修学旅行当日の朝。
 私はこの日のために買ったキャリーバッグを引きながら、急いで駅まで向かっていた。
 私たちの学校は一度学校に集まったりせずに、そのまま各々空港に集合するよう指示されている。うちはお父さんは普通に会社に働きに出ていて、お母さんが駄菓子屋の店番をするという共働きスタイルだ。

 本当ならお母さんに車で空港まで送ってもらいたかったが、平日の朝は近所に住むお年寄りが散歩がてら店に寄って、お母さんとよくおしゃべりをしにきている。お母さんもその時間を楽しみにしているようなので、駄菓子屋を閉めてと言えなかった私は、電車でひとり空港に向かうことを決めた。

 ゴロゴロと音を立てながら早足で歩く。今から高校生活最大のイベントといっていい修学旅行が始まるというのに、私は妙に冷静だった。

 ――あれ。なんか、全然楽しみじゃない。

 わくわくする時特有の緊張にも似たあの感じが、私の胸に一切込み上げてこない。
 最初は少しだけ楽しみだった。でも、あの日を境に一気に気持ちが急降下した。

『俺、修学旅行行かないし』

 ……渡世のその言葉を聞いたあの日から、私にとって修学旅行は楽しみなものでなくなっていた。
 きっかけは変な話だったけど、せっかく仲良くなれたのに。今ではいちばん長い時間を渡世と過ごしている。そんな渡世と、私は一緒に見たことのない景色を共有し、修学旅行というイベントも悪くないなと笑い合いたかった。

 渡世はこの三日間なにするんだろう。
 昨日の別れ際、「私はボディガードできないんだから、出歩かないでよね!」と言ったら「家に引きこもる以外の予定はない」と言っていた。
 
 でももし、なにかあったら。
 私が不在の時に、私の知らないところで、私の知らない渡世がなにかをしたら。それは大丈夫なのだろうか。

「……なんて。心配しすぎか」

すっかり渡世の未来透視に毒されてしまった自分に苦笑を漏らしていると、いつも渡世とバイバイする信号に見慣れた姿があった。

「……渡世?」

 細長い体。髪のシルエット。かっちりと着こなした制服。離れていてもすぐわかる。

「ちょっ、どうしたの! ていうかなんでいるの!?」

 胸がざわついたのがわかった。わくわくに近いようなあの緊張が胸の中を駆け巡る。もしかして、渡世も急遽修学旅行に行くことになったんじゃ――っていう私の淡い期待は、近づくにつれて泡となって消えた。
 制服姿ではあるけれど、渡世は荷物を持っておらず手ぶらだったのだ。

「おはよ。朝倉。お前のこと見送りにきた」
「見送りって……なんでわざわざ制服姿で?」
「この一瞬だけでも修学旅行気分を味わおうと思って」

 信号で私を見送ることのどこに修学旅行要素があるというのか。

「まぁ、来てくれてありがと」
「うん。……どうした? あんまりいい顔してないぞ。今からとびっきり楽しい時間が待ってるっていうのに」
「べつに……みんながみんな、修学旅行を楽しめるわけじゃないでしょ」
「……そうだな。それはそうだ」

 私は勝手に期待して勝手に裏切られたどうしようもない感情を、無意識に渡世にぶつけていた。案の定、渡世は困ったような顔をしている。

「そ、そんなことより、不運に遭わないようちゃんと引きこもっててよね!」

 気まずくなる前に話題を変えて、私はいつもの調子で話しかけた。

「ああ。この三日間のために新しい本を三冊買った。俺は引きこもって空想の世界に浸らせてもらうよ」
「なんか、そっちのほうが楽しそう~……」
「お前は本を読まないだろ。ほら、遅刻するぞ。早く行け」

 その場から動こうとしない私の背中を、渡世の大きな手が押した。
 涼しい顔をしてひらひらと手を振られ、私は渋々またキャリーバッグの音を鳴らして歩き始める。

 携帯を見ると、電車の発車時刻が迫っていた。急がなければ、完全に遅刻してみんなに大迷惑をかけてしまう。
 急がなきゃ。駅まで走ろう。

 ゴロゴロ――ゴロ……ゴロ……。

 そう思うのに、私が引いているキャリーバッグが転がる音はどんどん遅くなっていく。

 私――なんのために修学旅行に行くんだろう。なにを楽しみに、目的に、この三日を過ごすんだろう。
 高校生活の大事なイベントだなんてわかっている。きっとこの三日間の出来事は何枚ものフィルムに収められ、卒業アルバムを彩って、大人になっても見直して笑ったりして。

 だけどどこを探しても、そこに渡世はいないんだ。