「そろそろ寝るか」

 占い本は思ったより読み応えがあって、気が付くと二十三時半になっていた。朝から遊んでいたせいか、この時間になるともうちょうどいい眠気が襲ってきた。渡世は小さなテーブルを部屋の隅に移動させ、空いたスペースに客用の布団を敷いてくれた。そこで寝ようとすると、渡世にベッドで寝るように言われ、そこはお言葉に甘えることにした。

 電気が消され、部屋は真っ暗になった。渡世は蛍光灯を点けないタイプ。私と同じだ。
 布団の中に入ると微かに渡世の香りがして、私はまたこそばゆい気持ちになった。ベッドの下で寝ている渡世に背を向けるように横を向くと、背中の向こう側で渡世もまた体勢を変えているのか、布団をもぞもぞとさせる音が聞こえた。
 
 同級生の男子の部屋で、ふたりきりで一夜を共に過ごす。

 まさか私が高校生活でこんな体験をするとは思っていなかった。なにか起きるわけじゃないとわかっている。それでもドキドキしてしまうのが女子高生の性というものだ。いや、たぶん大人になっても、気になる男の人と部屋にふたりきりになったら緊張するだろう。

「……朝倉、起きてる?」

 暗くて静かな部屋の中で、少し掠れた渡世の声がした。

「起きてるよ。どうしたの?」
「言い忘れたことがあって。……ありがとう。俺のために。修学旅行、行かせてやれなくてごめんな」

 顔を見なくても、申し訳なさそうにする渡世の顔が安易に想像できる声色だ。

「なに言ってるの。私は私のために行かなかっただけ。渡世のいない旅行ってつまんなそうだったから」

 旅行に行けない渡世が可哀想だから残ったわけじゃない。大体、渡世は自分から行かない選択をしたのだから、可哀想もなにもない。行かないでと引き留められたわけでもない。よって、今日の行動は全部自分のためだ。

「修学旅行じゃなくたって、沖縄にはまたいつか行けるよ。渡世も急だったのに一日付き合ってくれてありがとう」
「うん。でも、ごめんな」

 それから、渡世がなにか言うことはなかった。なにを謝っているのかわからない。ただ、このまま会話が終わってしまうのは寂しいと思った。

「ねぇ、私からもいい?」
「なんだ?」
「最近忘れてたけど……私に死神ってまだ憑いてる?」

 修学旅行の夜といえば、恋バナと怖い話。そう思って、死神の話を振ってみた。渡世からすると怖くもなんともないのだろうけど、とにかく話題はなんでもよかった。

「言ったろ。なにしても離れない死神だって」
「憑いてるってことね。でもさ、この死神、もはや守護霊じゃないかとも思うんだよね」
「……どうしてそう思うんだ?」
「だって、渡世に死神が憑いてるって聞いてから、嫌なことあんまりないもん。私に存在を知ってもらえたことで、死神から守護霊に変化したのかも」
「なんだそれ。死神は死神だろ」
「もう、渡世ったら夢がないなぁ」
「死神相手に夢を見るお前がどうかしてる」

 いろんなものが視える渡世は、私と違って現実的だった。どんな姿をした死神なのか聞きたかったが、渡世の寝息が聞こえてきたので、私も黙って目を閉じた。

目が覚める。見慣れない天井を見て、渡世の家に泊まったことを寝ぼけた頭の中で思い出す。
 渡世は既に起きていたのか、部屋に渡世の姿はなかった。床に敷かれた布団セットは綺麗に折りたたまれていた。

 しばらくすると、渡世は部屋に戻ってきた。今、渡世のお母さんが朝ごはんを用意してくれているらしい。お父さんはもう仕事に行ってしまったようだ。挨拶ができなかった。また来ることがあれば、改めてお礼を言わないと。

 朝ごはんが出来上がるまでの間に、私は洗顔や歯磨き、着替えなどを済ました。鍋を囲ったぶりのリビングへ行くと、白ご飯に具沢山のお味噌汁に焼き鮭といった、理想の朝ごはんセットが用意されていた。いつも焼いたトースト二枚にジャムかマーガリンをそのまま置いてどこかへ行くうちの母親とは大違いだ。まぁ、店番があるから朝忙しいのはわかっているので、仕方ないのだけど。

「昨日はちゃんと眠れたか?」
「うん。ぐっすり」
「そうか。よかった」

 他愛もない話をしながら、朝ごはんを食べ終える。
 さて、今日はなにをしようかと思っていると、渡世は用事があるみたいだった。私と渡世の青春ごっこは、どうやらここで終わりみたい。

「ごめんね。紬ちゃんが一緒にいてくれるって知ってたら用事をズラしたのに。あ、そんなに時間はかからないから、家で待っててくれてもいいのよ」
「いえ! そんなご迷惑はかけられません。こちらこそ、急に押し掛けたのにいろいろとありがとうございます。ご飯もすっごく美味しかったです」

 用事があるなら長居するのもよくないと思い、私は早々に家に帰ることにした。渡世は家まで送ると言ってきたが、用事があるのにバタバタさせるのも悪くて丁重にお断りしておいた。
玄関で靴を履いて、私は玄関先まで見送りにきてくれた渡世と渡世のお母さんに改めてお礼と、最後に大事なことをひとつ。

「渡世、躓いて転ぶとか階段から落ちるとかしないように。お母さんも、渡世のことよくみといてくださいね」
「……俺は小さな子供か」

 私がいない時は、渡世のお母さんにボディガードになってもらわないと。変な心配をする私の言葉を聞いて、渡世のお母さんはおかしそうに笑っていた。

「それじゃあ、お邪魔しました! 渡世、また学校で」

 ほとんど使うことのなかった荷物を持って、私は渡世家を後にした。スマホのナビを使って、私は一日ぶりの我が家へと帰宅する。
 駄菓子屋の店番をしていたお母さんは目が合うなり怒るどころかにやにやして、渡世となにをして遊んだのか、どうしてそうなったのかしつこく聞いてきた。適当にあしらったものの、修学旅行をサボるなんてことをしでかした娘を怒らない器の大きさは純粋にすごいしありがたかった。
 
 部屋に戻って、ほとんど返しておらずたまっていたメッセージを開く。
 クラスメイトから心配のメッセージと、楽しそうに旅行を満喫している写真が送られてきていた。不思議と羨ましいとは少しも思わなかった。

 なにもない平日は、特にやることもなくつまらなかった。だけど、旅行に行っても同じくらいつまらなかったような気がする。

 ――私、渡世がいないとほとんどのことがつまらなくなってない?

 ふとした時に頭に浮かぶのは、渡世の顔、渡世の言葉。
 気づかぬ間に、渡世が私の脳内スペースをどんどん侵食している。

「……これって、もう始まりまくってんじゃん」

 いつかの渡世の言葉を思い出し、私は枕に顔を埋めた。

 私は彼が好きなのか? これが、恋というものなのか? 初めてだからわからない。
 ただこれだけは言える。私は今日もまた、渡世のことを考えている。

 秋の初めに香った、金木犀の切ない香りを思い出した。外ではあの頃よりずっと、冷たい風が吹き始めている。
 答えのわからない胸の高鳴りともやもやを抱えたまま、秋が終わりを告げた。