その翌々日。
その日はアルバイトも無く、授業が終わってすぐに家に帰った。大学に入ってからは帰るのが遅くなる日が続いているので、こうして帰れる日には、張り切って晩御飯を作るところまでが私の日課となっていた。ときおり祖父と話をしながら、私は平日にもかかわらずご馳走と呼んでいい料理を用意することに凝っていた。
いつもと同じく料理をしていると、祖父が台所に入ってきて言った。
「夏花、珍しく失敗したのか」
「急にどうしたの、失礼なんだから。いつも通りいい感じに出来上がってきてるけど」
「そんなこと言っても、物凄く焦げ臭いぞ?」
「え?」
咄嗟にIHコンロの方を見るが、いたって順調にシチューが煮込まれている。気になって台所を出たら、ようやく焦げた臭いがするのが分かった。辿ってみると、どうやら家の外からのようだ。慌ててドアを開けると、下のほうで煙が出ているのが見えた。
とにかく逃げないと。言葉にしなくてもそれは明らかで、私と祖父はすぐに家を出て階段に向かった。
決して広くない階段は、逃げ惑う人で溢れかえっていた。皆がパニック状態になっている。それを見てやっと、それほど大きな火事が起きたのだということを知った。遠くで、サイレンが近づいてくるのも聞こえる。
焦る人たちの顔がやけに鮮明に見えた。むかし家に招いて一緒にご飯を食べた人、顔見知りの人、そして見たこともない人。こんなにたくさん、このマンションには人が住んでいたんだなあ。こんな状況で私は呑気に、そんなことを考えてしまった。
やっと4階まで降りたとき、絵本を抱えている子どもの姿が見えた。空と雲と虹の表紙。無意識に私の脳内で、オーバーザレインボウが流れ出した。そこで、思い出した。オルゴールが部屋に置き去りだ。大事にすると言ったばかりの、オルゴール。木の箱なんて確実に燃えてしまう。でも、いまはここから逃げることがいちばん大事なのだ。とにかく外に向かわないと。
そんな脳内の葛藤を置き去りにして、私の足は既に階段を上り始めていた。
まだこんなに人がいるんだから、急いで戻れば問題ない。そう言い聞かせているうちに案外早く7階まで辿り着いた。家のドアを開け、ベランダに近い自分の部屋に向かった。
オルゴールは棚に飾っていたので、すぐに手に取ることができた。しかし、さっき出ていった時よりも部屋が煙に包まれているような気がして、オルゴールが壊れていないか不安になった。その場でネジを巻き確認すると、いつものようにオーバーザレインボウが流れてきた。よかった。大事なものを、きちんと守ることができて。
そうしてオルゴールを抱え、再び玄関を出た。だが、ほんの数十秒前とは違った景色が目に入った。煙だけだった場所にほんの少しだけ、炎がちらついた。それは私くらいの大人なら十分逃げられるほどの小さな火だったに違いない。
けれども私は、玄関の前で固まってしまった。足が竦むのが分かった。
忘れていた、私は火が怖いんだ。
その日はアルバイトも無く、授業が終わってすぐに家に帰った。大学に入ってからは帰るのが遅くなる日が続いているので、こうして帰れる日には、張り切って晩御飯を作るところまでが私の日課となっていた。ときおり祖父と話をしながら、私は平日にもかかわらずご馳走と呼んでいい料理を用意することに凝っていた。
いつもと同じく料理をしていると、祖父が台所に入ってきて言った。
「夏花、珍しく失敗したのか」
「急にどうしたの、失礼なんだから。いつも通りいい感じに出来上がってきてるけど」
「そんなこと言っても、物凄く焦げ臭いぞ?」
「え?」
咄嗟にIHコンロの方を見るが、いたって順調にシチューが煮込まれている。気になって台所を出たら、ようやく焦げた臭いがするのが分かった。辿ってみると、どうやら家の外からのようだ。慌ててドアを開けると、下のほうで煙が出ているのが見えた。
とにかく逃げないと。言葉にしなくてもそれは明らかで、私と祖父はすぐに家を出て階段に向かった。
決して広くない階段は、逃げ惑う人で溢れかえっていた。皆がパニック状態になっている。それを見てやっと、それほど大きな火事が起きたのだということを知った。遠くで、サイレンが近づいてくるのも聞こえる。
焦る人たちの顔がやけに鮮明に見えた。むかし家に招いて一緒にご飯を食べた人、顔見知りの人、そして見たこともない人。こんなにたくさん、このマンションには人が住んでいたんだなあ。こんな状況で私は呑気に、そんなことを考えてしまった。
やっと4階まで降りたとき、絵本を抱えている子どもの姿が見えた。空と雲と虹の表紙。無意識に私の脳内で、オーバーザレインボウが流れ出した。そこで、思い出した。オルゴールが部屋に置き去りだ。大事にすると言ったばかりの、オルゴール。木の箱なんて確実に燃えてしまう。でも、いまはここから逃げることがいちばん大事なのだ。とにかく外に向かわないと。
そんな脳内の葛藤を置き去りにして、私の足は既に階段を上り始めていた。
まだこんなに人がいるんだから、急いで戻れば問題ない。そう言い聞かせているうちに案外早く7階まで辿り着いた。家のドアを開け、ベランダに近い自分の部屋に向かった。
オルゴールは棚に飾っていたので、すぐに手に取ることができた。しかし、さっき出ていった時よりも部屋が煙に包まれているような気がして、オルゴールが壊れていないか不安になった。その場でネジを巻き確認すると、いつものようにオーバーザレインボウが流れてきた。よかった。大事なものを、きちんと守ることができて。
そうしてオルゴールを抱え、再び玄関を出た。だが、ほんの数十秒前とは違った景色が目に入った。煙だけだった場所にほんの少しだけ、炎がちらついた。それは私くらいの大人なら十分逃げられるほどの小さな火だったに違いない。
けれども私は、玄関の前で固まってしまった。足が竦むのが分かった。
忘れていた、私は火が怖いんだ。