六畳ほどの広いとは言えない自室に渡世を案内して、小さなテーブルの上におぼんを置いた。お互い制服のブレザーをハンガーにかけると、その辺に適当に腰掛けてジュースとシュークリームに手を伸ばす。
 あ、渡世って、オレンジジュースも飲むんだ。またまた新発見。
 初めて甘ったるい飲み物を口にする渡世を見て、私は心の中でそんなことを思った。
 降りしきる雨の音と、シュークリームの包みがカサカサ鳴る音だけがしばらく部屋に響く。
男子を部屋に挙げるなど生まれて初めてのことで、その相手が慣れた渡世だとしても、私がどこか緊張していた。

「……今思ったけど、私たちってまだ出会って1か月半なんだよね」
 シュークリームを食べながらふと気づく。

「1か月半で部屋に上がるなんて、なかなかの急接近だよな」

 渡世は食べ終えたシュークリームの包みを丁寧に畳んで。冗談交じりに言う。

「今日は偶然だけどね。お母さんに会わなかったら、こんな展開になってなかっと思う」
「そうだな。でもたまにはいいな。サボりってのも」

 後で先生から電話がきて親に怒られるだろうけど、と渡世は苦笑する。だとしても、みんながまだ勉強しているなかこうやって部屋でだらだら過ごせる優越感はなかなかいいものだ。

「あーあ。早く卒業して大人になりたい。そしたら今より自由だもん。勉強だってしなくていいし」

 サボりによって得た自由時間を堪能していると、そんな思いが頭をよぎった。

「そんな甘いもんじゃないと思うぞ。大人の世界ってのは」
「……そう言うと思った。なんかさ、渡世って若いのにいろいろ達観してるよね」
「そうか?」

 そうだよ。と返すタイミングでオレンジジュースに口をつけてしまい、その言葉も一緒に飲み込んで終わった。今でも大人びている渡世は、実際に大人になるとどんな人間になるんだろう。……大人になったら、私たちは会うこともなくなるのかな。ボディガードをしたこともされたこともお互い忘れて、それぞれの人生を歩んでいくのだろうか。

 気づけば雨の音がやみ、窓から外を見るとすっかり雨は上がっていた。

「あんまり長居してもあれだし、そろそろ行く」

 雨がやんだのを確認すると、渡世が立ち上がってブレザーを羽織り始めた。
 もう帰るの? と思ったけど、引き留める理由がない。どこかで理由を探そうとしている自分がいることに驚く。

「……朝倉?」

 気づけば、歩きだそうとする渡世の腕を掴んでいた。……私、なにしてるんだろう。はっとして手を離すが、渡世は足を止めて私の顔を覗き込む。

「どうした? なにかあったのか?」
「い、いや……あの……やっぱりさ、渡世って私のことからかってるよね?」

 なんのことかわからないと言うように、渡世はぱちくりと何度か瞬きをする。

「未来透視の話。私が渡世を好きになるなんて言われたら、その気がなくてもなんか気になってきちゃうじゃない?」

 まだ好きとかそんなんじゃない。だけどそういう目で見てしまう。私って、渡世のことを好きになっちゃうのかなって。
それに、昼休みに渡世が恋をしたことがあるという話を聞いてから、胸の奥がずっと変な感じなのだ。自分にない経験を渡世がしていたことへの寂しさや嫉妬と思ったけど、ほかの感情も紛れ込んでいるような気がして、だけどそれがよくわからなくて気持ち悪い。
 どうして突然こんな話をしたのかは自分でもわからない。ただ、渡世ともっと話したい気持ちと、こう言った時の渡世の反応を見てやりたいって好奇心からなのかもしれない。

「からかってなんかないし、未来透視の話をしなくたって同じことになる……と思う」
「……どちらにしても私は渡世のこと好きになるって言いたいの?」
「さあ。どうかな」

 大事なところは濁される。渡世の全部を知っているような物言いは、私の頭をさらに混乱に招く。

「そうだ。雨宿りさせてもらったついでに、ひとついいことを教えてやる」

 渡世はそう言うと少し屈んで、私に耳打ちをした。

「あら渡世くん。もう帰るの? 晩ご飯食べて行けばいいのに!」

 階段から降りてきた私たちを見て、店番をしていたお母さんがそう言った。

「ありがとうございます。でも今日は突然だったので、この辺で失礼します。……これ、美味しくいただきます」

 たくさん駄菓子が入った袋を顔の横に掲げて、渡世はお母さんに軽く頭を下げた。

「じゃあ。また明日」
「うん。気をつけて帰ってね。雨で滑ったりしないでよ」
「ああ、気をつける」

 念のため余っていたビニール傘を渡世に持たせて、私は帰路につく渡世を見送った。小さくなっていく背中を見つめながら、私は昼休みに渡世が言っていたことを思い出した。

『俺は……ひとりの時に何度も頭にその人が思い浮かぶなら、それは始まりだと思う』

 そんな渡世が帰り際、私にこう耳打ちしてきた。

『俺は、今日の帰り道も、家に帰ってからも、きっと朝倉のこと考えてるよ』
 
 言ったあと、してやったりと言わんばかりに見せた彼の笑顔が頭から離れない。
 まるで恋の始まりを告げるかのように、金木犀の甘く切ない香りが鼻を掠めた。