を照らし、大きなクラクション音を立てる。
――待って。待ってよ渡世。行かないで。
「渡世っ!」
大きな声で叫んで、目一杯に渡世の腕を引っ張った。
衝動で後ろに転げ落ちる。背後から車が走り去る音が聞こえて、目の前には放心状態の渡世がいた。
私は倒れる渡世に馬乗りになって、思い切り胸倉を掴んだ。
「なにしてるの!? ふざけないで!」
誰もいない道で、私は叫ぶ。
「自分から赤信号を渡るなんて、こんなの事故でも不運でもなんでもない! ……自分から死ぬなんて二度とやめて!」
「……朝倉」
叫んでいると涙が出てきた。堪えることができず、渡世の顔を私の涙が濡らしていく。
「……ごめん。俺……なにしてたんだろう。どうかしてた。自分でも無意識だったんだ。気づいたら足が動いてて、気づいたら朝倉に助けられてた。……本当に、なんであんなことをしたか思い出せない」
震える声で渡世は言った。嘘を言っているようには思えない。渡世自身が自分の行動にいちばん驚いていた。
もしかすると、渡世には自殺願望があるのだろうか。前もこう言っていた。死にたいと思ったことがあると。それと同じくらい、死にたくないと思ったとも。
あの時、私は渡世がなにを言っているのかわからなかったし、それ以上追及しようとも思わなかった。私が簡単に触れてもいい話じゃないと思った。
……たまに死にたいと思う渡世が突然顔を出して、今みたいに突発的な行動をしているのだとしたら。渡世はそんなもうひとりの自分を止めてほしくて、私にボディガードをしろなんて言ったんじゃないのだろうか。全部、私の勝手な憶測に過ぎないが。
「私がいなかったら、死んでたかもしれないんだよ……?」
「……ごめん。二度としないから」
渡世は上体を起こすと、泣きじゃくる私を抱きしめた。
「大丈夫だ朝倉。俺はずっと、お前と一緒だから……お前がいてくれる限り、死なないから」
安心させるように、渡世は抱きしめる腕に力を込める。だけど、私は気づいていた。渡世の体が震えていたことを。安心させてほしいのは、渡世も一緒なんだって。
私は渡世の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返す。渡世が小さく息を呑む音が聞こえた。
大丈夫。私たちは大丈夫。だって、渡世には私がついてる。私にも渡世がついてる。
道のど真ん中で、私たちはなにも言わずに抱きしめ合った。
「それじゃあ改めて。また三日後にね。渡世」
「ああ。……本当にありがとな」
やっと冷静さを取り戻した私は、信号前で二回目のバイバイを渡世に告げる。
今度は信号を渡って、その後姿が見えなくなるまで見張ることにした。この信号を渡って細道に入れば、渡世の家までもう信号はない。
「またな、朝倉」
すっきりした笑顔で渡世は言った。たしかに、そう言ったのだ。でも――三日後、渡世は待ち合わせ場所に現れなかった。連絡もとれず、家を訪ねても留守。小堀先生に事情を尋ねても口を濁される。その状態が三日続いた。
私は不安でたまらなくなった。好きと不安は比例する。渡世のあの言葉は本当だったことを痛感する。
三学期が始まった四日目の朝、お決まりの焼きたてのトーストをかじる。ジャムを塗ったのにまるで味がしない。食欲が湧かず、結局ひとくちだけでパンをお皿の上に戻した。
『今日の星座占いコーナー! 一位は牡牛座のあなた。ずっと会いたかった人に会えるでしょう。そして幸せが訪れます!』
私は占いを信じない性分だった。だから、朝のニュース番組の合間に訪れる占いコーナーの結果に、いちいち一喜一憂することはなかった。
今日の結果は一位。内容は会いたい人に会えて、幸せが訪れる。もしかして……今日は渡世に会えたりして。信じたいと思ったものは信じてみてもいいんじゃないかと渡世は言っていた。だから私は今日の占いを信じてみることにした。
しかし、渡世は来なかった。これで四日連続の欠席だ。
クラスメイトの何人かに「渡世くん、どうしたの?」と聞かれたが、そんなもの私が知りたい。なにも答えられない自分に嫌気がさす。結局私は、渡世のことをまだ全然知らない。
ひとりで帰るいつもの道の景色は、なんだか色が薄れているように見えた。鮮やかでない、くすんだような、濁っているような色。渡世と一緒に帰るようになるまでは、目に映る景色の色なんて気に留めたこともなかったのに。
私は渡世に会って、彼を好きになってから、自分の世界が色鮮やかになっていたことに気がついた。恋をするということは、自分を取り巻く世界そのものを変えてしまうということ。楽しい時はキラキラ輝いて見えるし、うまくいかない時は曇って見える。まるで心を映しているみたいだ。
「紬、おかえり」
「……ただいまー」
店頭を掃除しているお母さんに覇気のない返事をする。すると、お母さんが予想外なことを言い出した。
「さっき、渡世くん見かけたわよ」
「えっ?」
驚きすぎて持っていたスクールバッグをその場に落とす。私はお母さんの両肩を掴んでどこで会ったのかと迫った。
「おばあちゃんが入院してる、駅の近くにある総合病院よ。渡世くん、今そこに入院してるって。てっきり紬は知ってたのかと……あ、ちょっと! 紬!」
聞き終わる前に私は走り出した。
渡世が入院? 冬休み中、事故にでも遭った? 私の目が届かない場所では慎重に行動してってあれだけ言ったのに。それとも……また自殺未遂をしたんじゃないよね?
入院した原因が知りたくて胸がざわざわする。最近の私は走ってばっかりだ。しかも理由は全部同じ。渡世のせいだ。
病院に着くと、入り口で見たことある姿が見えた。あれは――渡世のお母さんだ。
「あら。紬ちゃん?」
向こうも私に気づいたようで声をかけてきた。渡世のお見舞いに来ていたのだろうか。
「こんにちは! その……渡世はどこに……」
「全なら四階の一番奥のひとり部屋よ。よかったら一緒に行く?」
「いえ。大丈夫です! 今からひとりで行ってみます」
呼吸を整えながら部屋番号を尋ねると、快く教えてくれた。
「……ありがとね紬ちゃん。最後まで、全のことよろしくね」
「? は、はい。最後までって? 退院の日は決まってるんですよね?」
意味深そうな言葉が引っかかり、私は病室へ行こうとした足を止める。渡世のお母さんは笑っているが、その笑顔はとても悲しそうに映った。不安を抱えた今の私だからこんな悲しげに見えるだけなのか。それとも。
「ここへ来たってことは、全から聞いてるのよね」
穏やかな口調でそう言われ、私はなんのことかわからなかった。きっと渡世のお母さんは、私が渡世自身に病院にいると聞いてここに来たと思っている。
「……は、はい。なんとなく、ですけど」
私は嘘を吐いた。渡世からはなにも聞いていない。でも、ここで知ったふりをしなかったら、私は永遠に渡世が抱えているものの正体を知らないまま終わる気がした。渡世は私になにかを隠している。そして、言わないってことは知られたくないことなのだ。それでも嘘をついてまで知ろうとする私を、渡世は怒るだろうか。
私は知りたい。渡世のことを。時折見せる寂しい笑顔も、意味深な言葉も、全部理由があるはずだ。渡世の性格的に、絶対に知られたくないことなら完璧に隠すことができると思う。だけど渡世は誕生日の夜、私に弱さを見せた。もっと前から、どこかで合図を出していたようにも感じる。
なにか大きなものを抱えているなら、私は助けたい。クラスメイトとして。ボディガードとして。あなたを好きなひとりの女として。
渡世の未来透視が本当なら、渡世を救うことが私たちふたりの幸せな未来に繋がると、今の私は本気で信じている。
「そう。紬ちゃんにはちゃんと言っておかないとね……全は――」
401 渡世 全 様
部屋の前に書かれたネームプレートを確認して、私はノックもせずに思い切り扉を開けた。病室のベッドの上で、教室にいる時みたいに窓の外を眺めている渡世がいた。
「……朝倉?」
私に気づいた渡世の瞳は動揺からか揺れていた。
ぴしゃりと扉を閉めると、私は渡世が寝ているベッドまで無言で歩き口を開いた。
「……嘘つき」
「……」
「渡世の嘘つき……!」
数分前、渡世のお母さんか聞いた話は、信じがたいほど衝撃的なものだった。自殺願望があって、それを止めてほしくてなんて私の予想はまったくの的外れで――現実はもっともっと残酷だった。
渡世はすべてを悟ったのか、諦めた顔を浮かべて瞳を伏せた。
渡世は幼い頃から心臓病だった。
症状が重くて、ずっと学校に行けず入退院を繰り返していたようだ。どういうわけか超能力者なんて噂がついて、その噂がひとり歩きして、学校に来ない理由は〝世界中を飛び回っているから〟となったらしい。「全は人間観察が好きだったから、人の行動を読むのが得意だったの。超能力者っていうのは、そこからきたのかもしれないわね」と、渡世のお母さんは言っていた。
そんな渡世がどうして高二の二学期から、突然学校へ通うようになったのか。
夏休み、渡世はずっと自分を診てくれた主治医にこう告げられたという。
「症状はかなり悪化している。このままでは持ってあと半年だ」と。
つまりこれは、渡世に対する医者からの余命宣言。最後に渡世に好きなことをさせたいと思ったご両親は、渡世に聞いた。「なにかやりたいことはない?」
その答えが「高校に通って、普通に男子高校生として過ごしてみたい」だった。ずっと学校に通えなかった渡世は、限られた時間を周りと同じように、当たり前に過ごすことを望んだのだ。
「不運ってなに? こんなの、私が助けられる範囲を超えてるじゃん。今から医者でも目指せってこと? ふざけないでよ」
掴みかかりそうになる手をぐっと固く握る。怒りと悲しみで唇がブルブルと震える。
渡世は世界中を飛び回る超能力者なんかじゃなかった。未来透視の話も、嘘なのだとしたら――。
「どうして……私にあんなことを言ったの?」
『死にたくないなら、俺を死なせるな』
最初から私がいくら頑張ったって、渡世を助けるなんて不可能だったのに。私はなにも知らないで、渡世の未来透視を鵜呑みにして、ふたりともが生きる未来だけを見据えていた。
その結果がこれだ。病気を治す力なんて私にはない。どう頑張ったって、私は渡世を救えない。
「……お前に、生きてほしかったから、かな」
意味がわからない。死ぬのが怖かったから、一緒に死の恐怖を持ってくれる相手がほしかったと言われたほうがまだわかる。私に生きてほしいなら、最初から関わらないでほしかった。こんな気持ち、教えないでほしかった。
私はもう、あなたがいない毎日が考えられない。渡世の言った未来は当たっている。私は渡世が死んでしまった世界を、色のない世界を、ひとりで歩ていける自信がない。
「本当なの? 本当に、渡世は死んじゃうの?」
「……ああ。でも、お前が自殺するっていう未来は嘘だ。ちっともおもしろくない冗談だ。俺はお前に、ただ一緒にいてほしかった。あんなことを言ったのは、四六時中俺のことを考えてほしかったからだ。全部、俺のエゴでやったことに過ぎない」
「そんなのおかしい。私と渡世はあの時、まだ知り合ったばかりだったじゃない。私のことなんて好きじゃなかったでしょう?」
「……さあ。どうだかな」
また、そうやって誤魔化すんだ。こんな場面でもいつもみたいに、肝心なことは絶対に離さないんだ。
「俺が死んでも、朝倉は大丈夫だ」
「大丈夫なわけない! どうしてそんなこと言えるの? 渡世、言ってたよね。私がいる限り、俺は死なないって。ずっと一緒だって」
たった五日前に言ったことを、もう忘れちゃったの? ……あの時、渡世はどういう気持ちであの言葉を言っていたの?
「……もう、俺には会いに来ないでくれ。面会も謝絶してもらう」
「なに言って――」
「ボディガード、クビだから」
「じゃあな。朝倉」。そう言うと、渡世は私に背を向けて布団の中に潜りこんだ。ベッド脇にあるテーブルには、私があげたマフラーが丁寧に畳んだ状態で置かれていた。
「……嘘なんでしょ?」
「……」
「病気のことも、クビっていうのも、全部嘘だよね?」
体育に参加しないのも、修学旅行にこなかったのも、病気だったからじゃないでしょう? 〝嫌いだから〟なんでしょう?
「嘘って言ってよ」
「……」
渡世からの返事はなかった。
私はどうしようもない気持ちになって、病室を飛び出した。
びしょびしょに濡れた顔のまま、私は行くあてもなくただ走る。刺さるように冷たい風が、心臓の奥まで冷やしていく。
「嘘って、言ってよ……渡世……!」
世界中の嘘が全部本当になってもいいから、あなたの言葉だけは全部嘘って言ってよ。
今まであなたが私にくれた、胸がきゅうってなる言葉も、顔がカッと熱くなるような言葉も、全部嘘でいいから。
だから――これからもずっと一緒にいてよ。私にしか見せない顔で笑ってよ。
好きになってくれなくてもいい。嘘ばっかりついてもいい。意味のわからない変なことを言ってもいいよ。ただ、変わらず隣を歩いてくれるなら。
家に帰って、布団をかぶって泣き続けた。占いなんて、やっぱり大嫌いだ。