『死体処理へ行かない?』

 大学三年生の冬、高校時代の友人の月野ちゃんから数年ぶりに送られてきたメッセージ。突然の事に適切な返答を思いつかないでいると、『明後日九時、いつもの駅前に集合ね』新しいメッセージが届く。
 彼女と最後に会ったのは高校三年生の初期、数年越しの連絡にしてはあまりにも唐突過ぎるけど。聞きたいこと、理解できないこと、いくらでもあったけど。この状況は素直に従うべきだと本能が告げるから、ひとまずシンプルに『分かった』とだけ返す。『数日分の休みと着替えも持参してもらえると助かるかも』となかなかの無茶振りが返ってきても素直に受け入れた。彼女からの誘い、逃したくなかった。下手な事をして二度と会えなくなるが一番嫌だったから。
 私は高校生の時、二回の転校を経験している。月野ちゃんは一回目の転校から、二回目の転校までの間に仲良しだった友達。水泳部のエースで、有望な選手だった。小さい頃からピアノを習って音楽一筋のインドア派の私とはタイプは違うけど、最も仲のいい相手の一人で。それなのにある出来事が原因で、転校後は連絡すら取らなくなってしまった相手。
「あー……」
 今でも大好きな人だから、心のほとんどは会いたくて仕方ないと求めるのは当たり前の事。だけど少しだけで、会わない方がいいと主張する自分もいてややこしい。意味不明な【死体処理】というワード、まとまらない自分の心、複雑に絡み合ってしまった感情。これを整理するためには会うしかない。それは間違いないから、結局選択肢は一つしか残されていない訳で。
 待ち合わせ場所は、かつて通学に利用していた海の近くにある駅。私も、連絡のあったと調べた範囲では彼女も、もうこの辺りの住人ではないというのに。敢えて指定された場所。正直、不安だった。本当に現れるのか、今はどんな姿になっているのか。
 月野ちゃんの現状は、風の噂でしか聞いたことがない。スポーツ推薦で入った大学を中退して行方知れずとか、海外に留学して競技を続けているとか、全国各地を放浪しているとか、情報が多すぎて整理しきれない。
 そもそも、信ぴょう性の高い情報を集めようにも、当時の知り合いとの連絡を絶っているから難しかった。私自身、月野ちゃんと時間を共有した間にできた仲のいい相手はほとんどいなかったから。友達と言える関係だったのは、月野ちゃんと、あとは。
「奈緒ちゃん」
 声と同時に、後ろから肩を叩かれる。
「ごめん、待たせた?」
 振り向くとそこには、私の記憶と変わらない同級生、月野ちゃんの姿。
「……ううん」
 彼女の顔を見た瞬間に感極まってしまって、一言絞り出すのが精一杯。
「久しぶりだね、それなりに元気そう?」
「そうだね、私は」
 普通の大学生になって、普通に生活を送って。彼氏とかはいないけど健康に、普通の生活を送っている。
「月野ちゃんは?」
「私はいつも元気だよ。昔からそうでしょ」
 ああ、月野ちゃんだ。
 ずっと一緒に居た私は知っているのに。結構簡単に落ち込むことも、うじうじ考え込んじゃうことも、それを元気っ子の皮を被って隠してしまおうとすることも。
「さて、再会したばかりで悪いけど、時間がないから移動しよう」
「えっと、どこかへ行くの?」
 数日の休みと数泊分の荷物。詳しい予定を教えてもらったわけじゃないから、多分この辺りに泊まるんだと勝手に考えていた。
「とりあえず、電車へ乗ろう」
「電車?」
 もう駅には着いているのに?
「切符は買ってあるから、着いてきて」
「う、うん」
 駄目だ、よく目的が分からない。だけど私は今回、月野ちゃんに従うと決めているから。ここは素直に言うことを聞こう。

 ガタガタと、電車に揺られて。普通列車、あらかじめ用意していたという季節限定の乗り放題切符を持って。
「まさか、関西方面まで行くなんて」
 予想外もいいところ。いま住んでいる東京からなら分かるけど(確認したら月野ちゃんも東京に住んでいるらしい)東海地方にある旧地元を待ち合わせ場所に指定された時点で、私の頭の中では長距離旅行という発想は消えていた。
「ほらほら、サプライズとか必要かなと思って」
「いらないよ、もう」
 呆れてため息が漏れてくる。だけど何となく、懐かしい感覚。高校生の頃、仲良し三人組の中では大人しめだった私はこうやって振り回されていた。幼馴染コンビの月野ちゃんとあの子に。
「だけど在来線を乗り繋いで行くなんて……」
 朝、結構早い時間を待ち合わせに指定した理由はこれみたい。昼から動くと目的地にたどり着けないからだって。
「ごめんね、私はこの方が慣れているからさ」
「全国各地を放浪中だから?」
「あはは、放浪とかはしてないよ。一人でぶらぶらと旅をすることは多いけどさ」
 そうだよね。とても自由人には見えない。身なりは普通。昔に比べてやや女性らしくはなったけど、擦れた様子もそこまでない。噂は噂、放浪云々は尾ひれがついて広まった結果なのかな。
「別に、新幹線とかを使ってもよかったんだけどね。青春十八きっぷって名前、あの頃を思い出すにはちょうどいいかなと思って」
 十八。
「十八歳として過ごす一年、失われた青春の時間」
 そう。十八歳になるはずだったあの年、私たちは。
「月野ちゃんは、もうあの事を口に出しても平気なんだね」
「奈緒ちゃんは、まだ消化できていなかったのかな」
「そんなことは、ないけど」
 あれから数年の月日が経った。
 子どもだった私も年齢で考えれば立派な大人。いつまでも過去のことを引きずり続ける歳じゃない。それでも可能な限り思い出したくない。ただ事実として存在する、あの子が消えてしまったという現実を。
「止めよう、この話は。せっかくの楽しい旅が台無しだ」
「旅だったんだ」
 死体処理とか言っていたのにね。
「奈緒ちゃんと旅デートだね、二人でデート、仲良くデート」
 デート、という表現はともかく。二人でお出かけ、二人旅。友達だったら普通にやっている。だけど私たちは始めて。旅とか以前に、こうやって二人だけでお出かけする事自体が。だっていつも二人の間には。
「……奈緒ちゃん、怒っている?」
「ううん。ただ驚いただけ」
 駄目だな。
 月野ちゃんはどうしてもつながってしまう。二人は仲良しのセットみたいなものだった。彼女との過去を振りかえると、どうやっても付いてくる、あの子の存在が。
「だよね、奈緒ちゃんは基本的に私には怒らなかったもん」
 そうだった。月野ちゃんはおてんばでも基本的にいい子。二人にいたずらをされたり、からかわれたとき、いつも矛先が向いたのは主犯だった方。
「いつも自分ばかり怒られることが納得できなかったのかな。陽子ちゃんさ、奈緒ちゃんがいない時に『理不尽だー』みたいな感じで怒りながら、でもどこか嬉しそうに愚痴を漏らしてさ」
「…………」
 陽子ちゃんの名前。
 月野ちゃんは普通に出せちゃうんだね。私が必死に頭から消し去ろうとしている、友達の名前を。
 数時間電車に揺られ続けて、ようやくたどり着いたのは大阪。
「はい、奈緒ちゃんの分」
 ていねいに切り分けられたお好み焼き。
「ありがとう」
 宿に荷物を置いた後、とりあえずご飯ということで連れ出され、やってきたのはこのお好み焼きのお店。
「どうしてこのお店を?」
「せっかくなら、名物を味わうべきかなと」
「普通に観光も兼ねて?」
「そうそう、せっかくの旅なんだから」
 正直、一日かけての電車旅、疲れるし、お尻は痛くなるし、大変だったけど。数年分。私たち二人の空白期間を埋める為の会話を紡いでいく時間としては、足りないぐらい。電車に乗っている間、ずっと話しっぱなしだった。月野ちゃんが過去の話題を出さなくなるにつれて、会話は弾んでいって。乗り換えを一本忘れそうになるほど盛り上がって。
「さあさあ、早く食べてようよ。冷めはしないかもだけどさ」
「うん」
 お皿にとったお好み焼きを一口。
「あ、美味しい」
「でしょー」
「月野ちゃん、特に調べたりもせずにこのお店に入ったけど、詳しいの?」
「ぼちぼち。大阪は関西方面へ旅する時によく拠点にするからさ」
 なるほど、流石はプチ放浪ガール。
「旅をしているとね、色々な物が見えてくるよ」
 月野ちゃんはトントンと、鉄板をベラで叩く。
「例えばこれ。昔は自分で焼かなきゃいけないと思って、お好み焼きのお店に入るのを躊躇していたんだけどさ。今どき大体の店が焼いてくれるか、頼めば喜んでお店の人が全部やってくれる。ちょっとお話すれば簡単におまけやサービスまでしてくれるしさ」
「それは月野ちゃんが可愛いからじゃない?」
「マジで?」
「マジで」
 少なくとも、サービスと可愛いという点に関しては。
「それは得していたね、ラッキー」
 顔だけ見れば、他に可愛い子はいるかもしれない。だけど月野ちゃんは愛嬌がある、それは人を惹きつける為の重要な要素。月野ちゃんと陽子ちゃんが持っていた、私が憧れていたもの。
「そういえば、明日はどんな予定なの?」
「えっと、バスで移動。とりあえずお昼間のバスを予約してあるから」
「目的地は?」
「死体処理だから、山奥に決まっているよ」
 まだその話を続けるんだ。冗談、だよね? それとも死体処理という言葉に、何か意味があるのかな。
「とにかく今はご飯。食べたら帰って休む」
「そうね」
 口にお好み焼きを運ぶ。お皿に乗せたお好み焼きは、少しだけ冷めてしまっていた。
 翌日。
「これは」
 バスに揺られて三時間ほど、辿りついた場所は山奥というよりも。
「海だね」
「うん、海」
 ただの海ではない。広がる白い砂浜は美しいけど。
「山じゃないよね?」
「山を越えた先だし、山みたいなもんだよ」
 なんとも大雑把な。
「それにしても、白いね」
「だよね。だからかな、冬の海岸の割に人がいるよね」
 その分人の足跡だらけなのは少し残念だけど。遊んでいる地元の人らしき集団もいるし。
「みんな元気だよね。私は水着持ってくればよかったかな」
「え、泳ぐ気?」
 月野ちゃんは泳ぐのが好きなだけあって海大好きっ子だったけど、今は冬なのに。
「驚くことかな? 昔、冬の海に飛び込んだ人もいたじゃん」
「ぐっ」
 そこを突かれると痛い。
「誰にも話していないよね、その事」
「そうだね、話す相手もいないから」
 話す相手。
「……陽子ちゃんには、何でも話していたよね」
「そうかな? きっと私たちが出会った後なら、奈緒ちゃんの方が色々と知っているよ」
 そう言いながら伸びをして、ポスリと座り込む。
「昔からずっと一緒だった幼馴染なのも、逆に面倒なんだよ」
「月野ちゃん、一回面倒な子になっちゃったもんね」
 出会ったばかり、まだ私と月野ちゃんが友達の友達程度の関係だった頃。私と陽子ちゃんが仲良くなりすぎて、拗ねちゃった時期もあった。二人だけの時より陽子ちゃんに構ってもらえなくなって、寂しくなっちゃったんだよね。
「それは言わないお約束……」
「あはは、気にすることないよ」
 高校生の頃、青春時代なんてそんな赤っ恥の連続。別に恥ずかしがることもない。
「だけどまあ、飛び込もうとするよりはマシだよね。泳ぐだけなら死にはしないから」
「しつこいよ、月野ちゃん」
「えへへ」
 だけど月野ちゃん。過剰なまでに陽子ちゃんの名前を出すのは、ワザとなのかな。
「まあ遊泳許可が出なかったから仕方ない。さっさと宿行こうか」
「そうね」
 大荷物も持ったままいつまでも砂浜にいるのも変だものね。すぐ傍のホテルを予約しているらしいから、また来られるはずだから。

「ここもさー、夏には結構人がいるのかな」
「かもね」
 砂浜を出て、誰もいない道を歩く。人影が見えるのはビーチの上だけ。みんな車で移動しているのかな。
「奈緒ちゃんはお酒飲めたっけ」
「少しだけ」
「じゃあ後で部屋飲みしようよ。みかんのお酒とか売っているみたいでさ、気になってるんだよね」
「……」
 みかんは陽子ちゃんの大好物だった。月野ちゃんも同じ。
「あ、ここだね」
 小奇麗な宿。ところどころ古さも感じられるけど、大切にされていることが分かる。
「奈緒ちゃん、ちょっと待っていてね」
 先に建物の中に入っていた月野ちゃん。私もあとに続く。
「すいませーん、二人で宿泊予約したものなんですけど」
 月野ちゃんが宿の人とやり取りを始める。手持ち無沙汰になった私は、フロントの傍に置いてあった観光マップに手を伸ばしてみるけど、だいたいが夏向けで今の季節には役に立たなそう。他の施設も、ファミリー向けっぽいもの。
「二人で旅行ですか?」
 月野ちゃんと宿のスタッフさんとのやり取りが聴こえてくる。
「そうなんですよー、卒業旅行的な」
 それは初耳かも。年齢に合わせた体のいい言い訳みたいなものだろうけど。
「いいですね、お友達同士」
「えへへ」
 友達の定義。ずっと会っていなかったけど、こうやって仲良く過ごすことができるから友達? 離れていても、友達?
 どうなんだろう、友達だと嬉しいけどね、私は。

「広いねー」
「だね」
 広めのマンションみたい。確かに二人で使うにしてはずいぶんと余裕のある作り。
「正直、安い宿だったから心配だったんだけどさー、三つもベッドあるのは凄くない?」
 大きなテレビ、ソファに三台のベッド。
「玄関側、真ん中、窓側。奈緒ちゃんはどこにする?」
「えっと、じゃあ窓側を」
 荷物を置いて、そのベッドに腰かける。
「それじゃあ私も窓側!」
「ちょ」
 勢いよく飛び込んでくる月野ちゃんを、何とか抱きとめる。
「ナイスキャッチ!」
「もう、どうして同じベッドなのよ」
「だって寂しいじゃん、一人よりも二人で寝る方が絶対楽しいよ」
 ベッドに倒れ込む月野ちゃん。抱きしめたままの私と一緒に。
「ねえ、奈緒ちゃん」
「うん」
「私たちさ、友達だっけ」
「たぶん」
 やっぱり友達、なんだよね。こうやって触れ合って、お話すると楽しいから。ずっと離れていても、友達は友達。
「そうだよね、友達だよね。私は奈緒ちゃんのこと、いつも好きだって言っていたもん」
「あはは、そんなこともあったね」
 人懐っこい月野ちゃんは、いつも私や陽子ちゃんのことを好きだと言っていた。というか、誰に対してもかな。月野ちゃんは誰の事でも大好きな子。
「とりあえず、ご飯食べに行く?」
「うーん、少しだけ休んでもいい?」
 二日連続の移動で、少しだけ疲れてしまった。ご飯ものいいけど、その前に少しだけ休みたい。
「りょーかい。そんじゃ私は外に出ているから、起きたら連絡頂戴」
 私から離れ、ササッと身支度を整える月野ちゃん。その様子を確認してから静かに目を閉じると、あっという間に眠気が襲ってきた。
 ここは、夢?
『陽子ちゃん……』
 灰色の世界。俯いて動けなくなった私の姿。
 これはあの日の夢。陽子ちゃんの家族、友達、みんな泣いていた。いつも太陽みたいに輝いていた陽子ちゃんの死を悲しんでいて。私も例外ではなく、皆と共にめそめそと泣き続けて。
『…………』
 そんな中、月野ちゃんは泣きもせず、顔を歪めることもなく。無表情で、陽子ちゃんを見つめて続けていた。最後まで、火葬されたてお墓に入るまで、無表情のまま陽子ちゃんの横を離れずにいた。
 私はそんな彼女から、目を離すことができなかった。

「……陽子ちゃん」
 夢に彼女が出てきたのは久しぶりだった。原因は間違いなく、月野ちゃんとの会話。彼女が陽子ちゃんとの記憶を掘り返してくることによって起こった。だけどその結果、夢の主役が彼女、月野ちゃんだったのはなんて。
「そうだ、連絡……」
 あれ、スマホにメッセージが。
『さっきの白い砂浜にいるであります!』
 可愛いかもめのスタンプ付き。月野ちゃんが昔から好きだった、地元のキャラクター。
「懐かしいな」
 疲れは取れている。月野ちゃん、お腹を空かせているかな、早く行ってあげないと。

 砂浜、と言ってもどこにいるのか分からない。結構広いし、薄暗い中だとなかなか見つからない。
「あっ……」
 探し続けて数分、海の傍、今にも飲み込まれてしまいそうな場所で佇む女の子を発見。
「そこに座っていると濡れちゃうよ」
 離れた位置から、声をかけてみる。
「……だね」
 月野ちゃんは立ち上がって少し後ろに下がると、砂浜に寝そべってしまう。
「服、汚れるよ」
「大丈夫、あとでちゃんと砂を落とせば」
 そんなものなのかな。
「奈緒ちゃんも」
「うん」
 素直に従って、月野ちゃんの横に腰かける。
「寝そべると、気持ちいいよ」
「そうだね」
 少しだけ躊躇したけど、彼女と同じように身体を横たえる。
「あぁ」
 ひんやりとした感触。程よくざらざらした砂。これは確かに気持ちいいかも。
「私は好きなんだよ、こうやって砂浜に寝そべるの」
「旅で、よく海へ行くの?」
「そうだね。私たちは海の子だから、不思議と引き寄せられちゃうみたいで」
 海の子、あの場所で育って、輝いた、たった一年の記憶。
「今はさ、海の匂いがする場所に来ると、楽しい気持ちになれる。あの事故の後しばらくは、近寄りたくもなかったのに」
 そうだよね。きっと海には陽子ちゃんとの思い出がいっぱい詰まっているだろうから。
 遺族を除けば、もしかしたら除かなくても。陽子ちゃんの死の影響を最も受けたのは月野ちゃんだ。少なくともたった一年の付き合いだった私とは比べ物にならないほどのショックを受け、悲しんだ。
「綺麗だよね、キラキラと輝いていて」
「キラキラ……」
 人の気配が消えた夜、微かな光に照らされる白い砂浜は、この時間にしか見られない輝きを放っている。
「ここ、いいね」
「へっ」
「これ」
 そう言いながら、月野ちゃんは懐から小さな袋を取り出す。中に入っているのは、白い、粉?
「それは?」
「……死体処理中」
 そして中身を静かに、砂の上へ落とす。さらさらさらさら、白い粉がこぼれ落ち、白く輝く砂浜に混ざって消えていく。
「ひとまず、これで」
 月野ちゃんは最後まで行為の意味を説明することなく、袋を自らの懐へしまう。
「ねえ、今の」
「儀式だよ、ちょっとした」
 儀式。そんな、中二病の女の子みたいな言い訳。少なくとも今は話したくないということなのかな。
「奈緒ちゃんは今、どんな人になっているの?」
 その証拠に、無理やり話を変えられる。私のあまり触れてほしくない方向に。
「……普通の大学生かな」
「普通の、か」
 そう、普通の大学生。平均的な総合大学へ通う。それ以上でも、それ以下でもない。
「音楽はもう、やっていないんだね」
「うん」
 きっと今ピアノを弾いてもまともに演奏はできない。そんなレベルまで落ちるほど、音楽とは無縁な生活を続けている。
「ごめんね。知らなかったの」
「気にしないで」
 悪気があるわけじゃない。この子は意図的に人を傷つけられる子じゃないと、私は知っている。
「友達のはずなのに、お互いに知らないことばかり」
「友達失格かな」
「そんなことないよ。ただ私たちの繋がりには、いつも陽子ちゃんが居たから。互いに直接お話することもなく、陽子ちゃんを介していたから。それが当たり前になっちゃったんだよ」
 あの一年は、それ以外の人生すべてと比較しても、より濃密な時間。途切れてしまったからこそ、際立つ時間。そこで生まれた関係性は覆しようがない。
「……街灯のない田舎道。歩道はほとんどない。でも普段は車なんて通らない場所だから、少女は普通に道の真ん中を歩いていた」
「…………」
 陽子ちゃんの話。
「特別な行為じゃない。いつものこと、当たり前の日常の一部。だけどその日、たまたま通りかかった車にあっさり轢かれちゃった。でも責められないよね。街灯もない真っ暗闇の中、運転手さんは逃げることもなく救護してくれた、とてもいい人だった」
 それでも陽子ちゃんは助からなかった。あっさり死んでしまった。
「みんなさ、物事の善と悪とはっきりさせたがる。それが一番楽だから。悪者を責めるのが一番楽だから。実際私も考えたよ、誰が悪いのか」
 月野ちゃんが落ちていた石を拾って海へ投げ入れる。ポチャリ。小さな音が響く。
「轢いてしまったドライバー? 見通しの悪い夜道を呑気に歩いていた陽子ちゃん? 外灯をちゃんと整備していなかった行政? だけどね、いくら考えても悪者を見つからなかった。明確な悪人なんて存在しないから、当たり前なんだけどさ」
 そんな考え方ができる時点で、彼女は立派だ。私は何も考えずに憎んだ。陽子ちゃんを轢いたドライバーを。陽子ちゃんの家族もそう、みんなで謝る彼を罵倒して、頭を下げさせて、その結果、少しだけ心が楽になった。
「本当は考える必要なんてない、適当に都合のいい誰かを憎んで、心に残った物を消化してしまうのが正しいはずなのに。私は不器用だからそれができなくて。怒りとか、悲しみとか、ぶつけられる場所がなくて」
「違うよ。月野ちゃんは間違っていない」
 ドライバーは陽子ちゃんの死からすぐ、自らを責めて自殺した。あの時、他人を責めた分、私は苦しんでいる。酷い後悔が自分を襲っている。同じ苦しみを、月野ちゃん以外の全員が味わっている。
「……奈緒ちゃんさ、自分が海に飛び込もうとした時のこと覚えている?」
「うん」
 陽子ちゃんが死んでしまった直後。私はよく一緒に遊んでいた海の防波堤から、飛び降りようとした。耐えられなくなっていた、生きることに。
「奈緒ちゃんから遺書みたいなの送られてきたのを見てさ、急いで駆けつけて助けようとした」
「だけど月野ちゃんも、一緒に落ちちゃったのよね」
「そう。結局二人まとめて私のパパに助けられて、奈緒ちゃんは怒られたよね」
 いっぱい怒られた。自分の両親より真剣に、そして同時に泣いていた。ただの娘の友達の娘に過ぎない私の為に泣いてくれる、月野ちゃんに似たやさしい人だった。
「お父さんは元気?」
「元気だよ。娘が人生のレールから外れた点については、寂しそうだったけど」
「…………」
 きっとお父さんも、昔のように元気な月野ちゃんに戻って欲しいはずなのに。言いだせないのはやさしいから、なのかな。
「あー、湿っぽい話はこの辺までにして、ご飯食べに行こうか。ずっとここに居たら風邪を引いちゃう」
 パッと、立ち上がる月野ちゃん。
「奈緒ちゃんはなにか食べたい物ある? 選択肢は多くないかもだけど」
「……適当にコンビニで買えばいいかな、二人で静かにお話したいから」
「そう?」
「うん」
 二人になりたかった。
「分かった、今日は寝るところまで一緒だ」
「そうだね」
 今はただ、月野ちゃんと二人の時間を過ごしたかった。
 夢だ。
 さっきとは違う、やけにはっきりとした夢。月野ちゃんの温もりを感じている分、リアリティが増しているのかな。
『は、初めまして、内村奈緒です!』
 高校二年生、親の仕事の都合で全く知らない土地の学校への転校。不安でいっぱいだった私。
『奈緒さん、東京から来たんだって!』
 そんな私に、最初に声をかけてくれたのが陽子ちゃんだった。
『う、うん』
『東京ってどんな場所? 奈緒ちゃんお洒落だよね、みんなそうなの?』
『え、えっと』
 気の弱い私は、勢いに圧倒されていたな。
『あー、目を付けられたね。陽子ちゃんは一度気に入ったものは絶対に逃さないよ』
 月野ちゃんはそう言いながら、さりげなく私を助けてくれたっけ。
 その後、色々あったけど。私たち三人は友達になった。月野ちゃんと私は少しぎこちない時期もあったけど、あっという間に仲良くなって。
 はつらつとした二人に比べて大人しい私だけど、共に過ごす時間は自然で、かつてないほどに楽しくて。たった一年、一緒に居ただけの友達だったのに。二人はそれまで付き合ったどんな相手よりも、心の深い部分に入り込んできた。
 三人で遊びに行った。地元の海、教室や誰かの家、近所の公園のベンチ、地元に一軒しかないファストフード店、話しているだけでも楽しくて。陽子ちゃんの実家のお菓子屋さんを手伝ったり、月野ちゃんの水泳の大会に陽子ちゃんと応援へ行ったり、逆に私のピアノのコンクールに二人が応援に来てくれたこともあった。一年間、いつも一緒だった。どんなときでも三人でいた。
 高校二年生という、普通より遅い出会いだったのに。私たちはその時間は永遠だと、信じ切っていた。